鏡の中の瞳さん
二時限目が終わった休憩時間、あり得ないことが起きた。次の授業までのわずかな安らぎの時間に、彼女がやってきたのだ。教室の生徒は、彼女が話しかけた相手に注目している。それが僕である。多くの視線が僕と彼女に向けられていた。正直言えば、あまり好ましくない感じだ。
彼女の名前は清水千夏。幼稚園以来の幼馴染みだ。とはいうものの、全ての学年が一緒のクラスというわけではない。小、中学校で同じクラスになったのは、たったの二回だ。赤い糸で結ばれているというドラマのような展開は無く、自分でもそれほど親しい仲だとは思っていない。じゃあ、いまはどうなのかというと、同じ高校でクラスは隣ときている。ほぼ知らない仲と言ってもいい。
それだけじゃない。僕は何より千夏が苦手なのだ。千夏は小さな時から何かと要領が良かった。同じ歳の子供より物覚えがよく、器用で、おまけに気が利いていた。先生にとっては理想の生徒だ。そのうえ、美人タイプときた。可愛いではなく美人だ。周りの女子でさえ、千夏を敵に回すことはしなかった。そんな完璧ともいえる千夏の相手をしようとは、とうてい思わなかった。
「小林くん、現国の教科書を貸してくれない?」
理由は分かった。隣のクラスの現国の授業は、僕のクラスより一時限早い。ゆえに教科書の貸し借りも成立する。ただ、大きな疑問が残る。なぜ僕から借りるのか分からない。休憩時間は短い。考えている間にも時間は過ぎていくし、何より周りの好奇な目が辛かった。僕は、現国の教科書を千夏に手渡した。千夏は教科書を持ち上げ、「ありがとう」と言ったかどうか分からなかったが、軽く頭をさげて教室を出ていった。見計らったようにチャイムが鳴り、その場は幕を閉じた。
授業が終わり、教室が騒がしくなる。千夏が顔を覗かせていた。
「ありがとう、助かったよ」
その一言だけで教科書を返してきた。笑顔の挨拶など期待はしていない。相変わらず素っ気ない態度である。
千夏の印象は小さな時から変わっていない。半ば強引にとでもいうのか、自分の思いどおりに事を運ぶことには長けていた。実際、千夏に対して周りの人は何も言わずに巻き込まれていった。彼女にはそれだけの魅力があるのだ。僕はといえば、そんな魅力を持つ千夏には近づき難く、距離をおいて眺めていた。
一度、その距離が近くなる出来事があった。幼稚園の演劇発表である。演目はシンデレラ。なにをどう転んだのか知らないけど、僕が王子様役に選ばれた。いうまでもなく、千夏はシンデレラの役を得ていた。
一世一代の舞台だと喜ぶ親の期待にこたえるがため、家でも台詞を覚えて何度も練習をした。千夏の家にも行き、お互い役をまねた衣装を着て練習もした。その甲斐あって、本番の一週間前には先生からも褒められた。
なのに、なのにだ。千夏はその日のうちに王子様役をやると言いだしたのだ。当然、先生は説得したが、結局、千夏が王子様役となりシンデレラは他の女の子がやることになった。僕はといえば、シンデレラを虐める次女の役におさまった。必死で覚えた台詞は、たった一行『お姉さん、舞踏会にいきましょう』に変わった。
そんな間に合わせのような演劇にもかかわらず、千夏が演じた王子様にみんなの注目が集まり、終わったときには他の親たちからも拍手をされていた。僕が王子様のはずなのに、あれほど一緒に練習をしたのに、千夏が王子様の衣装を身につけて注目を浴びていたのだ。その光景は、幼い僕の心に爪痕を残してくれた。以来、千夏にはこちらから近づくことはしなかった。もう、千夏に振り回されて割を食うのは、嫌だったのだ。
忘れかけていたことを思い出した頭を振りながら、現国の教科書を開けた。ページをめくると水についての論評が書かれている。読むだけで眠たくなるのだから、先生の話を聞けばなおさら心地よい現実逃避に誘われるはずだ。僕の目は、教科書に向けられていた。文字を読んでいるのではない。ある一か所に集中していた。教科書の左上にある少女のイラストだ。印刷されたものではなく、シャーペンで細い線を何本も描いて表現された少女の横顔を、僕は見つめていた。何かをジッと見ている少女。肩まである髪、キュッと閉じている柔らかな唇、何より少女の瞳が僕を引きつけた。
「なんだよこれ」
ふと我に返って、冷静になる。誰にも貸したことのない教科書にある手描きのイラスト。自分が描いたものでなければ、犯人は一人しかいない。
(ふざけてる)
思わず消しゴムを持ち、少女の顔に滑らそうとしたが、消しゴムが触れる寸前に手が止まった。『もったいない』そう思ったのは事実であるが、それよりも遠くを見る少女の瞳が気になっていたという方が、手が止まった理由として正しかった。
(この子は、何を見ているのだろう。何を見てその表情をしているのだろう)
僕の頭の中は、少女の瞳でいっぱいになっていた。おかげで現国の授業は眠気に襲われることはなかったが、先生の言葉は全く頭に入ってこなかった。
翌日も現国の授業があった。僕は彼女がいるページを開けた。ちょうど授業をしているページだから、自然に会うことができる。昨日は、彼女の瞳の行き先を考察していたが、今日は違った。そもそも、彼女は何者であるのかという疑問が浮かんできた。まず、彼女の横顔は千夏が描いたのだ。だとすれば、これは千夏が知っている人物である。同じクラスの子なのだろうか。構図からすれば、千夏の左右どちらか前の位置になるのだろう。右を向いているということは、千夏から見て、左側にいる可能性が大きい。この子は、そこにいるのだろうか。
真剣に考えてみるが、自分のクラスでさえ全員の顔を把握していないのだから、隣のクラスのことなど知るわけがなかった。『もし、本当にいるのなら見てみたい』そう思う自分がいた。いや、この気持ちはなんだろう。そう、聞いてみたのだ。『その瞳で何を見つめているのか。どうして、何か初めて触れたような純真な顔をしているのかを』そんな言い訳をしながら、千夏が描いた少女の瞳に引きつけられていた。
今日は現国の授業がない日だ。教科書は必要ないはずなのだが、鞄にはしっかりとその座席を埋めていた。持ってくること自体いくらでも言い訳はたつ。あやしいことは何もない。本当の理由さえ知られなければいいのだ。とはいえ、ほかの授業中に現国の教科書を開けるわけにはいかない。僕のお目当ては勉強ではなく、彼女に会うことなのだ。
昼休みになり、図書室へと足を運んだ。ここなら教科書を開いても、勉強している良い子ちゃんくらいにしか思われない。それでいい。
教科書のページをめくると彼女が現れた。いつ見ても彼女の表情は、現実世界から想像と推理の世界に導いてくれた。
教科書の横にノートを置き、シャーペンを二回ノックする。彼女に挨拶をすると、思いつく疑問を書いていった。
『名前は、なんて呼べばいいのだろう?』
瞳が印象的だから、とりあえず瞳さんと呼ぶことにしよう。
『瞳さんは、千夏と知り合いなのだろうか。友達なのだろうか。いや、そもそもこの学校の生徒なのだろうか。僕は、瞳さんと会ったことがあるのだろうか。もしかしたら、廊下ですれ違ったりしているのだろうか』
次々に湧き上がってくる瞳さんに対する思いをノートに書き込んでいくと、左側のページはすぐに埋まった。読み返すと、瞳さんについて知りたいことばかりが占めていた。その思いはやがて、一つの疑問へとたどり着いた。
『千夏は、なぜこのイラストを僕の教科書に描いたのだろう』
右のページに大きく書き出した。そうだ、まずはこれだ。イラストを描いた理由を千夏から聞けばいい。そうすれば瞳さんについて、情報も得られる。千夏の妄想の人物なのか、実在の人物なのか。まずはそれが知りたい。あっ、でも千夏のクラスで瞳さんを見つけたら、僕はどうすればいいのだろう。千夏に問う目的が無くなってしまう。熱くなった思いに一気にブレーキがかかった。
瞳さんのことを知りたいけど、本当に存在する人物なのか、その結果を知るのが怖かった。それにイラストの事を聞けば、勘の鋭い千夏なら僕が瞳さんに興味があることに気がつくだろう。気軽には聞けない。
瞳さんの顔を見つめながら、彼女へ近づくのに大きな溝があることを感じていた。
『どう埋めればいいのだろう』
ノートに記したときチャイムが鳴った。
夕飯の後は、課題などやる気は起こらない。いつもならスマホをいじるか、お気に入りのアニメでも見ているこの時間に、僕は現国の教科書を眺めている。といはいえ、正確には瞳さんの表情を観察していた。数学の図形問題を解くときのようにあちこち角度を変えながら見つめていると、少し瞳さんの表情が理解できたように思えた。彼女の表情は、遠くを見つめているようだがそうではなく、目の前の何かを受け入れようとしているのではないか。驚きというよりも何か知らなかったことに気がつき、それに憧れている表情。そんなシーンに見えた。
瞳さんはきっと、目の前の何かに心を奪われているのだ。それが何かを知りたい。
(やはり千夏に、このイラストのことを聞くしかない)
僕はノートに文字を紡いだ。
『あなたは、何を見ている?』
翌日、事態は僕が思う方向より斜め上からやってきた。千夏の方から教室にやってきたのだ。
「現国の教科書を貸してくれない?」
「分かったよ」
あっさりと返事をしたせいなのか、千夏は少し驚いていた。差し出した教科書を受け取ると軽く頭を下げ、周りの注目を浴びながら出て行った。
(これでイラストについて話すきっかけができた)
千夏が現国の授業を受けているころ、僕は数学の授業を受けていた。iの二乗がどうのこうのと黒板に計算問題の解答が書き込まれていくなか、千夏にどう話を切り出そうかとずっと考えていた。素直に瞳さんのことを聞けば案外すんなりと答えを得られるかもしれないが、千夏の勘の鋭さを知っているがゆえに思い留まった。なにより、演劇事件で千夏に振り回された過去がトラウマになっていることが大きい。それでも千夏から瞳さんの情報を聞こうと、こうやって踏み込んでいく僕は、本当に別人のようであった。
四時限目の終了を伝えるチャイムが鳴ると昼休みだ。千夏が来るのがこのタイミングだと有り難い。教室では弁当を広げる生徒や、購買に買いに行く生徒、中庭で食べようとグループで出て行く生徒もいる。僕は登校時に買ってきたパンを取り出し、一口かじった。机の上にあるフルーツオーレの紙パックに影がかかった。見上げると千夏が立っている。
(都合が良すぎるほど、いいタイミングだ)
心の中で順調な滑り出しを喜んでいた。
「これ、ありがとう」
「うん。いいよ。昼は食べたの?」
「まだよ。眠くなるから、昼はあまり食べないの」
「ふーん。なあ、清水はイラスト上手いんだな」
滅多に口にしない名前を呼んだ自分に、思わず身震いした。
「ありがとう」
「あのイラスト、誰かモデルがいるのか?」
「いるわよ」
会話は、僕のイメージどおりに自然に流れている。
(そう、この調子だ。あくまでも、千夏のイラストに興味を持っていることに徹すればいい)
千夏は疑った表情なく、答えていた。
「えっ、じゃあ授業中に見ながら描いたのか」
「違うよ。イメージしながら描いたの。でも、モデルはいるよ」
「そうなんだ。それにしてもイメージだけでよく描けたな。すごいよ」
「気になる?」
千夏の方が一枚上手だった。攻守が逆転し、返事に困った。あくまでもイラストが気になると言えば良かったが、そんな気の利いたお芝居をすることはできなかった。なにより心が瞳さんを気にしろと、訴えている。
「うん」
グルグルと頭の中で返事を考え抜いた結果、出てきたのがこの二文字だった。完敗である。演劇のトラウマが蘇ってきた。千夏のペースに飲み込まれ、役を変更させられた光景が浮かんできたのだ。
「そう言ってもらえると助かる」
僕の返事を聞くと、もう用は無いという感じで教室を出て行こうとしている。振り向く瞬間、千夏がホッと気を緩めて笑っているように見えた。
(何だったんだ。変なこと言ってたよな)
千夏の言葉が引っかかっていた。その理由は午後の授業開始と同時に分かった。現国の教科書を開くと、瞳さんはそこにいてはくれなかった。千夏が瞳さんを消したのだ。いや、千夏が描いたのだから消すのは当然かもしれない。でも突然の別れは、僕を動揺させるには十分な事件だった。ポッカリと何かが抜けた跡が心に残った。薄く残っているイラストの跡を必死に頭で補完しながら、瞳さんを描いた。悔しいが、生みの親である千夏が描いた瞳さんとは別人になってしまった。落胆する僕の目にページ下の文字が映し出された。
【もし、彼女が気になるのなら放課後図書室へ】
千夏のメッセージを読んだ僕の心は、別の意味で動揺していた。なぜなら、千夏の手の平で転がされているのだが、消えた瞳さんに再び会えるのなら、それでも良いと思っているからだ。存在するかどうか分からない瞳さんのために、自ら千夏の方へ歩んでいることが信じられなかった。
放課後、図書室へと足は向いた。
【彼女が気になるのなら】教科書に残されていた言葉は事実であるが、千夏にだけは気取られたくなかった。だけどいまとなっては、僕にも都合がいい状態となっている。図書室に向かうことに、言い訳は必要なくなるのだから。
放課後間もない図書室には、まだ誰の姿もなかった。イスに座ると面接の試験官を待つようにジッとしていた。ある意味、これは瞳さんに近づくための試験なのかもしれない。五分ほど待っただろうか、千夏が僕の前にやってきた。学校中の注目の的である千夏と向かいあって座っているところなど他の生徒が見ようものなら、きっと明日は学校中のニュースになるだろう。だが、千夏はそんなこと気にする様子もなく話しかけてきた。
「彼女に会いたいと思った?」
千夏が、僕の表情を探るような目で見ている。
(この場に来ておいて、いまさら否定する返事はないだろう)
僕は頷いた。
「ありがとう。小林が彼女を気になっているのなら、会わせてあげる。今度の土曜日に家に来てくれる?」
胸の奥がグッと握られた感触に、息が詰まりそうになった。自分が望んでいることを、千夏が叶えようとしている。千夏が何を考えているのか全く分からない。だけどこの瞬間は、瞳さんに会えるチャンスができたことの方に気持ちは動いた。『一目だけでも会えたら』その気持ちに自分を制御できなくなっていた。
土曜日の朝を迎えた。
この瞬間まで、期待と後悔が交互に僕を取り囲んだ。玄関を出てから、足は自然と千夏の家に向かっていった。演劇の自主的な練習で千夏の家には行ったことがある。もう十年以上も時は経っているのに、足はいままで何度も行ったことがあるかのように迷わずに進んでいく。
千夏の家が見えてきた。
お屋敷というほどではないが、庭でさえ、僕が住んでいる家なら余裕で二軒は建てられそうな広さである。千夏の家の庭半分が、僕の生活空間の全てなのだと思うと、ため息が出そうになった。
約束の時間に遅れることなく玄関に着いた。
深く息を吸ってからゆっくりとチャイムを鳴らすと、少しの間の後、明るい千夏の声が迎えてくれた。学校で話す声より明るいのは意外であった。ドアを開けた千夏は、いつもの顔であるが、服装はといえばスカートではなく裾の広がった白色のズボンをはいていた。一見するとスカートに見える不思議なズボンは、あとで調べて分かったことだが、ガウチョパンツというものらしい。それが大人っぽさ持たせて千夏には似合っていた。たぶんクラスの女子が身につければ、チグハグで不釣合な印象を受けるだろう。
千夏が自分の部屋へと僕を案内する。部屋に入ると悪いことと思いながらも、ついまわりを見渡してしまった。最初に目についたのは、淡いブルーのカーテンだ。この色には見覚えがあり、演劇の練習で初めて部屋に入ったときも同じように最初に見たことを思い出した。たぶん自分も好きな色だったので、そこは親近感をもって覚えていたのかもしれない。あとは机にベッド、それに鏡台がある。
「彼女に興味があったんだ」
千夏は僕を試すように笑っている。答えはイエスなのだが、目の前にいる千夏には素直になれなかった。
「イラストが上手いなと思っただけだ」
「でも、会いたいと思った」
「なんだよ。からかうのなら帰るよ」
部屋を出ようとドアに向かうと、千夏は笑って止めた。
「ごめんね。からかうつもりは無かったのよ。実は彼女、来てるの。紹介しようと思って」
千夏の言葉に僕の足は止まった。
「どうして僕に紹介してくれるんだ? その子は大丈夫なのか」
「うん、大丈夫。彼女も会いたいと思ってるよ。でもねー、その姿だとちょっと残念な感じ」
頭からつま先まで僕を眺める千夏の目は、何やら期待を含めた色をしていた。自分なりに一応は気を使って普段より格好よくしてきたつもりだったが、千夏の一言でわずかに持っていた自信は一瞬にして跡形もなく消え失せた。こういうところが、千夏の人を惑わす力なのだろう。反撃できずグッと押し黙る僕の気持ちを察したのか、千夏の表情は柔らかくなり、鏡台の前に僕を座らせた。
「いい、彼女は私にとっても大切な人なのだから、紹介する私の身にもなってね。小林が残念だと、私も恥をかくのだから」
悔しいが千夏の言うことはもっともなことだ。頷くと、千夏は保護した迷い犬を落ちつかせるかのように優しく囁きかけた。
「大丈夫だよ。あの子の気を引くように、私がメイクしてあげるから。いいこと、目を閉じて動かないでよ。失敗したらやり直す時間ないんだから」
「メイクって、化粧か?」
「他に何があるのよ。小林、まさかメイクは女の子だけがすると思ってる? 格好いい男子が何もしていないわけないよ」
千夏は目を大きく開いて、驚く振りをしている。僕だってモテル男子が眉毛を整えたりしていることぐらいは知っている。このままで良いと言ってやりたいが、瞳さんには好印象を持って欲しいという思いから、ここは千夏に縋るしかなかった。
「わっ、分った。任せるよ。でも、本当に大丈夫なのか」
「私を見てよ。任せて」
千夏が上から見つめる瞳は、頼もしいながらも、どこか怖くもあった。
僕は千夏に促されるまま、鏡に向かい目を閉じた。失敗したらやり直す時間がないという脅し文句には従順になるしかない。そういえば、昔話でも「決して見ないでください」という約束を破りバッドエンドを迎えるパターンが多い。それならここは約束を守ろう。全ては瞳さんに会うためなのだ。
千夏の指が目を閉じた僕の顔に触れていく。肌に何か軽く塗られているのが分かった。まるで医師の打診を顔で受けているような感じだ。次は、薄くクリームが塗り広げられていく。手際が良く、不快ではない。頬を持ち上げられ、顔のマッサージをされているような心地よさだ。痛みはなく、肌が上に引っ張られて、張りが出てきたように思えた。
次はスポンジのようなものが顔を撫でていく。目を閉じているので自分が何をされているのか分からないが、肌に伝わる化粧クリームの感触や、千夏の指が滑っていく音、なにより目を開けるのが怖いくらいに近くにいる千夏の甘い香りを感じていた。
千夏の指が僕の唇に触れた。一瞬、電気が走り身体がピクリとした。特に千夏を意識したわけではないが、不思議な感覚だった。千夏が触れた唇はシットリと潤いを帯びて張りがでているのが分かる。思わず自分でも触れたくなるほどだ。ここまでくると、自分が一体どうなっているのか見当もつかない。自分など代わり映えしないのではという思いはあるものの、千夏のことを考えれば格好よくしてくれているのではという期待もあり、目を開けたいがそこはグッと我慢した。
十分、いや、二十分くらい経ったのか。目を閉じているので、時間の感覚がなくなっている。長いように感じるが、実際は短いのかもしれない。頭にフワリと何かが舞い降りてきた。サッと千夏の指が頭を整えていく。忙しく動いていた千夏の手が止まった。
「偉いね。よく我慢したよ。おかげで楽にメイクできたよ。もう、目を開けてもいいよ」
小さな子をあやすように優しく耳元で千夏は囁いた。言われるまま、固く閉じていた瞼を開いていくと明るい光が一気に目の奥に入ってきた。何が見えているのか、一瞬分からなかった。なぜなら、目の前に自分が見えないからだ。鏡に映っているはずの自分がいないのだ。
僕は僕を探した。いない僕の代わりに、捉えたのは肩まで伸びた髪に、潤いのあるピンク色の唇の少女。瞳さんだ。瞳さんが僕の目の前にいる。彼女こそ、僕が憧れていた人なのだ。その瞳を僕は見つめている。初めて何かに触れたような純真な顔。ようやく気がついた。いま目の前にいるのは僕なのだ。
「初めまして、清水です」
千夏が僕の隣に来て声をかけた。このとき、やっと分かった。瞳さんの遠くを見るような、憧れたものを見つめるような瞳が何を見ていたのか。
千夏は笑いながら瞳さんの髪を撫でている。この髪は間違いなくさっきまで、千夏がつけていたものだ。そう、僕の瞳に映っているのは、瞳さんではなかった。瞳さんの隣にいる少年だ。ショートの髪で、キリッとしながらも、優しく柔らかな笑顔で瞳さんを見ている。クラス、いや、学校中を探してもこれほど格好いい男子はいないだろう。笑顔の少年の姿を瞳に映しながら、素直にそう思った。いま、瞳さんは少年だけを一心に見ている。千夏という少年を憧れの瞳で見つめているのだ。
あっ、これと同じ気持ちになったときを思い出した。演劇だ。王子様の衣装を纏った千夏を、きっと僕はいまのような瞳をして見つめていたのだろう。
(了)




