第二節〈声のある少女〉
彼女に連れられ、テイヴは村の外れへ向かった。
歩きながら、何度も周囲に視線を走らせる。
畑にしゃがみ込む男。
洗った布を竿に掛ける老婆。
枝で地面に絵を描く子どもたち。
誰もが動き、誰もが誰かを気にかけている。
切り取って額縁に入れれば、どこにでもありそうな穏やかな日常だ。
それでも――声だけが存在しない。
鍬が土を割る音。
風車の羽が空気を切る音。
自分の足音。
世界は静かだが、無音ではなかった。
失われているのは、人間の“声”だけ。
(……まるで、そこだけ切り取られたみたいだ)
理由は分からない。
だが、この村ではそれが“普通”なのだと、歩くだけで伝わってくる。
「……やっぱ、変だよね」
隣を歩く少女――エリスが、小さく言った。
「声がある人からしたら」
「違和感はあるけど、俺の方が変だから」
テイヴが空気を換えるようにそう答えると、エリスは困ったように笑った。
「そうかもね。最初はあたしも、ずっと耳鳴りしてる感じだった」
「最初?」
「あ、これ言うと長くなるから。あとでね」
そう言って、軽く舌を出す。
それより、とエリスは歩きながら振り返った。
「ほんとに、何も覚えてないの?」
「ああ。名前すら分からなかった」
「それ、だいぶ重症だよ」
「自覚はある」
少し間が空く。
「……じゃあ、今の名前は?」
「さっき石柱で見つけた。《TAVE》って刻まれてたから、テイヴでいいかなって」
「えぇ……」
露骨に引いた顔。
「そんな決め方ある?」
「他に材料がなかった」
エリスはしばらく考えるように顎に指を当て、
「……まあ、本人がいいならいいけど。じゃあテイヴ、よろしく」
「よろしく」
歩きながら、ふと思い出したようにテイヴが尋ねる。
「君の名前は?」
「あ、まだ言ってなかったね」
エリスは少し照れたように笑った。
「あたし、エリス。この村のエリス」
「テイヴだ。……多分」
「まだ言う?」
くすっと笑う。
「じゃあ暫定テイヴね」
「暫定か」
「記憶戻ったら正式採用」
「合理的だな」
「でしょ」
満足そうに頷いてから、
「じゃあ質問タイム」
「もう始まるのか」
「好きな食べ物は?」
「分からない」
「嫌いなのは?」
「それも」
「……恋人は?」
「多分いない」
「多分ってなに」
エリスは肩を揺らして笑った。
「ほんと、拾ってきた猫みたい」
そんなやり取りをしているうちに、村の外れに建つ素朴な木造の家へ辿り着いた。
屋根には苔。
窓辺には乾かしかけの薬草。
扉を開けると、煮込み料理の匂いが流れ出してくる。
「ただいまー」
返事はない。
それでも奥から足音がして、母親が姿を現した。
テイヴを見るなり、表情が固まる。
エリスは手振りを交えて説明を始めた。
――迷い込んだ。
――記憶がない。
――声が出る。
母親は思わず口元を覆い、テイヴを見つめた。
「……すみません」
そう言うと、慌てて首を振られる。
続いて祖母が現れ、無言でテイヴの額に触れる。
指先がひどく冷たかった。
じっと見つめる視線に、理由の分からない居心地の悪さを覚える。
やがて祖母は小さく頷き、母親に目線で何かをつたえたようだった。
エリスがほっと息を吐く。
「泊まっていいって」
その言葉に、胸の奥が緩んだ。
食卓に並んだ煮込み料理を見た瞬間、腹が情けない音を立てる。
「あ、鳴った」
「……すまん」
「いいよ。健康的」
皿を押しつけられる。
一口食べると、熱が喉を通り、胃に落ちていく。
ようやく身体が“戻ってくる”感覚。
「……うまい」
エリスはぱっと顔を明るくした。
「でしょ? おばあちゃん特製」
祖母は誇らしげだ。
「ねえテイヴ」
「ん?」
「あなた、あなたがきてくれて良かったよ」
「急になんだ」
「ふふっ、声を出せるのは私以外にはいないからら、なんか嬉しくて。」
そうだ、彼女にとってはただの流浪人では無い。
同世代の声を出して会話ができる青年なのだ。
「よくわからないけど、よかったよ」
少し間を置いて。
「……エリスは?」
「ん?」
「ずっとここ?」
「うん。生まれてから」
「声があるのに?」
肩をすくめる。
「出ちゃうものは仕方ないでしょ」
それは、あまりにも当たり前の言い方だった。
夜。
空き部屋で横になり、テイヴは天井を見つめていた。
声のない村。
記憶のない自分。
声を持つ少女。
眠りに落ちる直前、エリスの言葉が蘇る。
『声、出していいからね。ここでは』
“ここでは”。
その言い方が、胸に引っかかって離れなかった。
そのとき。
遠くで、風車が不自然に止まった。
続いて、地面の奥から微かな振動。
胸の奥が、朝と同じようにざわめく。
理由もなく、嫌な予感だけが走った。
――この夜が、村の最後の平穏になることを、
テイヴはまだ知らない。




