序章第一節〈沈黙の聖堂〉
少年は、冷たい感触で目を覚ました。
背中に伝わるのは、硬く、ざらついた石の感触だった。
反射的に身じろぎをすると、思った以上に体が重く、関節がぎこちなく軋む。
長いあいだ、同じ姿勢で横たわっていた――
そんな感覚だけが、確かな実感として残っていた。
ゆっくりと、まぶたを開く。
視界に映ったのは、半円を描く高い天井だった。
石造りの天井はところどころ崩れ、ひび割れた隙間から淡い光が差し込んでいる。
その光は埃を照らし、細い筋となって落ち、床に静かに溜まっていた。
(……ここは……)
思考は動く。
だが、そこから先へ続くはずの記憶が、奇妙なほど何も返してこない。
(聖堂……だろうか)
かつては人々が集い、祈りを捧げていたであろう場所。
壁に残る装飾の名残や、天井の構造がそれを物語っている。
しかし今、この場に満ちているのは神聖さではなく、打ち捨てられた時間そのものだった。
正面には、崩れかけた祭壇がある。
かつて施されていたと思われる彫刻はほとんど摩耗し、刻まれていた顔は、喜びとも悲しみともつかない曖昧な輪郭を残すのみだ。
床には砕けたガラスのような鋭い破片が散らばり、赤や青の色彩が、まるで乾いた血痕のように点々と残っている。
それでも、不思議と嫌悪感は湧かなかった。
むしろ、胸の奥が微かに落ち着いていくのを感じる。
ここに長く留まっても構わない――そんな感覚さえあった。
(……なぜだ)
自問する。
だが、答えはやはり浮かばない。
自分が誰なのか。
なぜここにいるのか。
それらはすっぽりと抜け落ちているのに、ここが祈りの場であること、言葉の構造、歩き方や呼吸の仕方といった知識だけは、当たり前のように身体に残っていた。
まるで、記憶だけが意図的に切り取られたかのようだった。
少年は、ゆっくりと身を起こし、周囲を見渡す。
祭壇のそばに、布が落ちていた。
身を包むのにちょうど良さそうだと思い、それを手に取る。
そのとき、すぐ傍に倒れかけた石柱があることに気づいた。
半ば地に埋もれ、苔に覆われたそれは、墓標のようにも見えた。
布を腰に巻きながら近づき、石柱の表面を覗き込む。
そこには文字が刻まれていた。
だが、風化が進み、すべては霞んで読めない。
見えるのは、中央に残された四文字だけだった。
《TAVE》
「……テイヴ……?」
無意識に、そう口にした瞬間だった。
自分の声が、静かな空間に落ちる。
それは祈りでも宣言でもなく、ただの確認のような響きだった。
次の瞬間、胸の奥で何かが微かに震えた。
痛みではない。
喜びでもない。
ただ、歯車が正しい位置に噛み合ったような、奇妙な感覚。
(……俺の、名前……なのか)
そう思ったが、確信には至らなかった。
少年――テイヴは、その名を胸の内で何度か転がしながら、聖堂を後にした。
外へ出ると、森が広がっていた。
木々は密集し、霧が足元を這うように漂っている。
枝葉は風に揺れ、木々は確かに生きている。
人の気配はないが、目覚めの場所としては悪くない――そんなふうに思えた。
それから彼は、重たい体を引きずるようにして歩き始めた。
どれほど歩いたのかは分からない。
喉の渇きは限界に近く、空腹も無視できないほどになっていた。
かといって、助けを求める場所を知るはずもなく、時間の感覚も曖昧なまま、ひたすら歩いた。
日差しが陰ってきたころ、ようやく森の終わりを示すように風景がひらけた。
そのすぐ先にあるのは、小さな村だった。
「よかった……目覚めたばかりなのに、死ぬかと思った……」
二十軒ほどの家屋が、緩やかな円を描くように並んでいる。
畑には作物が育ち、風車が回り、生活の営みそのものは確かに存在していた。
おそるおそる、村に足を踏み入れる。
人の姿はある。
畑を耕す男。
洗濯物を干す老婆。
井戸端で水を汲む子ども。
彼らは動いている。
互いに視線を交わし、身振りで意思を伝え合っている。
だが、誰一人として――声を発しない。
目が合うと、彼らは一瞬だけ動きを止め、すぐに視線を逸らした。
そこに浮かぶのは、警戒と戸惑い。
昨日まで見たこともない青年が、布切れ一枚で村に入ってきたのだから、無理もないだろう。
下手に刺激しないよう、静かに声をかける。
「……あの」
テイヴが声を出した瞬間だった。
空気が、目に見えないほど鋭く張りつめる。
男の手が止まり、老婆の肩が強張り、子どもが母親の背に隠れる。
まるで、触れてはならないものに触れてしまったかのように。
(……まずいことをしたのか)
そんな空気に飲まれそうになった、そのとき。
「……あなた、声で話せるの?」
背後から、澄んだ声がした。
振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。
麻の白いワンピースを身にまとい、淡い栗色の長い髪が陽光を受けて柔らかく揺れている。
年齢は青年とほとんど同じ、16歳くらいだろうか。
とてもきれいな翠の瞳が、戸惑いと期待を滲ませながら、まっすぐにテイヴを見つめていた。
「あ、あぁ……」
突然話しかけられたことに、テイヴは一瞬言葉に詰まりながらも、短く返事をする。
少女は、その声を確かめるように目を瞬かせ――
次の瞬間、ほっと息を吐いた。
「……まさかと思ったけど。やっぱり、声……あるんだ」
その声音には、驚きと、安堵、そしてほんの少しの喜びが混じっていた。
「この村の人たちはね、みんな喋れないの。
……あたし以外は」
そう言って、少女は視線を伏せた。
淡々とした口調だったが、その奥に、長いあいだ抱えてきた諦めのようなものが滲んでいる。
彼女だけが声を持つ理由は語られない。
だが、その一言で、テイヴが村に入ってから感じていた違和感の正体が、はっきりと輪郭を持った。
(そうか……だから、あんな反応を……)
納得したはずなのに、理解が深まるほど、分からないことばかりが増えていく。
「俺も……自分が何者なのか分からないんだ」
テイヴは、思わずそう口にしていた。
「さっき目を覚ましたばかりで、記憶もなくて……
それに、何があったんだ? この村で……?」
人と話せた安堵からか、不安と疑問が一気に溢れ出す。
自分でも驚くほど、言葉はまとまりを失っていた。
エリスは少し困ったように眉を寄せ、頬をうっすらと赤く染める。
「え、えっと……その……」
視線を逸らし、言いづらそうに口を開く。
「とりあえず……服、着ない?」
「あっ……」
彼が腰に巻いていた布は、その時吹いたいたずらな風によって地面に落ちていた。
はじめまして。峰月と言います。読んでくださりありがとうございます。毎週火曜日19字頃に更新します!




