第29話「月光のバルコニーで、唇に残る熱と胸に残る鼓動」前半
「リエル、大丈夫か?」
バルコニーで夜風に当たっていると、背後からエドの声がかかった。
「君を…この後、帰さなければならないのが残念だ」
「え?私帰るの?」
「それは……このまま一緒に夜を過ごしたいと、思ってくれていると考えていいのかな?」
!!!
こいつは、また余裕そうな顔しやがって……
ちょっとはお灸が必要か……?
「そうだな、お前とも一度ちゃんと話さないと、と思ってたんだ」
月光に照らされたバルコニー。
空に浮かぶ月と、石造りの手すりを背に、私はエドを真っすぐ見据える。
「私のために、色々動いてくれてたんだろ?ありがとな」
「何を。準備なら君の方が……大変……」
言葉の途中でエドがぴたりと止まる。
……気付いたか。
さすが、賢いお前なら、私が何を言いたいのか察するよな。
間を置いて、彼の顔色が変わり、大きな氷青色の瞳がまっすぐ私を射抜いた。
「……まさか……」
その声色に確信を得て、口元がわずかに緩む。
私が目を覚ましてからの流れは、一見すると自然に見える。
お見舞いのお礼に王宮へ呼ばれ、禁色のストールを受け取った。
エドによる家庭教師、市政調査、そして私の部屋に泊まったことで作られた既成事実。
……ここまでは、婚約が決まった時にエド自身からも確認していた。
けれど、それだけじゃない。
王家と公爵家が、私とエドの婚約を本格的に動かし始めたのは……
私が目を覚ましてから、なんてことはあり得ない。
もっとずっと前から、動いていたはずだ。
「……いつから気が付いて……?」
「さぁ?いつからだと思う?答え合わせ、してみるか?」
エドを試すように問い返す。
けれど、私はもう答えを出していた。
確信に変わったのは、リリアナが死んだと聞かされた時だ。
聖夜祭で用意された公爵家の馬車を、ルシアンとリリアナが無断で使ったこと。
合わせていたはずのドレスの色を、事前の連絡もなく変えたこと。
いくら閉鎖された学園の中での出来事だとしても、あれだけ目立つ行動をしていて、王家や公爵家の耳に一切入らないはずがない。
……つまり、こいつらはずっと前から、アリエルの婚約破棄の機会を窺っていた。
そしてリリアナが現れた時点で、ルシアンが何かをやらかすのを待っていた。
そのために、アリエルが心無い噂に傷つき、泣いているのを知りながらも黙認したんだ。
……エドは、自分の婚約を確実なものにするために。
「……そこまでして、私を選びたかったのか……」
喉の奥に引っかかる苦さと一緒に、思わず零れていた。
責めたいはずなのに。怒りたいはずなのに。
それでも最後に待っていたのは、確かに私が望んでやまなかった言葉と行動だった。
エドの視線が揺らぎ、ほんの一瞬だけ眉が寄る。
そのまま真剣に私を見つめ……
「いくらでも……止められるタイミングはあったんじゃないのか……?」
夜風に吹かれながら、思わず口にしていた。
どこかで誰かが止めていたら……アリエルがあそこまで悲しむこともなかった。
まして、中身が私になるなんてことも、絶対になかったはずだ。
ひょっとしたら……リリアナだって、死なずに済んだかもしれない。
「リエル、俺は……!」
エドの声が震える。
でも、私は一歩退いて、乾いた笑みを浮かべて答えた。
「まぁ、これでも公爵令嬢だし?少しはエドの立場もわかってるつもりだけどな」
リリアナは……都合よく使われただけだ。
駒として、犠牲として。
そして、それを利用した者たちがいた。
……いや、きっと殺されたことすら、誰かにとっては都合が良かったんだ。
そうだろう?
本当はわかっている。
入念に、誰からも文句を言わせない状態を作り上げ、一気に外堀を埋めて。
それが済んでから一斉に事を運ぶ……そういう計画だったんだろ?
「……さすがに、誰を相手にここまで周到にやる必要があったのかまでは分からなかったけど」
視線を月に投げ上げ、吐き出すように言った。
けれど……今日の舞踏会で、だいたい見当がついた。
「……あんまり、私を舐めんなよ」
エドの顔が苦しげに歪む。
「リエル!すまない、ずっと騙すような真似を……」
必死な声。
でも私は肩をすくめて答える。
「私のことを考えてくれての行動なんだろ?その一点に関しては……まぁ、信じるよ」
見上げれば、エドは申し訳なさそうに目を伏せていた。
……なんだよ。王太子のくせに。
図体ばかり大きいくせに、叱られた犬みたいな顔して。
……マジで、ワンワンそっくりだな。
その情けない横顔に、胸がちくりと痛んで。
気がつけば、エドの頬にそっと触れていた。
そして、ほんの少しだけ背伸びして……自分から唇を重ねた。
「次はねーぞ?」
「!!」
驚きに目を見開いた彼を残して、背を向け会場へ歩き出す。
「リエル!」
呼び止められて振り返った瞬間……
今度はエドの方から、強く唇を重ねられた。
「二度としない。約束しよう……」
……はぁ。
ほんと、この王子様は。
たかがキスひとつで安心したように笑って。
しょうがないやつだ。
本当なら……王太子である彼なら、私一人どうとでもできる立場なのに。
それでも、アリエルに嫌われるのが怖いなんて。
……そんなに、アリエルが好きなんだな。
『心配するな』なんて言葉を、口にしかけて飲み込む。
だって私は、エドが好きになった本物のアリエルじゃない。
もう、あの子はどこにもいない。
代わりに立っているのは、全くの別人……『西村涼子』っていう、ただの女だ。
伝えるべきなんだろう。医者だった私なら。
『事実を伝えること』こそが患者と家族への礼儀だって、ずっと思ってきた。
けど……どう伝えたらいい?
父も母も、兄たちも、そしてエドも。
あのアリエルがこの世にいないと知ったら。
どれだけ深い悲しみに沈むか、想像するのも怖い。
しかも私は、元に戻す方法すら分からない。
ただ絶望を与えるだけの告白に、何の意味がある?
……それでも。
私が『完璧なアリエル』になれるわけがないのは、誰より私自身が知っている。
それでも……言えない。
結局私は、エドの気持ちを利用している加害者で。
彼は、知らぬ間に騙されている被害者なんだ。
もし本当のことを明かしたら……
エドは、きっと私を軽蔑する。
婚約破棄どころか、もっと酷いことになるかもしれない。
胸がずきりと痛む。
でも……やっぱり、言えない。
だから、ただ彼の手を握り返して。
一緒に会場へ戻る。
華やかな音楽と、人々の笑い声。
バルコニーに残る夜風の冷たさとは対照的に、舞踏会の熱気はまだ続いていた。
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