第19話「見上げた紋章、届かぬ手」
そのころ、アリエルが通っていた学園内では、物陰で会話する二つの影が。
「……これ以上、危ない橋は渡りたくないんだけど」
普段の愛らしい仕草や笑顔とは裏腹に、リリアナは指先で髪を弄びながら吐き捨てるように答えた。
「目的を遂行できたら、報酬は当初とは別に十倍出そう」
「十倍……」
甘い響きに、心臓が跳ねる。
あたしは元はただの一庶民だった。
その日の食事すらままならない家に生まれ、明日がどうなるかもわからない暮らし。
そんなあたしの前に、名も明かさぬ誰かが現れた。
アリエル・クローバーとルシアン・ド・ヴェルナーの婚約を壊すこと。
それさえやれば、伯爵の地位と莫大な金銭を与える、と。
目の前に積まれた金貨の輝きは、夢とも幻とも思えぬほどで……気づけば頷いていた。
正直に言えば、ルシアンを篭絡するのは造作もなかった。
本当ならどう転んでもアリエルには敵わない。
でも、あの男は違った。彼の中に渦巻く劣等感と欲望。
アリエルが決して与えられないものを、あたしが差し出してやるだけ。
それだけで、侯爵家嫡男は簡単にあたしの手に落ちた。
周囲も同じ。
公爵家に対する羨望や妬み嫉み、鬱憤。
それらをちょっと煽れば、燃料に火をつけるように勝手に広がっていく。
本来なら口にすれば不敬罪になりかねない噂話も、学園という箱庭の中では黙認され、あたしが撒く言葉に面白いほど飛びついた。
……アリエルが気丈に振舞えば振舞うほど、皆は彼女の転落を望み、涙を待ち望んでいた。
けれど、思ったよりも彼女はしぶとかった。
だからあたしは、自分の身体を差し出した。
そうしてやっと、ルシアンの心を完全にこちらへと引き寄せ、婚約破棄へと追い込んだのだ。
「リリィ、考え事かい?」
腕を絡めてもたれかかると、ルシアンはいつもの甘い声であたしに囁いた。
あぁ、本当に愚かしい男。
彼の軽率さを思えば思うほど、安心なんてできない。
昨日アリエルを切り捨てた彼が、明日あたしを切り捨てない保証なんてどこにもないのだから。
「ルシアン様……あたし、やっぱり一度アリエル様のお見舞いに伺いたいんです」
「アリエルの……?」
「はい。あたしのせいでたくさん誤解させてしまい……追い詰めてしまったことが、今でも心残りで……」
声を震わせ、涙を指先で拭う仕草を見せる。
演技だ。こんなものは、全部。
それでも彼は、いとも容易く信じ込む。
「リリィ……君は本当に優しいだけでなく、心まで清らかだね」
心の中で冷たく嘲笑う。
清らか?あたしほど汚れている女もそういない。
でも、彼にはこのくらいがちょうどいい。
「明日にでも二人で公爵邸に伺おう。僕も……ちょうど話をしたいと思っていたんだ」
やっぱりバカな男。
けれど、利用するには都合のいいバカだ。
彼の腕に絡めたまま、あたしは伏し目がちに口元を歪めた。
まだ薄暗い内から侍女に揺り起こされ、意識が浮上する。
「お嬢様!ドレスのお着替えの時間です」
「……え?え?」
ドレス?今日なんか予定あったっけ??
「本日は、旦那様から厳しく申しつかっておりますので!失礼いたします!!」
返事をする間もなく、あっという間に布団を剥がされる。
昨晩は買った本に夢中になり過ぎて、気づけば朝日が差す寸前までページをめくっていた。
ほとんど徹夜明けの頭には、侍女たちの甲高い声がやけに響いて痛い。
ぼんやりした目で部屋を見渡せば、普段の倍以上の侍女たちが動いている。
着替えの手が次々と差し伸べられ、否応なしに支度が始まった。
相変わらずコルセットは内臓を潰しにかかってくるし、ひとつ結び上げられるたびに『ギュンッ』と体力ゲージが減る。
……もうこの段階でネグリジェに戻りたくて仕方ない。
『なんとか逃げられないかなぁ……』と心の中で悪あがきしていると、鮮やかな海のような青色のドレスが運び込まれてきた。
光を受けてきらめくその布地は、見ているだけなら確かに美しい。
「……あれ?こんなドレス、私のクローゼットにあったっけ?」
「こちら、ご指定のドレスでございます」
……指定?した覚えなんて一度も無いんですけど??
寝惚けた勢いで注文なんて……いや、そんなことある?
疑問を抱えたまま、着付けは容赦なく進む。
完成した頃にはHP残りわずか。ソファに横たわり、ただ天井を見上げるしかなかった。
「お嬢様。その、非常に申し上げにくいのですが……」
「……なーにー?」
ワンチャン『着替えは手違いでした』って展開を期待しつつ、気の抜けた声で返す。
「ルシアン様とリリアナ様が……お嬢様への面会を求めて、お屋敷にいらしてます」
ルシアン……リリアナ……!?
「はぁあああ!?なんで!?まさかこの着替えも、その二人に会わせるため!?」
「いえ!どうやら予告もなく訪ねてこられたようで……旦那様はお嬢様のお好きにと」
はぁ……
古今東西、元カレが元カノに会いに来る理由なんて、大概ろくでもない。
医者時代だってそうだった。学生時代ろくに口もきかなかった相手から、唐突に『久しぶり、元気?』なんて連絡が来たと思えば、ほとんどが『ちょっとお金貸して』とか『水買わない』みたいな、くだらないお願いばかりだった。
『医者になった』と知れ渡った瞬間、無料診療所扱いされたこともある。
……なぁ、アリエル。おまえはどうしたい?
きっと、生真面目で律儀なアリエルなら『顔を合わせるのも礼儀』とか思って、わざわざ茶番に付き合うんだろう。
わかっていても馬鹿正直に会って、結局ちゃっかり傷付くんだろうな……
初めて踏み入れたクローバー公爵邸は、ルシアンのヴェルナー侯爵邸とは門の造りからして格が違った。
彫刻の施された石柱、延々と続く庭園、敷き詰められた白い石畳……どれもが『別格』であると嫌でも思い知らされる。
たかが侯爵邸を一度踏み入れたくらいで舞い上がっていた自分を、今さらながら笑いたくなる。
通された応接間ひとつとっても、比べるのも烏滸がましいほどの差。
重厚なシャンデリアの光が磨き上げられた床に反射し、壁に掛けられた絵画はどれも王宮に飾られていても不思議じゃないような逸品。
こんな空間に、あたしみたいな成り上がりの娘が腰掛けていていいのか……息苦しさで喉がひりつく。
重苦しい扉が音を立てて開く。
アリエルの父、クローバー公爵が姿を現した瞬間、空気が変わった。
一目でわかった。
……あ、ダメだ。あたしの要望なんて、微塵も通る気がしない。
あたしに依頼を持ちかけてきた誰かも、それなりの地位ある人間に違いない。
けど、この人に比べたらただの小物。
足元にも及ばない、圧倒的な威厳と威圧感が部屋を支配していた。
「アリエルは手が離せなくてね。手短に用件を伺おう」
低く重い声に、背筋に冷たいものが走る。
「……」
「……」
ルシアンは侯爵家の嫡男であり、元婚約者で面識もあるくせに、言葉を失って口を閉ざしている。
信じられなくて彼を見やったが、彼の視線は泳ぎ、声を発する気配すらない。
仕方なく、自分から口を開くしかなかった。
「あ、あの!アリエル様のお見舞いを……」
「必要ない」
ピシャリと切り捨てられた。
言葉を言い切る前に。
背中に冷や汗がつうっと伝う。
「以上なら、お引き取り願おうか」
空気が張り詰め、心臓が鷲掴みにされるような感覚。
その緊張を破ったのは、隣のルシアンだった。
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