第14話「毒リンゴと甘い呼び名の交換条件」
五度目の授業の日。
決められた時刻になっても、私は布団に潜ったまま、侍女の必死の説得にも首を横に振っていた。
「お嬢様!せめてお召し替えを!」
「やだ。着替えない……」
布団の中から響く声は、完全に駄々っ子。
でも仕方ないじゃん!昨日あんな目に遭ってまで、なんでまた勉強なんてしなきゃいけないんだ。
本屋に行こう、なんて一瞬は胸がときめいたけど、あんな甘言に騙されるかっ!!
「お嬢様、殿下が既にお越しになられてます…」
「もーー!!無理!!百歩譲って!!!このままでいいなら授業を受ける!!」
叫んだ瞬間、ノックの音がして、扉が静かに開いた。
「遅いから何事かと思えば」
部屋を見渡し、何かを察したのか王子が言葉を続ける。
その声音は、心なしかとても楽しげに聞こえた。
「君がそのままで良いなら、私は構わないよ」
「え!ほんと!?いいんですか!?」
思わずベッドから飛び起きると、王子は口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「ただし、条件がある。今後、『殿下』と呼ぶのは禁止だ」
「……へ?」
「私を呼ぶときは『エド』と、呼んでほしい」
予想外の申し出に目を瞬かせ、素足のまま王子のもとへ駆け寄る。
「それだけでいいんですか!?全然呼びます呼びます♡」
そんな簡単なことでいいなら、もっと早く言ってくれればいくらでも呼んだのに。
王子の正面で立ち止まり、見上げながら指定通りの呼び名を口にする。
「エド♡」
一瞬、空気が止まった。
あの完璧王子の頬が、すっと朱に染まる。
視線を逸らし、咳払いしながら、わずかにかすれた声で。
「……ああ。それでいい。私も『アリエル』と呼んでも?」
「はい。構いませんよ?」
その瞳がふと、私の肩に掛けられたストールに落ちる。
熱を残したまま、どこか満足げに目を細めるエド。
横に控えていた侍女は絶句していたが、私には彼の耳まで赤くなっているのが見えて、ただ首を傾げるしかなかった。
午後の授業が終わりかけた頃、見慣れない侍女がワゴンを押して入ってきた。
「お嬢様、本日、とても美味しそうなリンゴが手に入りました。ぜひ召し上がってくださいませ」
大皿に盛られた果物の山。その中央に、ひときわ赤く輝くリンゴが鎮座していた。
「あー、生のリンゴはちょっと苦手だから、アップルパイにしてもらえる?」
「畏まりました」
侍女が恭しく頭を下げ、リンゴを持って厨房へ。
しばらくして、甘い香りとともに焼きたてのパイが運ばれてきた。
一口かじり、口いっぱいに広がるりんごの甘さと酸味にシナモンとバターの香り。
「ん、美味しーーい!」
……そういえば、転生したからアレルギーも治ってるのかな?
猫を飼いたくて、猫アレルギーを治すために『舌下免疫療法』をしたら、まさか今度は薔薇アレルギーになって、生でリンゴが食べれなくなるとは思わなかったよね。
次の機会に生で挑戦してみるのもアリかも……
にこにこと頬張る姿に、侍女も安堵の笑みを浮かべた。
「?」
「……?」
「?えっと、美味しいアップルパイありがとう?」
なかなか部屋を出て行かない侍女。
互いに顔を見合わせる私とエド。
「アリエル、そろそろ再開しようか」
「はい……」
授業の再開の空気を察して、訝し気な視線を残してやっと侍女が出て行く。
また勉強か。と重い腰を上げた、その時。
「きゃーーーーーー!!!」
廊下の向こうから悲鳴。空気が一気に張り詰める。
「!アリエル、君はこのまま……」
エドが素早く立ち上がり、剣に手をかけながら廊下へ。
私は一人、部屋に取り残される。
え、なにこれ。急にサスペンス?ミステリーモード突入!?
落ち着かない気持ちで時計を見つめながら待つ。
どれくらい経ったのか……時間の感覚すら曖昧になる頃、扉が開いた。
戻ってきたエドの顔は険しかった。
「先ほどデザートを持ってきた侍女が、亡くなっていた」
「はぁっ!?」
「急ぎ身元を調べたが、公爵家で雇った記録のない者だった」
怖い怖い怖い!!!
真実は一つじゃないの!?じっちゃんの名に懸けて誰か解決して!!
「リンゴに毒が仕込まれていたのではないかと……」
「ど、毒!?」
「アリエル……体に異変はないか?」
そっと伸びた手が頬を撫でる。
はっ!?え???突然すぎて心臓が飛び跳ねる。
「わっ……」
次の瞬間、強く抱き寄せられた。
震える手の感触が伝わってくる。
毒。命を奪うかもしれない恐怖。
その重さを一番わかっているからこそ、エドは震えているんだ。
「無事で良かった。君に何かあったら……」
あ、これ。
私を心配して……本気で動揺してるんだ。
いつも完璧で隙のない王子様だと思っていたのに。
私を案じて震える姿は、どうしようもなく人間らしくて。
そっと、エドの背中に手を回す。
……でかいな、この人。鎧みたいに広い背中。
でも、こんな大きな人が……今は、私に縋るように抱き締めてる。
私が背に触れたのを察したのか、さらに腕の力が強まった。
その温もりに、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
その日の授業は、やたらと難しい数式と格闘させられていた。
え、これ魔法理論?いやいや、私理系だけどさ……数Ⅲの悪夢再来なんだが!?
ネグリジェのまま授業受けるって言ったら、この仕打ちである。
でも、今なら……
エドは一時的に離席中。周りにいるのは侍女だけ。
……逃げるなら、今!!!
勢いよくドアを開け放った、その瞬間。
「ぐはっ!!!」
廊下にいた黒装束の男が、思い切り顔面をドアにぶつけて吹っ飛んだ。
「……え?」
鼻血を流して動かない姿を見て、条件反射のように身体が動く。
「呼吸、ある。脈拍も触れる」
相手の顔を覗き込みながら、肩を軽く叩き、声をかける。
「もしもーし!聞こえますかー!?」
思わず、医者時代の口調がそのまま出てしまった。
侍女たちはぽかんと口を開け、言葉の意味もわからず固まっている。
「反応なし。疼痛刺激は……」
腕をつついてみたり、軽く頬を叩いてみたり。刺激を少しずつ強めて確認する。
「……だめだ、JCSで言うと300。完全に昏睡レベル」
どうしよう。これって傷害罪?でも明らかに過失だよな?
もし目を覚まさなかったら、過失致死罪?
転生先で前科持ちとか、本当に勘弁してくれ!!
「……何事だ」
低い声に振り返ると、エドガーが険しい表情で駆け寄ってきた。
倒れた黒装束を見て目を細める。
「アリエル。君がやったのか?」
「!!ドアを開けたら……全然!授業から逃げようとなんてしてません!!」
「……何か攻撃を受けたのか?」
攻撃?むしろ攻撃した側なんですけど……
「な、何も……」
「そうか」
エドは即座に護衛へ目配せする。
「こいつを拘束しろ。身元を洗え。一応、生きているな?」
護衛が慌てて体を調べ始める。
そしてエドは短く息を吐き、背後の護衛へ視線を向けた。
「侵入者を見落とすとは、どういうことだ」
護衛は蒼白になってその場に膝をついた。
「も、申し訳ございません!」
「処分は後で下す。今は彼女を守ることに集中しろ」
……は?
ってか私、また命狙われたのかよぉぉぉぉおおお!!!
その日。乗馬の時間。
必死に手綱を握りしめながら、半泣きで叫ぶ。
「こ、これ絶対落ちませんか!?命綱とか無いんですか!?」
背後から支えるエドの腕が、ぐっと腰を抱き寄せる。
「大丈夫だ。私が支えている」
その部分だけは安心する。けど、怖いもんは怖い!!
その時……
「放て!」
茂みから飛び出してきたのは、大きな白い何か。
鋭い咆哮を上げ、一直線に馬へ飛びかかってくる。
「え!?なになになに!!???」
思わずエドの腕にしがみついた。
恐る恐る目を開けると……
大きな白い影は、馬の足元でぴたりと止まった。
そして、くるくると尻尾を振りながら、楽しげに馬の周りを回る。
「……これ、犬……ですよね?」
馬から降りると、目の前でごろんと転がり、お腹を見せて喉を鳴らす大きな白犬。
そのもっふもふの巨体が無防備に擦り寄ってくる様子に、撫でくりまわさずにはいられない。
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