かれいしゅう
1,
♪おとーさん、なーに?おとーさんていいニオイ。
洗濯していたニオイでしょ、しゃぼんの泡ぁのニオイでしょぉぉ♪
・・・って替え歌を、口ずさみつつ至近距離より胸、首、肩へ制汗スプレー吹きつける。
わき下やパンツの内の前や後ろも吹きつける。
表皮細胞一つ一つにムラなくそして幾重にも、コーティングする感覚で、気合いを入れて吹きつける。
十五分は余裕でかかる毎朝必須のルーティーン。
スプレーによる急冷で、肌の感覚鈍くなる。鈍さが痛みに変わる時分に噴射を止める。ちょっと間を置きまた噴射。何度も何度も繰り返す。肉体をフリーズドライする感じ。夏場には、スプレー缶が一週間で空になる。
手を休めるとだんだんに、スプレーのもやが晴れてくる。鏡の前に、段々腹が顕われる。
腹式呼吸で引っ込める。まだイケる。五十路手前の肉体に、独り密かに惚れ惚れとする。
値段の高さに購入しようか悩みに悩んでネットで買った消臭インナーシャツを着て、半袖ワイシャツ身にまとう。
リビングにうち出でてみればJKの娘二人と女房が、まるで三人家族のように仲良くトーストかじってる。朝の楽しいおしゃべりを邪魔せぬように気をつけて、俺は無言で周囲を行き来し出勤支度を調える。
出かける前に室内を、巡回し、声を出さずに指さし呼称を実施する。対象をしっかり見つめ、背筋を正し、腕を伸ばして指を差す。台所。先に終えた俺の分の朝食の皿を食洗機内へ収納よし。シンクの縁。撥ね散らかりの水滴が一滴も残らぬように拭き取りよし。空になった牛乳パック。ハサミを入れて解体し、いつもの場所に留め干しよし。ベッド脇。畳んだパジャマを押入れ内の所定のカゴへ収納よし。洗面台。ベーシンや鏡の周りに毛髪一本付着なし!
マンションを出た途端、灼熱の太陽放射が腕や首へ突き刺さる。
大音量のミンミンゼミの鳴き声が、不快感を倍にする。
朝のニュースで今日も酷暑と言っていた。
チチチチポッ。
歩き始めて数秒で、汗を沸かす体内コンロが点火する。
きっと会社に着くまでに、わき下はぐっしょり汗で濡れている。いやマジか。
あんだけシュッシュやったのに。八時をようやく回ったばかりで徒労感と無力感が押し寄せる。
そういや息は。
呼吸をするたびマスクで覆った顔面の、皮膚に蒸気が貼り付いてくる。数歩ごとに鼻で息を吸い込んで、匂いチェックを繰り返す。今んとこ、鼻腔をかすめる微風は無臭。よしオッケー。フッ素入りのペーストでごしごしやった効果がまだまだ残ってる。ポッケに入れたブレスケアーのミント風味の粒たちが、小さくカシャカシャ鳴っている。
ホームの上でハンケチ取り出し額の汗をぬぐっていると電車が滑り込んでくる。ドアが開き、人の群れが内へ内へとなだれ込む。俺も流れに逆らわず、前の人に当たらぬように気をつけて、ゆっくり車内へ進むのだけど結局背後の人波に、圧され圧されて周囲の人らにぶち当たり、最後には、巻き簀で巻かれた飯粒みたいに一ミリたりとも動けなくなる。コロナ期のはじめての緊急事態宣言が出た時の、がら空き車両が懐かしい。乗り替え駅まで二十分。車内はキンキン冷えている。
おっ何だ。
段々腹の一部位に押し当てられる冷たいものは?
顔を上げると目の前で、娘らと同年輩のJKが、スマホをつるつるいじってて、冷感は、そいつが手前に抱えてるリュックの内からやって来る。
ぎゅっぎゅっぎゅっ、とリュックが当たる。
こいつはたぶん、弁当だとか水筒だとかの保冷剤か何かだろう。満員電車よありがとう。
冷房と保冷剤の最強ペアが、俺の内部で点火したコンロの延焼防いでる。その上さらにJKの、シャンプー臭を堪能できるおまけ付き。
甘ぁい匂いを嗅いでると、マスク姿のJKが、遠い昔につき合っていた彼女の顔に見えてくる。高校時代、田舎のバスで、それほど混んでもいないのに、今よりもっと近い距離で学校までの道中を、ヒソヒソ話に興じてた。朝メシで納豆食った俺の吐息が彼女の顔に吹きかかる。彼女の方は嫌がりもせずとろんとした目で俺の方を見つめてる。
何という、愛らしさ。
この世にこれほど汚れなき瞳にその後の人生で、出会ったことなど一度もない。衝動に、打ち克てず、周囲の目なぞ気にせずに、その唇へチュッチュやってたあの頃は、吐く息も、かく汗も、腋のニオイも何もかも、怖れてなんかいなかった。
甘ぁい記憶に気分が昂まり息はずむ。その呼吸の乱れを感じたか、JKはふと顔を上げ俺を見て、視線が合うなり眉ひそめ、すぐまたスマホへ目を戻す。露骨な視線の外し方。JKの心の声が耳の中でこだまする。
「オッサンてめーこっち見んなよガチうぜぇ。朝の楽しいLINEの会話に水差すな。電車ん中は息とめとけや。それになあ、間違ったっててめーのやばい二の腕をくっつけんなよわかったか」
おいお前っ!かつてあの娘を夢中にさせた俺の視線やこの腕を、お前は嫌悪するってかっ。
ふっ、ふっ、ふっ、ふふふざけんな。マスクを外し、思い切り、肺に空気を溜め込んで、JKの、顔をめがけてこれでも食らえとねとつく湿風吹きかけハァァァァ…ってやめておく。下手すれば、次の駅で駅員に、つき出され、俺の人生ザッツ・イット。
ほんならこれを受けてみよっ!ぎゅっぎゅぎゅぎゅぎゅう、腹で押す。温ったかくなれ保冷剤!このおじさんの体熱が、たっぷり移った生温ったかぁぁいお弁当をお昼休みに召し上がれ。JKは、俺の果敢な攻撃に気づくことなく呑気にスマホをいじってる。
2,
朝の9時。
エレベーターを降りてから三十階のオフィスに入る。だだっ広ぉい海原に、整然と、デスクの島が浮かんでる。俺は朝の挨拶を、誰彼無しに漫然と、口の中でつぶやきながら、自分の島へ向かってく。あっちこっちの小島には、既に多くの者どもが、椅子に座ってパソコンぱこぱこ叩いてる。うち一割ほどは始業後既に二時間くらい経っているのを知っている。テンションMAX快食快眠オレたち意識高い系。ビジネスニュースで朝活特集組まれれば、我先に、朝の七時に出勤し、そのリア充をSNSにアップする、気高い意識を持つ人種。
おはようございます。
と至近で声をかけられた気が。
目をやると、声の主と思われる、長い髪を後ろに束ねた清楚な美女が、既に俺から視線を外し、てきぱき書類を綴じている。
YOイイネ!
朝のだるさが瞬で飛ぶ。そのまま直進した方が俺のデスクに近いのだけど、あえて左折しその人の脇を歩いてく。周囲に目線を悟られぬよう前を向き、薄手のピンクのカーディガンを着たか細い背中を横目で見ながら通過する。ウサギみたいに小刻みに鼻をひくひく動かして、周りの空気をむさぼって、至福の香りを体内深くにチャージする。立ち止まりたい欲求を、必死の思いで振り払う。
その女の名はアオイさん。二十代半ばくらいの派遣社員。総務の島で一年前からその可憐な姿を見せている。本当は前川さんというのだが、ネットでよく見るAV女優に似ているために俺は密かにアオイさんって女優名で呼んでいる。
おおアオイさん、君のそばを歩くのが、俺の中ではここ一年の社内での、わずかしかない楽しみの、リストのトップに挙がってる。君ってひとは、なぜか同んなじヒト科というのに他のヒトとは違うニオイを発してる。超超超絶いい匂い。きつい香水御法度の、職場のルールを超えない範囲でかすかに漂ういい匂い。来てすぐの頃、近くを通ったその刹那、至高の香りに俺はたちまち囚われた。オレンジなのか柚子なのか、甘酸っぱぁい柑橘系の…
…いやちがう。そこいらへんの物質や、あたりきたりの表現に、たとえられるよなものじゃない。香水なんかじゃありえない。48年生きてきて、こんな匂いを吸ったことなど過去にない。名状しがたいその香り。フェロモンとかいうやつなのか?(注1)
何だか知らぬがアオイさんの肉体の芯から立ちのぼる、生まれながらの匂いだろう。
おおアオイさん。今や俺は君の香りをのべつ幕無し求めてる。何か用事を作っては、香りのエリアに立ち入って、この味気ないオフィスから、甘やかな秘密の園へつかの間の、異次元トリップ繰り返す。
そんな匂いにイカれているのは俺だけぢゃない。あの気高い奴らも続々と、やらしい目をしてアオイさんの近くを通る。きっとみんな気づかれてないと思いながら鼻の穴を膨らませ、フゴフゴフゴとやっている。その情けない表情が、フェイスブックやインスタに、アップされることはない。
自分の島にたどり着く。島民は、既にみんな席につき、上座では、コグレ部長がいつものように朝っぱらからフルスロットルで指先カシャカシャ動かしている。四十歳、知的で美人で雅やか。意識高い系が行き着く先の最終進化形。ワークライフバランスや、ダイバーシティや何やかや、この旧体質の会社において社長が旗振る横文字を、たった一人で体現している最年少のやり手部長。近い未来の役員候補と噂されてる完全無欠のビジネスパーソン。俺をはじめ年上のオッサン部下らを動かす手腕は見事といったらありゃしない。それにまた、これほど無臭をまとった人も珍しい。
パソコンを、立ち上げる。部長から指示出しチャットが既に五件、社内メールに入ってる。俺は適度のスピードで、一件一件返してく。大学を出て誰もが知ってる一部上場ゼネコンに入社してから二十六年。財務部に配属されて今年で五年。部署や勤務地変われども、日々の基本は変わらない。定型業務に大小のトラブル処理やイレギュラー。毎日飛び交うビジネス用語。売上増進コスト減、ベターチェンジにPDCA、予算必達、コミットメント。知ったかぶりしてやり過ごす。
隣の島のシステム推進グループの課長をやってる細川が、オフィスの奥から現れて、のろのろ歩いて自席に座る。周りから、おはようって声掛けられるが細川はただ、
「あぁ…あぁ…」
って呟きながら、パソコンに真っ直ぐ向かってそれきり誰とも喋らない。シワの寄ったワイシャツと、頭の後ろで逆立っているボサボサ髪が、昨晩もまた最終電車を乗り逃がし、朝方に、応接のソファでわずかながらの睡眠を、むさぼったって語ってる。
数年前から隣の島は、天からの大号令をまともに受けて社内一の過酷な部署と化している。IT化せよ!何もかも!人が関わる業務を減らして人減らせ!おかげで隣は早出とか、残業だとか、超過勤務百時間とか当たり前。メンタルやられ、身体壊して社員一人が休職すると、穴埋めにどこかの部署から補充され、その島だけは人が減らずに回ってる。
俺と同期の細川は、新卒で入った頃はさらっさらの髪をなびかせ健康的に日焼けした人もうらやむイケメンで、言われた仕事をはいはいと嫌な顔せず引き受けて、あっちこっちで重宝がられた好印象の青年だった。あわれ今では髪が抜け、顔面白く、目は落ちくぼみ、生気の抜けたそんじょそこらの五十男となり果てた。
正午過ぎ。
オフィス近くの飲食街の看板が、目に飛び込んでくるその刹那、脳内で、視覚がにおいにすり替わる。生姜の焦げた甘じょっぱぁい焼き肉のにおい。牛丼の昆布のだしや照焼き丼の味醂のにおい。芳醇なベーコンがたっぷり溶けたナポリタンのケチャップ臭。ラーメン店のとんこつ醤油のどぎついにおい。
今日のランチは行きつけの、人気のカツ屋でひとりめし。カウンターで名物のヒレカツ重にかぶりつく。外はパリパリ中がジュワーッ。肉汁と揚げた脂の甘いにおいが鼻の奥までしみわたる。この風味、この食感がやみつきで、週に一度は通ってる。
街なかは素敵なにおいであふれてる。(注2)
臭い。匂い。ニオイはヒトを支配する。この俺は、無意識のまま操られ、においにつられて抗うことなど考えもせず日替わりで、店から店を渡りゆく。
15時半。
一日のうちで最も危険な時間帯。会議中も社内資料の作成中も、何していても身体の芯からじわじわと、嫌な脂が滲み出る。朝にあれだけ装備したスプレー被膜は易々と、内からパリパリ破壊され、閾値を超えて外へ向かって酢のような酸っぱい臭気がほとばしる。
俺の周囲の島民は、コロナ前から異様に高い着用率で常にマスクをつけていた。今まで意識をしてなかったのだがこのあいだ、隣の奴のデスクの上にマスクの包みが置かれていたので見るともなしにラベルの印字へ目がいった。「防臭フィルター内蔵マスク」。ぼうしゅううう?防臭だとぉ?おいポーカーフェイスで仕事しているお前たちっ!そのマスクで何を防いでる!世界が恐れるウィルスが消えたあとは俺のニオイをブロックするかっ。
別の島の連中も、十五時以降は俺に見えないトラロープでも張られてるのか近くにまるで寄りつかぬ。三密を避けましょう。密閉密集密接にならないように気をつけましょう。総理よ都知事よ、この会社ではコロナの時のあなたたちの掛け声を、今も律儀に守ってる。(注3)
限界だ!悪臭をまき散らかしてる自分自身が嫌になり、仕事を抜けてトイレの個室へ躍り込む。
乾いた汗とねとつく脂をたっぷり吸ったシャツを脱ぎ、そのシャツを、おそるおそる鼻へ近づけ嗅いでみる。
くっせえぇぇぇ。
その次に、薄っすら湿った腋の毛を、手の甲で、ごしごしやってその甲を、思い切って鼻へ寄せ、
ぐぅふぅぅぅぅ。
さらにまた、耳の後ろのべたつきを、指でこすってその指を、性懲りも無く鼻先へ、
ォォエェェーーッ。
禁断の匂ひの愉楽に酔ひ痴れる(注)。(4)
制汗シートを小物入れから取り出して、何枚も、重ね合わせて脇、胸、首、顔、耳の後ろを拭いて拭いて拭きまくる。シートはみるみる茶に染まる。冷水シャワーを浴びたよう。
ヒンヤリスースー気持ちぇええ。
何回も、シートを変えて拭きまくる。やがて俺の肉体は、爽やかなシトラスの香に包まれる。
脱いだシャツを便座のふたに置き広げ、急速消臭スプレーを、縦横無尽に噴きかける。
消臭率は97%(パー)、驚異のイオンが加齢臭をぶっ飛ばす。ドラッグストアでそんなPOPを目にして買ったスプレー缶のプッシュボタンを押しまくる。
そうして97%のニオイの取れたシャツを纏うと朝の自信が97%よみがえる。(注5)
よっしゃやるぞ、やってやる。ニオイに代わって心の底から笑みが湧く。
靴音がして、個室のドアが閉められて、内鍵がかかる音がする。
「くそくそくそくそ……」
細川の声に違いない。
「くそくそくそくそ……だめだめだめだ……くそくそだめだ……なんまいだなんまいだぁだめだめだめだぁぁ……」
やばいやばすぎあいつ今、俺がよく行く次元とは違う次元へトリップしてるに違いない。
個室の中で便座に座り、頭を抱えるあいつの様子が目に浮かぶ。
「おうい細川無理すんな。今日こそは早く帰って早く寝ろ」
って仕切り越しに声掛けようとしたとたん、
どやどやと、二人くらいの靴音がして、野郎どもが並んで用足しはじめるよな音がする。
トイレという場はあまたの映画や小説で、機密がこっそりやり取りされる重要舞台と前から相場が決まってる。野郎どもは曲がって死角になっている奥の個室を気にしてないのか声を潜めて喋り出す。
「また三人ほど減るんだと。総務が上から言われたらしい」
「派遣だろ。数字が落ちたら派遣切るって何遍やるんだうちの会社」
「新システムで効率化されてそんなに人が要らんだろうと上は普通に思ってる」
「オマエここ来てやってみろって。そんで誰が居なくなる?」
「今月末で真田さんに沢村さん。あと誰だっけ、ええと、そうそう前川さん」
身体が重い。ずしっと重い。
一歩一歩踏み出すごとに、さらに重みが増してゆく。足を何とか引きずって、俺はオフィスに戻りつく。真っ直ぐ行くのが自分の席に近いのだけど、わざと手前で左折する。アオイさんに接近し、そのほっそりとした輪郭や、指先や首の白さをぢっと見る。パソコン画面に集中している横顔は、つやつや頬っぺにほんのり赤みがさしている。おおインクレディブルな美しさ。俺は歩を緩め、香りのエリアに分け入って、超思いっきり息を吸う。びろうどのカーテンが、すぐ目の前で開かれて、俺の身体は赤や黄色やむらさきの、優しい光に包まれる。ここだけは、朝も昼も夕暮れどきも、変わらぬ香りの桃源郷。世界が吹っ飛び彼女一人がそこにいる。
おおっ、おおっ。
この珠玉の薫りを独り占め。
時間よ止まれ!永遠に!
俺はさらに鼻を寄せ、匂いのもとを頭の先から足の先までむさぼり尽くす。どこを嗅いでも嫌なニオイはまるで無く、世界まるごといい匂い。
ひざまずけ!彼女の脚に身を投げて、そのくるぶしに口づけを!
マスクを外して口元すぼめたその刹那、近くのキーの打音が止んだ。我に返って目を開ける。隣の社員が訝しげな目で俺のほうを見上げてる。バカバカバカバカ俺のバカ。妄想を、振り払い、後ろ髪を引かれつつ、そそくさと、香りのエリアを抜けてゆく。
十七時。
おつかれさま、って周囲に声かけ部長は定時に居なくなる。ザッツやり手のビジネスパーソン。真っ直ぐ帰宅し子供と一緒に食卓囲み、風呂に入れて寝かしつけ、その後また、深夜まで、パソコン叩いて指示飛ばす。働き方の改革なう。残業しないで早よ帰れ。社内の呼びかけやかましい。
うっせぇわ。
呼びかけだけで仕事が減るわけねーだろー。社員の多くは昨日も今日もおそらく明日も、尽きない業務の無限ループにはまり込み、定時過ぎても残ってる。
「いやぁ悪ィな本当に。まるっきり使えんかったが辞めたってのは想定外」
電話の向こうで子会社の三つ星ホテルで役員している先輩の声が響いてる。ホテルの経理をやっていた古株社員が予告もなしに退職し、そのために、新システムの経理フローの提出が遅れたことを詫びている。俺は適度に相槌打って聴いている。謝罪の声に気持ちは微塵もこもっちゃいないがどのみち俺も聞いてない。遅延の件で何回か、俺の方でもホテルへ催促したけれど、実のところ遅れたって誰一人、困る奴など居やしない。
そんなことより目下の懸念はこのニオイ。あんだけ仕込んだシトラスの香も夕方過ぎには消え飛んで、むくむくと、身体の内に毒性ガスが充満し、限度を超えて噴き出でて、四方へ広く染みてゆく。吐いてる息にもドブ臭が、からみ付き、相槌打つたびもわんとにおう。今の俺って制御不能の生物兵器。
周囲の生きとし生けるもの!退避せよ!しないのならば死に絶えよ!
自己と自臭の戦闘に、いつものように敗れ去り、精根尽き果てパソコン閉じる。カバンを抱えて立ち上がる。すっぱくさい身を引きずって、出口の方へ歩いてゆくと微かな異臭が鼻につき、それがだんだん濃ゆくなる。
オーデコロンかパルファムか。おおこのニオイはあのお方。パーティションで区切られたブースの一つでシステムチームと常務の姿が見えてくる。今日もまた、時間外の緊急会議が招集されたに違いない。常務が放つでかい声とメンズコロンの獰猛な香が、周囲を不穏に覆ってる。一流大の野球部出身、みなぎる知力と体力でライバル次々蹴落として、今の地位に上り詰めた還暦近い常務が及ぼすプレッシャーはハンパない。近寄る者は誰もなく、会議は会議でなくなって、一方的な講話に変わる。空気が張り詰め一座は揃って黙り込む。ああきっと、パーティションの中はいま、ニオイと圧とで不快指数MAX超えの無間地獄に違いない。押し込められた者どもは、決して自力で抜け出せぬ。奥の方で細川が、無表情で座っているのが見えている。俺は息を止め、パーティションから目を逸らし、足を速めて通過する。
3,
21時。
脱いだシャツや靴下を、俺専用の洗濯カゴに放り込む。洗濯物は俺のものだけ別洗いって決められたのが二年前。最近は、調子こいて娘らが、洗濯機ごと別にしてよと女房に向かって騒いでる。うっせぇわ。一台分の追加スペースだけでなく、給排水の増設工事も必要だってわかってんのかお前らは。今だって、二回分の洗濯の水道代も電気代もこの俺が払ってんだぞ知ってるか。
カゴ横に、女房が買った「加齢臭をしっかり除去☆」ってラベルの貼られた補助洗浄剤が置かれてる。スーパーでこんなラベルを目にしたら、オッサン飼ってる家ならば十中八九買い物カゴに放り込む。この世の中は糞メーカーであふれてる。人の悩みにつけこんで購買意欲を刺激するマーケティングは許しがたい。
浴室で、洗面ボウルにお湯をくみ、両手ですくって顔洗う。ぬるぬる皮脂が手のひらに、べったりついて水はじく。灯りにテカテカ輝いてマーガリンを塗ったよう。ソープの泡をスリープッシュで手に盛って、顔面隅々塗りたくり、毛穴の奥の脂まで、徹底的にこすり取る。手ぬぐいにボディーソープをつけまくり、身体全体ごしごし洗ってがっつり悪臭やっつける。これでよし。おとーさんっていいニオイ。このルーティーンが終わったら、この家の中の歩行権がようやく俺に付与される。
リビングで、音立てぬよう気をつけて、テーブルにある一人前の皿のラップを取り外
す。棒ヒレカツが今夜のメイン。近所のイオンのタイムセールの10%(ぱー)引きのやつだろう。昼のカツとかぶったが、好物だから良しとする。冷めているけど面倒なのでチンもせず、一切れをご飯と一緒に口に入れ、ろくに噛まずに味噌汁吸って流し込む。向こうのソファで女房と二人の娘らが、三人仲良くテレビ画面に目を投げていて、俺にとっては理解不能のアイドルのギャグに笑ってる。
23時。
寝室のベッドにごわっと身を投げて、寝る前のいつもの癖で枕とか、敷布や掛布へ鼻を寄せ、ニオイの有無をチェックする。睡眠という至福の時こそガチやばい。寝ているうちに汗とか脂がほとばしり、寝具の奥まで浸透し、カビと混じって発酵し、つーんと臭いが湧き起こり、百センチ幅のこの空間から越境し、嫌なニオイが部屋全域へ満ちわたる。慎重に、あっちこっちを嗅いでみる。臭い無し。念のため、もう一度、端から端まで嗅いでみる。臭い無し。
文句無し!
枕カバーと布団カバーの宣伝文句に嘘は無し。
女房が、ネットで見つけて俺のカードで勝手に買った加齢臭の対策グッズ。その驚異の効果に感動しきりの女房は、購入サイトのクチコミにポジティブコメント投稿してた。
【枕に染みた生ゴミみたいな残臭に心の底から悩んでました。枕カバーを塩素系漂白剤にまるまる二晩漬け置きしてもだめでした。子供も居るしマンションなので夫婦の部屋は分けられません、今までは、ムアっとにおった寝室のドア開けるのさえ怖かった。それがもう、この商品と出会ってからは夢のよう。びっくりするほど無臭です。五日続けて朝に臭いをチェックしたけど臭い無し!お悩みの方、ぜひぜひ試してみて下さい!】
よかったな!臭いも悩みも消え飛んで!いやいやお前、こんな特殊グッズを買うよりか、いっそ臭いの大元が、消えっちまうのが一番と心ん中で思ってんだろバッキャロー。
会話は既に消えている。
空気みたいな存在だったらまだ良いが、今じゃ女房も娘らも、俺のことを家のどこかでランダムに空疎な音と異臭を放つ目には見えないすかしっ屁とでも思ってる。どうしてそこまで嫌われる?家族のために一生懸命仕事して、買いたいものを我慢して、言いたいことも我慢して、毎日真面目に生きている。日常の女房の小言を精査して、一つ一つの行動を意識的に修正してる。済んだ皿を軽くすすいで食洗機内に並べてる。シンクの縁に撥ね散らかった水滴を残さぬように拭いている。飲み終わった牛乳パックをハサミで切って所定の場所に干している。脱いだパジャマをきれいに畳んで収納カゴへしまってる。ティッシュを使って洗面台にこびりついた毛髪を一本残らず拭き取っている。こんなに努力をしてるのに、これほどまでに疎まれるのはなぜなんだ?
ひょっとして。いやまさか。
あの時のLINEの誤爆が原因か。
他の部署にいた五年前、出張先で取引会社の初老の社長と親しくなった。なァに老人たちの愉快な癒しの場なんです。あんたはまだ若いですけどね、あんたなら紹介できます。絶対内緒ですからね。
ひみつのあそびに誘われて、夜遅く、波の音が聞こえる宿に出かけて行った。びろうどのかあてんの奥の小部屋で美女の身体を五本の指でまさぐって、わかいにおいを朝までいっぱい吸い込んだ。たった一夜で長年積もった疲れが一気に吹き飛んだ。やみつきになり、出張のたびに訪れて馴染みとなった。東京で潮のにおいと女のにおいを思い出すたび宿の主の中年女へLINEした。
とある晩の飲み会帰りの電車の中で事件は起きた。酔って鈍った指を動かし「また行きますよぉぅ♡」と宿の主に送ったはずのLINEの宛名をよくよく見たら女房宛てになっていた。
げっ!
ヤバっ。
LINEはすぐに既読がついた。
オーマイガッ!
オシマイだ!
結婚前にさかのぼっても、♡入りのメッセージなど女房に送った記憶は無い。
おそるおそる帰宅した。
女房は、昔のポップス大音量で聴きながら洗濯物を畳んでて、いつものように顔も上げずにおかえりなさいと呟いた。ノリノリの音と対照的な女房の静かな物腰に、心の底からふるえが起きた。
でもなぜか、その晩にLINEの話は出なかった。
次の日もその次の日も出なかった。
女房の様子も何一つ変化のないまま日が過ぎた。
もしかしたら読んでない?読んだけれど口に出さずに耐えている?もう俺が何をしようと興味がない?離婚しますと切り出すための裏の準備で忙しい?
わからないし気味が悪い。気味は悪いがありがたい。そうやって何も起きずに季節は巡り、俺の恐怖も薄れていった。
思い返せば娘らが、だんだん俺を避けはじめたのはあの頃からではなかったか。あいつらのムカつく態度は思春期のオヤジに対するありふれた反撥ダローショウガネエナと大人の余裕をかましてた。違うのか。もしかしたら女房の、表に出さない俺への怒りが知らず知らずに娘らの心の奥に伝わって、無意識に俺との距離を取りはじめたのかもしれぬ。
いや違う。
違う違うそんな考え甘すぎる。
女房は、とっくの昔に娘らに俺の非道をバラしてて、その結果、家の中で三人チームが結成されて、よぉしオヤジを無視しとこうぜ居づらくさせて追い出そうぜと作戦会議で決議され、その作戦が今もなお継続されているのか知らん。
「はぁー。あの人と同じDNAって人生絶望しかないわ」
「あんなことしてよくもまぁこの家に毎日帰ってこれるよね」
耳の奥で聴き慣れた声が湧いてくる。楽しげな、その会話。リビングに集音マイクがついてるのかと思えるほどに鮮明に聴こえてきてる。
「朝のシュッシュが長すぎてまじムカつくわー。ニオイばっかり気にしてさあ」
「自分で自分を気にするほどに他人はアンタを気にしてないよとLINEしといてやろっかね」
「わかってないよね。におい以前に許せないのは存在そのものだってこと」
「縄文時代の価値観が、言葉の端ににじみ出てる」
「牛乳パックをハサミで切ったり髪の毛をティッシュで取ったり当たり前をやってるだけで、自分のことを家事全般に協力的なナイスパパって信じてる」
「トイレにこもって会社の不満を独りぶつぶつ呟き続けてる」
「不満だったら会社辞めて転職すればいいのにね。何んにも変えない。だから何も変わらない。文句たらたら言いながら定年の日まで居座って、ぬくぬくと年金もらってオレ勝ち組だァと喜ぶ爺ぃなるのかね」
「自分と未来を変えるには、パラダイムをシフトさせなきゃいけないと気づかないのが詰んでるね」
「けどやっぱりニオイはわたし無理。ううやっべぇ、思い出すたびゲロが出そう。あの臭気。あの口臭。あまりにひどすぎ
「しゅうきこうしゅう、よろしくね」
聞き慣れたリアルな声が、突然俺を現実世界へ引き戻す。ドア越しにこっちを見ている女房がいる。
……臭気口臭ヨロシクネ?
女房は、俺に向かって紙切れ一枚投げよこし、すぐに背を向け去ってゆく。その紙は塾発行の請求書。娘二人の塾代は、事前協議も何も無く、いつの間にやら俺の口座が登録されて、今じゃ毎月三万円が問答無用に引かれてる。月謝だけでも大変なのに、秋季講習二十万って適正価格かいやマジで。
枕元の引き出し探り、通帳開いて念のため、預金の推移をチェックする。塾代のほか毎月きっちり引き落とされる家のローンの十万円。車のローンの五万円。電気にガスに水道に四人分の通信費。あれやこれやの消臭グッズも不定期に購入されて引き落とされる。来月に二十万円引き落とされたら残高は数千円に目減りする。一方で、月々入る給料は八年前から頭打ち。二年後からは年齢給が下がり出す。
ああ憧れの、勝ち組爺ぃになれるかな。なりたいな。なってやる。パラダイムだとかいうやつを、シフトさせたらなれるかな。そんでこの、糞つまらないオハナシが、ハッピーエンドで終わるかな。
4,
末日はいつも、翌日からの締めの準備でどことなくオフィスが殺気立っている。
「聞きました。今日が最終ですってね。一年ちょっとお疲れです」
俺は朝からそわそわと、用も無いのに席を立ち、数日かけて練ったセリフを心の中で繰り返しながらアオイさんの香りのエリアをうろうろしてる。今の今まで部署の壁に阻まれて、喋る機会が無かったが、最終日となる今日こそは、さりげないふう装って、話してやると決めてみた。
けどアオイさんは朝からずっと、同んなじ島の女の社員と引き継ぎしていて一瞬たりとも隙がない。最大のチャンスと見ていた昼休憩も、アオイさんの外出に合わせ立ち上がりかけたこの俺に、コグレ部長が声掛けた。お昼にかかってすみませんが、これだけすぐにやれますか。
焦るな負けるな挫けるな。退勤時間の十七時まで二時間余、チャンスはきっと訪れる。トイレに立つ時、他部署の人へ最後のあいさつ回る時、仕事が終わってエレベーターへ向かう時。焦るな負けるな挫けるな。俺は自分に言い聞かせ、働くふりして彼女の動きに全神経を集中してる。
おおアオイさん。明日はもう、君はここには居ないのか。
「あっ貴方。えっと確か、前川さんていいましたっけ。お久しぶり。どうしてここに?そうですか。今日から派遣で来たんですね。僕ですか?転職をして今はここでやってます。ビックリですね、何ていうかご縁というものですかねえ。元気そうで何よりです。この職場、小っさいけれどすっごく働きやすいです。前の会社じゃ近くて遠い島同士、ほとんど接点無かったけれど、これから近くでご一緒ですね。困ったことがあったなら何でも相談してください」
既に俺の脳内は近未来へと翔んでいる。そこはおそらく従業員数十名の建設会社みたいな職場。再就職した俺のキャリアとノウハウが、求められ、次々と仕事を任され頼られてバリバリ働く俺がいて、アオイさんが横にいる。
YOイイネ!
かぐわしい薫り漂うその場所は、きっとたぶん神さまが、この俺に、苦難の人生歩んだ俺に、与えてくれた理想の居場所に違いない。
ふと隣島に目をやると、細川が、ここんところデフォルト化してる胡乱な目をして自分の席に座ってる。忙しそうにキーを叩く周囲をよそに一人だけ、ピクリともせずパソコン前でボーッとしてる。
同じ島の同僚が、立ち上がり、細川へ、会議の時間になりましたって声を掛け、背中を向けて歩き出す。細川も、立ち上がる。
立ち上がれない。
立ち上がる。
立ち上がれない。
デスクに手をつきもう一度、立ち上がろうと試みる。
けれどやっぱり立ち上がれずに力尽き、音を立てて椅子から滑って倒れ込む。
瞬で空気が凍り付く。ざわつきが波のように流れてく。俺は咄嗟に席を立ち、一番乗りで駆け寄って、細川の上にかがみこむ。人がわらわら寄ってくる。一一九番。早くして。誰かが誰かに指示してる。細川は、大の字になり目を見開いて痙攣し、苦しそうに喘いでる。俺は手を伸ばし、細川の頸に巻かれたネクタイ緩め、口のマスクを外してあげる。蟹のようにぶくぶくと口から泡が吹き出している。唐突に、騒ぎに紛れて誰かの発したつぶやきが、俺の耳に飛んでくる。
「また一人」
と、細川の口の端に溜まってる、よだれのあぶくがはぜて飛ぶ。
悪臭が、巻き散らかって暴れ出す。
頭皮や腋や頸からも、嫌なニオイが制御を解かれて湧いている。
おおおおおおおおこのニオイ。
俺のニオイと同んなじニオイだ細川よ、お前もかっ。
朋輩を得た俺の総身が毛穴のレベルで喜んで、解放感に包まれて、一気に臭気をかもし出す。
オッサン二人の加齢臭。溶け合って、増幅し、周囲の無臭を食み尽くす。
面前でバリアが張られた群衆は、為す術もなく立ちすくみ、俺ら二人を囲んでる。(注6)
救急隊がどかどかと、やってくる。臭いを蹴散らしテキパキと、細川の身を担架に乗せて、わっせわっせと運んでく。
小さくなってく救急隊を目で送る。
細川よ、お前は十分闘った。
定型業務に大小のトラブル処理やイレギュラー。毎日飛び交うビジネス用語。売上増進コスト減、PDCA、予算必達ベターチェンジにコミットメント。
よぉく休めよ仕事なんか忘れちまっても死にゃしない。
この世界の理不尽が、お前の内部へ侵入し、破壊するのをかれいしゅうのプロテクターが撥ねつ
……アオイさん!
思い出し、総務の島へ目をやれば、デスクがキレイになっていて、
アオイさんは跡形も無く消えている。
こんな時間にいやまさか。
足が勝手に動き出す。小走りになり、香りのエリアのあったところで立ち止まる。アオイさんとくっ喋ってた島の女が俺の方へうさん臭げな目を投げる。
「あの何か」
「アオ……前川さんは」
「上がりました」
「だってまだ」
「今日は引き継ぎだけだったんで。何か用事ありました?」
マジでむかつくこの女!その事務的セリフを吐き出す口に、渾身の俺のパンチをくれてやる!
怒りとショックが胸の内部でぐるぐるぐるぐる回ってる。
アオイさん。おおアオイさん。哭いて叫んで狂い出したい衝動を、俺は必死でこらえてる。
この場所が、この一年間の楽園が、はじめから無かったみたいに消失し、今やデスクが置かれてるだけの無意味な場所に変わってる。
うっ。ううっ……。
ひょっとして。いやまさか。
どこからともなくじわじわと、嫌な臭気がやってきて、俺の鼻腔にまといつく。いやいや俺の臭いじゃない。
会社の中でごくわずか、何十年も、そいつは常ににおってて、決して消えたことがない。
会社は変わる。時代の変化、世界の変化に適応し、生き残りのため新たな組織へ進化する。
新陳代謝が繰り返されて人や仕組みが入れ替わる。
目の前の誰かや何かが消え去ると、ほんの一時期鼻の通りがよくなって、呼吸がちょっと楽になる。
でもしかし、臓器レベルが変わっても、本質は変わらぬままに動的平衡保ってる。
ニオイはどこかに潜んでて、ほとぼり冷めればまたぞろ息を吹き返す。
このニオイ。オーデコロンかパルファムか。
ニオイがみるみる拡がって、オフィス全土を支配する。
おいあんたたち!意識高い系か何か知らんが涼しい顔で働いているあんたたち!感じないのかこのニオイ!オゥェェッーやばっ!吐き気が一気にこみあげる。息止めて、トイレめがけて走り出す。もうダメだ……出る……ゲロ……ゲロがゴボッ……オゥエェェェーーッ!
5,
♪おとーさん、なーに?おとーさんていいニオイ。洗濯していたニオイでしょ、シャボンの泡ぁーってうっせーわ。
台所。先に終えた俺の分の朝食皿を食洗機内に収納せずに放置する。
空になった牛乳パック。ハサミを入れず解体せずにテーブル上に放置する。
ベッド脇。脱いだパジャマを畳まずに床に脱いで放置する。
洗面台。ベーシン内を毛髪だらけで放置する。
中身がたっぷり残ってる制汗スプレー惜しげもなしにごみ箱へ、放り込む。
女房子供が起き出す前に、出勤準備を整えて、玄関で、思い切って息を吸って吐いてみて、靴を履いてドア開ける。
朝7時。
おっおっおはようございます。
意識高い系が点々と座りはじめた島々へ、俺は声掛けしながら歩いてく。挨拶を返してくれる者はない。俺は気にせず始業の前のだだっ広い空間を、息を止めて通過する。
その部屋は、エレベーターから一番離れたオフィスの端の端にある。ここまで来ると人影も、パソコンを叩く音も聴こえない。ドアを開け中に入って電気をつける。四方の壁に並んだ書棚が部屋の奥まで続いてる。窓はあるが隣のビルの外壁が一メートルの向こうにあって外の光を阻んでる。窓際にデスクが二つ、離島みたいに置かれてる。
そこはデジタル化ペーパーレス化の恩恵で、若干の空間余地が出はじめている書類置き場。書棚には何十年もの過去の書類が綴じられた古いファイルが詰まってる。俺はマスクを外してデスクに座り、パソコン立ち上げ手前のファイルを引き寄せる。
社内では島流しって囁かれているこの部屋に、俺は自ら手を上げ異動した。昔の文書の入力と図面のスキャンと終わった書類のシュレッダーがメインの仕事。デッドラインは特には無いが、全ての書類が終わるまで、あと数年はかかるだろう。
部屋の隅の空気清浄機を俺は横目で確かめる。
よしよしオフになっている。
空気がキレイにならないように。加齢のニオイが消えないように。
そうしておけばここには誰も入ってこない。
異動して、いの一番に予算外の稟議を上げた。病院で感染防止に使われる陰圧装置の設置の工事。気圧差で菌やニオイを部屋の内部に閉じ込める。中の空気の漏出防止が目的と稟議に書いたがホントは逆で、外の空気の侵入を許さぬために設置する。これがついたら完璧なのだが決裁審議はコグレ部長で止まってる。
おっおっおはようございます。
細川が、ドアを開けて挨拶しながらやってくる。
傷病休暇で二か月休んで三日前に復帰した。髪を綺麗に撫ぜつけて、しわのない青いスーツで決めている。向かい側の席につき、マスクを外し、俺の顔見てにかにか笑う。目には生気が戻ってる。
粛々と作業は続く。根を詰めずに怠けずに。細川のキー音がラップのリズムを刻んでる。俺もつられて同んなじリズムでキーを打つ。指先を動かしながら何心なく目を上げる。果てしなき書類の棚を眺めていると、数年先の光景が頭の中に膨らんでくる。
全ての文書の入力終えて、全ての図面のスキャンも終えて、シュレッダーもかけ終えて、書類がなくなりすっきりとする。防護服着た産廃業者の職員が、棚をてきぱき持ち去ってゆく。がらんどうの空間に、俺たちとシュレッダーが残される。一人ずつ、シュレッダーに飛び込んでゆく。細胞単位で切り刻まれて、解き放たれた魂が別の次元へ飛翔して、そして何もなくなって、このオハナシが閉じられる。
窓外に迫る隣のビルのコンクリ壁に目を移す。暗く冷たい灰色だけが見えている。なぜだろう、陽の射さない窓際なのに、ここはポカポカ暖かい。
[原注]
(注1) ある動物個体が体の外に発し,同種の他個体に受容され,特定の反応を引き起こす物質は一般にフェロモンという言葉を想起させるが、この言葉はP・カールソンとM・ルスチャーによって提起された(Karlson P, Luscher M “Pheromones’ : a new term for a class of biologically active substances. Nature 183 55-59, 1959)。
阿部峻之と東原和成は、カールソンとルスチャーの定義をもとに以下のように論じてい
る。「例えばカイコガの性フェロモンであるボンビコールは,メスの個体から発せられ,受容したオスの誘引行動を励起する。フェロモンを受容した昆虫は直ちに特定の行動を示す.しかし哺乳類の行動は昆虫より複雑に制御されており,フェロモンを受容することが直ちに特定の行動に結びつかない場合がある。さらに近年単離された哺乳類のフェロモン候補物質は,行動変化や生理変化を励起すること以外に,種や系統の情報を担っていることが示唆されている。そのため,とくに哺乳類においてフェロモンという言葉は,「性,社会的地位や系統など個体の情報を担い,同種個体間でやりとりされる物質」として,カールソンらの定義よりも広義に使用されている。(阿部峻之・東原和成『哺乳類におけるフェロモンと鋤鼻器官』日本生殖内分泌学会雑誌 Vol.13 2008)
上野吉一はフェロモンという言葉が「性に関連した匂い」ひいては「性的魅力」を意味する言葉として用いられていることに警鐘を鳴らしている。「フェロモンを性と強く結び付けて捉えるというこの傾向は、通俗的な使用のみならず学術的な使用においても少なくない。そのため、その意味するところが非常に偏って認識され、かつ"匂い"との区別が曖昧になっている」とし、「ある匂いをフェロモンとするための基準として、次の5つを挙げる」とし、「1)同種ないし近縁種のみで作用。2)送り手・受け手にとり互恵的な特異的反応(リリーサー効果もしくはプライマー効果)の解発。3)生得的要因への高い依存。4)特定の匂い刺激のみに起因する反応。5)1つないし少数の物質の情報伝達への寄与。これをもとに哺乳類での"フェロモン"の使用を鑑みると、これまでにも指摘されてきたように、フェロモンと表現することが必ずしも妥当ではない場合が多いと考えられた。また、中にはフェロモンの概念の基準を考え合わせることなく使用している場合すらあった。このような"フェロモン"の使用は、匂いに対する過剰ないし誤った評価・認識を引き起こし、哺乳類における嗅覚コミュニケーションの適切な理解を妨げる。」{上野吉一『哺乳類においてフェロモンとはどのような匂いか : 用語論的観点からの再確認』日本味と匂学会誌 3 (2), 11-19, 1996}
(注2) アラン・コルバンはにおいに関する古今の文献を渉猟し、19世紀のパリ市中は悪臭が支配していたことを次のように暴き立てている。「一八八〇年の夏のこと、パリにただよう悪臭のあまりのひどさに、世間は騒然となった。だれもが口をひらけば、そのことしかなかった。『くさいですね、なんという臭いだろう!』まるで国中に厄災がふってわいたようなありさまだ。パリの住民たちはあわてふためくし、知事は頭をかかえ、大臣はいらいらしていた。(中略)政府の命令をよそに、汚物は公道にたまっていくばかりだった。いまだに糞尿を道に投げ捨てている街区も一つや二つではなかったし、子どもたちは通りで立小便をし、汲み取りは昼となく夜となく悪臭をまきちらす。(中略)慈善病院の共同便所といい、屋敷町の奉公人たちが使う共同便所といい、いずれ劣らず、その悪臭たるや、想像もつかぬぐらいひどくなっており、民衆たちの住む建物におよんでは、何をかいわんやである』。悪臭の元はそこいらじゅうに存在していた。『職人たちも嫌な臭いをさせていたが、屑屋にいたると悪臭は頂点をきわめる。(中略)家内奉公人もまた、生活状態は改善され、衛生状態も良くなっていたものの、まだまだ汚ない臭いのする人種に数えられていた。はやくも一七五五年にマルワンが、奉公人の寝起きする場所はできるだけ換気をはかるようにと忠告している。一七九七年になるとフーフェラントが、奉公人を子ども部屋から遠ざけるようにと命令を下す』。
またコルバンは、政府が政策的に街や住民のにおいを制御し徐臭を進めていったことと監理社会との関連を指摘している。『いま私たちの生きている、悪臭なき無臭の生活環境は、”作法かまわぬ気ままな暮らしぶり”を抹殺し、雑居生活を排斥していった結果なのである』。{Alain Corbin: Le miasme et la jonquille -L’odrat et l’imaginaire sociale 18e-10e siecles, Aubier Montagne, 1982 アラン・コルバン「においの歴史 嗅覚と社会的想像力」山田登世子・鹿島茂訳 191-192, 303-310 : 1988年 新評論}
(注3) ナット・ラザキスは著作の中で職場の体臭問題を考察し、大多数の新自由主義的な職場でLGBTのようなマイノリティの受け入れが進んでいるにもかかわらず、体臭が強い従業員への態度は一向に改善しないことを指摘している。「新自由主義的な職場は、現在、においの強い従業員に、採用価値のある多様性を認めていない。一方で、体臭に関するネガティブな俗説が、有能な候補者を面接の段階から妨げていることもある。また、正式な診断で障がいと認定された体臭を持つ従業員も、採用後に不公平な扱いを受ける可能性がある」。
さらに、「公然と、あるいは隠然と、多くの経営者は労働者が自らの身体について意識的であることを期待している。(中略)職場においては身体的な自己は不変なものであってはならず、『スキル』や『勤務態度』同様に可塑的で柔軟なものでなければならない。自己改善を求める職場の声は、服装や身だしなみだけでなく、身体的なレベルにまで及ぶのだ」とし、従業員の身体管理は中間管理職者であるマネジャーの職権になっていると断じている。「職場のトラブル対処のためのハンドブック、ネット上の人事関連の記事やアドバイスサイトに見られる通り、マネジャーの立場からいえば、体臭というのは常に衛生ポリシー違反に分類されるのである。そして職場の階層システムが、身体性の反映が批判の的になるのを回避するために展開される。(中略)また、臭いが障害によるものである可能性もあるため、マネジャーはにおいの強い身体を問題視することを躊躇することもない。秩序についての異なる言説と対峙することはせず、また立場の弱い者がより良い主張をするかもしれないという統制上のリスクに向き合うこともせず、上司は体臭の強い部下に容赦なく最後通牒を突きつける。『秩序を守れ、でなきゃクビだ。』従業員が取得した公的な診断書さえ、『問題のある身体』として分類されるリスクから彼らを守ることはできない。『問題となる身体』は他の労働者からの隔離を含むアメリカ障害者法の適用対象となっているのだ」。{Nat Lazakis” Body Odor and Biopolitics: Characterizing Smell in Neoliberal America: Mcfarland & Company, Inc, Publishers (2021)28,62-71 }
(注4) 他人に不快感を与えるヒトの体臭としては頭皮・頭髪臭、腋臭、汗臭、足臭などがある。深野清仁は体臭に関する論文の中でこれらのにおいに加え加齢臭の特徴成分や発生要因に関わる皮膚微生物について述べている。「加齢臭は、青年期にみられる汗臭や腋臭とはおそらく臭気を異にし、加齢に伴って身体部位から放出されるにおい」と分別したうえで、「加齢臭対象世代の男性被験者着用肌着の抽出物からミリスチン酸、ペンタデカン酸、パルミチン酸、パルミトオレイン酸(シス-9-ヘキサデセン酸)、ステアリン酸、オレイン酸などの高級脂肪酸が同定され」た一方で、実験では「腋臭の特定成分である3M2Hや汗臭に関わる酢酸、イソ吉草酸などの低級脂肪酸が検出されなかった」ことから、「遊離高級脂肪酸やトリグリセライド、スクワレン、コレステロール及びコレステロールエステルなどで構成される皮脂腺分泌物が加齢臭に深く関与」し、その発生は皮脂成分である不飽和脂肪酸、特にパルミトオレイン酸が酸化され、その酸化生成物が分解して放出されるにおいであると同時に加齢臭の特有成分はオクテナール、ノナネールではないかと示唆した。{ 深野清仁「<総説特集Ⅰ>体臭1」日本味と匂学会誌 7 (1), 3-10, 2000 }。
ノナネールは一般的には古い油、ろうそく、古い本、枯草、青臭いチーズ、古くなったポマードのような臭いがするといわれている。また麦酒や胡瓜、蕎麦にも少量含まれている。
(注5) 体臭を抑制する一般的な方法として、1)汗の分泌を抑制する塩化アルミニウム、アルミニウムハイドロキシクロライドなどの制汗剤、2)トリクロサン、塩化ベンザルコニウムなどの汗臭に関係する皮膚微生物の増殖を抑える殺菌剤、3)ビタミンEなどの皮脂の酸化を抑制する抗酸化剤、4)酸化亜鉛、酸化マグネシウムなどの化学反応を利用した消臭剤、5)香りによるマスキング等の利用がある。(深野:前出8)
篠原一之らは体臭を介したヒトのコミュニケーションについての論文で、体臭が性別、親子、同胞等の異なる生物学的カテゴリーを識別する際に役割を果たしており、性行動、生殖生理にも影響を及ぼす、としている。女性よりも男性の皮脂から分泌される5α-androstenoneの濃度が異なるスプレーを歯科の待合室の椅子に噴霧し、何人のヒトがその椅子を利用したかを記録したカーク・スミスとブースの実験を紹介している。合計で840人を観察したところ、低濃度の5α-androstenoneをスプレーした椅子を利用する女性が有意に多く、高濃度の5α-androstenoneをスプレーした椅子を利用する男性が有意に少なかったという。{篠原一之、諸伏雅代、舩橋利也、美津島大、貴巴富久子「ヒトにおける体臭を介したコミュニケーション」総説特集Ⅰ 体臭2 日本味と匂学会誌 7 (1), 11, 2000 }
深野は以下のように危惧している。「植物、動物さらに昆虫をはじめとして、ヒトにおいてもこのような匂いによって様々な生理学的に重要な情報を伝達しあっている。(中略)においを殺菌剤や消臭剤などで完全に消したりするような過度な清潔指向はヒトとヒトとの匂いによるケミカルコミュニケーションを妨げるのではないだろうか」(深野、前出8)
(注6) A・S・バーウィッチは自著でレイチェル・ハーツとジュリア・フォン・クレフがおこなった実験の論文{Rachel S. Hertz, Julia von Clef ”The Influence of Verbal Labeling on the Perception of Odors: Evidence for Olfactory Illusions?”Perception 30, no.3, :381-391, 2001 }を紹介している。同じ気体や固体を入れた二つの容器に、異なるラベルを貼りつけ、それらのにおいに対する被験者の反応を検証する実験である。五種類の容器のペアが用意された。示された「におい」とそれぞれの『ラベル』は次のようなものだった。「パチョリ」=『かび臭い地下室』と『お香』、「パイン油」=『消毒スプレー』と『クリスマスツリー』、「メントール」=『ブレスミント』と『肺の薬』、「バイオレットリーフ」=『新鮮なきゅうり』と『白カビ』、そして「酪酸と吉草酸の混合物」=『嘔吐物』と『パルメザンチーズ』。被験者の反応は明確だった。大部分(八三パーセント)が、そのラベルの効用通り、二つの匂いはちがうと信じた。さらに被験者は一貫して、ついているラベルを快か不快かどちらと思うかによって、同じ匂いに逆の効果をしていた。これを受けてバーウィッチは「嗅覚はほかの感覚と比べて、近くのばらつきが大きい。同じにおいでも、知覚する人にさまざまな意味をもちうるし、同じ人でも意味が変わることもある」と論じた。{A.S.Barwich: ”SMELLSOPHY: What the Nose Tells the mind 283-286, 2020 「においが心を動かす ヒトは嗅覚の動物である」太田直子・訳 河出書房新社 2021年}
またアラン・ホールシイは、ハーツとフォン・クレフの手法を用いて同種の実験を行い、「オクテナールとノネナールの混合物に微量のバニラエッセンスを投入した気化物」を入れた二つの容器に『アロマキャンドル』と『加齢臭』という異なるラベルを貼り、被験者の反応を観察した。結果は九六パーセントの被験者が二つの匂いはちがうと信じこ
み、さらに、ラベルの効用通りの快・不快を示した。{Dr. Allen Halsey : “Deception of Aging Odor” Miskatonic University Press, 123-128, 2022}
【終わり】