試した心算などなかった
私、イシドルはこの国の次期王太子だ。次期なのは現在の国王は私のお祖父さまで、お父さまが現王太子だからだ。
お父さまの下には三人の王子(いずれ臣下に下るはずだ)がいる。王位継承権は私よりも低い。私の下にも弟が二人いる。叔父たちにも子供がいるから、従弟たちも王位継承権を持っていて、王位継承権持ちは十人を超えているそうだ。それを高位貴族たちは何かあっても安泰だと喜んでいるらしい。
何かとは一体何があるというのか。疫病や戦争か?
お父さまと私がいるから何の問題もないのに。次代のお父様とその跡を継ぐ私がいれば十分じゃないか。
そんな私には次期王太子にふさわしい婚約者がいる。お父さまの再従兄にあたる公爵の長女でセラフィマという。
セラフィマとは物心ついた時には既に婚約していた。初めて会ったのは子供の社交が始まる五歳のころだったと思う。私は王子教育が始まったばかりで、これまでのように自由に遊べなくなっていた。そこに遊び相手が来たと思って嬉しかった。
けれど、私の前で挨拶をしたセラフィマはいかにも高位貴族令嬢らしいツンとすました娘だった。後から聞いたことだが、既にこの時点でセラフィマは公爵令嬢としての淑女教育の初等レベルを終えていたらしい。
尤もツンと澄ました公爵令嬢は大人の目がなくなると途端にモジモジとしはじめ、私を不安そうに見つめた。
「わたくしとでんかはこんやくしゃだとうかがいました。でんかはおいやではないですか? わたくしがでんかのおよめさんになってもいいですか?」
幼子ゆえのたどたどしさが残る口調でセラフィマはそう言った。じっと私を見つめる大きな蒼玉の瞳に心がドキリと跳ねた気がした。
「うん、おかあさまからセラフィマはぼくのおよめさんだときいたよ。だからなかよくしようね」
私はお母さまに言われたようにセラフィマに仲良くしようと告げた。私の言葉を聞いたセラフィマは元気に『はい』と返事をし、華が開くように愛らしい笑顔を見せた。思えばこの時に私はセラフィマに恋したのだと思う。
それからは週に一度、セラフィマは父公爵(正確にはそのころはまだ公爵はセラフィマの祖父で、父親は伯爵だったが)に連れられて私との交流を持った。二人きりになるまで(侍女や侍従、護衛もいるから厳密には二人きりではないけれど)はセラフィマは初対面のときのように幼いながらも完璧な淑女の仮面を被っていたが、二人きりになると年相応のくるくると変わる表情を隠さず、声を立てて笑ったり、私の悪戯に驚いたり、私の揶揄いに泣いたりもした。
そんなセラフィマにつられるように私も声を出して笑い、泣き、怒り、感情を隠すことなく自然体でいられた。王子教育が始まってから表に出すことのなくなっていた感情がちゃんとまだ残っているのだと、幼心に漠然と理解した。
セラフィマが十歳になったのを機に、彼女の王子妃教育が始まった。将来の王太子妃とはいえ、まだお母さまが王太子妃だから、セラフィマの王太子妃教育は私が正式に立太子して結婚してからだという。セラフィマは優秀だから、王子妃教育はゆっくりとしたスケジュールで進められたらしい。その分、将来の王太子妃・王妃として同年代の令嬢たちを掌握するための社交が本格的に始まったと聞いた。
私の王子教育は叱責されることも多く、不満と鬱憤が溜まっていた。賢王と名高いお祖父さまの私への要求レベルは高くて、お父さまですら私と同じ年ごろには何度も涙を呑んだと聞く。
そのころからか、ひそかに王宮内で私とセラフィマを較べるような風聞が漏れ聞こえてきた。セラフィマはとても優秀だから、私が王になってもセラフィマが十分に支えてくれるだろうから安心だと。
自分がお祖父さまの期待に十分に応えられていない自覚のあった私は、それを私への非難と受け取った。お父さまもお母さまも私は十分によくやっている、幼いのにお祖父さまの要求レベルが高すぎる、十分にそれに応えようと努力をしていると私を認めてくれた。
「皆、責任がないから好き勝手申すのですわ。殿下はとっても頑張ってらっしゃるわ! わたくし、努力を怠らず、弱音を吐かず、頑張っていらっしゃる殿下が大好きです! こんな素敵な殿下の婚約者でいられることがとっても幸せです」
「わたくしは社交をするから目立ってしまうだけですわ。その社交だって、母や妃殿下のご助力があるからこそのもの。妃殿下はお優しいから褒めてくださいますけれど、母からは遠慮の欠片もなくダメ出しされますの。ダメ出しされているうちはまだ期待されていると思って奮起しておりますけれど」
私とのお茶会でセラフィマはそんな話をした。私はよくやってる、頑張っている、そんな私の婚約者であることが幸せで、私のことを大好きだという。セラフィマは社交の場に出る時とは全く違う表情を私にだけ見せてくれる。まぁ、家族にも見せてはいるのだろうが。
そして、セラフィマはことあるごとに私に好きだ、お慕いしていると伝えてくる。決して政略だけで繋がっている関係ではないのだと。
セラフィマがそう伝えてくれていた言葉は私に安心感を齎し、そしてやがて、それは慢心、驕りへと変化していったのだ。
十五歳になると私もセラフィマも王立翰林院へと入学した。この学院は国内の王侯貴族が貴族としての社交の実践を学ぶ場として設けられている。学問も学びはするものの、高位貴族であれば既に入学前に家庭教師によって学んでいる内容だ。特にこの学院では中央貴族と地方貴族の交流も盛んとなる。
そこで私は一人の少女に出会った。アデリーナという地方貴族の娘だ。
王立翰林院では普段接することにない地方貴族の子女とも交流を持つことができる。常に穏やかな笑みを浮かべ感情を表に出さない中央貴族と違って、地方貴族の子は表情や感情の制御が甘い。それは地方貴族は中央貴族の代官に過ぎず、王家にとっては陪臣となるからこそのことだろう。中央貴族ほど政争に明け暮れてはいないのだ。どこかのんびりしているとも見える。
そんな地方貴族は最高位でも伯爵で、中央貴族の伯爵家と比べると格が落ちる。殆どは子爵家か男爵家になる。だからか、伯爵令嬢のアデリーナは地元ではお姫様扱いされていたようだ。
しかし、王都では下位貴族扱いされる。中央の伯爵家は国王の直臣であり上位貴族だが、地方の伯爵家は中央貴族の家臣(国王にとっては陪臣)であるがゆえに下位貴族なのだ。それをアデリーナは理解していなかったようだ。
伯爵家なら王家にも嫁げると思ったのか、アデリーナは私に近づいてきた。王族に嫁げる伯爵家は飽くまでも直臣の中央貴族なのだがそれを理解していないようだった。
それまでも私の側室や愛妾の座を狙うかのような令嬢はいた。私に近づく令嬢はセラフィマが未来の正妃として管理していた。王族──将来の国王に侍る者として相応しいか否かを探り、相応しくない者は排除していた。
「もう、少しは殿下も気を付けてくださいませ! 側室を持つなとは申せませんけれど、誰彼構わずでは困りますわ」
可愛らしくプリプリと怒りながら言うセラフィマ。けれど、セラフィマが私の周りの女たちを排除しようとするのは嫉妬からではなく、役目だから。王族としての役目を理解しない者や、野心のある者、分を弁えず贅沢を望む者、そういった女やその親を排除するのはお母さまから命じられた役目だからだった。
相変わらずセラフィマは私への想いを口にしてくれてはいたけれど、どこか薄っぺらく感じた。だって、セラフィマはアデリーナと違って、エスコート以上の接触を許してはくれない。婚約して十数年が経つというのに幼いころの頬への口づけ以上のことは許してくれない。
アデリーナは私に抱き着いて好きだと言う。私の腕に自分の腕を絡ませ、胸を押し付けてくる。好きならば触れたいと思うものだろう。私だってセラフィマに触れたいのに、セラフィマはそれを許してくれない。
ある時、アデリーナが私に泣いて訴えた。セラフィマに虐められたと。詳しく聞けば婚約者ではない男女がエスコートでもないのに触れ合うのは如何なものかと注意を受けたという。地方貴族は知らないが、中央貴族にしてみれば当たり前のことだから、ごく当然のことを注意しただけだとしか感じなかった。
けれど、アデリーナの言葉で私の意識は変わった。
「あたくしがドル様の寵愛を受けてるから、嫉妬したんだわ、きっと。だから、あんな酷いことを言うのよ」
嫉妬したのだろうか? 嫉妬してくれたのだろうか? これまで私に侍ろうとした令嬢たちはアデリーナのような身体的接触はしてこなかった。けれど、アデリーナは明らかに距離が近い。だから、セラフィマはこれまでと違って嫉妬したのかもしれない。だから、これまでのように注意をしつつも、きっと言葉や表情がきつくなったに違いない。アデリーナが虐められたと思うほどに。
それが嬉しかった。嫉妬されるほど愛されているのだと実感した。もっと、もっと、嫉妬してくれ、アデリーナを虐げてくれ。それが私への愛の強さなのだ。
アデリーナから聞くセラフィマの嫌がらせはどんどん苛烈になっていった。それを聞いて私は嬉しくて堪らなかった。それこそがセラフィマの私への恋慕の強さなのだと感じた。
しかし、セラフィマが私にその苛烈さを見せることはなかった。私にはただ少し困ったような表情で『もう少しお立場を考えて、場所を選んでくださいませ』と言うだけ。時折『側室として召すおつもりならばそのように手配いたしますが』と私の意向を尋ねてくる。
だから、私はそのたびに『そんな手配は不要だ』と告げた。アデリーナを側室にするつもりはないと。
私の妻はセラフィマ一人だけだ。他に欲しい女などいない。もしセラフィマに子が出来なかったとしても、弟の誰かが王位につけばいい。私は王兄としてセラフィマとともに弟王を支えればいい。
あの頃の私はきっと頭に花が咲いていたのだろう。そんな愚かなことを考えていた。セラフィマがどう感じているか、傷ついているかなど想像もしていなかったのだ。
だからこそ、あんなことを仕出かしてしまったのだ。
定例の茶会で私が婚約解消を告げたとき、当然私は本当にそうするつもりなどなかった。けれど、不安だったのだ。アデリーナからセラフィマのいじめが減ったと聞いて。アデリーナを認めるような発言をしていると聞いて。
だから、婚約解消を告げればセラフィマは取り乱すと思った。縋り付いてくれると思った。
なのに、セラフィマは婚約解消を受け入れた。あっさりと私を捨てた。
アデリーナの言うように、本当は私のことなど愛していなかったのだろう。でなければ、あんなにもあっさりと受け入れるはずがない。
祖父王も両親もセラフィマを気に入っていたから、セラフィマが婚約解消を受け入れても、本当に解消されるとは思っていなかった。公爵だって娘が将来の王妃になることを望んでいるはずだ。そう思っていた。
けれど、公爵は私から婚約解消の申し出がありそれを受け入れたいとお祖父さまに奏上し、お祖父さまはそれをあっさりと受け入れた。いくら私が抗議してもお祖父さまは聞いてはくれなかった。そのうえ私は王位継承権を最下位に落とされた。叔父たちの子よりも下位の存在になったのだ。王太子の第一王子なのに。
私はセラフィマを愛している。だから、同じようにセラフィマにも私を愛してほしかった。いや、私以上に深く強く私を愛してほしかった。それを示してほしかった。婚約解消を告げられて取り乱して泣いて縋ってほしかった。私を愛していると全身全霊で示してほしかっただけなんだ。
愛を示してほしい。そう思っただけなのに。
今の私は、辺境の田舎の陪臣伯爵家の入り婿だ。王籍は抹消された。
どうしてこんなことになったのだろう。
ただ、セラフィマに泣いて縋って愛を示してほしかっただけなのに。