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黒髪の女王様  作者: 三角
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第九話 招待のこと。









「――あぁ、騎士様、どうかお聞きください。何故貴方が、ここに……?」



 悲哀滴るような情感豊かな美声が、劇場中の人々の鼓膜を震わせ、心を揺さぶる。


 玲瓏たる響きはそれ自体が一つの楽器の様で、時に低く、時に高く、一声一声毎に観客を物語の世界へと引き込んで行く。



「言うまでもなく、姫。貴女を迎えに」



 応ずるのは豊かなバリトン。彫りの深い顔、充実した長躯を中世風の衣装で彩り、剣を捧げ持ち声高に叫ぶ。



 劇場の限られた舞台の上では今、煌びやかな剣と愛の饗宴、結ばれ得ぬ悲恋の物語が無限に広がっているのである。


 漣の如く、波濤の如くボリュームと迫力を変じる重厚な音楽。


 華やかな衣装、役者陣の化粧や生き生きとした鮮やかな表情。豪華な舞台装置。



 何よりも素晴らしいのは、演技だ。


 特に舞台の中央、憂いを帯びた表情で立ち尽くす撫子は圧巻の演技力である。


 メインヒロインを演じていることもあるだろう、しかしそんなことすら霞んでしまいそうな圧倒的な存在感。


 彼女が演じるならば、如何なる端役も主演より輝く、と批評家に言わしめるのも頷かざるをえない。


 表情の一つ一つ、声の強弱の具合やちょっとした視線の振り方まで、彼女の持つ全てに観客の目を惹く華がある。


 実力派で有名な役者陣の中に居てなお、頭一つ簡単に抜きんでてしまう、それだけ隔絶した魅力を、彼女は持っているのだ。



 観客達は今や、物語の外側から無遠慮にストーリーを眺めるだけに留まらず、五感のいくつかを駆使して、どっぷりとこの幻想の世界に入り込んでいた。


 舗装されていない荒野に吹きすさぶ砂塵の煙。愛しの姫を奪い取る為、無謀にも戦いを挑んだ騎士の鬨の声。


 感受性と想像力豊かな者ならば、すぐ傍を駆け抜ける駿馬の嘶きすら感じ取れているかもしれない。



 それ程までに見る者を捕えて離さない演技力。役に入り込んだ撫子は、か細く、朗々と、御転婆に、そして清楚に台詞を謳い上げている。


 舞台の上に立つ彼女は、正に女王の名に相応しい。





 全三幕、合わせて二時間半程の演劇、その終幕の一シーンである。
















 招待のこと。

















「ほあぁぁ……」



 間抜けな声が喉から漏れる。


 ぽかんと口を開けて目を見開き、おのぼりさんの風体で奇声を上げる柔の隣を、微笑みながら如何にもセレブな人たちが通り過ぎて行く。


 右を見る。



「あぁ君、私の席はどこかね?」



「チケットを確認してもよろしいですか? ――どうぞ、こちらへ。ご案内致します」



 タキシード。蝶ネクタイに立襟のシャツ。目に入るのは殆どがきちんと正装をした紳士諸君だ。


 左を見る。



「ま! お久しぶりざぁます。私今回の舞台はとても楽しみに……」



 ドレス。ショールに手袋、その他名前も分からない様々なアクセサリー。見渡す限りの女性陣はそれぞれ華やかに着飾っている。


 柔は窮屈な首元に閉口しつつ下を見る。


 生まれて初めて着る、黒の無難なタキシードだ。


 柔らかぽややんな柔の体型にしっかりとフィットするのは立襟の白シャツとカマーバンド、ボウタイがしっかりと柔の体を締め付けている。


 そして、上等な布地のスラックスの先にはピカピカに磨き上げられた皮靴が光っている。



 前を見る。


 巨大な赤の絞り緞帳がその視界の殆どを埋め尽くしている。隠された舞台の前には座席・座席・座席。


 一般席から特別席まで、全三層構造・馬蹄型の客席だ。数百人を優に収容できる豪奢な造りも煌びやかなここは、劇場である。



 あらゆる角度から、物凄い場違い感がひしひしを越えてびしびしと柔に伝わってくる。


 カメラを抱えた報道関係者らしき姿や、テレビで見かけたことのある俳優やタレント、各界著名人、スポーツ選手等々。


 視線を振ればそんな人達にブチ当たるのだ。ただの一般人に過ぎない柔は、結構この場で浮いていた。


 そんな柔に気配もなく歩み寄った係員が恭しく話しかける。



「お客様……チケットを拝見させて頂いてもよろしいでしょうか」



「あ、え、はい」



 どもりながらも、柔はサテン地のタキシードのポケットからカードを取り出し、渡す。


 柔には知る由もないが、柔が何気なく差し出したカードはこの催しの主催者が数名分だけ特別に発行した特別品である。


 このカードを提示すれば例外なく特別席での観覧・舞台裏の控え室への案内を行うようにとお達しが出ているのだ。


 受け取った係員は、僅かに顔を引きつらせながらも、恭しく頭を下げて笑顔で柔を振り仰いだ。



「……これは、いえ、有難うございます。どうぞこちらへ」



「はぁ」



 促されるままに係員に着いて歩き、「関係者以外立ち入り禁止」と打たれた控え目なドアを潜る。


 柔を迎えるのは、硬質な蛍光灯の光だ。


 表の華やかさとは裏腹に、意外と質素な通路を会話もなく歩みながら、柔はここに居る経緯を思い出していた。









「い、いん、いんう゛ぃ……?」



 時は夏の盛り、場所は自宅。


 手に持ったカードを難しげな顔で眺めつつ、柔はうむむと唸る。


 Invitation card


 高級然とした黒地の紙に金色の文字で印字されている。カードは分かる。かろうじて分かる。


 だがしかし、英語がお世辞にも得意とは言えない柔は、余り見覚えのない英単語に首を捻った。


 もう片方の手にある封筒に目を移す。



 差出人の所には、丁寧な字で「三丈撫子」と書いてある。


 中には造りの凝った一枚のカードと地図の描かれた紙切れのみ。


 高校英語から離れて久しい今、英語が今一つ読めない柔は、バイトから帰って来た自宅の玄関先で途方に暮れていた。



「ぬぬ……いん、う゛ぃ……」



 柔は、早々に英語を思い出すことを諦めた。


 床に直接座り込み、カードを裏返す。そこには近々発表されると期待されていた、とある舞台作品の名前がゴールドの文字で躍っている。


 とある、というのは撫子が主演として出演する劇のことである。


 気鋭の脚本家の手による自信作とのこともあって、前評判は十分。


 しかもそれに加えて、先行上映まで一切の情報を秘匿するという徹底した秘密主義が話題を呼んでいる。


 分っているのは出演する俳優陣と脚本家の名前、はっきりしないストーリーの概要だけだ。



 しかし、そんなことは柔には関係ない、筈だった。


 一般席の値段だけでも軽く五桁に達する様なプレミアチケットを手に入れる気には、到底なれなかったのだ。


 そもそもチケットは販売と同時に全て売り切れで、市場に全くと言って良い程流通していない。


 全世界的なファンクラブの中から抽選で選ばれた者や、招待された各界の著名人たちで席が埋まってしまうのだ。


 その人気は、流石は大女優といった所である。



「にしても……」



 頭を振って考えを一度リセットする。


 カードに書かれているのは演目の名前と日付・柔のフルネームのみである。であるならば、もう一方の紙切れに何か詳しいことが書いてあるだろう。


 封筒を逆さまにし、滑り落ちてきた紙切れを手に取る。果たしてそこには、柔の疑問に答えてくれる言葉が手書きされていた。



「何々……『これは招待状ですの。六日後の金曜日の夕方過ぎから撫子の出る舞台が始まりますので、地図の場所まで柔もお出でなさい?』……」



 狭い部屋の中に沈黙が満ちる。ええと、と前置きをして顔を上げ、考える。


 がばっ! と視線を紙切れに戻した。



「ええ!?」



 撫子が書いたのだろうか、走り書きなのに酷く女性的で綺麗な字だ。


 いやいやそんなことが問題なのではなくて、と柔は頭を強く振った。


 繰り返し慎重に文字を追う。何度確認しても、内容は変わらなかった。


 詳細な日付とタイムスケジュール、劇場の地図に誘いの言葉。



 世界的名女優の、新作舞台の先行上映会に招待される。言うまでもなく、前代未聞の珍事である。


 妙な所で生真面目な部分のある柔は、この舞台に興味を持っていながらも、撫子や桔梗にチケットを融通してくれるよう頼むと言う考えを起こしたことがない。


 当然嬉しい。嬉しいが、良いのだろうか。幸い、劇場は柔の住んでいる場所からそんなに遠くない。



 道も多分分かる。しかし、どうして良いやら。


 マスコミ関係者が押し寄せる事が予想に難くないし、タイムスケジュールでは上演の後劇場近くの会場で軽いパーティーが行われるとある。


 ……パーティー! 柔にとって全く未知の世界の話である。柔は、マナーも知らなければ普通のスーツすら持っていない。


 何を着て行くのが非礼にならないのか。というか、手持ちの服では何を着て行っても失礼になること請け合いだ。



 いっそ、上演が終わったら直ぐにでも帰って良いものなのか?



 そんなことを考えながら、兎にも角にもバイトのスケジュールを確認する。



「六日後、六日……コンビニは昼過ぎまでだし、特に何も無し……」



 携帯のスケジュール帳にはさしたる予定は無い。思い出せる限りでもその日には何もない。


 せいぜいが、バイトの後本屋に寄ってみるかとか、そういった程度の物だ。


 柔は、すぐにこの先行上映会に行くことを決めた。


 というか、バイトが入っていたとしても何とか代わって貰うつもりだったので、手間が省けて良いことである。


 おいでという女王様のお達しを蹴って、「行けません」などと言う度胸は柔には無い。


 ふと音を捉えて顔を上げる。



「……はいー、今出ます」



 カードを右手に紙切れを左手に。ぼやぼやと愚にもつかないことを考えていた柔の思考を、来客を知らせるブザーが遮ったのだ。


 ひとまずテーブルの上に持っているものを置き、はいはいと呟きながら玄関を開けた。



「はいー、どちらさ、ま……」



「んっちゃーす! 黒獅子和州の宅配便でっすぁー!!」



「…………」



「ちゃっす!」



「ちゃす……」



「ハンコお願いしやっす!」



「は、はい」



 濃い。柔の前に居るのはネグロイドの方々にも劣らぬ黒肌を汗で照からせて、無闇に白い歯をキラッ☆と光らせる男臭い笑みの持ち主であった。


 全国的に有名な宅配業者の制服を着て、大きめの荷物を抱えている。重くはないのだろうか、と心配になった。


 いや、捲られた袖からはみ出す血管浮き立つ上腕二頭筋がピクピク蠢いている所を見ると、どうやら平気そうだ。


 全く嬉しくないサービス精神でくつろいだ胸元から大胸筋の谷間がチラリズム。


 足や肩はちゃんと衣服に隠れているが、如何にも張りつめているその肉体はマッスルボディー。


 まぎれもない男性である。一部の筋肉が萌えーなコアな方々には大人気だろう。小太りの柔とは対極の体型である。



「はんこ、はんこと」



 呟きながら一度部屋に戻り、取って返す。つつがなく終始笑顔の宅配員とのやりとりを終え柔の手に渡った包みを、柔は部屋の中央に置いた。


 差出人を見る。



「……」



 紛れもなく、封筒に記載されていた物と同じ。撫子である。柔は首を傾げながらも丁寧に包みを開き、中を見ることにした。


 果たして、そこには、



「たきしーど……」



 が入っていたのだ。黒のシンプルなタキシードと上品な感じを受けるシャツ、ボウタイ、カマーバンドにカフスボタン、チーフ。


 正装の一通りが揃っている。一番下に納められていたB5サイズの用紙を取りあげて、柔は真丸に目を見開いた。


 先程も見た撫子の流麗な文字が、そこにも躍っている。


 箇条書きでいくつかの文章が書いてあった。要約すればこうだ。



 ・この一式は個人的なプレゼントなので、しのごの言わず受け取ること。

 ・先行上映の時にはこのタキシードを着てくること。

 ・着方や最低限のマナーなど。



「いいのかな……た、高そう」



 実際高いのだが、それは柔には知る由もない。


 兎に角、これで当日の衣装は何とかなりそうだ、と柔はほっと胸を撫で下ろした。


 じっくりと撫子からのメモに目を通して、にんまりと笑う。早速、体を丸めてお礼の為のメールをぽちぽちと打ち始めた。







 そんなわけで、柔は戸惑いながらも今まで縁の無かった劇場内を歩いているのである。


 余談であるが、ボウタイが上手く結べなかったり、髪のセットに戸惑ったりと、柔はかなりの時間を準備に費やした。


 もしも撫子からのメッセージに、細かく分り易く手順が書いてなければ、マトモにタキシードを着て居ない状態でここに立っていたに違いない。



「こちらです。中へどうぞ」



「あ、……はい。どうも、有難うございます」



 少し前のことを振り返っている内に、どうやら目的地に着いてしまったようだ。


 控え室とプレートの掛かった扉の前で恭しく頭を下げ、すたすたと去っていく係員のお兄さんに、柔は安堵と不安を等分に覚えた。


 初対面の相手と居るのは余り心地の良い物ではないが、勝手が分からない場所に一人取り残されるのも辛い。


 数十秒程躊躇ってから、柔はノックをする為に腕を上げた。


 コン、というよりガツ! と思ったより強めに叩いてしまって、もう少し控え目にすべきかと表情を崩した柔の前で、扉が勝手に開かれる。


 ひょい、と見知った顔が現れた。



「はい、何の御用でしょう……ああ、前田・柔、貴方でしたか。入って下さい」



「あ、え」



「何を呆けているんですか? この小太り」



「え!」



「何か?」



「い、いいえ」



 ちょっと間の抜けたやりとりを交わしながら、柔は恐る恐る室内に足を踏み入れる。


 きょろきょろと視線を彷徨わせながら扉を閉めると、改めて室内に目を向けた。


 大きな鏡に、電気ポットやお菓子が並べられたテーブルと椅子。メイク道具やアクセサリー、劇用のだろうか、華やかな衣装も吊られている。


 だが一番目を引くのは、間違いなく撫子の姿である。吸い寄せられるようにそこに視線が向かう。



「あら、柔ですの。こうして会うのはちょっとだけお久しぶりですのね?」



 席を立って歩み寄る撫子が纏うのは、先日柔を悩殺した赤のミニドレスである。


 ただし、この前とは違い、撫子は最上級のメイクを施した状態で、更に複雑な形に長い髪を結い上げている。


 夜会巻きをベースにしていて、綺麗に捲かれた黒髪を留めるパールの髪留めが良く映えているのが華やかである。


 晒された項はほっそりとしていてしとやかな色気を孕んでおり、何よりその瞳が静かに燃えている。


 柔には分からない感情に揺らめく黒曜石の瞳は、普段よりますます深みを増して輝いており、鮮烈な印象を見る者に与えるのだ。


 既に演じる役について考えていたのかもしれない。気合いの入ったメイクも輝かんばかりに撫子の美貌を彩っていて眩しい程である。


 ひゅ、と気圧されて息を呑んだ。


 またしても呼吸困難に陥りそうな錯覚に捉われた柔を救ったのは、当の撫子本人だ。



「じゅーうー?」



「はひゃい!」



 ひらひら、と柔の前で手を振る撫子は、ふむと呟いて柔の体に手を這わせた。


 思わず奇声を上げてしまった柔を余所に、撫子はウエストや腕周りを確認して、一つ頷く。



「サイズは丁度良かった様ですわね。良かった、もし大きすぎたり小さすぎたりしては大変ですから、考えたんですのよ? 一応、撫子が選んだのですけど、まぁ、及第点ですの。ほら、もうちょっと胸を張ってお立ちなさいな」



「ふぁい」



 カチコチに固まった柔の体には、僅かに服を撫でる撫子の指先の感覚がまだ残っていた。上手く呂律が回らない。


 柔は、裾上げを頼むのにもどもってしまう男だ。何せ、真面目な顔をして衣服のサイズを確認するのは女優の撫子なのである。


 別にどうという所を触られた訳でもないのだが、そこはそれ柔のこと、女性に対する免疫がほぼ存在しない男性からすれば卒倒しないだけ快挙であった。



「クイーン、前田・柔が緊張と言葉には出来ない下卑た欲望で硬直しています」



「ちが!」



「へぇ、ふぅん、なるほどぉ、そうですの?」



「違います……」



「ふふ、そういうことにしておいて差し上げましょう。……あら、タイが……」



 ちゃんと結べていないですの、と声を掛けてすっと手を伸ばした撫子が、更に一歩分柔の方へと歩み寄る。


 すぐ目の前にある撫子の顔に、柔は何とも言い難い感動と羞恥を得て黙りこんだ。否、息をすることすら忘れて見入っている。



「はい、出来たですの」



「クイーン、いらっしゃいましたよ」



 ぽん、と柔の胸元を優しく叩いて離れた撫子に、桔梗が声をかける。


 視線が自分から外れたのをチャンスと見て、柔は大きく深呼吸した。頬や首を染める血流を、少しでも下げる為だ。



 カチャリと扉の開く音が響いた。


 音に釣られて振り返る。



「おっすー撫子、久しぶり。おお、今日はまた一段と綺麗だな?」



「ぬは、ぬはははは! 撫子殿! 我の筋肉が恋しくなかったか!?」



「お兄さま! ……と、レティじゃありませんの。ようこそいらっしゃいまし。歓迎致しますですの」



「……主殿ー、撫子が、撫子が、我を除け者に……! かくなる上は我の上腕筋群並びに大胸筋の衝撃を撫子に見せつけるしか……!」



「……何ロンパっちゃってんですかお前? 待て待て何でがっしりと俺の首をホールド……っちょおま゛、首が締まっでるからぁぁぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!」



「はいはい、んもう何をやってらっしゃるんですの?」



 パムパム、と呆れた顔で手を叩く撫子。


 彼女の先にある扉の前には、一組の男女が並んでいる。


 男性の方は目に掛かるか掛からないか位の黒の短髪で、黒目。優しそうな風貌で柔や撫子よりも背が高く、しかし桔梗には及ばない。


 おそらく柔のと同じ位には上等なタキシードを、自然体で着こなしているのはまだ若い男だ。


 タキシードを盛り上げる体は細く見えるが充実していて、鈍重な印象は全く感じさせない。


 撫子程とまでは言えないが、不思議な包容力を感じさせる黒の瞳が、柔を捉えた。


 男はにっと明るい笑みを浮かべながら柔の近くまで歩み寄り、口を開く。



「やぁ、初めまして。俺は三丈太郎、そこの自慢の妹の兄です」



「は、はじ、初めまして。前田柔です」



 慌てて挨拶を返す柔の姿を楽しげに眺めている太郎の首筋に後ろからぶら下がっている女性が、そのやりとりを聞いてぐり、とこちらを向く。


 柔の姿を確認して、ぽてん、と床に降り立った。動きに合わせて、ドレスが揺れる。


 美しいというよりも、可憐という言葉が良く似合う女性であった。


 柔を射抜く大きな瞳は、宝石の如く煌く紺碧の色をしていて、微かに潤み。


 翻る金糸の長髪は細く、柔らかく結われてたなびいている。


 甘やかな桜色に色づく頬はぷくぷくと健康的で、身長は低いのに手足は驚くほど細く、しかし女性らしい丸みをしっかりと帯びている。


 晒された肌は白く肌理細やかで輝かんばかり。ややあどけない顔立ちながらも色気を含んだ甘菓子の様な雰囲気を纏っている。


 瞳の色に合わせたハイウエストのフェミニンな翡翠色のミニドレスは、きゅっと締まったウエストの上で結ぶ大きなリボンが愛らしい。


 小さな体と対照的に、量感豊かに胸元を押し上げる魅惑の双丘を彩るのは、甘さを押さえるレースの刺繍。


 晒された肩や背を守る様にヒラヒラと揺蕩う華奢なラメ入りショールを腕に絡め、清楚なメイクで佇む彼女は、正に物語の中に登場するプリンセス。


 撫子や桔梗とはまたベクトルの違う、美女である。


 そんなお姫様の様な女性は柔を見て、にっこりと満面の笑みを浮かべた。



「ぬは! お主が撫子の言っておった殿方か!? 我はレティシア・フォン・ムキムーキ! 主殿の伴侶にして筋肉界の存亡を両肩に担うれでぃなのだ! ぬはは!」



「……おいレティ」



「どうしたのだ主ど……痛い!」



「いい加減初対面の人間に脊髄反射で脳みそが茹った名前を伝えようとするのをヤメなさいこの子ったらもう!」



「ぬう……! これが、これが人生の試練……!」



「アホの子かお前は! あんましフザケテたら明日飯抜きに」



「ごめんなさいもう二度と致しません私は三丈レティシアです」



「……お前という奴は」



「うふふ、相も変わらずですのね」



 速い。テンポが速い。姿からは想像もつかぬかしましさである。


 ぽかんと口を開き、柔を置き去りにしてぽこぽこ進んでいく会話に圧倒されていると、いつの間にやら隣に並んだ桔梗に肩を叩かれた。


 背の高い桔梗の顔を振り仰いだ所で、彼女もこの前のシックな黒のドレスを纏い、キチンと化粧をしていることに気付く。


 まじまじとその顔を眺めた。



「彼らは、クイーンの兄夫婦です。あの人達は始終あんな感じなので、気にしないで下さい。……どうかしましたか?」



「いえ、桔梗さん、ドレス……」



「……いいでしょう別に。本来なら私はスーツで居る予定だったのに、クイーンがどうしてもと言うから……ど、どこか変ですか?」



「あ、や、き、綺麗だと思います。すっごく。三人とも綺麗で」



「……まぁ良しとしましょう」



 ふん、とそっぽを向いた桔梗を不思議そうに見つめる柔。


 そんな彼らを余所に、三度控室の扉が開く。


 軋みもなくするりと開いた扉から入って来たのは、



「ようお前らー! 俺様来てやったぞー!」



「こら瑠衣! 走るなっつってんでしょうが! また尻百叩くわよ!?」



「うるせぇババァ!」



「あんだとクラァ!」



 活発そうな小さな少年と、上から下までボンボンボン、非常にふくよかな女性である。なんですってー! と叫んでいる。



「……おお」



 ここまでふくよかな女性もまた珍しい。柔はたゆたゆした二重顎にどことなく共感を覚えた。


 ゆさゆさ揺れる脂肪を、露出の低い落ち着いた藍色のエンパイアラインドレスとボレロで包む姿は自信に満ちている。


 さりげなく肩口にあしらわれたコサージュやネックレスも上品で、口の悪い少年に向ける瞳は一見険しく、その実慈愛に満ちているのが分かる。


 しかし、一体誰なのだろう。首を傾げる柔の隣で、すちゃ、と気楽に太郎が片手を上げた。



「お、瑠衣も久美子さんも久しぶりー」



「おう太郎! 久しぶり! レティねーちゃんも! 撫子おばぁも桔梗ねぇちゃんもお久ー!」



「……ええ、今何て言いましたの何て言いましたのこのクソ餓鬼め。ほぅら、もう一回言ってごらんほぅらほぅら!」



「い゛……ぼ、暴力に訴えるのは年を食った証拠だってテレビの名探偵もイタァーーーー!」



「ったく……アンタあんまりお行儀が悪いと明日のご飯はチンジャオロースにピーマンの肉詰めにするわよ!」



「遺憾の意を表明致します」



「子供の癖にどこで覚えるんだか、そんな言葉。許さないわよ。最低四日はピーマン地獄」



「横暴だーーーーーー!」



「……どことなく、レティとお兄さまの遣り取りに似て来ましたのね、久美子さん達」



「……否定出来ないのが辛い所ね。で、そちらの男性はどなたな訳?」



 頬に手を当て、はぁと互いに溜息を落とした撫子と女性は、示し合わせた様に柔の方へと振り返る。


 女性の向ける検分する様な視線に晒されて、う、と柔は一歩後ずさった。



「彼は前田柔と言いまして、今回個人的に招待した友人ですの」



「あぁ、噂には聞いてるわよアンタが」



「余り、滅多なことは仰らないで下さいまし」



「……」



「うふふ」



「……どうも初めまして、私は御堂久美子。こっちの五月蠅いのが瑠衣。不本意ながら息子です。撫子ちゃん達とは昔からの付き合いでね、それで今回呼ばれたって訳なのよね」



「はぁ……」



 移り変わる事態に付いて行けず、生返事を返す柔に向けて撫子の声が飛ぶ。



「んもう、柔、ご挨拶なさい?」



「あ……はい。前田柔と申します。今回はお呼ばれしたのでやって来ました……」



 脊髄反射で簡単な自己紹介をして頭を下げた柔を、いつの間にか太郎とレティシア、久美子が揃って面白そうな表情で見詰めている。


 何だ何だ、と混乱した柔に追い打ちをかける様に、太郎が顎を撫でながらぽつりと零す。



「ふむん、撫子さんや、お相手の調教はお済みの様で……」



「え……」



 続けて、レティシアと久美子が口を開く。



「うむ、中々どうして尻に敷いておるなぁ」



「成程ねぇ」



 何のことか分からず首を傾げる柔を余所に、撫子が頬を染めて片手で宙を切った。



「み……皆さん何を仰ってるんですの!? というかお兄さま何で調教って言葉をっ……ニヤニヤしないで下さいまし!!」



「ふげ! お、おい何で俺だけけけ! ヒールは、ヒールは……!!」



「ふははは! こういうのも久方ぶりだ! 我も参加するぞ!?」



「おーい兄ちゃん」



「ん……何かな? ええと、瑠衣くん」



「あのさ」



 完全に置いてきぼりである。ばたばたと慌ただしく、けれど楽しそうに暴れる撫子達。


 義兄を踏みつける度に、美麗に過ぎる脚線を晒す撫子の姿からそっと目を逸らす。


 見えそうで見えないミニドレスは魅力的だが、万が一そういうものが目に入ってしまったら、柔はおそらく気絶する。柔にしては、賢明な判断だった。


 そんな柔の袖をぐいぐいと引っ張る瑠衣少年は、幼い顔立ちに疑問符を浮かべている。


 視線を合わせる為に屈みこんだ柔を真剣な顔で覗き込んだ瑠衣は、ぼそりとこう呟いた。



「ちょーきょーって、なんだ……?」



「え!」



 思わぬ質問の内容に、柔は声を上げて硬直する。


 それを見て何を思ったのか、たたみ掛ける様に少年は言葉を投げかける。



「だから、ちょうきょうって、何だ……?」



「え、ええと、ええ……」



 だらだらと米噛みを汗が落ちて行く。小学生位の男の子に、まさか調教という言葉の意味を教えることが出来よう筈もなく、柔は焦っていた。


 一体、どうやって誤魔化せばいいのだ?



「瑠衣くん」



「お、何だ何だ、桔梗ねぇちゃん」



「あちらに美味しいお菓子があるのですが、良かったらお姉さんと一緒に食べませんか?」



「行く!」



 正に誤魔化し。単純過ぎる甘言で、あっさりと浮かべていた疑問符を投げ捨て、桔梗の手を握ってはしゃぐ少年の姿に、柔はほっと息を吐いた。


 こつりと頭を叩かれて、顔を上げる。


 片目を瞑り、貸しですよ、と声なく呟いた桔梗が少年を連れてテーブルの方へと歩いて行くのが目に入った。


 無言で頭を下げる。



 初対面の人が多いこの場所に居るのは、人一倍、いや二倍は人見知りのある柔にとっては穏やかならないことだった。


 なので、そっと撫子に目くばせをして、柔は盛り上がっている太郎達一行の横を通り抜けた。


 彼らが良い人なのは何となく分かる。


 分かるが、やっぱり初対面の人に囲まれて話題に華咲かせる様な器用な真似は、柔の得意とする所では無いのだ。



 それに、このまま無言でここに居るのも忍びない。


 こっそりと忍び足で歩き、扉を出る。


 トイレにでも行こう、と柔は思い立った。どうせ公演が始まれば席を立つことはないのだし、丁度良い。


 丁寧にも設置されていた案内板を頼りに、トイレを目指す。


 果たしてすぐ近くにあったトイレで用を済まし、控室を目標にとぼとぼと歩く。


 どうすれば緊張せずに面識の余りない人と歓談できるのか、ぼんやりと考える柔の耳に、硬質な足音が届いた。


 足音が唐突に柔の全歩で止まるのを聞き、いつの間にか俯けていた視線を正面に戻す。


 そこには、気さくな笑顔を浮かべる太郎が一人、立っていた。



「や、柔くん。待っておくんなまし!」



「え……」



 ズビシ! 右手は頭の後ろ、左手は真っ直ぐ柔に。笑顔のまま素早い動きで仰け反りポーズをキメて見せた太郎の姿に、唖然とする柔。


 そんな柔の反応を悲しげに見やってから、太郎は元の姿勢へと戻った。



「……滑るって、こういうのを言うんだね」



「ご、ごめんなさい」



「いやいや、良いんだ良いんだ。気にしないでくれ。――ちょっと話でもしないか?」



 太郎は咄嗟に謝った柔に掌を向け、その手をすっと通路奥の方向に向ける。


 釣られて視線をそちらに動かしながら、ぼやぼやと柔は返事をした。



「あ、はい」








「はい、コーヒーでいいかな」



「あ、はい。ありがとうございます」



 休憩用のスペースなのだろうか。


 通路と通路の合間には、自販機と観葉植物、ゴミ箱と小さなベンチがぽつねんと置いてあるだけの開けた場所があった。人気は無い。


 手渡された冷たいコーヒーの缶を手の中で転がしながら、柔はちらっと太郎の方を見る。


 隣に腰掛け、憂いを帯びた横顔だけを覗かせる太郎は、今まで柔が出会ったことのあるどんな人とも違う雰囲気を持っている。


 悲しいのか、嬉しいのか、怒っているのか。柔と言う存在をわざわざ呼びとめて話をする動機は一体、何なのだろうか。


 撫子の兄だと言う男性は、缶コーヒーのプルタブを起こし、ぐいっと一口呷ってからゆっくり口を開く。



「君のことは撫子から聞いたことがあるよ。友達だってねぇ、撫子とは上手くやれてる? あれで、実は物凄く選り好みの激しい娘だから」



「はぁ、いえ、はい。多分、それなりには……」



 しどろもどろに言葉を紡ぐ柔を見た太郎は、その瞳に悪戯っぽい光を浮かべた。


 ニヤニヤと口許を崩しながら、再度口を開く。



「ほほう、じゃあ、撫子のことは好きかい?」



「ぅえ……」



 爆弾発言である。


 質問の内容を理解すると同時に頭が真白になった柔は、あえ、あう、と可愛くない声を上げて頬を引きつらせた。


 好意はある。当然、楽しんで友人関係を持っている以上、好意はあるのだ。しかし、好きかと問われれば何とも答えられないのが実情だった。


 怖れ多いし、釣り合わない。というか、マトモに考えたこともない。しかし、漠然と胸を占める好意は、ある。


 要は認めるか認めないかの差に過ぎないのだが、そんな柔の顔を冷静に注視していた太郎は、ふいっと視線を逸らした。


 過去に思いを馳せる様に目を瞑る。



「柔くん」



「あ、はい」



「もしも撫子のことが好きならだけどね……あの子を、幸せにしてやって欲しいな。それも、誰より」



「……」



 太郎の言は、唐突に過ぎた。理解が追いつかず、戸惑いを顔に滲ませる柔に構わずに、太郎は淡々と言葉を紡いでいく。



「心に留めて置いて欲しいんだけどね。人には、言いたくないことや隠しておきたいこと、忘れたくても忘れられないことっていうのが当然ある。君にもあると思うけど、あの子にもそれがあるんだ。外見、お金、社会的地位。一見すると望む全ての物を手に入れていると思われることの多いあの子だけど、中々他人に言えないことを、実は背負ってたりする。だから、あの子を幸せにしたいなら、それを何とか――受け入れるなり打破するなり、出来なきゃいけない」



「……」



「あくまでお節介なんだけどねぇ、今まであの子に言い寄って来た男ってのは――俺が見た限りでは――そこんとこを分かってないようだった。あの子は別に、政界や財界に進出したい訳でも、テレビ映えするキャリアや外見の男を求めてる訳じゃない。ルックスも金も権力も何一つあの子の基準に関係ない。ただ、あの子を幸せに出来る素質を持つ男ならそれでいいのに、どれも何だか、出来の悪い愉快なじゃがいもみたいな男達ばっかで。君は、どうなのかな?」



「ぼ、ぼくは……」



 何か答えなくては。柔はまごつきながら、答えを明確に心の中に得ていないまま、一度口を開きかけた。


 そこで、す、と掌を突き出される。ジェスチャーに従って黙った柔の隣で、太郎はしっかりと目を開け、柔と目を合わせた。



「答えなくても良いんだよ、今はまだね。ただ、俺は君の目を見て、雰囲気を見て、撫子との短い遣り取りを見て、今が初対面だけれど君ならもしかしたら、って思ってるんだよ。君とは長い付き合いが出来そうだって。……まぁ、まだふらふらしている所があるみたいだけど?」



「……ぼくは……あの!」



「おう、どしたい若人よ」



 柔の視線の先にあるのは穏やかな表情だ。優しく包み込む様な無害な雰囲気に背を押され、柔は衝動的に口を開いていた。


 黒の眼差しに優しく促された様な気分になって、考えも纏まらないまま喋り出す。



「好きかどうかは……多分、そうだと思うんです。でも、ぼくは、長い付き合いは出来ません。どうしても」



「何でなのか、聞いてもいいのかね?」



「ぼくは、ぼくの……体は……」



 そうして、柔は今まで桔梗にしか話したことのない事実を、太郎に向けて訥々と話し切った。


 胸の奥底で蠢く言葉では言い表せない感覚が、目の前に居る人物はソレをぶつけるに足る男だと、漠然と訴えていたからである。


 或いはそれは、柔の慟哭なのかもしれなかった。撫子と仲良くなればなるだけ、柔はその関係の『終わり』を意識してしまう。


 施設と家族のことは絶対に譲れない以上、柔に現状は変えられない。


 ただ、撫子との楽しい遣り取りの全てを手放してしまえるほど、柔は孤独に耐性がないのも、確かだった。


 柔の話、その全てを凪いだ海の様な瞳で見詰めていた太郎は、一度頷いて目を瞑る。



「辛いんだろうね」



「……」



 柔には何も言えない。辛いと言えば、涼子達の笑顔の為に積み上げてきた自分の行動を、自分で否定してしまいそうな気がしていた。



「でも、敢えて言わせて貰えば……俺にはそんなこと、関係ないね」



 尤もな話だ。太郎の言葉に、冷水を頭から浴びせ掛けられた様に冷静さを取り戻した柔は、そう思った。


 会ったばかりの男に、こんな話をされても、少なくとも柔にはどうにも出来ない。


 微量の後悔に胸を刺され、視線を落としかけた柔の動きを、太郎の言葉がそっと遮る。



「俺に取って重要なのは、撫子が幸せになれるかどうかだ。仮に君が居なくても、誰か良い人が見つかればいい――何て、言うと思ったかい?」



「え!?」



「君は余命幾許もない、かもしれない。でも自分の体を治すだけの力は持って無い。足掻こうにも譲れないモノがあるから足掻かない。だからいつかは、その内撫子の手の届かない場所に行ってしまう。だから、間違っても自分は撫子には相応しくない、と言う理解でいいかな」



 柔は一度だけ頷いた。


 概ね、間違っていない。それどころか、柔は自分がもしも、どうにもならなくなったら――無言で連絡を止めるつもりでいるのだ。


 優しい撫子達は、不審に思い、怒り、取るに足らない柔のことなどすぐに忘れてくれる筈。そういう公算があった。



「今の話を聞いた以上、少なくとも俺の知る範囲で、君程撫子に相応しい男も居るまいよ。ということで、体を治すにも施設を存続させるのにも、お金が必要なんだろう? なら何で桔梗ちゃんなり撫子なりに頼まないんだ? 言い方は悪いけどあの二人、下手な資産家よりも金持ちだよ」



「それは……考えられません。出来ません」



 力なく首を振る。



「どうして?」



「ぼくは、友人です。少なくとも、今は。ぼくには自由に動く手足がある。自分で考えることの出来る頭もある。なら、他人に頼るんじゃなくて、自分で何とかしたいんです。……もしかしたら、最期には、施設のことを頼むかもしれません、けど……不細工で、運動も勉強も出来なくて、気の利かないぼくにだって――安いプライドが、あるんです」



「なはは」



「?」



「いや失敬。笑ってごめん。それは良い、良い信念だと思う。中々、自分の命を天秤にかけることの出来る男ってのは居ないからね。でも、俺にとっちゃあ、君が撫子の中で幾らかのスペースを占めている内に死んでしまうのは決して看過出来ることじゃあないし、そんな若い二人が結ばれる努力もしないのは気に入らないんだな、これが。これ以上、あの子を悲しませたくはないんでね」



「気に入らないって……!」



 語気も荒く、珍しく柔は立ち上がった。気に入らないの一言では、どうにもならない。ならないから、悩んでいるのだ。


 そんな柔を射抜く黒の瞳は、言葉の軽さに反比例して全くと言っていほど甘さを含んでいなかった。


 爛々と光る瞳に完全に気圧されてしまい、柔はそこから動けない。まるで、別人と相対しているような気分に陥った。


 それ程までに、今の太郎から醸し出される気配は峻烈だった。



「考えすぎなんだよね、君も、撫子も。君の大事な施設が完璧に持ち直して、家族は笑顔一杯で、君の体も健康体になって、その上撫子も君も――今までの全てが報われる位には幸せになる。そんなハッピーエンドなシナリオが俺は好きだなぁ」



「そんな……」



「だから言うよ。これは俺の我がままでね。――君は体を治して施設に援助してもらう何がしかの手段を得て、更に撫子とももっと仲良くなる為に足掻け。……諦めるなんて返答は、聞かないからよろしく」



 無茶だ、と言いたかった。確かにそれは幸せだろう。しかし無茶だ、と。


 柔は内臓に疾患がある。臓器移植でしか治せないと言われたそれは、普段は気にも留めていないが、確実に柔の体を蝕んでいるのだ。


 移植には莫大なお金がかかるし、何より適合するドナーが居なければ意味が無い。言ってはいないが、疾患があるのは心臓なのだ。


 まず持って適合する確率が低い。更に言うなれば、移植出来たとしてもその後、無事に生き延びることが出来るかというのも、断言できない。


 施設のことを考えれば、そんな分の悪い賭けを信じて、払えもしない入院代を捻出しつつただ茫洋とベッドに横たわっていることなど出来ない。


 太郎の言う通り、もしも全てがそんな風に上手くいくのならば……それは柔にとって、二重三重の奇跡の大奮発に他ならない。


 だが、そうなればいいな、という思いが、柔の叫びを留まらせていた。甘美な妄想であるに過ぎないのに。


 そんな柔の葛藤を透かし見るかの如く目を細める太郎は、たん、たん、たんと言葉を吐き出していく。



「無茶だ、て顔してるね、柔くん。はは、奇跡なんて案外何とかなるもんだよ? 何せ、この世界には魔法だってあるんだから。奇跡は起こらないから奇跡と言う、果たしてそうだけれど、でも願うからこそ奇跡は起こる。経験者として言わせて貰えばだ、祈るだけじゃなく、格好悪くても我武者羅に足掻いて足掻いて足掻きまくることが肝要なんだよ。奇跡が欲しいのなら――運命に逆らうべきだ」



 経験者。その言葉には、柔には窺い知れない深い思いが込められていた。


 魔法があるとは一体どんな冗談かと思ったが、冗談を言っているような雰囲気は感じられない。ごくりと唾を飲み込んだ。


 身の内でとぐろを巻く困惑と戸惑いを看破しているかの如く炯々と瞳を光らせ、口元に笑みを浮かべたまま話す太郎の姿。


 不意に、この人には何をやっても及ばない様な気がした。今の、この時点では。


 同時に何故か、それが酷く恥ずかしいことの様に感じた。及ばないどころでなく、今の柔は、追いつこうともしていない。


 そんな思いが胸に灯るのを感じ――柔は目の前の男に対峙する為、無意識に胸を張り、姿勢を正す。


 ガンガンと頭と心を揺さぶる言葉が自分の中暴れているのを感じて、ゆっくり息を吐き出した。



「とはいえ、君の人生だからね。気に入らなければ気楽に聞き流してくれ」



 立ち上がり、ひょいと肩を竦めた太郎は、備え付けのゴミ箱に向かって手に持っていた缶を投げる。


 放物線を描いて宙を舞った缶は、僅かに残った液体を撒き散らすこともなく、当然の様に――



「あ」



 ゴミ箱の縁に当たって床に落ちた。カラコロと間抜けな音を立てて転がっている。



「…………」



「て、てへ! やっちゃったネー」



 誤魔化し誤魔化し、引き攣った笑いを浮かべつつ足早にゴミ箱まで歩み寄って缶を普通にゴミ箱に放り込んだ太郎は、振り返ることなく控え室の方へと足を向ける。



「てへって……」



 胡乱な目つきでその後ろ姿を見つめる柔の元に、ひらひらと手を振りながら歩き去っていく太郎の声が放り込まれる。



「ちなみに朗報なんだが、撫子には今まで彼氏が居たことはありません。更に更に、君のことを話す時の声は、随分と楽しげに弾んでいたよ? 俺の知る限り、家族を除いて撫子に一番近づいているのは、君なんじゃないかなぁとリークしておくよ。どうするかは君次第。あぢゅー」



 あぢゅー、あぢゅー、あぢゅー……。


 柔よりも年上だろう男の、やや寒い言葉が廊下に反響して薄まり、消えて行く。


 寒々しい空気と一緒に取り残された柔は、ひとまず手に握り込んで居たままのコーヒーのプルタブを開け、中身を流しこんだ。


 冷たいではなく、ぬるいと言える程に温度の下がったコーヒーはやたらに甘ったるく、不味い。


 それでも、混乱している柔の頭には程良い気付け薬になった。


 がっくりを項垂れ、空き缶をゴミ箱にそっと捨てる。



「奇跡って……どうしろって言うんですか……」



 力ない呟きは、空調に押し流されて消えて行く。


 だが、もしもここに誰か居るとするならば見ることが出来ただろう。


 錆びついた言葉とは裏腹に、柔の瞳には珍しく――本当に珍しく、前を目指す輝きが一筋、灯っているのを。


 はたして、人はその灯火を指して、希望と呼ぶのかもしれない。




 結局、柔は開演間際までこの休憩室で悶々と一人で過ごし、しかし舞台はしっかりと楽しむことが出来た。


 太郎や撫子、桔梗、レティシア、久美子に瑠衣。



 彼らと言葉を交わす際に少しだけ背筋が伸び、少しだけはきはきとした口調で物を喋る彼の姿に、撫子が目を真丸に見開いていたのはほんのご愛敬である。









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