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黒髪の女王様  作者: 三角
8/16

第八話 凶夢のこと。



 注記:ちょっとグロい表現を使用した描写があります。読む前にご一考下さった方が良いかと。


 OKならスクロール↓





























「うふ……本当、馬鹿な人」



 暗闇の中に、たった一つだけ光源が煌いている。


 確か今夜は満月だった筈だ。


 遥かな空の彼方から冴え冴えと地上を照らし出している筈の月光は、分厚い遮光カーテンに遮られて部屋の中までは届かない。


 ぼんやりと薄く撫子の美貌を照らすのは頼りない人工灯。携帯電話のバックライト。



 眩さに目を細めながら、撫子はそのディスプレイを指先で撫でる。



「本当に、本当に……本当に、馬鹿な、人……」



 ベッドの上に座り込み、膝を抱えて顔を伏せた撫子の声は微小で、誰にも聞かれることなく、しかし確かに震えていた。
















 凶夢のこと

















 女の子は、ぱちりと目を開いた。


 暗い。辺りは等しく冷たい闇に包み込まれている。


 目を閉じても開いても、目に入る光景は変わらない。一面に広がる黒一色。


 ぼんやりと手をつき、体を起こす。



「……っ!」



 不意に痛みを知覚して、体を強張らせた。


 右の手がずきずきと痛い。いや、他の場所も痛い。


 痛みを感じる箇所が多すぎて、一度にはどこがどう痛いのか判別出来ないほどだ。


 息を詰めながらじっとする。


 一番痛いのは右手で、次は内腿らしい。他は良く分らない。明るければいいのに、とその時初めて思った。



「あ、か、……コホッ」



 あかり、と言おうとして、喉がひりついているせいで咳き込んでしまう。ここは随分埃っぽい。


 ごくんと唾を飲み込み、また咳き込む。そう言えば余り馴染みのない埃の匂いがここには充満している。


 それになにか鉄臭い。気持ち悪くなる匂いだ。女の子は、ぐっと顔を顰めた。


 すると、切り傷でもあるのか、頬が痛む。



「そ、だ」



 まだガラガラする喉を震わせてふっと思い出す。そうだ、お母さんは? それにお父さんは?


 小さな自分は両親と一緒の部屋で寝ていた筈なのに、何でどこにも居ないんだろう。


 成長しきっていない小さな体で痛みを堪えながら、ずりずりと体を引きずる。立ち上がろうにも内腿が痛くて立てないのである。


 剥き出しの膝やすねに触れるのは、つるつるした綺麗なフローリングの感触とはほど遠いざらざらした物。


 体を動かした拍子にずり、と強くささくれの様なもので足を擦ってしまい、ふみゅと瞳を潤ませる。


 大きく、息を吸う。埃っぽくて臭くて咳き込んでしまったが、泣いては駄目だ。


 お父さんもお母さんも、泣き虫なだけではいけないよ、と言っていた。




 良い女は、ここぞという時だけ泣くものよ、と小鳥のように軽やかな声で言う母の言葉を思い出す。


 女の子は、お母さんの声が好きだった。美しくて張りがあり、良く伸びる綺麗な声。特にお歌を歌うのが上手で、暇さえあればいつもねだっていた。


 やや高めのトーンで優しく眠り歌を歌われると、お歌を聞きたくて頑張って目を開けているのに、すぐ眠ってしまう。



 お母さんとお父さんはどこだろう。いつもお仕事で余り家に居ない父親も、女の子は大好きだった。


 抱き上げてくれる大きな腕も、暖かい日溜まりみたいな匂いも好きだった。


 いつもは厳しい顔をしているのに、女の子が「おとーさん」と呼ぶと、にへらと相好を崩して抱き上げてくれる。


 そしてお母さんに向かって言うのだ。「おい見てくれ、お父さん大好き結婚したいだってよ!」と。


 エプロンで手を拭いながら台所から顔を出したお母さんは決まって、「そこまで言ってないでしょ、やーね、もう」と笑いながらたしなめる。


 昨日の夜だってそうだった。それで、夕ごはんを三人で食べて、お風呂に入って、一緒に寝たのだ。


 両手を伸ばしてぎゅっと両親の手を握って眠ったはずなのに、手の届く所に誰も居ない。


 不安で泣きそうになりながら、両親を探してまた少し這う。そぅっと伸ばした右手の先に、どろりとした液体の様なものが触れた。


 薄気味の悪い感触だ。ほんのりとだが暖かく、かすかに粘ついている。慌てて手を引っ込めて、ひとまず匂いを嗅ぐ。


 むん、と生臭さが鼻をついた。さっきから漂っている気持ちの悪くなる鉄の匂いが、一際強い。


 一体これは何なのだろう。暗くて何も見えないから、良く分らない。



 その時、から、とすぐ近くに何か固い物が落ちる音がした。



「……?」



 音のした方を見る。そうしている間にも、から、がら、がら、といくつも何かが落ちている音が続く。


 女の子は、何かな、と思って暗闇に目を凝らす。


 今の今まで気付かなかったが、外からは小さく重低音が聞こえる。今居るここ――女の子と両親の寝室――が、何故かかたかた震えていた。


 地震かな、と首を傾げた拍子にぱさぱさした髪の毛が頬を打って、首を振る。


 お母さんに褒められる、自慢の筈の髪の毛が異様にパサついている。埃っぽいせいだろうか、とにかくその感触が悲しい。


 ががが、と一際大きい音がして、女の子のすぐ傍に大きなものが落っこちた。


 頭がガンガンするくらい煩い音に耳を叩かれ、撒き散った埃の風が顔を打つ。咄嗟に目を瞑って顔を伏せた。


 しばらくしてから、恐る恐る目を開ける。



「あ……」



 依然掠れた声しか出ないものの、驚きは表現することが出来た。目の前に、幾筋か光の線が入っている。


 照らされた先にあるのは、ごつごつした岩みたいな塊だ。すぐ傍に落ちているソレは、女の子一人簡単に潰せそうな程大きい。


 これが落っこちてきたのか、と思うと、ふるふる身震いした。何が何だか分からないが、とにかく怖い。


 光の線を辿って視線を上へ、上へ。


 天井がある筈の場所を通り過ぎても、光の線はまだ終わらない。一生懸命に顔を仰け反らせて、ようやっと女の子は見た。




 青い。抜ける様な青空だ。手は届かないけれど、天井に何箇所か穴が開いていて、そこから光が差し込んでいる。


 先程から聞こえる重低音も、心なしか大きい。外に何かあるのだろうか。


 首が疲れて、女の子は視線を下した。がっくりと項垂れた女の子も、薄く光に照らされている。


 ふと目に入った小さな手は、見慣れた形で、ただ、見慣れない色をしていた。


 一瞬それが自分の手だとは分からず、ぐーぱーと握り締めたり開いたりを繰り返す。


 光を受ける手は、ちゃんとお風呂に入ったのに薄汚れていて、小さな怪我を一杯していて、何より赤い。


 くい、と手を回して掌を見る。いつだか転んだ時に落としたトマト缶で、自分の手が真っ赤っかになった時のことを思い出した。


 それくらい赤い。べったりと貼り付いた毒々しい赤色は少し黒っぽく濁っていて、ヌルヌルしていて気持ちが悪い。


 何より臭い。トマトソースとは全然違う。


 あんまり見ていても楽しい気持ちにはなれなかったので、少しだけ光が差しているのを幸いと首を振る。




 目に入るものは全てが無茶苦茶だった。茶色をベースにした、暖かで見慣れた寝室はどこにもない。


 綺麗なフローリングが割れて、ささくれている。


 壁にも大穴が開いて、天井がある筈の高さには、歪んだ鉄のパイプの様なものが突き出ているだけだ。


 寝ていた筈のベッドは瓦礫によって無残に潰されていて、向こうの方に見えるのはお隣の優しいお婆さんの家の、掛け軸だろうか。


 訳の分からない光景に首を傾げる中、次々に視線を振る。


 所々赤かったりするのは何だろう。


 そう言えば、そう言えばと思い視線を思い切り下げる。


 先程触れた液体は何なのだろう。


 さっき見た手が赤かったのはそれのせいなのかな。



「なに……?」



 その先にあったものは、一目では良く分らなかった。


 床についた小さな手の先には、赤黒い液体が出来の悪い地図の様に広がっている。


 更にその先には、捩れた人形のようなものが二つあった。赤い液体は、そこからじくじくと流れだしている。


 何故かは分からないが胸がざわつき、女の子は、手や膝が赤いもので汚れるのも厭わずに人形に近づいた。



 それは、近所の男の子が自分の大事にしていたお人形を、意地悪な顔で壊した時の格好に似ていた。


 腕が滅茶苦茶な方向に捩れ、うつ伏せの状態でだらしなくボロボロの床に伸びている。




 大きな方の人形は、膝から向こうが大きな瓦礫に遮られて分からない。


 小さな方の人形は、腰から下が瓦礫に遮られて良く見えない。


 ただ、どちらもピクリとも動かない。近づくごとに強まる不快な匂いが鼻腔を抜ける。


 光が差し込んでいるといっても極少量。這うことしか出来ない女の子は、薄暗い場所に転がるその二体の人形目指して、ただ無心にずりずりと這い寄った。


 そうして苦労して、ようやく人形のすぐ傍まで辿り着いた。


 女の子は訝しげに眉を寄せ、首を傾げる。


 目の前に転がっている二つの人形は、お父さんとお母さんが着ているのと同じパジャマを身に付けていた。


 デフォルメされた猫と犬のデザインに見覚えがある。


 女の子は手を伸ばして、力なく自分と反対側を向いている人形の顔を覗き込んだ。



「ひ、……っ!」



 手を、離す。真っ赤な華が咲く。


 ぐちゃ、と重く濡れた音が響き、丁度落ちた場所にあった赤い液体を周辺に撒き散らしたのだ。



 人形の筈なのに、人形の筈なのに、人形の筈なのに、人形は――



「お、とぉさ……?」



 ――大好きな、お父さんの顔をしていた。


 ただし、大好きなおとうさんは、女の子が見たこともないような恐ろしい顔をしている。


 全体的に真赤で、緩んだ唇の間からぶよぶよと膨れた舌が垂れ。


 見開かれた片方の瞳は酷く濁っていて、もう片方の目がある方は――丁度、女の子から死角になっていた方は――ぐちゃぐちゃに潰れていた。


 そこから一瞬だけ、光に照らされた赤色と濁ったピンク、細長い白色が覗いていることまで、女の子の瞳ははっきりと捉えていた。


 かちかちかちと耳に煩い音が響く。



「あ、ひ、あ……」



 脳内を埋め尽くす恐怖と、いい知れない嫌悪とが混ざり合って、言葉らしい言葉すら構築出来ぬまま後ずさる。


 ぬた、と背後についた左手に何かが当たった。


 何も考えることが出来ず、反射的に振り返る。


 そこには。



「お、かあ、さ……?」



 安らかな顔をした、母の顔。


 お父さんの顔をして、お父さんのパジャマを着ている怖い人形よりも光に近い場所に居る小さな人形は、紛れもなくお母さんの顔をしている。



「お、おかあさん、おかあさん、起きて。起きて」



 優しい笑顔に女の子は小さな胸を撫でおろし、ゆさゆさとその体を揺する。訳の分からないこの状況も、きっとお母さんなら助けてくれる。


 そうしたら、あのお父さんに似た壊れた人形だってどうにかなって、どこかに隠れているお父さんも戻って来るんだ。


 そう、幼い思考で希望を立てた。


 しかし、いつもならすぐに起きる筈のお母さんは、いつまで経っても起きてくれない。


 肩を掴んで揺すっているのに、首がぐんにゃりしていて、ぐねぐねと気持ち悪く頭が揺れるのだ。


 吐き気を催す様な錆び付いた匂いの中で、必死に母親の体を揺する。



「おかあさん……起きてよぅ」



 いつまで経っても起きない母親に堪え切れず、女の子は母親の胸元にしがみ付いた。


 気持の悪くなる、むせ返る様な鉄の生臭い匂いの中に、微かにだが嗅ぎ慣れた柑橘系の香りを感じる。


 ――シトラスの香りだ。いつも、お母さんがつけている香水のかおり。



 女の子は、やっぱりお母さんだ、と確信した。


 ただし、その口元から一筋、下手な落書きの様に赤黒い線が引かれている。


 自慢の母、綺麗な母親の顔を汚す赤黒い線が許せなくて、女の子は手でその線を強く拭った。


 しかし、落ちない。落ちない所か、女の子の手が触れた所がどんどん赤黒い液体で汚れて行く。




 擦る。落ちない。擦る。落ちない。擦る。落ちない。擦る。落ちない。擦る。落ちない。


 そこまで反復した所でふと顔を上げる。手が汚れているのなら、布で拭けば良いのだ。


 マトモな思考が追い付かぬ中、自分のパジャマで手を拭う。


 しかし、ここまで這いずったせいかパジャマは酷く汚れていて、手についた汚れは落ちてはくれず。


 そんな時余り汚れていない母のパジャマが目に入る。


 ――後でお洗濯すれば、いいよね。


 お母さんの顔をきれいにするためだもの、と一人頷いて手を伸ばす。


 母の頭側に腰を下しているから、汚れていない母のパジャマで手を拭うには体を乗り出さなければならない。


 片手を着き、身をぐっと乗り出す。そうすると自然視線が上がり、女の子は今まで目に入っていなかったものを見てしまう。


 はた、と伸ばし掛けていた腕を止める。



「……?」



 それは、空間だった。


 しかしただの空間ではない。



 大好きなお母さんの腰と、瓦礫との間にぽかりと出来た空間。


 少し眠っているだけである筈の母親の下半身が、物語に出てくる力持ちの巨人に引き千切られたかの様に途切れていた。


 ひゅ、と息を飲み込む。


 目を、逸らさなくてはと女の子は思った。これは、とても、見てはいけないものだ。


 ぶるぶるとおこりの如く体が震える。


 だが意思とは裏腹に視線はそこに固定されたままだ。


 否応なく、無情に、脳に次々と視覚情報が叩き込まれる。




 千切れたパジャマ。染み出た赤色。僅かに覗く棒の様な白。ピンクと赤の生臭い崩れた肉。


 そして、瓦礫と床の間からはみ出す脚らしきもの。



「い、や……いや、いや、いや……」



 フラッシュバック。がつんと思い切り頭を殴られた様に意識がはっきりする。


 女の子は、幼いなりに『死』というものを理解していた。


 可愛がってくれていた母方の伯母さんが交通事故にあって亡くなったことしかり、ペットだった小さな柴犬のコロが冷たくなったことしかり。


 『動かなくなる』、『居なくなる』というのが今一つ理解しきれず、色々な図鑑や辞書を参照した結果、思い出したくもない概念を理解したのだ。


 死という概念。死体という物体。



 振り返る。



「おと、さん」



 振り返る。



「おかぁ、さん」



 人形だと思い込んで――思い込もうとしていた幼い精神は、半端な知識と圧倒的な残酷さによって、両親がもう動かないことを理解した。


 してしまった。


 死んだのだ。大好きなお父さんもお母さんも、と。





 保育園の学芸会で演じた役を、力一杯誉めてくれた声音。


 お手伝いを進んでやった時、撫でてくれた掌の感触。


 しがみついた時の温もりと優しさ。


 良い香り。美味しいご飯。髪の毛を梳く時の笑顔。


 それらは、もう居ない。



「いやだ……」



 今まで意識していなかった両親の顔や動きや言葉や暖かさが脳髄を駆け巡り、女の子の精神に耐えられないその負荷は軋みとして声帯を直撃する。



「――――!」



 迸るのは、奔流だ。マトモな音にすらならない、決壊した感情と現実からの逃避を悪意で煮詰めた絶望のスペシャルブレンド。



「いやいやいやいやいやいやいヤいやイやイヤイヤイヤイヤイヤ、イやぁぁぁぁぁぁァァァぁぁぁぁぁァぁぁぁぁぁぁ!!」



 いつだか、『とても綺麗だね』と両親に褒められた美声を振り絞って、撫子は壊れかけの慟哭を上げた。


 褒めてくれた両親は、惨たらしい姿に変じた両親はもう二度と――ぴくりとも動かない。













「いやっぁぁぁぁぁ……!!」



 跳ね起きる。錯乱に近しい意識はマトモに動作せず、暫く撫子は造りの良いベッドの上で喘いでいた。


 貪欲に酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出し。肌に纏わり付く様な夢の残滓を追いやり、朧気な現実の光景を受け入れる。


 呼吸が落ち着くまで五分程もそうして胸を抑え、震えた。



「……」



 のろのろと顔を上げる。


 知らない者無しの大女優の顔にはびっしりと汗が浮き、そこに映る表情は青く、痛々しい。


 血の気が引いて青褪め、歯の根も合わず、普段は紅をささずとも薄いピンクの唇もかたかたと震えている。


 汗で張り付き、乱れに乱れた黒髪は頬や首筋に張り付き、寝巻きにと着用している薄い襦袢は透けてすらいる。


 そんな幽鬼さながらの姿でありながらも、一種凄絶な美しさを保っているのは流石と言えた。


 撫子は、胸にあてたままの手を動かして鼓動を探る。どくどくと高速で血液を押しだす命の器官は、確かに今、動いている。


 撫子は死んでいない。


 暗いが、微かには周囲の、自室の様子が目に入る。カチカチと冷静に時を刻む壁掛け時計の音も聞こえる。


 肌に触れる空気がエアコンで快適な温度と湿度に保たれているのも感じ取れるし、安眠効果のあるラベンダーのアロマキャンドルの香りも分かる。



 真っ暗ではないし触れる場所にあるのはざらついた剥き出しのコンクリートではないし血と脂と臓物の吐き気を催す死臭もしない。


 生きている。生きている。心の中で強く念じて、撫子はふらふらと視線を漂わせた。


 幽霊の如く茫洋としていて掴み所のなかった闇色の瞳に弱々しくだが意思の光が灯り、僅かに宝石の煌きが戻る。


 ざっ、と大きく手で髪を振り払った。


 夜闇の下、室内の暗がりにも負けない濡れ羽色の絹糸が勢い良く翻り、僅かな光をうけてきらきらと反射する。



「夢、を……」



 ぎゅ、と肩を抱いて唇を噛みしめる。


 あれは只の悪夢ではない。記憶だ。


 あの後叫びを聞きつけたという義兄に助け出されるまで、壊れたラジカセの様に叫び続けていたのは、今も記憶に残っている。


 それ自体が幸福な思い出なのは間違いない。


 義兄と共に気の良い夫婦に引き取られ、今までも良好な関係をずっと保って来ている。


 義兄には見事に振られてしまったが、実の両親に褒められた演技と声を使う仕事でも大成功を収めていると言って良いだろう。


 それでも、あの日、撫子の身に降りかかった災厄を忘れられたことは一度として無かった。



 幸か不幸か、撫子の精神は全てを忘れることで自己の精神を守る、という手段を選ばなかったのだ。


 鮮烈な記憶は今も生々しく、既に両親の顔すらおぼろげなのに感触だけが撫子から離れない。


 ごく稀に、一年に数回程悪夢のフラッシュバックとして過去に悩まされた時以外は、撫子はこの記憶を意識しないようにしている。


 どうあれ今の自分が幸福であること、揺らめく両親との思い出がそのしあわせの原動力の一つになっていることは確かなのだ。


 両親の存在ごとこの悪夢を忘れていれば、両親の言葉を思い出して突然、芸能界の門扉を叩くことなど無かっただろう。




 何より、十数年も前の記憶に取りつかれて、今を疎かにする程撫子は悲観的でか弱い女性ではなかった。


 挑み、切り開き、自分の手で幸せを掴む素養を、その人格の根幹に内包している。


 ただ、それでもこうして夢として悪魔の光景を思い出してしまうと、辛い。


 起きた瞬間トイレに駆け込む様にならなくなったのは、慣れか、重ねた年数のためか。



「今夜はもう……」



 どの道、悪夢を見た夜は眠れないと相場が決まっていた。


 実家に居た時は義兄や義母のベッドに潜り込む位はやったものだが、一人暮らしの今ではそんなことは不可能。


 秘書であり護衛であり親友である桔梗は隣の号室に住んでいるが、ここで頼るのは何かいけない気がする。


 陰鬱な気分を吹き飛ばす為に強く息を吐き、ベッドを下りる。


 こういう時は、程良い甘さのホットココアでも作って、シーツに包まってぼんやりと朝まで過ごすのが一番だ。


 そう言えば新しいパソコンのセットアップは終わっているから、今の内に使うのに慣れておくのも良いかもしれない。


 汗で濡れた襦袢の帯を解き、床に落とす。夜の闇に、しどけない裸身を晒した。






 意味もなくぐるりと振った視線に、それが写ったのは全くの偶然だった。


 チカ、チカ、とベッド脇にあるサイドボードの上で、メールの着信を知らせる緑のライトが一定のサイクルで瞬いている。


 寝る前にはメールは来ていなかった筈だ。撫子はふらふらと、誘蛾灯に惹かれる様に近寄った。


 しなやかな腕を伸ばし、柔らかな指先でシンプルなデザインの携帯電話を捕らえ、反対の手を使ってフリップを開く。


 震える指を必死で繰りながら、携帯のキーをなぞる。


 かち、という音と共に安定した携帯のディスプレイには、新着メール一件という文字とアイコン。


 反射的に決定キーを押しこんで受信ボックスにアクセスした。


 ぱっと画面が切り替わるのに合わせて、今しがた立ち上がったベッドに力なく腰を下ろす。


 音もなく弾むしっかりしたスプリングは優しく撫子を受け止め、その振動で露にされている撫子の膨らみを震わせる。


 僅かに汗で湿った下着が気持ち悪いが、流石に誰も居ない自室と言えど、全裸大放出はよろしくない。


 大人しくもぞもぞとベッドの中央に移動しながら、再び携帯の決定キーを押しこんだ。


 受信メールの一覧が表示され、未開封のマークが付いた一番上のメールの情報が浮かび上がる。



「あ……」



 じゅう? と声に出さない呟きで送信者の名前をなぞった。


 受信時刻は午前の二時二十八分。今は、二時三十七分だ。悪夢に魘されて起きたタイミングでばっちり受信したようだ。


 もしかしたら、撫子が目覚めたのはメールの着信音のお陰なのかもしれない。


 しかしお世辞にも、女性にメールを送る時間に適当とは言えなかった。


 次会った時にお説教して差し上げなければ、と思うと、ぎこちないながらも、未だ青褪めたままの顔に少しだけ苦笑が浮かんだ。


 メールを開く。



「……うあ」



 そして絶句した。


 ずらずらと浮かぶのは終わりの見えない文字列だ。ぎゅうぎゅうに画面一杯詰め込まれた五十音に眩暈すら覚える。


 どこまで続いているのだろう。ざっと長さを確かめるためにスクロールし、終わりを探す。


 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。


 終わらない。


 受信出来る最大の文字数まで打ちこんであるようだ。


 不自然に切れたメールの末尾を眺めながらそんなことを考えていると、勝手に携帯の画面が切り替わる。



「あら、あら」



 新しい受信メール。


 カチカチと長い白魚の指で端末を操作し本文を流して確かめる。どうやら新しく来た方のメールで合わせて一つの内容にしているらしい。


 一つ目のメールより少しだけ早く末尾の言葉が訪れることだけ確認して、撫子は最初のメールに始めから目を通すことにした。



「この前の、パソコンの使い方で……」



 延々と不器用な話言葉で続くのは、あのショッピングの日の最後、撫子が柔にパソコンを使うに際しての注意点や便利なテクニックを教示してくれと頼んだことに対するレスポンスだった。


 何気ない頼みごとだったのに、とても細かく丁寧に説明がなされている。



「余り詳しくないですけど……」



 と言葉を濁していたのは謙虚さなのだろうか? 多分、違う筈だ。彼は嘘を吐く人種ではない。


 ちょっとした言葉の選び方からも、この返答に膨大な下調べがあったことが伺える。


 少し、笑みが零れる。


 今何時だと思っているんですの、と言える時間帯にも関わらず、この長文のメールだ。


 柔は文字通り、寝る間も惜しんで撫子の為に、情報を集め分かりやすい言葉を探し、満足気な表情でこのメールを打ち込んだに違いない。


 朝も夜もバイトに明け暮れている癖に、わざわざ自分の時間を使って。




 馬鹿な人だ、と思う。こんなことに精力を傾けるのではなくて、明日に備えて少しでも眠れば良いというのに。


 何気ない頼み事など、無視してしまってもおかしくないものなのに。


 無機質な筈の長文のメールに、言語化されていない優しさが籠っている様な気がするのは撫子の気のせいなのだろうか。


 ベッドの中央、シーツを引き寄せて体に巻きつけ、膝を抱える。



 いつの間にか、怖くて寂しくて一杯だった心の中に、ほんのりとした温かさが灯っていた。



「ばか……」



 小さく呟いて、少しずつメールを読み進める。






 いつしか、悪夢に追い立てられる暗い夜は終わり、希望の朝焼けが東の空から大地を照らし出していた。


 静かな寝室にノックが響き、僅かな停滞の後にすいっと桔梗が顔を出す。



「クイーン、お早うございます。朝ですよ、……おや、お珍しい」



「すぅ……すぅ……」



 その鮮やかな光はカーテンに遮られているけれど。


 眠れない筈の撫子の悪夢は、たった一つ二つのメールだけで追い払われていた。



「……携帯なんて握りしめて、ああ、服も……どうしたんでしょうか」



 穏やかな寝顔を見せる女王様は、優しさの揺籃の中、寝られない筈の夜を越し、不器用な言葉のシーツに包まれてすやすやと寝息を立てていた。



 握りしめた携帯のディスプレイには、短い言葉が明滅している。



『おやすみなさい』









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