第六話 和議のこと。
「あら、御機嫌ようですの。……何だか、お久しぶりですのね?」
「あ……」
燦々と降り注ぐ夏の日差しが万遍無くアスファルトを灼く。そんな時間、そんな季節。
往来の真中で立ち尽くした柔の顔色は、面白いくらい一瞬で真っ青になった。
「じゅーう? 良くも撫子のメールを無視して下さいましたわね? 病気でもしてましたの?」
撫子はひらひら、と不思議そうに首を傾げて手の平を振り、硬直して動かない柔の顔を下から覗き込む。
その日焼けの欠片すら伺えない美貌は以前見た時から少しも衰えず、倨傲なまでの輝きで周囲を圧倒している。
つば広の帽子を被り、鼻の頭にはちょこんとお馴染みの赤縁アンダーリム。
今日は長い黒髪も背中で一つに括っているせいか、その黒絹糸が風に舞うこともない。
この熱気の中、決して融けることのない白雪の様な淡い白のワンピースは、光の加減で薄い銀にも見え。
合わせて白色なサンダルは僅かにヒールが入っていて、アクセントなのかくるりと綺麗なリボンが足首に巻き付いている。
まるで、避暑地のお嬢様だ。
そんな彼女の隣には、夏でも変わらずダークスーツに身を包んだ、長身の麗人が無言で佇んでいる。
ただし、陽射しの下で帽子も被らず、白い額に汗一つ浮かばせていない屈強な女王様の親衛隊長の瞳は、どんなによく回る口よりも苛烈に物を言う。
何も出来ず、何も言えず何も抗えず、木偶のように切り捨てられた晩から数えて八日目の昼、意図せぬ往来での遭遇だ。
柔は、見ようによっては剣呑に光る桔梗の視線に刺し貫かれて、撫子の存在をなるべく意識に入れない様に後ずさった。
怖い。苛烈さで敵わないのはこの前で良く分った。武力で敵わないのはその前から良く分っている。
意識という意識を恐怖の一色で塗り固め、柔はついに、一目散にその場から駆け出した。
「柔ー! ……あん、もう。一体何ですの!?」
足が遅いことなど関係ない。
ただ、腕を振り足を前へ。
柔は今この瞬間、あらゆることから顔を背けて逃げ出していた。
昼でも夜でも、熱くても寒くても一定に燃え盛る静かな鳶色の炎が、群衆を突き破り柔の背中に食いついて離れないような、そんな気がしたのだ。
だからこそ――桔梗の瞳が揺れていたことにも、柔は気付かなかった。
和議のこと
「はぁぁ……」
深い、どこまでも陰鬱な溜息を柔は吐く。
きっとこの溜息はヘドロみたいに澱んでいるんだ、そんなことを思いながら、柔は手に持った鞄の持ち手を精一杯握りしめた。
結局、逃げて来てしまった。暑さや体力の無さを全く計算せずに駆けだした後十数分。
不細工な犬そのものの息遣いで呼吸を整えながら背後を振り返った柔の視界には、誰も居なかったのである。
よくよく考えてみれば、わざわざ追いかけてくるようなこともあるまい。
それに。
それに、と柔は小さく胸の奥に澱んでいる息を吐きだした。
あのメール以降……酢昆布のメール以降、撫子から来るメールは全て無視している。
律儀に着信音と振動でメールの到来を知らせる携帯電話を恨めしげに眺めつつ、何度も何度も自分宛てのメールを読み返し、そして閉じる。
そんなことを、柔は意味もなく続けていた。
着信拒否したり、撫子のアドレスを消したり自分のアドレスを変えたり出来ないのは、僅かな柔の未練だろう。
――もう、忘れるんだ。その方が、良い。
柔は、汗を掻いて茹った頭を大きく振る。
無抵抗に飛んで行く汗みたいに、この悩みも吹き飛んでくれればいいのに、とぼんやり考えた。
とぼとぼと肩を落とし俯いたまま歩き続け、本来の目的地を目指す。
ここからなら歩いて優に一時間は掛かる。
バスを使えれば良かったが、家を出てバス停に辿り着く前に撫子達に遭遇したのだ。
万が一にもそちらに戻る気は起きないし、桔梗の視線で疲弊した自分は今、人でぎゅうぎゅうのバスになんて乗りたくない。
少なからず汗をかいているし、周りの客も良い気分にはならないだろう。
お互い、不快な気分を不味いガムの様に噛みしめて終わるだけならば、いっそ嫌な思いをせずに歩いた方が良い。
それに、目的地に着く前には少しでも気分を持ち直しておきたい。一時間も歩けば少しはマシな気分になれるだろう。
そんなことをぽつぽつ考えながら、柔は悄然と溜息を吐いた。
「はぁ……」
久しぶりに間近で見てしまった撫子は、柔の貧弱な記憶にあるソレよりずっと、綺麗だった。
それだけに、メールを一方的に無視していることやこの前、桔梗に言われたことが胸に突き刺さる。
釣り合わない。ただの友人としても。
そんなことをぐるぐる思っていたのがいけなかったのか、いつの間にか柔の足は地面に根を生やしたかの様に止まっていた。
立ち止まっている柔には目もくれず、周囲を色んな人達が歩き去っていく。
きびきびと歩くサラリーマンやマナーを守らずに歩きたばこをしている若い男性。
楽しげに何か携帯で話している若い女性に、杖をつきながらゆっくりゆっくり前に進む老夫婦。
すぐ傍を駆け抜ける車のエンジン音も遠い気がする。
柔は後悔や恐怖や困惑や……色んな負の感情が入り混じって酷く重たい足を苦労してアスファルトから引っぺがした。
いつまでも立ち止まってはいられない。
目的地に着かなければ意味が無いのだ。自分からコレを奪ってしまったらきっと、何も残らない。何も。
一度ぎゅっと目を瞑って、萎んだビニール袋より頼りない気合いを入れ直し、一歩だけ足を前に出す。
ほっと息を吐く。気落ちしていても、何でも、進もうと思えば前には行ける。
それだけが泣きだしてしまいそうな位、笑ってしまいそうな位、軋んだ柔の心を支えていた。
得た物が多いのなら、ソレを失う時の喪失感は計り知れない。
友人も、楽しいやりとりも、憧れも。慣れないことなんてするもんじゃあないな、と柔は顔を歪ませた。
自分では笑っているつもりのその顔が、他人から見たらどう見えるのか。鏡を持たない柔には全く持って分からない。
目的地までは、まだ遠い。
「あ、柔だぁ! ようし、かかれ皆のしゅー!」
「じゅー兄ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁん! うわはーー!」
「うわぁ! 遊ぼーー!」
「い、痛い痛い」
元気良く声を上げる子供達に飛び掛かられて、柔はその重みを支え切れずに踏鞴を踏んで地面に倒れ込んだ。
アスファルトとはまた違う、砂と土からなる地面の熱さが、咄嗟についた手からじんわりと伝わってくる。
砂のグラウンドを駆けずりまわっていたらしい小さな体も、また熱い。
こうなるだろうと予想していただけ、怪我をしていないのは僥倖である。
「兄ちゃん、今日は何しに来たのー?」
「いいじゃん遊ぼうぜー!」
子供の元気は暑さにも負けず、有り余っているようだ。きゃいきゃいとハシャぐちびっ子達は、次々に柔の周りを取り囲んで声を掛ける。
子供達は、総勢で七人程だった。年の頃は一定しておらず、顔立ちが似通っている子もまた居ない。男女のバランスもバラバラだ。
柔に群がっているだけでも、四歳位の子から小学校高学年の子まで、幅広い。
彼らは皆、柔の弟妹たちである。
背中や首にひっ掴まって離れない子供達に苦心しながら立ち上がった柔は、手近な子の頭を柔らかく撫でながら気弱な笑みを浮かべた。
「き、今日は少しだけ遊んでいられるから、ちょっと落ち着いて」
「少しってどのくらいー?」
目線の下、わいわいと騒ぐ七人の子供たちの中でも、一際小さな少女がくりっと可愛らしくおさげを揺らし、首を傾げる。
その隣、彼女よりも少し年嵩の少年が威張るように胸を張り、得意げな表情で鼻の下を指で擦って口を開いた。
「馬鹿だなー、すみかぁ。そんなの、お日様が沈むまでに決まってんじゃん!」
「えぅ……そうなの?」
幼い子供特有のキラキラと光る純真で済んだ瞳で下から覗き込まれ、柔はうっと顔を少しだけ仰け反らせた。
日が暮れるまで遊んでやりたいのは山々だが、今日は歩いてここまで来た為に疲れている。
小型な癖に永久機関でも搭載しているのではないかという程元気なちびっこ軍団と遊べば、どうなるかは明白だった。
子供達に大人気のお馬さんごっこ(勿論馬はずっと柔)などされたら、へばって立てなくなってしまう。
さてどうしたものか、と子供たちにぶら下がられたまま考え込んだ柔を救ったのは、やや幼さの残る甲高い声である。
「こら、アンタ達! 柔にぃが困ってるでしょ!? 早く降りなさーーい!」
「うわぁ、楓ねぇだ! 殴られるー!」
「きゃー! 逃げるー!」
ばたばたと柔から転げ落ち、毬の様に弾む駆け足で散り散りに駆けていく子供たち。
声のした方に目を向けると、中学校のだろうか、セーラー服に身を包んだ少女が一人立っていた。
如何にも怒ってます! と言わんばかりに柳眉を逆立てて子供たちを追い散らしている。
嬉しそうな悲鳴を上げて逃げている所を見ると、こんなことも日常茶飯事なのだと、良く分かるというものである。
「はぁー、もうアイツらったら! ……あ、ごめん柔にぃ。おかえりー」
「ただいま……後、おかえり、楓。今帰って来たの?」
そう尋ねると、ここに居る子供たちの中で一番の年嵩である楓はにこっと元気良く笑った。
まだ中学二年生だが、彼女は炊事や掃除や洗濯、ついでに泥だらけになった悪ガキの丸洗いからぐずって寝付けない子の慰撫まで何でもこなす。
肩に届かない位の黒髪のショートヘアも、快活で活発な印象の彼女に良く似合う彼女は、子供たちの頼れるお姉さんである。
健康的に日焼けした肌と、少しだけ浮いたそばかすもチャーミングな柔の妹だ。
「ううん、今は夕飯の仕込みしてたの。お隣の山下さんから大根いーっぱいお裾分けしてもらって! 涼子と一緒にお漬け物にしたり、ぶり大根にしたり。どうせなら食べていきなよ!」
「あはは。相変わらずだね」
そう言って笑う柔に、楓はむっと口をへの字にひん曲げて、ずいっと迫って柔を見る。
「な……なに」
年下の妹にも簡単に気圧されてしまう柔は、如何にも情けない。
「一か月毎に会うんだから、変わってるわけ無いでしょ!」
「いやぁ、変わったよ。こよみと翔太は見違えて大きくなってるし、他の皆もちょっと背が伸びてる。楓も……大人っぽくなったかな」
ほうっと息を吐いて、柔は頬を緩めてそう言った。
ちらっと目線を動かせば、めいめい好きに遊びまわっている子供たちの姿が目に入る。
思わず、目を細める。たった一月で目覚ましく成長していく彼らは、柔にとって酷く眩しい存在だ。
「そんな、何か言い方が他人行儀だよ? 私たち家族でしょ!」
「あはは、でもぼくはもう、ここには住まないからね……ちょっと年寄り臭いかなぁ?」
「そんな言い方しなくたっていいじゃない! ……ていうか、それなら柔にぃもここで暮らしてれば良いだけだよ。何で出てっちゃったの? 戻ってきなよ……」
そう言った切り、楓はしょんぼりと肩を落とす。
それを見て、気丈な性格の妹が、酷く繊細な一面を持っていることを知っていた筈なのに、と柔は内心で自分を罵倒した。
小さな弟妹分のリーダーが、家族というモノを何より大切にすることを分っているのは今の所、柔と、そして園長先生である涼子だけだ。
一番上のお兄ちゃん、である柔が居なくなって精神的に苦しんだのは、目の前の彼女に違いない。
ここを飛び出したのは、浅慮に過ぎたかもしれない。柔は気付かれないようにそっと溜息を落とした。
「楓……」
「楓、余り柔を困らせてはいけませんよ」
「でもっ、柔にぃが……」
顔を上げた楓の瞳には涙は浮かんでは居なかった。だが、心なしか潤んでいる気がする。
穏やかな声で柔に助け船を出したのは、小さな土のグラウンドの先にある白い建物から出てきた、初老の婦人、涼子である。
若い頃はさぞかし美人だったのだろう、と何となく柔にでも分かる彼女の顔は、還暦近くの実年齢よりぐっと若々しい。
しゃれっ気もなくひっつめにした髪の毛は背に届くか届かないか位の長さで、穏やかな淡雪の様に静かな白色だ。
やっぱり、子供の頃の思い出よりも随分としわが増えたな、と柔は思う。
幼いころ、悪ガキと一緒に転げまわっていた元気な園長先生は、今は日がな一日ゆっくり子供たちの世話を焼いている。
落ち着いた物腰と瞳の深さが、彼女の雰囲気に優しげな柔らかい暖色を加え、それが子供たちの警戒心を解かしてしまうのだ。
現に「楓」と柔らかく声を掛けられただけで、楓はがばっと涼子の胸元に飛び込んだきり黙ってしまう。
初老に達する彼女の言葉には、年若い者を落ち着かせてしまうだけの慈愛の念が籠っているのだった。柔にも、覚えがある。
今も元気に駆けずり回っている子供たちにも、覚えがあるだろう。いわば通過儀礼のようなモノだ。
誰しも皆、一度ならずとも寂しさに耐えきれない時に、涼子の声と背を叩く優しい手に慰められたことがあるのだ。
それはきっと、恥ずべきことではない。むしろ誇っても良いものだとすら、柔は密かに思っていた。
「ごめんなさいね、柔」
「……いえ、ぼくの、我がままのせいだから」
この施設に戻って来て欲しいという楓の訴え。
それだけは譲れない。柔はどれだけ可愛い弟達にせがまれても、この施設に戻ってくる訳には行かないのである。
自分一人増えれば、その分だけ子供を受け入れるスペースが減ってしまうし、何より、柔のちっぽけな誓いがそれを良しとしないのだ。
誰かに話すようなことではないので、柔はさっきのように戻ってくることをせがまれた時に何も言えない。
暫く無言のまま、楓を見守っていた柔と涼子は、彼女が無言のまま顔を上げ、そして建物の――家の方へと駆け戻っていくのをただ見ていた。
戻ってくる、という選択肢が無い以上、楓がどれだけ寂しがっていても柔の慰めの言葉に力はない。
もしかしたら少し泣いたのかもしれない。思春期の女の子の思いなどようとしれないが、泣き顔を見られたくないだろう事位は柔にも想像出来た。
一度ゆっくりと視線を巡らせ、すぐ近くに子供達が居ないことを確認する。
しぶとく手にしていたバッグから、薄い封筒を取り出して涼子にそっと差し出した。
「これ……」
「……そんなことしなくても良いと、何度も言ったでしょう、柔」
「その度に、無理にでも渡して来たんだよ、涼子さん」
「さん、だなんて……昔のように涼子、と呼んでくれなくなったのは、貴方がここを出てからね……」
「……でも、けじめだから」
柔の面前、困った様に眉をハの字に、頬に手を当てて溜息を吐く老婦人。
彼女は結局、そっと柔の手から封筒を受け取った。
どの道、ここで受け取らなければ柔は何としてでもこの封筒を――稼いだお金を、涼子に渡そうとするのである。
ポストに入っていたり、子供の一人に手渡すように言付けたり、はたまた涼子の部屋の机の上に、一言メモを添えて置いていったり。
柔に、一度こうと決めると頑として譲らない所があることを、涼子は良く良く知っていた。
本人は覚えていないだろうし、今の姿を知る柔の知り合いには誰も想像が付かないであろうが、柔は飛びぬけて手の掛かる子だったのである。
頑固で利かん気の強い柔は、どんな小さなことでも納得出来なければ従わない。
その癖気弱だから、口をへの字にひん曲げ、小さな瞳に涙を浮かべながら、ただただ無言で座りこむのが常だった。
流石に付き合いの長いだけあって、涼子には柔が何故こんなことをしているのかは察しはつくが、言って聞かないのは分かり切っている。
それに、この施設が裕福な訳で無いのは確かなのであった。子供に頼るとは何と情けないことだろう、涼子は子供たちに見えない所でいつも苦悩している。
軽く会釈して子供たちの方に歩いて行く柔の後姿を見て、ほんの僅かな溜息を涼子は吐き出した。
柔は多くを語らない。月に十万ものお金を、一体どうやって捻出しているのか。
ちゃんと健康に気を使って生活しているのか、ちゃんと食べているのか。一人暮らしの中で、友人や恋人は出来たのだろうか。
涼子にとって一番自慢の息子は、見える所に居るにも関わらず、涼子の手から遠い所に行ってしまっている気がしてならない。
柔は、涼子が前園長からこの施設を引き継いでから初めて預かった子供だった。それだけに色々大変だったし、思い入れも深い。
鞄からお菓子の包みを取り出して振る舞い、賑やかな子供たちの中心で困ったような微笑みを浮かべている息子の姿を、感慨を込めて涼子は眺める。
体を壊すことだけは無いように、と願うことしか出来ないのがひどく心許無い。
ふと、私も歳を取ったわね、と小さく苦笑した。
「前田・柔」
「……!」
結局日が暮れる少し前まで子供たちに付き合って、ないし付き合わされて遊んでいた柔は、帰途の途中で突然声を掛けられた。
まだ施設から幾ばくも離れていない。
聞き覚えのあり過ぎる声に足を止め、呆然と視線を上げる。
長閑な町並みがくまなく薄紫に染め上げられる、逢う魔が時。濃い影を落とした鳶色の瞳を柔につき付けるのは、桔梗である。
「前田・柔」
「な、なにを」
機械的な一本調子で繰り返し柔の名前を呟く桔梗。
声の大きさやしっかりと合わせられた視線から、彼女がこちらに呼びかけているのは間違いないのだが、いま一つその意思が伺えない。
「……クイーンから、様子がおかしい貴方を追いかける様にと。言われました」
「……?」
不満気な色がその声音から透けている。あるいは影のように佇んでいる桔梗は、珍しくもそこで唇を噛んで視線を伏せた。
てっきり、お前の様子がおかしいせいで、と叱責されるかと身構えていた柔は、そんな彼女の様子に眉根を寄せて首を傾げる。
「……貴方は……」
そうして言いよどむ桔梗の姿は、まるで施設に居る小さな子供達が――大きすぎる不安や困惑に、揺れている様に見えた。
言葉にする言葉が見つからない。胸の内にあるモノを言い表す為の言葉がどこにもない。それを言って良いのか悪いのかも分からない。
柔にはそんな風に見えた。
訝しげに寄っていた眉根が戻り、次いで戸惑いの表情が柔の顔に浮かぶ。
伏せられた桔梗の視線からは、柔を燃やしつくしてしまいそうなあの鳶色の炎が見当たらない。
それどころか、彼女の姿はまるで、雨に打ち据えられて震える子犬のようだった。
今にも泣きだしてしまうんじゃないか、と一人内心でハラハラしている柔にはしかし、そんな彼女を慰めるのに相応しい言葉が無い。
子供たちの様に見えても、彼女は子供たちとは違うのだ。柔は、桔梗についてほとんど何も、知らないのだから。
「……聞きたいことがあります。場所を移しましょう」
「はい」
だからかもしれない。柔は先日桔梗に感じた恐怖や威圧を一瞬忘れて、存外素直に頷いていた。
「……」
「……」
幼い頃から、この辺りに住んでいた柔である。
すぐ近くに腰を落ち着けるのに相応しい、静かな――悪く言えば寂れた公園を挙げ、そこまで桔梗を連れてやって来ていた。
薄汚れた木製のベンチを手で払い、腰掛ける。
隣で同様に汚れを手で払っている桔梗を見て、あ、と柔は気まずげに眉を顰めた。気が利かないとはこのことだろうか、と思い到ったのである。
そんな風に独りでに自己嫌悪に陥って内心で苦悶している柔を余所に、桔梗は表情を変えることなくひっそりと呟く。
「前田・柔」
「は、はい」
「貴方は……あの施設の……孤児院の出身で間違いないですね」
言葉は、疑問というより確認だった。
そうだ、涼子の経営するあの白い建物は――古い幼稚園をそのまま買い取って改装したという、小さな『実家』は、孤児院に他ならない。
普段の柔ならば、幾らなんでもこの孤児院と言う言葉に何らかの反応を返しただろう。
今まで出会った人達は、柔が自分から孤児院の出であることを言ったことはないのに何故か、無遠慮な好奇心と嘲笑で持ってその単語を使っていたからだ。
柔にとって一番大事なもの。譲れないもの。それがあの孤児院と、そこに住む家族だった。
何を言われても激昂しない柔の怒りのトリガーを引けるのは、唯一家族のことを馬鹿にする輩だった。
しかし、桔梗の言葉には何度何十度何百度言われたか分からない嘲弄の響きが欠片も篭っていない。
柔は、僅かに心が波立つのを感じながら、それでも何も言わず耳を傾ける。
「前田・柔二十三歳。誕生日は九月十七日。血液型O型。身長一六二センチ体重六七キロ。視力は裸眼で〇,〇七。性格は良く言えば温厚悪く言えば臆病で人見知りが激しく、特に初対面の女性に対しては碌に話しかけることも出来ない程。最終学歴は高校。施設から一番近い私立鳴海高等学校第六十二代卒業生。小中高と運動で目立った活躍は無く、しかし高校受験の際には特待生枠を獲得する為に偏差値を五十二から六十三まで上げている。学生時代を通して陰湿な虐めにあっていた形跡が見られる。犯罪・補導歴無し。二歳前後の頃に前田涼子が親戚である前園長・前田洋明より引き継いだ児童養護施設の門扉前に一人佇んでいるのを発見され保護、以後高校を卒業するまで同施設で過ごす。同時期に入所した子供は四人居たが、彼らについてはすぐに里親が見つかり、引き取られている。柔という名前は前田涼子が自身で名付けた物で、現在は前田涼子自身の養子として登録されている。高校卒業後はバイトを転々としながら一人暮らしを送っている。……貴方がクイーンとメールを交わすようになってから、私が個人的に調べた前田・柔に関する調査報告の一部です」
「な……」
そして絶句した。聞いている限りでは間違った所はない。
桔梗の手には紙束やメモ用紙が握られている様子は無い。完全に空で言っているというのは、柔にとって恐るべき記憶力である。
そして、ここまで詳細に柔について調べているのならばこの前、突然柔の家を訪問出来るはずである。
場違いなような、そうでないようなことに得心して、柔は胸の内で大きく頷いた。
「勝手ながら、調べさせて頂きました。それについては謝罪します。……すみません」
ぺこ、と頭を上下させて見せる桔梗を目の端で捉えて、柔はぎこちなく何度も頷いた。
「あ、そ、それは別に……!」
撫子の安全を考えての措置なら、致し方の無いことなのだろう。
「それで、聞きたいのですが……先ほどは、園長に渡していたのは……一体何をしていたんですか?」
「何を……って」
柔は戸惑いを顔に浮かべた。先ほどとは違い、桔梗の言葉は明確な疑問として柔にぶつけられている。
どう言っていいのか分からなかった柔の頭に、簡潔な一言がぽんと浮かび上がる。
「お……恩返し、かな?」
「恩返し?」
「恩返し。……ええと、涼子さんには――園長は自分のことを、子供たちには絶対名前で呼ばせるし、子供たちのことも名前で呼ぶんだけど……育てて貰った恩があって、涼子さんは要らないって言うけど、ぼくは勝手に恩返ししたい。涼子さんはそんな素振り見せないけど……」
「経営難だそうですね」
頷く。
絶妙の相の手を入れてくれる会話相手というのは、存外気持ち良いな、と柔は思考の片隅で考える。
「うん……多分、ぼくしか知らない。中学生の時にそういう話を立ち聞きして、だから、ぼくは少しでもお金を稼いで、涼子さんに渡すことで恩返ししてる?」
「何故疑問形なんですか、前田・柔」
「いや……うぅん、お金を稼ぐのが分かりやすくて良いから、そうしてるし、それを止める気は無くて……他にやり方を思いつかないから……うーん」
「……はぁ」
桔梗は呆れた様に息を吐いた。
小さな街頭に照らされた横顔には、ありありと何とも言えない表情の色が乗っている。
目を丸くして珍し過ぎるその様子を見ている柔は、言葉もなくぐっと首を竦め、背を丸める。
「参考までに、どの位渡しているのですか?」
「あぁー……」
「答えにくいのなら、結構ですが」
「じゅ」
「?」
「十万円、毎月」
「そうですか……有難うございます」
そう言って、桔梗はふいっと顔を上げた。
しっかりと柔の方に向き直って、目を合わせる。揺らめく鳶色が深く心を掻き混ぜるような感覚を得て、柔は小さく身震いした。
「……しかし、そんなこと望まれていないのならする必要はないでしょう? 前田・柔、貴方のコンビニと仕分けのアルバイトで得られる金銭はせいぜいが月に二十万と少し位のものでしょう。毎月十万円と言えばその約半分です。ちょっとした恩返しにしては貴方の負担は大きすぎますし……施設そのものに対する援助としては小額に過ぎる気がしますが。そんなことよりも、まだ自分のことにお金を使う方が、有意義だと園長も言うのではないですか」
言い聞かせるような口調だった。柔は指先で頬を掻き、どう答えたら良いのかうむむと短く唸る。
「実際に涼子さんにそう言われたこともあるよ。だけど、そうは、思わない」
「何故?」
腕を組む。
「難しい理由は、無くて。ただ、そう決めたんだ。ぼくにとって大事なのはあの施設と家族たちだけだ。最悪それ以外は如何でも良い。ぼくには大それた趣味や娯楽はいらないし、恋人も友達もいらない。その代わりあの場所を――守れるのなら死んでも良い。ただ、そう決めたんだ。出来ることが少ないから、ぼくには大したことは出来ないけれど、でも出来ることを出来る限りしたい」
「……」
少々の距離を開けて同じベンチに腰掛ける二人の間を、温い風が吹き抜ける。風に髪の毛を乱された桔梗はすっと長い指で乱れた髪を抑え、払った。
「頑固ですね」
「うん。……何て言ったら良いのかな。桔梗さん、つまらない話だけど、聞いてくれますか?」
「どうぞ」
「ええと、では、失礼して……ぼく、実は内臓に疾患があって。ちゃんと治療しないとその内悪化して死んじゃうんだってお医者さんに言われてる。治すには臓器移植しか手がないんだって。でも、臓器移植はお金がかかるから、あと悪化しない限りそんなに日常生活に支障がないから、治療する気がない」
「……、それは」
桔梗は言葉に詰まる。柔が何気ないことの様にさらっと言葉にした内容は、不用意に発言をするには重過ぎたのである。
慎重に言葉を吟味して、反応を窺うように丁寧に吐き出す。
「……園長は、そのことを」
「知らないよ。施設を出て、一,二年してから何だか体の調子がおかしいなって、本格的に病院で検査して貰って初めて分かったから」
「何故、相談をしなかったのですか」
「だって、涼子さんがこんなことを知ったら、無理にでもお金を掻き集めて、ぼくを治そうとするでしょう? ぼくは高校を卒業するまでお世話になってた。つまり一杯お金を使ってもらってたんだよ。だから、資金難で困ってる涼子さんをこれ以上困らせたくないんだ。それに、いつ何が起きるか分からないなら、子供たちの近くにも居ないほうが良い。あの施設にいるぼくの弟や妹達は、全員一度親に捨てられたんだ。虐待を受けていた子も居る。そんな彼らの一番上のお兄ちゃんが死んじゃったなんて、悲しいでしょう。ああ、柔兄ちゃんは最近来ないなぁ、のまま忘れた方が幸せじゃないかな」
そんなことを、のほほんとした笑顔で言う柔の姿に思わず桔梗は。
「馬鹿ですか?」
「え!」
そんなことを言っていた。僅かな後悔の念を得ながら、それでも言ってしまったものはしょうがないと言葉を掻き集める。
「そんなものは貴方の一人よがりです。お金を貯めて自分の治療でもしていればいいのに」
「うーん。その選択肢は選ばないよ。ぼくには何もない。形はどうあれ、ぼくは捨てられた。一度は確実に、要らないって言われたんだ、多分実の親に。そのぼくを拾ってくれたのは涼子さんだ。名前を、家を、きょうだいを与えてくれたのは涼子さん。だから、家族とあの施設はぼくの全て。ぼくは社会から見てそんなに有用な人間じゃないけど、それでもこんなぼくを育ててくれてありがとうって、どうにかして恩返しがしたい」
「……」
「ぼくに芸術や学問の才能はないし、普通に働くことしか思いつけなかった、孤児院の出っていうだけで働かせてくれない会社だって一杯あるからバイトしか見つからない。アルバイトだっていつまでも続けられるものじゃないし、ぼくはいつ死ぬか分からない。死ぬまでに何かしたいんだ、でも、お金を稼いで渡すことくらいしか思いつかないぼくは、だから死ぬまでそれをする」
陰鬱な影が柔の顔に差す。陰った笑顔で首を振る柔の姿にほんの少し目を細めた桔梗は、
「こちらを見て下さい」
言った。完全に体ごと柔の方を向き、恐る恐る振り向いた柔の目をじっと凝視する。
「本当に、やめる気はないのですか?」
「ないよ。言ったでしょう? ――ぼくの、すべてなんだよ。ぼくからあの施設と家族を切り離したら、きっと何も残らない」
きっぱりと言い切った柔の瞳に、何の虚偽も含まれていない、と桔梗は心の中だけで頷いた。
ならば、目の前に居る男の評価を書き換えなければならない。
桔梗はこの男が嫌いだった。軟弱で、さしたる目標も信念も覚悟も持たず、なのに敬愛するクイーンと仲が良い。
片時も傍を離れず警護してきた桔梗よりも、もしかしたら。
そんな訳でメールを交わしているという言葉を笑顔の撫子から聞いた時、柔は桔梗にとって唾棄すべき存在とまでなったのである。
盲信。敬愛。絶対的尊敬。忠誠。三年前から撫子のマネージャー兼護衛として存在している彼女を表して、業界人はこの言葉をよく使う。
別に間違っていない、と桔梗は思っている。
柔はあの施設とそこにいる人たちを指して全てだと言った。
桔梗には分かる。
何故なら、桔梗に取っては撫子こそが全てであるからだ。
「……不躾なことを、聞いてしまいましたね」
「い、いえ、いいんです。何だか話したら、すっきりして……誰かに話したかったのかも、しれない」
息を吸う。桔梗は自分の過去を振り返りながら口を開いた。
「謝罪……の代わりと言っては何ですが、私の身の上話をしようと思います」
「はぁ」
「……私が何年前からクイーンの傍に居るか、知っていますか?」
「ええと……えっと……さ、三年位ですかね」
「その通りです。当時既に彼女は天上の人でした。外国の……ここではない国の、スラム街で暮らしていた私にとって、まさに彼女は女神そのものでした。群衆の隙間からちらっとだけ見えた彼女が天使様の様に綺麗だったのを、今でも鮮明に覚えています」
「えっ……」
柔は驚きに目を真丸にして、桔梗の顔を覗き込んだ。余りに失礼だと思い直し、少しだけ身を引く。
「それって、どういう……」
「言葉のままです。最低の場所でした」
「さ……」
「……死人も珍しくないし、二日にいっぺんは銃声が路地に響いて誰かがモノになって転がされる、そんな場所です。毎日のように要らない子供や老人や働けない若者が捨てられる場所です」
一息にそこまで喋り、桔梗はふっと頬を歪めた。ぎこちなさを残す笑みは、小さなものであるのに酷く痛々しい。
「私はそこに、幼い頃に捨てられました。幸い、仲間が居たので何とか食いつないで行けていました。かっぱらいや脅し、売春、追剥。そんなことをして生計を立てる毎日です。ただ、当時の私は背こそ今と変わりませんが、碌な物を食べていなかったから体は骨と皮で、体を清潔にすることも出来ませんから泥と垢の塊でした。今思えば、他の仲間の様に体を売ることが出来ずに悔しがっていたのが馬鹿みたいです。そんな女、誰も買わなくて当然ですから」
今では無意味にここまで育っていますが、と豊かな胸を手で持ち上げて見せる桔梗に、柔は取り敢えず赤面した。
恥ずかしくて何も言えないし、こんな話の最中に相の手を入れられるようなコミュニケーションスキルはない。
一つ行きを吐いた桔梗は、淡々と口を開く。
「ある日のことでした。いつものように盗みを働いて、意気揚揚と寝床まで帰って来た私の前に、小さい頃からずっと一緒だった仲間たちの……、死体が、転がっていました。仲間の一人が、腹の居所が良くなかったある男に絡まれてしまい、八つ当たりで殺されたそうです。一番私と仲のよかった少年は、それだけ言って息を引き取りました。呆然としていた私に声を掛けたのはその犯人でした。私は昔から、身を守る為に腕っ節だけは強かったのですが、いかんせん相手は拳銃を持っている様な男です。いっそ復讐しようと思いましたが、無駄でした。手足を撃たれ、楽しげに私を追いかけ回す男の姿に私は恐怖しながら、這いずって逃げました。そこからは狩りです。死なない様に傷めつけながら、決して逃がさない。いよいよ動けなくなって、私が死ぬんだなと思った時、クイーンが現れて私を助けてくれたのです。天使様のような、女神の様な姿のままで」
「……」
「詳しいことは気絶したので、後から聞きました。私たちの居た場所は、町の大通りのすぐ裏なのです。通りを隔てて一本裏道に入ると、途端に絢爛豪華な高層ビルディングの乱立する大都市から、後ろ暗い者達の住まう暗部へと様変わりしてしまう。偶然ボディーガードを伴って観光をしていたクイーンは、銃声を聞きつけて警察に連絡を入れ、自身の足で音のした……私の方へとやって来たと」
「そんな」
「結局男は逮捕され、私は一命を取り留めました。それまで私の生活の全てだった仲間が死んでしまったので、私も死にたかったのですが、クイーンは仲間のお墓を手ずから用意してくれ、治療費も何もかも負担してまで、私を勧誘しました。びっくりです。骨と皮ですよ、私。異国の地で、素情も分からない私に対して、勉強する設備を与えるから、私の秘書になりなさいと。正気の沙汰とは思えません」
「そ……それは」
確かに、正気の沙汰ではない。
もし自分が怪我したらどうするのだとか、何で彼女を勧誘したのだ、とか。ぐるぐると考えが柔の頭の中を回る。
その答えが出る前に、桔梗はちらと視線を振り、歪めていた頬を抑え、柔にも見慣れた無表情へと戻す。
「勿論、理由を聞きました。……そしたら即答されてしまいました。『貴女の瞳は、今まで見たどの鳶色よりも素敵ですの』と。今だに意味が分かりませんが、とにかくこうして助けられた私はクイーン自らの指示で勉強し、体を鍛え、そして丸一年かけて彼女の秘書になりました。ボディガードはあくまで最初ついでの仕事でしたが、クイーンの意向で私一人に絞られています。私にはある程度の実力がありましたし、クイーンは何くれと私のところに顔を出しては良くしてくれていて、その時既に私にとっての現人神だったからです。あちらは、親友だと勿体ないお言葉をくれますが」
「……」
「私は、意識を失う寸前に見た彼女の美しさと、その後に初めて彼女の演技を見た時に思いました。世の中には、本当に神様が居るんだ、と。私にとってクイーンは、想像もつかない演技の世界で頂点を極める女王にして、命の恩人にして、敬愛する友人にして、女神です。私にとって彼女は全てです。クイーンが幸せになれるならば、私は単身で世界すら敵に回してみせる。そして勝ちます」
「か、勝つんですか」
「勿論です。だから、クイーンが貴方と親しくしているのは快く思いませんでしたし、故に何の信念や覚悟も見えない貴方をクイーンから遠ざける様に威圧しました。綿密な調査の末、貴方が報復活動に及ぶ人間ではないことを、計算に入れた上で」
「……うん」
そこで、強張っていた桔梗の顔がふっと緩んだ。
密やかな花が咲き誇るようなその笑みに目を奪われた柔を気にすることもなく、桔梗は声音だけは淡々と言葉を紡いでいく。
「ですから、資料に載っていない……貴方のその、何に代えてもあの施設と家族を守りたいという気持ちが、私には少し分かります。方向性は違うのでしょうが、私と貴方は似ているのかもしれません。ですから……私がクイーンの傍に居るのに、貴方が居れないというのは、私の中で矛盾します」
「ど、どういうことです、か?」
「つまり……私は貴方を見直しています。何の信念や覚悟も持たないのではなく、貴方には私が認めざるを得ないようなソレがちゃんとある。クイーンに言い寄る男たちには無い物が、貴方には一つだけあります。それが分った以上、私はクイーンと貴方の親交を邪魔することは出来ません」
「……はぁ」
「分からないのですか? ……貴方はこれからも、どうぞご自由にクイーンと仲良くメールでも何でもしてください私は何も関与しませんからと言っているのです最近柔がメールを返して来ないんですのよねーと寂しそうにぼやかれる私の身にもなって下さいこの小太り」
ノーブレスのまくしたてであった。下手に口調を荒げない分妙な迫力を感じて、柔はぎゅっと首を竦めた。
どことなく、無表情な桔梗の顔色に不満げな様子を感じる。
もしかしたら、怒っているのは単純に柔が撫子と仲良くするのが嫌なだけで……? などと思ってしまう柔であった。
案外真実を突いているのだが、それは知るよしもない。
喜びがやってくるのはその後だ。この何日間かというもの、柔を縛っていた桔梗の言葉の鎖が綺麗に解かれている。
純粋に、嬉しい。
喜びの発露は笑みとなって柔の胸の奥から怒濤の勢いで込みあげ、表情がぱっと明るくなる。
分かりやすく満面の笑みになった柔に、桔梗ははぁと溜息を吐いた。
何でこんな男に、身の上話までしてしまったのだろう、と米噛みを揉む。
「……だから、この前はごめんなさい。私は主に貴方への嫉妬でクイーンとの仲を邪魔しました」
「あ、そうなんです、……痛い!」
にこにこと笑顔で言葉を口にする柔の脳天に、いつの間にか手の届く範囲まで近寄っていた桔梗が拳骨を落とす。
可愛らしさと無縁な鈍い音と、成人男性の茶色い悲鳴が寂れた公園に響いて消えた。
「そういうことは、分かっても言わないで下さい。恥ずかしいですから」
恥ずかしさを微塵も感じていない様な鉄面皮で、桔梗はしれっと言い捨てる。
涙目で叩かれた場所を押さえた柔は、ほんの少しだけ恨めしげな視線を桔梗に向けた。
ちらっと絶対零度の視線で睨まれ、慌てて目線を明後日の方向に飛ばす。
「……本当に、クイーンは何故貴方と関わりを持とうとするのでしょうね。まぁもう如何でもいいです。ただ……前田・柔。クイーンとメールやらの遣り取りが出来るようになったのは……あくまで私の妨害が無いという意味でですが……良いことでしょうが、一つだけ悪い知らせがあります」
顎に手を当て、どことなく嬉しそうに桔梗は言う。
悪いこと……? 柔は首を傾げた。
「この約一週間で、貴方がクイーンからのメールを無視した回数は六回。その回数分だけ、実はクイーンはご立腹です。私に貴方を追いかける様指示した際にこう――あんまりしょうもない理由ならばけちょんけちょんに凹ましても構わないと、言付けられましたので間違いありません」
「え……えぇ!?」
「ちなみに、私が貴方にちょっかいを出したことをクイーンに言うと、漏れなく私の拳骨が付いてきます。身勝手ですが私はクイーンに叱られたくありませんので。本当に怖いんです、怒ったあの人。前に怒った時は、私よりも体の大きな黒人のSPを泣かせていました。なのでただの八つ当たりです。ああ、参考までに、私はパンチングマシーンで大体三百キロ程の数値が出せます」
「えぅ……」
柔は、だらだらと脂汗を流した。無表情な桔梗の瞳だけが、サディスティックに光っている様に見える。
殴り合いの喧嘩など殆ど経験のない柔にとって、三百という数値がどんなものかは分からないが、それでも途轍もなく痛いだろうというのは分かる。
痛いのは嫌である。しかし、撫子相手にメールを無視した理由を誤魔化すのは、柔には無理だ。
多分理由についてはだんまりを決め込んで、ひたすら謝り倒すことしか出来ないだろう。
一度だけ見た不機嫌な撫子はとても怖かった。
肉体的に痛いか、精神的に痛いか。どう対処すれば良いのか、柔には分らない。
よって、柔はだらだらだらだらと脂汗を流しながら、思考を止めていた。
何をどう言いつくろおうと、女王陛下のメールをひたすら無視していたことに変わりはない。
どう謝ったら許してくれるだろうか。
どう考えても柔は黒人の屈強なSPよりも打たれ弱いのだ。泣かされる位で済めば良いが。
かちんこちんに固まって、ぷるぷる震えている柔を愉しそうに眺める桔梗は、そっと携帯を取り出した。
無論、撫子に報告を入れるためだ。
柔に背を向け、携帯を耳に当てる桔梗の口元には悪戯っぽい笑み。
撫子でも数える程しか見たことのないソレを、桔梗自身意識しているかどうかは定かではない。
「――クイーン? 前田・柔を発見・確保しました。……ええ、少し虐めてみました。彼は可愛いですね」
ただ、桔梗自身が認めざるを得ないくらい馬鹿で、頑なな覚悟を持ちながら情けない男を、ほんの少し気に入ったのは間違い無いようである。