第五話 浮沈のこと。
「――どうやら最近、クイーンの交友関係に余り好ましくない変化があったようです」
「え……」
鋭い眼光。眼鏡のレンズ越しにある、甘さを一切含まないソレが真っすぐに柔の体を貫いている。
籠められた感情は柔には正確に理解出来ないものの、物理的な圧力すら纏っていそうな眼力によって確かに柔は気圧されていた。
無意識に一歩、後ずさる。
「率直に言葉にする方が話が早いですね。――簡潔に言います、クイーンとの関わりは絶って頂きたい。否やは認めません」
皺一つない、上品でノリのきいた、おそらくオーダーメイドの女性物スーツ。
くすんだ茶色の髪の毛を風に揺らす長身の麗人は、無表情の仮面を少しも揺るがすことなく、ただ淡々と言葉を紡いでいる。
あんまりにあっさりとしていた為、彼女が放った言葉が柔の脳みそに行き渡るまで数秒のラグが必要であった程だ。
「え、何が、でも、何で……?」
敬語を使う余裕も無い。理解の追いつかない事態に思考を白く染め上げて、柔はただ脈絡なく単語を接いだ。
対照的に桔梗の言葉は淀みなく、落ち着き払っている。
「これはあくまで私の独断です。しかし前田・柔、貴方がクイーンとプライヴェートな連絡を取り合うのは好ましくありません。例え、青少年にありがちなピンク色の妄想系破廉恥欲求がそこに介在していなくとも」
ピンク色の妄想系破廉恥欲求……? 目の前の凛としたイメージの佳人とはかけ離れた造語に、状況も忘れて一瞬柔は首を捻った。
といっても、未だ気圧されたままの体は満足に動いておらず、あくまで心の中で盛大に首を捻ってみたに過ぎない。
そんな柔を見て、桔梗はくいっと首を傾げた。色素のやや薄い唇が開く。
「……今、往来では言語化出来ない赤裸々かつ特殊性癖丸出しの十八禁描写を考えていませんかペド野郎?」
「へ、へんなこと言わないで下さい……!」
柔は咄嗟にそれだけを叫んだ。
上手い具合に止まっていた思考の歯車が回り出し、今度こそキチンと桔梗が言っていたことを咀嚼する。
「本当ですか? ――この変態め」
「ぅえ!?」
奇妙で間抜けな遣り取りを交わす二人の間を、どことなく乾いた風が吹き抜けた。
浮沈のこと
「……あ、着信……?」
柔はごそごそとポケットを漁った。
八時間近くの労働で溜まったぬるい疲労を押して、今丁度我が家の玄関を開け放った所である。
だらしなく靴を脱ぎ散らかしながら、柔は携帯電話を引っ張り出した。
軽く掌に納まってしまうサイズの端末は既に数年前に購入した骨董品だが、未だに現役で柔の手元にある。
スペースを取らなくて良いのと、安さとで何の気なしに選んだ機種であったが、小ささ故にちまちまとダイアルキーを押さねばならないのは閉口する所だ。
ソレ以外は特に不満はない。柔にとって携帯電話というのは、あくまでいつでもどこでも電話が掛けられて、受けられるだけの物だからである。
使うのは後せいぜいがメール位のものだ。大抵はポケットにしまわれたまま忘れられている。
そんな若者に似つかわしくない使用頻度の携帯電話であったが、最近は珍しくも手に取る回数が増えていた。
それでも、携帯のキーの打ち過ぎで健勝炎になるという学生達よりは格段に少ないのだが。
「あ、しんき、メールが届いています……ええと」
ぽちぽちと危なげな手つきで携帯を操作し、新しく受信したメールを開く。
日中カーテンを開けっぱなしにしていたせいか、部屋にはまだ熱気が篭っている。
ひとまずベランダに通じる窓を全開にして、柔は床に腰を下した。
黄昏時の風は既にひんやりとしていて、心地いい。
「えー、と……何々、『御機嫌ようですの。撫子お気に入りの映画を紹介して欲しいとあったから、幾つか悩みましたけれどお答しておきますわね? とても古い作品なのですけど……イチオシは『孤高に舞う』という映画ですの。実は、撫子はこれを見てそのまぁ、芸能界に憧れまして……そんなことは良いのですわ! とにかく、良かったらご覧になってみて下さいまし。あ、そうそう。柔は酢昆布好きですの? 撫子結構好きなのですけど、今度生産中止になるとかいう噂を小耳に挟みまして……はぁ、憂鬱ですわ』……酢昆布」
イメージがかけ離れ過ぎている気がする。柔はパッケージングされた駄菓子の姿を思い描いた。
とにかくこんな感じで、柔と撫子はゆったりメールの遣り取りを楽しんでいるのである。
何故一介の小市民に過ぎない彼が撫子のメールアドレスを持っているかと言うと、前回食事を御馳走してもらった際に交換したからに他ならない。
勿論、柔にとっては話術巧みに連絡先を聞き出すことなどノーロープバンジーにも等しい荒行なので、撫子から話を持ちかけられたのである。
あの後柔は、如何にもセレブ御用達――逆に言えば、柔では一生縁がなかったであろう、高級そうな喫茶店に連れて行かれたのである。
店内を華美にならない程度に彩るインテリアから店の造り、さり気なく使われている食器から店員のサービス、料理の質まで一流の店であった。
ガチガチに緊張している柔を面白そうに眺め、揶揄いを交えながら軽めのブランチを取り終えた二人は程々に歓談し、その帰り際。
「柔、あなたはとっても面白いですの。折角だから連絡先を交換しましょう」
と言う運びになったのである。
終始挙動不審で全く落ち着かない柔のどこにそれだけの価値を見出したのかは、撫子にしか分からない。
そうして携帯の有無を確認した撫子は、にっこり笑顔の柔らかな物腰でさっと柔から携帯を取り上げ、自身のアドレスを登録してしまったのである。
ちなみにこの間、柔が出来たのはのろのろと携帯を差し出すことと、目を丸くして口をぱくぱくさせていることだけだった。
以来、撫子と暇を見てはメールを交わしているという訳なのである。
と言っても話題は他愛もないことばかりで、どの映画が好きだとか、話題の何がしが今一つだとか、ほんの少しの愚痴だとか、そういうものであった。
流石にメールであれば柔の上がり症が発揮されることもなく、至って和やかに言葉を交わしている。
ただし、気の利いた言葉や話題に通じている訳ではない柔の送る文面は、決して女性に宛てるべきものとは言い難い。
言葉は固く、ウィットに富んでいるわけでも愉快な質問でメールを盛り上げることもない。
失礼にならないよう、一通のメールに推敲に推敲を重ねて丸っこい指で送信ボタンを押しこむのだ。
さもありなん、柔には女性とメールをした経験すらほとんどないのである。
だからどちらかと言うとぶつ切りで意味が通じにくい、面白味のない文章であったが、意外にも撫子からの返信は好意的なものが多い。
むしろ、そんな不器用な対応を面白がっている節があった。
唯一褒めるべき所があるとすれば、それは柔の態度である。
何せ天上の大女優、銀幕の女王とのプライベートなメールの遣り取りである。
普通の、いや大抵の、否否ほとんどの男なら舞い上がって、世にもありがちで且つ自己陶酔的な思いに駆られることだろう。
つまり、この女は俺に好意があるのだ、と、そういう種類の思い込みである。
柔はその点、非常に自分というものを分っていた。
自分の容姿や性格が決して万人受けする類のものではないことは十二分に心得ていたし、それに撫子が柔に興味を示すのは単に珍しいからだろうと当たりを付けていた。
何故といって、彼女程の著名人の周囲には、銀行の若頭取だの甘い容貌が売りの売れっ子俳優だの大手企業の社長だの、そういった類の――言ってしまえば社会的にハイグレードな――男しか近寄れないからだ。
そんな極上の男たちの求愛を、時にはやんわり時にはばっさりと切り捨てていると噂の撫子である。
アルマーニのスーツに身を包み、ロレックスの時計を身につけ上品に女性をエスコートしてみせる男性に、まさか駄菓子の話題を振れる筈もない。
見かけや社会的なステータスが上等な男たちの上品な話術には飽き飽きしているだけなのだろう、と思ったのである。
事実、撫子が零す数少ない愚痴めいた呟きはしつこく言い寄るそういった男性陣のことだったのだ。
それに比べて柔はごく一般の――というより落ち目の、男であるに違いない。
撫子にとっては逆に、柔のような男性と関わることなど稀であるはずだ。
そこから物珍しさが顔を出しているのだろう、と柔は自己完結していたのだった。
それでも流石に、緊張が完全に取れてしまうようなことはない。
だが、撫子が意外に庶民趣味だったりすること――酢昆布が好きだとか――も起因して、単純に柔はメールを楽しんでいた。
何せ、柔には友人と呼んで差し支えのない人物がほとんど居ないのである。それに撫子には溢れる程の教養がある。
大抵の質問や疑問に彼女は正確でしかも分かりやすく、ためになる回答を与えてくれる。
時には柔を試す様にアドバイスだけを与えて、柔の余り賢いとは言えない思考を後押ししたりしてくれる。
教養を持てば世界の見方は変わるものだ。柔はここ最近、ほんの少しだが自分の世界が広がっているのを感じて嬉しく思っていた。
同じことがらを言い表すのに色んな表現を考えてみたり、何気なく耳にする古典の台詞にどんな意味があるか読み取れたり。
それに直接の関わりはないが、バイトをしている時、次に何をすればより良い仕事が出来るか考えながら作業できるようになったのは収穫だ。
「……ごはんを食べよう」
返信の内容についてはさておき、柔はまず腹ごしらえをすることにした。
働きづくめで今日はまだ何も食べていない。
本当はいけないことなのだが、色んな意味で破格な店長の計らいで、柔は今日廃棄の弁当やパンを少し分けて貰っていた。
ガサガサと白色のビニール袋を漁り、取り出したのり弁を電子レンジに放り込む。
適当につまみを回すと、ガラスのコップに氷をぎっちりと詰め、作り置きしている麦茶を並々と注いだ。
コップと、あと御代りの為に麦茶の容器もテーブルの端に並べて、今度は菓子パンを一つ取り出す。
コンビニの新製品だ。名称は劇甘練乳苺クリーム粒辛ドーナツ。
もっと正確に言うならば、劇的であるのみならずノスタルジックに甘い練りに練ったミルクと丸ごと苺を閉じ込めたクリーム+粒あんに、ちょっとした悪戯心で混ぜた特製辛子がピリリとアクセントなドーナツ、である。
何故売れ残ったのか、実に分かりやすいコンセプトの新製品だった。企画開発部は脳が故障しているのだろうか、と学校帰りの中学生達が騒いでいたのを思い出す。
柔は困ったように首を傾げて悪趣味全開な金色のパッケージを眺めていたが、うんと頷いて袋の口を破った。
途端に、甘いとも辛いとも言いにくい不可思議な香りが部屋に舞う。
盛大に顔をしかめつつも、捨てるのも勿体ないなと思った柔は恐る恐る、恐怖のドーナツの端っこを齧った。
「……、……案外、イケる……?」
むしろ呆然とした感じで呟く。今度は、少し大きめに口を開いてドーナツもどきにかぶり付いた。
「もぐ、……?」
…………。
「……、っごふ」
正体不明の、どう吟味しても辛子のものではない不可思議な辛味と苺のコラボレーションで咳き込みつつ、何とか飲み下す。
そのまま無言で袋の口を輪ゴムで縛った。
続けて、やはり無言のまま黄金色に煌く袋をゴミ箱にそっと封印し、取って返して麦茶を一気に飲み干す。
「……ぐ」
やはり、地雷は地雷に過ぎなかった。
大きな溜息を落とし、口直しにと温め終わったのり弁に箸を付ける。コンビニの格安弁当だが味は悪くない。
つつがなく、無言で弁当を片づけた柔はごろりと床に転がった。
やわっこく弾力に富んだお腹を撫でる。
やや物足りないものの、腹に食べ物が入った満足感と疲れ、心地よい風が微睡みを誘う。
はっと気付いた時には、窓の外には夜の帳が下りていた。
湧きあがる欠伸を噛み殺しながらぼんやりと霞む頭を振り、手をついてゆっくりと体を起こす。
時計を見れば、少なくとも三十分程は寝ていた計算になる。
頭を掻きながら立ち上がり、ひとまず夕食の後片付けをした。
ビニール袋の中に一つ二つ残っているパンは、明日の朝食にでも回せば良いだろう。
そうして訪れるのは手すきの時間だ。
寝るには早すぎるが、特にすることも思いつかない。何となく暇を潰せるような娯楽の類も、柔の部屋には転がっていない。
柔は物が少ない部屋の中を見回し、そうだ、と思いつき携帯を手に取る。
受信メールを表示したままのディスプレイに光が灯り、再び撫子からの文面を浮き上がらせる。
返信の内容を考えないといけない。片手でノートパソコンの電源ボタンを押しこみ、無機質な相棒に活力を与える。
暫しの待機画面の後、おなじみのロゴマークと起動音を経て立ち上がったパソコンを操作する。
カーソルを動かし、ダブルクリック。ネットに接続。
柔が最近会員証を作ったレンタルショップでは、インターネット上で在庫の確認が出来るのである。
お気に入りからサイトの名前を選び、クリック。ややあって現れたページをざっと見て、検索用のボックスにカーソルを合わせた。
打ち間違いのないように二つの電子機器の画面を見比べながらキーボードを叩く。
検索結果は一件。
果たして、近所のレンタルショップには在庫が一つだけあるようだった。
明日のバイト帰りにでも寄ろう、と予定を立てて一旦ブラウザを閉じる。
そして、そういえば酢昆布がどうとか、と思いだした柔は閉じたばかりのブラウザアイコンをまた正確に二回クリックした。
ネット上に噂でも流れていれば、面白い情報でも拾えるかもしれない。
「……?」
ふと、検索する為にキーを叩こうとしていた手を止める。
来客を知らせる呼び出し音が柔の鼓膜を震わせたからである。
訝しげに眉を寄せ、時計を見る。深夜とまでは言えないが、既に夜を回っていることは確かな時間だ。
訪問販売やその他の来客にしては少々非常識とも言える時間である。
どことなく不吉なものを感じて首をひねる柔を余所に、インターフォンは一定の間隔で鳴り続けている。
悩んでいても仕方ないか、と柔は重い腰を上げた。
人見知りの傾向が強い柔は念の為深呼吸をし、覗き窓から訪問者の姿に目を凝らす。
そして――
「……な、なんで?」
驚いて仰け反った。
呟き、しかし終わらない呼出に我に帰ってドアノブに手を掛ける。
がちゃがちゃと音を立てて鍵を回し錠を開け、恐る恐る玄関の扉を開いた。
「こんばんは。夜分遅くに失礼します」
そう言って慇懃に頭を下げてみせるのは、撫子お付きのマネージャー兼ボディガードの桔梗であった。
涼やかな眼差しは真っ直ぐに柔へと向けられている。
桔梗とはほとんど話したことのない柔は、何を言って良いか分からずに押し黙った。
こんな時間に彼女が柔の家を訪問する理由が思いつかない。そもそも、どうやって柔の家を調べたのだろう?
「突然ですが」
柔が見上げる場所にある無機質な瞳は、まるで静かな炎が燃え盛っているかの様に見えた。
「あの」
「何でしょうか。先ほども言った通り、否やは認めませんが」
「何で……何故なんです、か?」
二人の間にある空気を震わす柔の声は、酷くひ弱で頼りない。
自身そのことを悟った柔は緊張で乾いていた唇を舐め、ゆっくりゆっくりと桔梗の目に視線を合わせる。
そうして視線を合わせたまま、桔梗は無表情に少しだけ首を傾げた。肩口で切りそろえられた髪の毛がさらさらと流れる。
本来くすんだ茶色に見える彼女の髪は、頼りない蛍光灯の下、どこか黒に近い暗褐色にも見えた。
「何故、とは?」
「その……」
一度言葉を止め、言いたいことを胸の中で形にしてから口から吐き出す。
「ええと」
数度言葉を交わしただけだが、少しだけ柔は落ち着いてきていた。そうして心の中に湧きあがるのは、強い疑念だ。
それをはっきりさせるため、柔は先ほどまでより冷静に頭を働かせる。
「何で、連絡を取らないようにしないといけないんでしょう……?」
ただ、気弱さだけは如何ともしがたいようである。
そんな柔から一度視線を外し、桔梗はふむ、と頷いて整ったおとがいに手を当てる。
無感情な鳶色の視線から期せず逃れて柔は内心でほっと息を吐いた。
「良くないからです」
そして、桔梗は宙空を見詰めたまま、一言だけ呟いた。
意味が分からず、柔は思考に疑問符を得る。
視線だけを戻し、その不思議そうな顔を見てとった桔梗はその体勢のまま更に、
「要するに、貴方の様な人がクイーンと連絡を取れる状況にある、ひいては他人から見て親しそうに会話出来る関係にある、というのが良くないのです」
そう、口にした。
「はぁ……」
生返事を返す柔に、ほんの微量の苛立ちを感じた桔梗は睨めつける様に柔の顔を見、少し強めに喉を震わせる。
「私は貴方という人間を欠片も認めていません。有能でも、優秀でも、財がある訳でも、権力を持つ訳でも、コネを持つ訳でもない。ただの一般人に過ぎない前田・柔という男がクイーンの交友関係に含まれていても、何一つ良いことはない、と判断しました。むしろ、これまで低俗なゴシップ記事と殆ど無縁で来たクイーンにとっては、有害でしかない、と言っているのです。仮に前田・柔、貴方と何か会話している所をカメラマンにでも撮られたら、どうなると思いますか?」
滔々と立て続けに物を言う。
流石に、ここまではっきりと言われてしまっては柔にでも理解が出来るものだ。
桔梗の発言がすっかり頭の中に回り切るまで少し間を挟んで、柔は唇を開く。
しかし。
「……っ」
反駁か、疑問か賛同か。出るはずの言葉は、はっきりとした音には成らなかった。
どうなっているのかと腕を上げ、口元に指を這わせる。
音を紡ぐ為に使われる声帯も、明確に音を形作る為の下も唇も、無様にがたがたと震えていることだけが分かった。
もう、何を言おうとしていたのかすら分からない。
少し前までの柔なら、このまま何も理解出来ず、口に出来ぬままに終わっていただろう。
だが皮肉にも、ここ最近の撫子とのやりとりでほんの少しだけ利口になってしまった柔の頭は、漠然と桔梗の問いの答えを探し出していた。
深く考えるまでもない。世界に名だたる大女優と、自分が醜聞を起こしたらどうなるかなど、簡単だ。
ゴシップなど、明確に『黒』である必要はないのだ。出来るだけ『黒っぽく見えれば』、それはそのまま大衆に受け止められる。
むしろ、どうして今まで気付かなかったのか。
「人気が……」
「そうでしょうね」
少なくとも、決して好意的には受け取られまい。群衆は喜劇も好むが悲劇もまた、好むのである。
彼女の経歴にはっきりとした傷が刻まれるであろうことは、想像に難くない。
何故なら、柔はその経歴性格社会的地位、どこを探っても撫子と釣り合わないのだから。
性別信条人種年齢美醜を問わず、大勢のファンの羨望の的として君臨する彼女の相手が何の取り柄もないブ男だと、誰が好き好んで認めると言うのか。
最初の邂逅はまだしも、最近の食事風景など見られるのはもっての他だろう。
柔にしても、撫子の熱烈な――他人の迷惑や心情を意に介さないタイプの――ファンから嫌がらせに合うのはご勘弁願いたかった。
多数の悪意に晒されて平然と日常を歩める程、柔の精神は強くないのは確かなのだ。
「メールの遣り取り自体は不都合ないように思えるでしょう。しかし、それも何れは会う為の約束に繋がらないとも限りません。何よりこれは個人的感情ですが、私は前田・柔、貴方のことが嫌いです。私に取って見てくれや金や権力やコネは関係なく、もしも貴方がクイーンに相応しい心根の持ち主であったならば、私は差し出がましい真似は一切せずに沈黙を保ったでしょう。ですが貴方からは何の信念も覚悟も見えて来ない。そんな人物がクイーンの周囲に居るのは――許容、出来ません」
「あ……」
では、と素気無く言い残して桔梗はその長身を翻す。
古びた音を立てて閉じて行く扉の向こうに、闇に沈んでいく麗人の背中がちらと見え――すぐに消える。
目の前にあるのは見慣れた我が家の玄関だけだ。
カツカツと小気味良く一定のリズムで地面を叩く彼女の靴音だけが、呆然と立ち竦む柔の耳の奥に響いていた。
身よりも精神を痛烈に打ち据えた衝撃から立ち返れぬまま。
呆然自失の態で思考を停止することしか出来ない柔の手から、握っていたままの携帯が滑り落ちる。
『ご機嫌ようですの』
玄関先の暗がりの中、小さなディスプレイの中央で丸ゴシックな文面がただ、空しく浮かんでいた。