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黒髪の女王様  作者: 三角
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第四話 逢着のこと。









 一度目は気まぐれ、二度目は偶然として。


 三度目は一体何の力が働いたのだろうか。





「あのぅ……もしかしてな、なで、いやいいです……!」



 柔は伸ばしかけた腕を引っ込め、首を竦めて後ずさる。


 声を掛けるまでは分らなかったが、酷く不機嫌な雰囲気を感じ取ったからである。


 椅子に腰掛け、優雅に足を組んでテーブルに肘を着いている女性は、ちらと振り向き、視線を外し、そしてまた振り向いた。



「あら……お待ちなさい」



 決して大きな声では無いものの、彼女の声はすっと空間を突き抜け、不思議な強制力を持って柔の動きを縫い止める。


 ぴた、と踵を返しかけていた体を停止させ、柔は若干の怯えを含んだ視線で彼女を見た。



「――お座り下さいな」



「は、はい」



 柔が初めて見る、女王様としてのお達しである。逆らうことなど出来よう筈もない。


 従順な従僕の如く面を伏せ、柔はなるべく撫子から遠い席を選んで腰をおろした。



 不機嫌さ丸出しの女王様との、三度目の出会いである。



















 逢着のこと






















「お疲れ様ですー」



 おう、お疲れ。そんな声に背を押されながら、柔は建物の外に出た。


 鼻をひくひくと動かしてみる。


 まだ夜が開けてから幾獏も経って居ない時間だと言うのに、既に空気はしっかりと夏の匂いを含んでいる。


 爽やかな朝日を眺め、しょぼしょぼと目をすがめた柔は、ほわりと大きく欠伸を漏らした。


 背後の建物を振り返る。


 つい先ほどまで、柔が働いていたバイト先である。


 主な仕事は商品の仕分け。宅配業者と提携しているため、毎夜毎夜大量の物品がここに届く。


 昼のシフトもあるにはあるが、柔はここ二年程、夜半から早朝までの遅番シフトの要員として雇われているのである。


 深夜ぶっ通しの仕事だけあって、時給換算で千円を軽く超える給金は上々のものだ。


 もっとバイトを増やしてもいいのだが、柔の体力では週に四度はコンビニで、三度は深夜の仕分けバイトをこなすのが精一杯なのである。


 独りの柔は、仮に体を壊して入院でもしたら大変だ。お金もかかるし良いことは一つもない。


 どうしても金を稼ぎたい柔にとって、無理をしてでも働くかどうかというのは微妙なラインの判断だった。



「……ふぁ。帰って寝よう」



 早朝といえど、人通りが耐えることは余りない。それでも昼間よりはずっと静かな街道を歩きながら、柔は一人ごちる。


 今日はもうバイトはない。その代わり、明日は早朝からコンビニ、深夜から仕分けと詰まっている。


 スケジュールを思い起こして、不意に漏れそうになる溜息を抑えて柔は一度大きく深呼吸をした。


 道路沿いに植えられた街路樹を見上げながら、ぼんやりと歩く。


 ここ二年通い詰めているバイト先から家までの最短距離は、意識していなくても足が覚えているから問題はない。


 その証拠に、青々と茂る木々の葉を眺めたりちゅんちゅんと可愛らしく鳴き声を上げる小鳥に目を細めたりしながらも、柔の足は止まらない。


 慌ただしいエンジン音を響かせてアスファルトを駆け抜けていく車などには、柔は目もくれていない。


 興味がない、というより、柔はそもそも自動車免許も持っていないのである。


 何度も免許くらい取るように、と勧められたのだが、柔は今まで頑ななまでに自動車免許というものに興味を示さなかった。


 友人と遠出するようなこともなければ、普段の生活で車が必要になる事態もない。


 免許を取るのに少なからずのお金が掛かるということが、柔に免許の必要性から目を背けさせているのである。


 いつかは取ろうとは思っているが、今ではない。そんな風に、柔は思っている。


 何気なく視線を下ろす。街路樹が途切れ、大きな六車線の道路が行く手を遮っている。車の通りは少ない。


 赤信号でも、渡ろうと思えば楽に渡れるくらいである。しかし柔は足を止めた。


 生まれてこの方信号無視をしたことがないのは、柔にとっての小さな自負だ。


 その隣を、学生と思しき若者や、自転車に乗った主婦らしき人が抜けて行く。


 信号機が青になるのをじっと待って、柔は再び足を動かした。青信号お馴染みの音楽が流れるのを聞き流しながら、視線を彷徨わせる。



 そういえば。


 そういえば、と柔は思う。


 この先を真っ直ぐ進まず、一つ右に曲がれば椅子とテーブルの据え付けられたあの場所がある。


 少しだけ回り道になるものの、すぐそこだ。


 数瞬だけ逡巡して、柔は右に体を向けた。何か深く考えてのことではない。


 ただ、少しだけあの椅子に座って、冷たいココアでも自販機で買って、落ち着こうと思っただけである。



 かくして、柔は予想外の人物をそこに見出すことになった。


 視線の先、いつもは特に誰も腰掛けていない柔の『指定席』には、見慣れない人物が座っている。


 少し近づくと、それが女性らしいことが分かった。シルエットは如何にも細く、そしてどこか凛としている。


 首を傾げつつ、柔はその女性の顔が目に入るように少しだけ進路を変更した。


 余り不躾にならないように気を払いつつ、そっと視線だけを飛ばす。



「かったりーですわー」



 と、聞き覚えのある声で聞きなれない言葉が耳に届く。聞き間違いかなと頭を振り、柔はもう少しだけ慎重に近づいた。


 流石にここまで寄ると、男か女かどころか、どんな服を着ているのかまで良く見える。


 柔が驚いたのは、その美貌だ。


 編み目のざっくりとした白の半袖サマーセーターの下に、黒のタンクトップが透けている。


 上から下へ、徐々に色濃くなっていくグレーのロングティアードスカートからは、僅かに真っ白な足首が覗き。


 その足先は落ち着いたシルバーの華奢なミュールに包まれている。


 すっきりした可愛らしいミニマムシルエットのキャスケットの下には赤縁のアンダーリム、絹の帯のような黒髪は流すまま風に遊ばせている。



 どちらかと言えば露出も少なく、地味な格好ではあるが、彼女がかなりの美人であることは柔の目を疑うまでもなかった。


 紛れもなく、しっとりと落ち着いた妙齢の美女である。


 困惑の息を吐き、柔はまた首を傾げる。



「あぁーあ、暇ですわ暇ですの! つまらなくてーひーまーでーすーの!」



 今度こそ聞き間違えなかった。この前とはまた随分趣が違うが、確かに撫子の声である。


 それに、この前のように雰囲気まで『変装』している訳ではないらしい。声音も雰囲気も、初めて会った時のものと程近い。


 見回してみたがお付きのマネージャーの姿はない。


 今度は一体何に背を押されたのか。柔は更にもう一歩近づいて、気付けば彼女に声を掛けていた。










「お久しぶりですの」



「は、はい。そうですね……」



 柔は、もう出来ることならば早く帰って布団に潜り込んでしまいたい気持ちで一杯だった。


 柔は、自分が余り他人の感情の機微に敏い男ではないと自覚している。


 それだけに、自分にも分かる程この大女優が不機嫌さを撒き散らしているというのが、どれだけよろしくないことなのかも分っていたのである。


 まず持って、他の人間なら話しかける前にその剣呑な雰囲気を感じ取ってそっとその場を辞するであろう。


 今の柔の気分は、正に女王の前に転がされた哀れな豚そのものである。丸焼きから処分までお好きにどうぞ、といった所だ。


 そんな訳で、柔は卑屈な程身を小さくして息を潜めていた。



「撫子、今、相当不機嫌そうに見えるでしょう?」



「は……」



 はい、と言うだけの度胸は柔にはない。まごまごと口を動かして、意味を為さない呟きを作るのみだ。


 そんな柔の様子に構わず、依然頬杖をついたままの撫子は一度ふぅっと息を吐いた。



「ごめんなさい、ちょっと、嫌な夢……いえ、嫌なことがありまして。そんなことで落ち込む自分に嫌気が差していたんですの。手持無沙汰で外に出たはいいものの、暇で暇で」



「え」



 貴女でも落ち込むようなことが、あるんですかと言いかけて柔は慌てて口を噤んだ。言い方が良くないと気付いたのだ。


 そのままの表現だと、非常に失礼な言葉として受け取られるだろうことは想像に難くない。


 しかし、上手いこと自分の中に湧いた疑問を言い表せるような器用さは柔とは無縁のものである。



「そんな訳で、気が滅入ってますの。よければ、お話相手になって下さいません?」



「……はぁ」



「うふふ」



 そんなことを考えていたのがいけなかったのか、柔は反射的に生返事を返してしまっていた。


 これも失礼な言い方だ、と慌てて前言を撤回する前に意外にも撫子はくすりと笑ってみせる。


 困惑した柔は、脂汗を滲ませながら目線だけで撫子に疑問を投げかけた。



「いえ、まぁこういうこと言うの、自慢臭くて好きじゃないのですけど……撫子からお誘いしたですのに、そんな気のない返事を返して下さるのが逆に何だか可笑しくって。大抵の殿方は可哀想なくらい有頂天になったり、自信満々に身を乗り出したり、正直言って疲れる方ばかりなんですもの」



「はぁ」



「あら、またですの? うふふ」



 説明されても何だか良く飲み込めない柔である。


 それでも、目の前の女性が柔に分かるくらい雰囲気を和らげたのだけ感じ取ることが出来た。


 ほっと安堵の息を吐き、そして目の前に居る人が誰なのか思い出し、柔は今度は違う緊張でガチガチになった。


 そもそも、単純に柔は女性に対して免疫がない。しかも、目の前に居るのはすこぶる付きの美女である。


 数度なりとも言葉を交わしたことがあると言っても、とてもではないが自然体で過ごすことなど出来そうもなかった。


 とは言っても、柔はいつもどもり気味で挙動不審なので、ある意味ではいつも通りなのかもしれないが。


 それに柔は前回会った時から、時間の許す限り撫子の出演作品を探し、見ていたのだ。


 瞬間的に感動したシーンや何やかやのことが脳裏を過ぎり、ただでさえ動きの悪い舌がますます回らなくなる。


 女性とはどんな話をすれば良いんだろう? 世間話? 見た映画の話? 見当もつかない。



「うーん、というか、良く撫子に声掛けられましたわね? 自分で言うのも何ですが、物凄ーく不機嫌な感じだった筈ですのに」



「い、え、あの、声掛けるまでき、気付かなくて……」



 顔を俯ける。柔はこれまでの人生の中で、何度もこの鈍感さによって失敗してきたのだ。馬鹿にされたり揶揄われたり。


 偉大な女王様に呆れられるのは何だか面白くない。


 鈍く、他人の嘲弄すら感じぬ様にと鈍化された心が、何故かちくりと痛む。



「うふ」



「?」



「うふふ、うふ、き、気付かなかったですって? あはははははは!」



 そんな柔の葛藤もどこ吹く風、撫子はさも愉快そうに声を上げて笑いだした。風に乗って、軽やかな笑い声が吹き抜けて行く。


 傍の街路樹の枝にとまっていた小鳥達が合わせる様に甲高い声で囀り、一瞬だけハーモニーを奏でて消えた。



「え……え?」



「うふふふ! ごめんなさい! 貴方って、とても面白い方ですのね」



「ええ!?」



「何だか、とっても和みますの」



 ん、と笑顔で小首を傾げて見せる撫子に、柔は首まで一瞬で真赤になった。それを見て、撫子はまた笑う。


 余程面白いのか、撫子はそのまま十分も続けて笑っていた。


 というより、笑う撫子を見て挙動不審になる柔を眺め、それを楽しんでいるようであった。


 ひとしきり笑い、やっぱり涙を拭いながら「あは、沢山笑いました」と笑いをおさめた撫子は、はぁっと息を吐いてニコニコ笑顔を浮かべている。


 ただし、その瞳の中に悪戯っぽい光が煌いているのに柔が気付いているかどうか。


 何故か気押され、仰け反り気味になる柔に対してますます笑みを深めた撫子は茶目っけたっぷりにこう言った。



「朝ご飯は召しあがったんですの? そうでないのなら、ご一緒しましょう」



「え、えぇ!?」



 柔は椅子から飛び上がらんばかりの勢いで目を見開いた。口も大きく開けていて、鏡で見たら如何にも間抜け面だろう。



「この前頂いたティーカップ、大事に使わせて頂いてますの。確かあれ、バイト先の店長さんに唆されて、選んだのでしたわよね?」



「あ……はい」



 ぼんやりと店長の顔を思い浮かべる柔。そう言えば、結局文句は言えなかった。



「ふむ、貴方は、元になったストーリーはご存じではなかったですわよね?」



「う、い、余りそういうのは詳しくなくって」



「うふふ。教えて差し上げますわ。エルメスのティーカップを貰った方が、ゆ・う・き・を・出・し・て、相手をお食事に誘うんですの」



「あぇ」



 勇気、食事に誘う。余りに自分からかけ離れた言葉に、柔の頭は真っ白になった。



「っていうより、ただ単にお腹が空いただけなんですケド……期待しました?」



 悪戯っぽくウインクをしてみせる撫子の姿に、柔は何も考えられずただ小さく頷いた。


 あ、と思っても既に頷いてしまった事実は取り消せない。恥ずかしくなってがっくりと項垂れた。


 それを見て、またちょっと撫子は笑う。


 しなやかな動作で立ち上がった撫子は、一度帽子を押さえ髪の毛を払い、くるりと振り返った。



「折角ですから、ささやかながら御馳走して差し上げます。さ、行きますわよ」



「……はい」



 勿論、柔に断るという選択肢など用意されている筈もないのである。至って素直に頷き、席を立つ。



「……あ」



「あの、ど、どうかしたんですか?」



 颯爽と歩き出してすぐ、撫子は再びくるりと振り返る。


 その顔にありありと気まずげな表情が浮かんでいるのを見て、柔はついっと首を傾げた。



「あー、そのぅ、撫子としたことが、非常に大事なことを忘れてたですの」



 柔にでも分かる、心底ばつの悪そう顔である。


 女王に相応しくない間を挟んで、息を吸い、撫子はゆっくりと口を開いた。



「……貴方のお名前、何ですの?」



「あ」



 そう言えば、自己紹介の一つもしていないのだと柔は思い出した。こちらが名前を知っているだけに、今まで気付かなかったのかもしれない。



「じゅ、柔です。前田柔。その、や、柔らかいって書いて、柔です」



「あら、良いお名前ですの。では、私は三丈撫子……本名も撫子ですのよ?」



「し、知ってます」



 柔が脊髄反射でそう答えた瞬間、撫子はチェシャ猫のような笑みを覗かせた。



「あら……お詳しいのね? 調べたんですの?」



「う……」



「うふふ、構わないですの。それより……本当に、ごめんなさいね?」



 ぱむ、と手の平を打ち合わせた撫子が眉をハの字にして小首を傾げて見せた。


 先程までの意地悪な笑みはとうに消え去っている。


 爽やかな陽光を受ける黒曜石の瞳は、今は申し訳なさそうな、それでいて不安気な色を満々に湛えている。


 小悪魔の如き魅力を放つ仕草に途端に頬を染め、引っくり返らんばかりに仰け反った柔はもごもごと声にならない言葉を口の中で転がした。


 こう言うとき、さっと「お気になさらず」とでも言えれば格好もつくのかもしれないが、生憎柔の普段使いの辞書にはそんな言葉は載っていない。


 結局、柔は何か口にすることも出来ずただ無言で何度も首を横に振った。それこそ、お気になさらず、という意味を込めて。


 有難うございますですの、と口を挟んだ撫子はほっとした様に頬を緩め、自然な動作で腕を組んだ。


 片腕だけ上げてぴんと伸ばした人差し指を柔らかそうな頬に当て、少し視線を上げる。



「柔君、柔、柔たん、柔ちゃん、柔さん、柔様。……ふむ、うん」



 そのまましかめつらしい顔でそう呟いた撫子は、一転して破顔して柔を見る。


 零れるような眩しい笑顔に射られて、柔はますます体を緊張させた。



「では、柔?」



「は、はひ」



「午後からお仕事がありますので、それまでの間ですけれど――撫子に、付き合って下さいますわよね?」



 疑問の形は取っているが、これは撫子の――芸能界に君臨する女王様のご下命である。


 あれだけ柔を苛んでいた眠気も今はどこへやら、魅力的過ぎるその命に、柔は珍しくも思い切り良く頷いた。



「――はい!」



 にっこりと可憐に笑う撫子の顔が、酷く自然な物に見えるのは演技なのか、そうでないのか。



 いずれにせよ、柔には預かり知れぬことである。











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