第三話 寸志のこと。
「あら、奇遇ですの」
「クイーン? ああ……先日の」
昼過ぎ、程々の人通りで賑わう街中。
柔は、見覚えの無い二人組の美女に話しかけられて咄嗟に何も言葉が出てこず、ただわたわたと手を動かした。
不審な柔の様子に、スーツ姿とカジュアルなファッションで対照的に決めた女性らが首を傾げる。
「いえ、あの……どちら様、でしょうか……?」
傍目にも困惑して、周囲の(主に男性からの)羨望の視線を浴びている柔の姿に女性はちょっと笑って、不意にぐっと柔の耳元に唇を寄せた。
密やかな吐息が柔の耳をくすぐり、それが柔をますます緊張に追いやっていく。
「な・で・し・こ、ですの」
「ひえぁ!?」
しかし、その後に続いた言葉はより一層緊張を誘うものであった。
撫子はアンダーリムの眼鏡をついっと下げ、先日から柔の脳裏に焼き付いて離れない、蠱惑的な吸引力を持つ黒曜石の瞳を覗かせる。
悪戯っぽい光がその瞳の中に輝いているのを見て、柔はようやっと彼女が誰なのか合点がいった。
寸志のこと
芸名、撫子。所属芸能事務所の発表によると今年で満二十二歳で、芸歴は約六年。
芸歴の浅さに反して、現在日本で最も売れている女優であり、そして最も世界で注目を浴びている女優である。
今回の特集では銀幕の女王とも言われる彼女の芸能歴の、そのほんの最初の部分だけをお伝えすることにしよう。
六年前。当時高校生二年生だった彼女は、都内某所で開かれた、ある監督が企画する映画のオーディションに飛び入りで参加。
ベストセラーの映画化という話題作だっただけにハイレベルな対抗者を蹴散らして、見事台詞のある役を射止めることに成功する。
主演には劣るが、後にその年の最優秀映画賞を獲得した映画のちゃんとした一役――主人公とヒロインの共通の友人――である。
それなりに実績を積んでいた監督による異例の大抜擢ということで、当時の映画界では大分賛否両論あった。
しかし、映画の公開に足を運んだ記者はこぞってこう書きたてたのである。
天才現る。
彼女には極めて稀少な天与の才が与えられているのだ、と。
一人の評価が幾人もの興味を引き、その人達が下した評価がまた幾人もの興味を引き、と撫子の噂は瞬く間に広がっていった。
実際映画の出来は前評判通り素晴らしく、特に、撫子の演技は目を瞠る程の水際立ったものであったのである。
辛口として知られる評論家も手放しで絶賛した彼女の演技は、ストーリーから見れば一脇役ながら主演女優にも迫る存在感を見せ、作品に深みを与える程であった。
かくして日本の女優として華々しいデビューを飾った彼女は、以後えり好みせずに兎に角色々な仕事に手を出した。
テレビ、ラジオ、映画。アイドル、歌手、グラビア、声優、コメンテーター。
多種多様な分野において如何なく非凡なその才と魅力を見せつけながらも、彼女が最も輝くのはまさに舞台の上であった。
たったの一動作で目の肥えた観客の視線を惹きつけてしまう圧倒的な存在感。
一番最初の台詞で観客の耳と心を鷲掴みにし、彼らを物語の世界に引きずり込んでしまう、透き通っていて落ち着いた美声。
現実に目の前でその物語が繰り広げられているのかとすら錯覚する様な驚異的な演技力。
目の配り方、表情一つ取っても当代一流の女優に相応しい絢爛たる引力であると、当時彼女の舞台を観覧した者達はインタビューに答えている。
ところで。とかく才能ばかりもてはやされがちの彼女であるが、今回はその努力の方にも是非言及しておきたい。
あらゆる役風で――おきゃんな少女から、それこそ時には物乞い、娼婦の役まで――何なりとこなすのは彼女の魅力の一つである。
しかしこの記事をお読みの賢明なる読者諸氏はご存じだろうか。
彼女は一つの役を演じるに当たって、我々常識人が数えるのも馬鹿馬鹿しくなるような量の資料を参照するのである。
中世の物語の姫君役ならば、似た時代の社会通念やマナー、常識、言葉遣い、娯楽から職業一覧等々。
近未来の物語であれば、現在の科学知識を調べた上で物語の世界の人物になりきり、最も自然だと思われる役の性格を掴み。
原作者が居る作品であれば、押し掛けてでも互いに満足するまで意見を交換し合い、登場人物の特徴や正確を把握する。
仕事の合間や睡眠時間を削って彼女が読み解いた本は、編集部が確認しただけでも年間三百冊は越える。
台本を書いた監督よりも、余程その作品に詳しいのではという話が一時期流行った位である。
この努力を、全くの無駄なものとする識者も居るがそれは間違いだ。
世の中には、受け取った台本を斜め読みにし、適当なキャラ付けで良しとしてしまう俳優・女優や監督が少なからず存在する。
その中でこれだけの努力をする彼女は、確かに努力に見合うだけの結果を残しているのだ。
それに加えて、彼女はそうして読み漁った本から深い見識を広め、一流のコメンテーターとしても名を馳せている。
そういう努力の元に生まれ出た故に、彼女の演じるキャラクターは例外なく生き生きと鮮やかに躍動しているのである。
その活躍ゆえに彼女が丸々半年間も芸能の世界から身を引いていた空白期がくっきりと目立つのだが、それは次項にて解説したいと思う。
さて、彼女の異名についてであるが。
これは彼女がその頭角を現してより数年間、未だにただの一人にも演技の場で後れを取っていないことに起因する。
大和撫子と呼ばれるだけあって、見た目も言動も清楚そのものの彼女であるが、こと演技に関して誰にも譲らないのは有名に過ぎるだろう。
新鋭の女優から大ベテランに至るまで、彼女は何一つ物怖じしない。自身こそが演技の頂点に立っているのだと公言して憚らない。
これだけ見れば何とも血気盛んというか、とんだ大言壮語を吐いているように見える。
だが、彼女は正に自身の演技力で持ってその言葉を証明しているのである。
決して他の女優に対して攻撃的な言葉を用いることはなく、ただ撮影の現場でその実力を見せつけることで反論を封じる。
並大抵の実力ではこうはいかないだろうが、彼女はそうやって並居る女優や監督の意見と真っ向から戦い、そして勝利を続けているのだ。
事実、彼女は監督のイメージする、というよりそのキャラクターを最も魅力的に見せる演技を心得ているし、それは観客に広く受け入れられている。
結果。
「結果、彼女は大和撫子、銀幕の女王、クイーンの異名を世界中に知らしめる名女優として君臨しているのである、かぁ……」
そこまで読んで、柔は開いていた雑誌『撫子』をパタンと閉じた。
以降にはまだまだ彼女の来歴が綴られているが、柔にはどれがどの賞なのかとんと見分けがつかないので特に興味はない。
というより、スケールが大きすぎてついて行けなかった。名前を冠した雑誌が出ているとは、何というネームバリューなのだろう。
流石に月刊だったりはしないようだが。
「ど、どうしよう……」
ぎし、と椅子の背もたれに凭れかかる。柔は今、街中に無作為に据え付けられている、余り目立たない白い椅子に腰掛けているのである。
誰が作ったのか定かではないが、テーブルもセットになっているこの場所は、休日の柔の『行きつけ』だ。
程良く街中にあるのに人の意識は向けられず、柔以外の人間がくつろいでいるのを余り見たことはない。
家からも程近いし、買い物帰りにちょっと腰かけて、一息つくのに丁度良い位置にあるのだ。
夏には頭上にある樹の葉が青々と茂り日差しを遮ってくれるし、春だと綺麗な可愛らしい花を咲かせている。
流石に秋や冬は寒くて長時間居座ることはないが、ここに腰掛けて鯛焼きを頬張るのは柔の至福の時間の一つである。
ぐぐっと体を伸ばした拍子に足が動き、足元に置いていた袋がガサリと音を立て、揺れる。
柔は慌てて体を起し、袋を拾い上げた。幸いにも中身が潰れたりした様子はない。ほっと息を吐く。
袋の中にはいかにも高級そうな箱がでんと収まっている。中身は、高級な陶器だ。
「買ったはいいものの、どうしようかなぁ」
もう一度呟いて、柔は高い空にぽかりと浮かぶ太陽を見上げた。
今日は半休で、午後以降はバイトが無い。柔は、その手隙の時間を使って買い物に出ていたのだった。
目的は、この前柔を助けてくれた二人組へのお礼の品である。
そのついでにと寄った本屋でデカデカと手元の雑誌が山の様に積まれていて、その表紙を飾る顔に見覚えがあった柔は思わずそれを手に取っていた。
普段は雑誌など買わないのにも関わらず、である。
結果、柔はそこで初めて『撫子』の有名さを知り及ぶことになり、自分が如何に失礼(に違いない!)言葉を使ったのか理解した。
知らない者の居ないとまで言われる国際的有名人に対して、どなたか知りませんが、とは。
柔は恥ずかしさで顔から火が噴き出そうになって、ぼそぼそと言葉にならない言葉で一人ごちた。
それにそもそも、そうだ、お礼の品を買ったはいいが柔は彼女らの連絡先も知らないのである。
どうやって渡せばいいのか見当もつかない。柔はそれに気が付いて、つくづく自分の愚鈍さが嫌になった。
助けられたことで舞い上がっていたのだろうか。人としてお礼は是非したいが、まずもって会う方法がない。
ふう、と溜息を吐き、テーブルの上にそぅっと袋を乗せる。その際に雑誌にちらと目をやって、柔はあっと声を上げた。
「そうだ、事務所に郵送すればいいんだ!」
思わず両手を打ち鳴らそうとして、まだ袋を掴んだままでいることを思い出して慌てて袋から手を離す。
全く、自分でも目を見張るような愚鈍さだ。有名なら有名で、渡す方法はあるじゃないか。
大きく頷いた柔は、にっこりと笑って雑誌に手を伸ばした。雑誌の癖にやけに分厚いこの雑誌ならば、事務所の連絡先位は載っているかもしれない。
だから――見知らぬ美女達に声を掛けられた時は、全く持って不意を突かれたのである。
柔は半ば仰け反りながら、それでも無意識の中で目の前の女性らを鑑賞していた。それは、男性の性なのかもしれない。
目の前に居る大女優とそのお付きのマネージャー殿は、どうやらほんのり変装しているらしい。
柔はおっとりとその姿に視線を巡らせた。
薄い赤色したアンダーリムの眼鏡をちょこんと掛け、長い黒髪は頭の横で縛ってサイドポニー。
半分だけ晒された真白なおでこは、日差しの下で一層白く輝いている。
じわじわと気温が上がるこの季節、パステルカラーを織り交ぜた活動的なパンツルックも目に眩しい撫子の姿は、とても有名人には見えないものだった。
雰囲気がまるで違うのだ。
事実、周りの人間は自分たちのすぐ側に撫子が居るとは気付いていない。
テレビに出るファッションと少し路線の違う格好をしているだけなのにも関わらず、撫子は見事なまでに「折角の休みにちょっと繁華街まで遊びに来た女の子」として周囲に溶け込んでいた。
この前と同じ、スーツ姿の桔梗と並んでいると、まるで年の近い姉妹のようだ。
さしずめ働いているお姉ちゃんの元に遊びに来た妹、だろうか。
マネージャー殿の方も、この前とは印象の違うメイクを施している。何と言えばいいのだろうか、この前は仕事の出来るキャリアウーマンといった風情だったのが、今は目立たないが堅実に仕事をこなす、地味な女性社員がいい所だ。
「あら、その雑誌。遂に撫子のことに興味を持ったんですの?」
す、とそのほっそりした指が指す物を見て、柔は慌てて立ち上がり、雑誌を取り上げた。
まさかこんな所で本人に会うなど思ってもみなかった分、異様に恥ずかしい。瞬く間にその顔が赤く染まった。
「あっ」
「うふふ、ちょっとばかり大袈裟に書いてあると思わない? 桔梗」
「御冗談を」
さっと柔の手から雑誌を取り上げ、ぱらりと捲って見せた撫子は首を振り仰いでちょっと笑った。
無表情の仮面を張り付けた桔梗は、おざなりに肩を竦める。
「あ!」
突然、柔が叫んだ。緊張で汗が止まらないし、何より頭の中が真白になっているが、テーブルの上に鎮座している物のことを思い出したのである。
震える手で袋を両手で持ち上げ、それを撫子の方に差し出す。
不思議そうに煌く瞳に射られてしどろもどろになりながらも、柔は何とか一言だけ口にした。
「あのっ、お礼……!」
「まぁ、よろしいですのに」
大したことじゃありませんもの。そう笑って、ひらひらと手を振る撫子に対して、柔は失礼にならないようにもう一度袋を押し付けた。
思わず受け取ってしまった撫子が困ったように眉を寄せているのを見て、泡を食って飛び退く。頭を下げた。
「あ、あり、有難う御座いましたっ!」
だらだらと流れる汗が止まらない。そのまま、柔は後ろを向いて逃げ出したくなった。慄きにも似た、身を縛る緊張感に圧されて、くるりと反転する。
「あ、ちょっと。お待ちなさ……桔梗、捕まえて!」
柔は、そのまま二,三歩と駆けだした所であっさりと桔梗に捕えられる。
幸か不幸か、忠実なるマネージャーは柔の身動きを封じる為にわざわざ、長身を活かしてがっしりと柔を抱きとめていた。
妙齢の(それも極めて素晴らしい肢体の持ち主の)女性に抱きしめられた柔は、羞恥で首まで真赤に染める。
抵抗らしい抵抗も出来ず、「そこに座らせなさい」と手振りで示す撫子に従って、ぎくしゃくと椅子に腰を下ろした。
「ふぅむん……」
同様に、柔の向かい側に腰を下ろした撫子は、押しつけられた袋をためつすがめつ眺めて、にっこりと微笑んだ。
「逃げないで下さい」
柔の背後に陣取った桔梗は、肩に手を乗せて動きを規制している。
何だか訳の分からない状況に、柔の呼吸は浅く早くなった。心臓はとっくに早鐘を打ち鳴らしている。
出来ることならば、このまま家まで逃げ帰ってしまいたい。
切実にそう思う柔の脳裏に浮かぶのは、自宅の布団、そして畳の匂いだった。どこまでも、平和な男である。
「……? ティーカップですの? これは」
「エルメスですね」
動くに動けない柔の面前、優雅な手つきで柔の献上品を取り出した撫子は、中身を見るなり首を傾げた。
どうやらお気に召したようで、頬を緩めたままティーカップの表面を指先で撫でている。
「ありがとうございます! 可愛いですわね。んー……それにしても、どうしてティーカップを選んだんですの?」
「う、う、え……」
言葉にならない柔を宥めるかの様に、柔らかく心地よい風が吹き抜けた。
ん、と気持ちよさそうにその風を受け止めた撫子は、再び首を傾げて先を促す。
次いで、早く答えろ、と言わんばかりに柔の肩に乗せられた桔梗の手に力が籠った。
「はい! あの、世間では助けて貰った人は、エルメスのティーカップを送るものだと、その、バイト先の店長が……」
「それ、信じてるんですの?」
「え、ち、違うんですか!?」
「……う、うふ、うふふ!」
「あぁ……そういえば、そんな話もありましたか」
柔をほったらかしにしたまま、撫子はお腹を抱えて笑いだした。笑い過ぎで滲む涙を払う指先も追いつかない様子で、ころころと笑い転げている。
仮にも街中で声を上げて笑う彼女に、少なくない数の視線が集まったが、やはり誰も彼女が撫子だとは気付かない。
「何か、おかしい所が……?」
気の毒に、眉を下げた情けない顔で問う柔。
その顔に向かって、ようやく笑いを収めた撫子は涙を拭いながら口を開いた。
そして堪え切れなかったのか、もう一度ぷっと吹き出す。
さも楽しげに笑う彼女の様子に、柔は少しずつ落ち着きを取り戻していた。もしかして、ティーカップを選んだのは成功だったのかしらん?
余りに純粋に笑う桔梗の顔に、そんなことを思う。
「うふ、ごめんなさいまし。……あ、貴方が余りにも面白いから、つい笑ってしまって! 多分貴方、その店長さん? に揶揄われたんですのよ」
「はぁ」
ぽかん、と口を開けた柔は、ぱちぱちと目を瞬かせた。上手く意味が飲み込めずに、ただぼんやりと頷いている。
「要するに」
ぐいと柔の肩を掴み直し、口を挟んだ桔梗はこほんと咳払いをした。
「昔流行った小説に、そういうシーンがあるのです。男が女を助けるという逆の状況でしたが」
そこまで言われても、柔には何でこんなにも笑われているのか理解できない。
見上げた先にある秀麗な桔梗の顔は、無表情のままだ。
しかしその顔に、スプーン一杯分の呆れが混ざっている様な気がして、柔はそっと首を竦めた。
「……世間では、助けてくれた人にエルメスのティーカップを送らないといけない決まりや慣習はないのですよ。素直にそれを信じた貴方の馬鹿正直さに、クイーンは笑ったのです」
「……はぁ」
「もう一度、説明しましょうか?」
「……いえ、あのえっと……ええ!?」
随分と間を挟んでから、柔はその言葉を理解した。次いで、落ち着いて来ていた顔の色が一気に青く染まる。
心の中で秘かに、今度店長に控え目に抗議のメールを送っておこうと決めた柔は、がっくりと落ち込んだ。
彼に、面と向かって文句を言うだけの度胸は無いのである。
「あら、気を悪くしました? ごめんなさい、撫子、もう貴方の正直さが何だか可愛くって。馬鹿にしたりした訳じゃないですの」
そして、今度は赤くなった。全く持って、赤くなったり青くなったりと忙しい男である。
「ふふ、素敵なプレゼントをありがとうございます」
にこやかに笑って丁寧に謝辞を述べる撫子の顔を、柔はそぅっと目線だけで伺った。
とてもではないが、美貌の大女優の顔をしっかりと見つめる自信などないのである。
まごまごと口を動かして、す、すみませんと小さく謝る柔の後ろから硬質な声が飛んだ。
「クイーン、彼は恥ずかしくてマトモにあなたの顔も見られないそうです」
「……!」
余りにも的確に柔の心理を言い表して見せる桔梗に、柔は恨めしげな視線をそっと覗かせた。
桔梗本人はどこ吹く風で、さらりと柔の視線を受け流している。
目の前では撫子が興味深げに柔を見詰めていて、穴があったらあったら入りたいとはこのことだと柔は思った。
丸い体を更に丸め、精一杯小さく見せる。
「んふふ、こんな素敵なプレゼントをもらったことですし」
「クイーン」
「……あら、どうしたんですの?」
チェシャ猫の様な笑みを浮かべた撫子の言葉を、不意に桔梗が遮る。
首を傾げる柔の目の前で、桔梗はいつの間にか手にしていた携帯電話を差し出した。
万が一にでも画面を見たりしないように、柔は視線を伏せる。
「あらら……折角のオフ日でしたのに……」
「断りますか?」
「いいのですわ。前々から打診されていましたし、良い機会です。それに、やってみたい企画でもありますし」
首を振りついと立ち上がった撫子は、柔に対して申し訳なさそうに頭を下げた。
これに慌てたのは柔である。当代一流の誉れも高き、天上人にも等しい著名人に頭を下げてもらうような事態はそうそうあり得ない。
良く分らないが、気にしないでくれとの意思をつっかえながら伝えると、撫子は安心したように微笑んだ。
「そう、ごめんなさい。急にお仕事が入りまして……もう行かなくちゃいけませんの。あ、彼女は撫子のマネージャー兼ボディーガードの桔梗です。覚えておいてね? じゃあ、行くですの」
「……クイーン」
「はいはい、それより呼び方、気を付けて下さいまし」
「わかっていますよ、クイーン」
「……んもう」
ばいばい、と先日同様に手を振って颯爽と歩き去っていく彼女らに対して、柔は呆けたように口を開け、ただこくこくと頷いた。
住む世界の違い過ぎる撫子らに、どういう反応をすれば良いのかとんと見当がつかなかったのである。
単純に呆然としていた、といっても間違いでは無い。
二人の姿が雑踏に紛れ、完全に見えなくなってから柔はようやっと、息を吐いてへたり込むように椅子に崩れ落ちた。
「はぁ〜〜〜〜……」
意図せず、大きな溜息が漏れる。
たった数分の邂逅であるものの、よくよく考えれば想像を絶するような体験であったのだ。
ただの一市民である男に、大女優の撫子が声を掛けるなどというのは貴重を通り越して怖れ多い程の非常事態に等しいのではないか。
額に浮かんだ汗を掌で拭い、柔は更に深く息を吸う。殊更ゆっくりと息を吐き出し、それを繰り返すこと数回。
精神的な疲れで、固い筈の椅子にずぶずぶと沈みこめそうな気すらする。
ただ、衝動的に買い求めてしまったお礼の品を渡すことが出来たのは、まさに僥倖と言えた。
それが今日の良いことだ。助けてもらって、ちゃんと(柔なりに)その御返しも出来た。その事実に、少しだけ柔の心が晴れやかになった。
「でも、良い匂いがしたなぁ……」
うっとりと甘やかな撫子の纏っていた香りを思い出し、些かだらしなく頬を緩める。
何はさておき、柔もまた、健全な男であるのは間違いないようである。