第二話 驚愕のこと。
「何言ってんのー、ていうか、今どき撫子たんを知らないなんてもはや人生の損失だよ?ちっちゃい子供からジジババから俺まで、遍く広く大人気なんだから。俺なんかもうファンクラブの会ナンバー二桁台だし出したCDも出たドラマも声をあてたアニメも映画もグラビアもTV番組も舞台も全てコンプリートしてるどころかグッズもちゃんと全種類ゲットで部屋中撫子たんのポスターだらけだぜ!? はぁはぁ……あ、いらっしゃいませー」
「……そ、そうなんですか!?」
二重に衝撃の事実だった。有名人なのだとは聞かされていたが、いやまさかそんなに。あと先輩そこまで行くと逆に怖い。柔は思わず手を止め、一歩先輩から遠退いた。
朝のコンビニというのは、意外に忙しいものである。
学生、サラリーマン、夜勤明けの人、色んな人が忙しなく買い物にやってくるし、夜中に減った分の在庫を埋める為、荷物の搬入もある。
仕事量は決して少なくは無いのだ。
ただ、忙しい時というのは、得てして時間が飛ぶように過ぎ去っていくもので。
次々と足早にご来店するお客様の姿を認めて、柔は小さく来店の挨拶を口にした。
「い、いらっしゃいますー……」
「……いい加減慣れろよ、柔君」
「……ふぁい」
柔はこれでも、バイト歴三年の、ベテランである。
驚愕のこと
「うわ、うわわ、ち、遅刻する……!」
柔が目覚めたのはシフト時間の三十分前であった。
慌ててシャワーを浴び、着替え、適当に腹に物を詰め込む。バイト先である駅前のコンビニまで、最低でも、歩いて十五分掛かるのだ。準備に掛けることの出来る時間は、たったの十五分。
自転車は持っていないので歩いて行くしかない。
何分狭苦しい部屋なので何か忘れ物をするといったこともなく、柔は起き抜けで玄関の外に飛び出していた。
玄関の鍵を締めようとした所でふと動きを止めて数秒考え、一端部屋に戻ってテーブルの上の名刺を掴み取る。
何か気になってしまい、裏面に記されたメッセージに目を通す。それを丁寧に財布に挟み込んで、今度こそ柔は駆けだした。
こういう時、柔はいつも同じことを思う。
つまり、『もっと運動神経がよければなぁ』『もっと痩せていればなぁ』と言った類のことだ。
柔にとって運動が苦手、と言い切ることが出来る最大の特徴は、ずばり走るのが周りに比べて極端に遅いことなのである。
走るのが遅いのにも関わらず運動が出来る人に、柔は未だかつて会ったことがない。
「ひ、ふひ……!」
起きぬけの運動に、心臓は鶏をしめた時の様な悲鳴を上げ、肺は酸素を求めて暴れまわり。額と言わず腕と言わず、全身に体温調節の為の汗が浮いてくる。
見慣れた道を、余り慣れていないスピードで駆け抜ける。
途中、登校途中らしい小学生達に追い抜かれたりしながらも、柔は懸命に足を動かした。
空気を吸い込み、精一杯の力を込めてアスファルトを蹴る。
並木道を抜け角を曲がると、そこは都会の空気が漂う高層ビルディングが林立する駅前だ。
柔の足でも、ここまで来れば何とか間に合うだろう。ペースを落とし、ともすれば縺れそうになる足をぺちりと叩いて早歩き。
腕時計は持っていない為、ゆったりして動きやすいスラックスのポケットから携帯を引っ張り出した。
カチカチとサイドボタンを押して時計を表示させると、シフトの開始時刻まで後五分といった所だ。
着替えの時間をギリギリに短縮しても、間に合わないかもしれない。折角走ったのにと、柔は泣きそうになりつつも再び駆けだした。
目的地のコンビニはすぐに見えてくる。
一応、付近に数多く分布するコンビニエンスストアの中で最も立地が良いということで、柔の勤めるコンビニの売り上げは地域ナンバーワンだ。
店長は柔を虐めたりしないので、それどころか色々なフォローをしてくれるので、柔はいつもお世話になっている。
そう、良い人、である。ただ、コンビニの店長なのにいつも咥えタバコだったり、朝から酒臭かったりするのが致命的な難点だと柔は思う。
常連さんはもう慣れたことなのか、店長と気さくに二言三言言葉を交わしてお店から出て行くのが常になっている。
気付けば、忙しい時間帯でも平気でふらりとどこかへ出かけたりするし、どんな人なのか、それは柔にも良く分かっていない。
「お、いお、おは、おはようございます……」
そうこうしている内に、コンビニ内に駆け込んだ。
さして大きくもない柔の挨拶が店内に響き、丁度夜勤明けでレジを叩いていた後輩バイトの一人が眠そうな目で振り返る。
おはよっす、と片手を上げただけで仕事に戻る先輩に小さく会釈を返して、柔はそのまま従業員用のバックルームに飛び込んだ。
早く着替えないと、タイムカードが押せないのだ。三十分刻みで打刻されるシステムなので、一分でも遅刻しようものなら、三十分のただ働きになってしまう。
ただでさえ遅刻は良いことではないのに、それは柔の望む所ではなかった。
「おー、ジュージュー。おっはー」
「て、店長」
それ古いですよ、とは言えない。何故ならその声の主は店長だからである。
柔が着替えの為にと飛び込んだバックルームでは、店長が煙草を燻らせながら覚束ない手つきでパソコンのキーを叩いていた。
ちらと画面を覗き見る。どうやら、経理のソフトらしい。
「ジュージュー今日は遅かったじゃん? 寝坊? まぁいいや、昨日は残業してもらったし、今日は先に経理やってちょーん。タイムカード押しといてやるからさ。ほら、着替えな? ――ヘイヘイストリップ!」
「いや、脱いだりは、別に……」
にっこり笑顔でそう言ったきり、じっと柔を凝視している女店長。
解けば背中を撫でる位の黒髪は、一体どういう巻き方なのか綺麗にくりくり巻き上げられて、今はうなじを晒している。
煙草を咥える唇は色気をふんだんにふりかけた艶やかな紅色。
右目の傍にある泣き黒子も、潤んでいるような切れ長の眼差しも色っぽい女性である。
ウブな男性諸氏の下半身直撃で動けなくなる位の色香を撒き散らす第一種エロス級危険物だ。
今でも良く「一回いや一発だけでいいんで! お願いします!」と子供には分からない頼みごとをされているらしい。無論、すげなく全滅だそうだが、つまりそれだけ魅力的な女性だと言うことだ。
ただし、外見だけは。
「……ま、またお酒、飲んでるんですか……?」
「んふふ、わっかるぅー?」
瞳が潤んでいるのはアルコールのせいである。心なしか、いや、はっきりと、ぷかぷか漂う紫煙も酒臭い。
飲酒の動かぬ証拠として、デスクの端っこに堂々とウイスキーのボトルとロックグラスが置いてあった。氷が解け、カランと音を立てて中のウイスキーを掻き混ぜる。
柔は貫頭衣のように上から被るだけの制服を着込んで振り向いた。
若干の遅刻に目を瞑ってくれるのは凄くありがたいけれど、どうなんだろうこの駄目人間っぷり。
勿論、声に出して言うことなど出来る筈もない。
「っふぁあぁああ」
「……どうしたんですか?」
「寝てないのよね。夜通し飲んでたからぁ。あーん、経理とか飽きた。ジュージューやって」
「は、はい」
店長の前半の台詞は敢えて聞かなかったことにして、ほらほら、と促されるままにパソコンに近づく。しかし、途中で足を止めた。
「何でそこで止まってんの?」
「え、いや店長、椅子が」
足りていない。全く言葉が足りていない柔の言葉に鷹揚に頷いた店長は、座っていたキャスター付きの椅子を滑らせて、子供の様に柔へと突撃を敢行した。
ちなみに、バックルームは然程の広さを持たないため、椅子に座った店長の隣でキーボードやマウスを扱えるようなスペースは無い。
店長が椅子に座っている限り、柔は作業が出来ないのである。
「どーん! ジューたんの脇腹萌えー」
「うわ!」
「柔らかいよねぇ、んー、もみ、もみもみ、……アタシのおっぱいと同じ位かね。触ってみる?」
そしてぷよんとやわこく実った柔の贅肉を揉みしだく。
相手が上司故に何も言えず、それどころか彼女が大多数の男を誘惑せしめる魅力的な女性であるために、柔は硬直して動けない。
酒の匂い、どこか蠱惑的な、店長の香り、触れそうで触れないたゆたゆの双球。慣れない距離感等で柔の頭の中が一杯になっていく。
結果、見る見る内に泣きそうな顔になった。
「て、て、て」
「あらら、爆発しちゃやーよ、ジュージュー。ほぅら、椅子あげるから泣かない泣かない」
「……はい」
ぐ、と顔を手で拭って椅子に腰掛ける。ギシギシと煩いキャスターを転がして、柔は上手い具合にパソコンの前に陣取った。
放置してあった経理のソフトを確認し、昨日自分が集計したデータと今のデータを比較し、脇に重ねられていた領収書の束を摘まむ。
もちん! と弾力豊かな頬を両手で叩いて、柔は猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
「おー、速い速い。アタシゃパソコンってーのがからきしだから助かるわー」
のしっと柔の肩に肘を乗っけた店長が、柔の頭をぐりぐり撫でながら呟く。
集中し出した柔が呟き程度は完全に遮断してしまうのを知っている為か、彼女はそのまま気にした風もなくデスク上のグラスに手を伸ばした。
カラコロと手の中で酒と空気を撹拌して、目を細める。
お気に入りのラベル、安酒にしては上等な香りのウイスキーを揺らした。
「んぐ、んぐ、んぐ……ぷ、はぁー。んふふ、お酒は甘露だわ」
鼻唄混じりに杯を干し、今度はボトルを引き寄せた。
敢えて注がずに残量を確かめ、もう残りが少ないのを見てとると途端に眉を不機嫌そうに顰める。
そして、順調に書類が消えて行くのをちらと見やって、ふらりとバックヤードから出て行った。
「あれ、テンチョー……ってくさっ! 酒くさっ!? もー朝っぱらから何で酒……ああっ、商品は駄目! 絶対!」
「アタシに呑ませる酒は無いってーのかいチクショー! うぃっくー」
「……ねぇよ金払え! 千九百八十円税込!」
「アンタの給料から引いとくわー」
「横暴だ!」
「あらん、なら体で、ううんお口で払おうかしら?」
「そ、そういう類の……安売りは駄目です店長! もっと体を大事にですね!」
「何想像したのかしらねぇ? アタシはすぐそこでやってる弁論大会でさくっと優勝してその優勝賞金で払おうって言ったつもりなんだけどぉ?」
「ちくしょーーーーー!」
……出て行った。
「昨日の夜の搬入はこれで、ええと事務用品が……あぁ、そろそろ給料日だからそれも気をつけとかないと……よし」
タタタン、軽快な音を立てて経理に使う会計ソフトを閉じた。
ぐっと背すじを伸ばして眉間を揉み、パソコン画面の右下にある時計を見る。
既に、先程から三十分が経過していた。
もうすぐ朝の搬入がやってくる時間だ。
急いで片づけないと、朝食や昼食を求めてコンビニにやってくるお客様からクレームが入りかねない。
柔は膝に手をつき、太腿に力を入れてゆっくり体を起こす。
体重が重いせいで機敏に動けないのだ。
それに、朝の全力疾走(ただし小学生に負ける)で大分疲労も溜まっていた。つい重たい溜息を吐きそうになるのをぐっと堪え、バックルームの扉を押す。
「にゃはははははははは! あっつぅ〜い!」
「いよっ、愛ちゃーん! 脱いで! もっと脱いでうはー!」
「店長もう何やってんですか邪魔ですよこの酒乱飲むなら飲むでどっか行け!」
そしてバックルームに戻った。
「えー、っと……はぁぁ」
柔は、思い切り溜息を吐いた。
ほんの少しだけ扉を押し、出来た隙間からちらっとだけ店内の様子を見やる。
地味な制服を半ば脱ぎかけ、ブラヒモも露わに床に転がって酒をかっ喰らう駄目人間愛ちゃんは、間違い無く店長だ。
見ていられなくて、思わず視線を逸らした。
視界に入るのは、愛ちゃんを嬉しそうに眺める、鼻の下を三十センチ位伸ばしている好色そうな近所のオヤジ。
それらを心底迷惑そうに見ながら説教を飛ばしている先輩のバイトさん。
いつの間にか夜勤の人と入れ替わっているので、パソコンに向き合っている間に来たのだろうと当たりを付ける。
もしかしたら、先に来て掃除をしていたのかもしれない。
だとしたら、後で感謝の気持ちを伝えておかなければ、と現実から目を背ける。
「……あ! 柔君!」
「うひゅ!」
そんなことを考えているのがいけなかったのだろうか。
米噛みに青筋を浮かべつつも店長の白い肌から目が離せない、見ちゃダメ! でも見ちゃう! な思春期欲望チラ出しの先輩バイトが血走った目で柔を見ている。
目が、合った。
「柔君! ちょっとこっちにハリアップ!」
「はい……」
目が、本気と書いて割とマジである。
鬼気迫る気迫を漂わせている先輩の要請を気弱な柔が断れるはずもなく、こっそりと一一〇番しようかな、と握りしめていた電話の子機を元の場所に戻す。
そぅっと足音を忍ばせながら、遂に柔は混沌渦巻く店内に踏み込んだ。
「うにゃはははははは! ねぇねぇ先輩君、今日の私の下着はにゃに色かなー!?」
「ひゅー、俺は、俺は見たぜ愛ちゃん! 黒ー!」
「ちなみにスケスケのエロレースでぇす!」
「うっさい黙れスケベオヤジ! 捕まれバックトゥザフューチャー! それに店長もいい加減黒、黒って黒って……あぁん! 柔君パーーース!」
凄いパス来た!
ふと見れば、レジのカウンター越しに先輩に絡み付く半脱ぎの店長とそれを涎垂らしながら視姦しているエロオヤジがそこに居る。
彼――十八禁雑誌を毎週決まった曜日に買っていく男――は余りに目つきが危ない為、いつも通勤前にコンビニに寄っている近所の交番のお巡りさんにポンポンと肩を叩かれた。
青い制服のおまわりさんは、職業的正義感に燃え――
「……さ、すぐそこだから、ね」
「い、いやいや、わ、私は何も……!」
「良いから。素直になってくれればすぐに済むよ。……よくも僕のアイドル愛ちゃんを貴様……!」
「ひぃぃ!」
てはおらず、ごく個人的な要因で米噛みに青筋を立てていた。青くなって儚い抵抗をするオヤジに、空いている方の手で喉を掻き切るジェスチャーを見せている。
そうして、スケベオヤジはがっくりと項垂れて、コンビニから去っていった。ついでと言っては何だが、彼には社会生命的にもご退場頂きたい。
そんなこんなで、健康な成人男子的に窮した先輩が柔に放ったのは、恐ろしい切れ味のキラーパスであった。
気弱で押しに弱く、小デブ。そんな柔のもとに「にゃはははは! 空を飛ぶー」痴女が飛んでくる。
「うひゃ!」
「悲鳴とはなんらぁジュージュー! アタシのFカップが気にいらねーのかコイツぅ」
ぽいぽい、と上半身ブラだけの素敵痴女に変身遊ばした店長は、柔の頭を抱えてうりうりその豊満過ぎる胸元に押しつけ始める。
脳みその中まで真赤になってしまった柔が咄嗟に先輩に助けを求める視線を飛ばすと、彼が「特盛りっ!」と叫んで鼻血を吹き出し、見事に崩れ落ちているのが見えた。
蛍光灯の下、彼の放った鮮血のアーチはある意味健康な証である。
頼みの綱無し。柔らかさとか柔らかさとか柔らかさとか大きさで幸せ圧死しそうになった柔は咄嗟に、
「あ、ん……これ、ちょち、気持ちイイ、かも……先っちょ、舐めて?」
放送規定的に危ないことを呟いて目元を染めている店長を、バックルームに押し込んだ。
そのままへたへたと扉の前に座り込み、大きく息を吐く。
ぐいっとずらされかかったブラの隙間から見えたピンク色のほにゃららは非常にほにゃららでほにゃら。
「き、今日は一段と素晴らしい破壊力であったってそうじゃないそうじゃない! しっかりするんだ俺は常識人! ……お、柔くん。首尾よく酒乱サキュバスを片付けて……凄い鼻血出てるぞお前!?」
「ふあ」
首の後ろをとんとんしながら復活した先輩に指摘され、慌てて鼻を押さえる。
ヌラ、とぬめる独特の熱さと感覚に気が遠くなった。
肺に溢れる鉄の臭いに、意図せず涙が滲んで来る。
ひとまず鼻を摘まみ、レジの後ろに常備してある(常備したのは目の前の先輩である)箱ティッシュを掴み、丸めたティッシュを鼻に突っ込んだ。
鼻血の原因たる痴女は店内から去ったのでこれ以上のダメージはないが、それでも致死量のエロダメージだ。
柔は結局、三枚のティッシュを真っ赤に染め、更に鼻にティッシュを詰めた状態で仕事をすることになった。間抜けな格好だが、背に腹は代えられない。
「そういえば……先輩」
「おう、何だ」
「あのぅ、撫子って知ってますか?」
「えぇ!? ちょ、おま、え、えぇ!?」
「えっ」
「なにそれこわい」
「えっ」
そして、話は冒頭の遣り取りに繋がるのである。
「水〜、ジュージュー、先輩くぅ〜ん、みぃーずぅー……」
バックルームへ、振動激しめに転がされた店長は、際どい半裸のままずりずりと水を求めて床の上を蠢いている。
妖怪エロ上戸の参上である。良い子には決して見せられない姿だ。
「優しくするとまた飲んで絡むから、しばらく放置な」
「え……は、はい」
こんな遣り取りがあったかどうかは、店長には分からない。
ただ、これが地域売上断トツのナンバーワン、真面目に各種企画を考えている他のコンビニエンスストアの皆様をぶっちぎる売上を叩きだす、その名物風景になっているのは、間違い無いのである。