表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒髪の女王様  作者: 三角
15/16

最終話 聖婚のこと。







「緊張、するな……」



 白い部屋。小さな声が吐息と共に落とされて、揺らいで消える。


 仄白い照明と木製の椅子、薄いグレーの床材、そして大きな鏡とその前に設えられたダークブラウンの机。


 部屋の中には、さりげなく質の良い調度品で満たされていた。


 指紋一つ付いていない、綺麗で大きな鏡。その前の椅子に腰を下ろしている柔は、落ち着かな気に体を揺すって時計を見る。


 優雅な線を描く、しっかりとした拵えの椅子の足下では、その足先がトントンとグレーの床を細かく叩いていた。



「うう」



 手にしていたクリーナーで眼鏡のレンズを拭う。これでもう何度目だろうか、あの事件の後、新調した眼鏡とはもう一年以上の付き合いになる。


 気を落ち着かせる為に大きく息を吐き――クリアになった視界に写る、自身の姿をじっと見詰めた。



「おかしくないかなぁ」



 丸っこい指先で、白に限り無く近い、シルバーグレイの洒落たアスコットタイを弄る。立ち上がって、丁寧に撫でつけられた髪の毛が崩れていないか確認し、ひょいと両手を広げて見せた。



「……似合ってないよね」



 全身、真っ白である。最高級の布で織られた正礼装、モーニング。ただし、正式な形の物では無い。あくまで、ソレ用に仕立てられたデザインだ。


 背広は言わずもがな、ズボンも白無地、中に着込んだベストもオフホワイトで、その下にはイカ胸シャツのウイングカラー。袖から覗く部分には上品なカフが留めてあり、ポケットにもシルバーグレイのチーフが差されている。


 丁寧に撫でつけられてばっちり決まった髪型と併せて、普段の柔よりは男ぶりが上がっている……様に見えなくも無い。


 くるりと反転し、服に皺が寄っていたり着方がおかしかったりしないか確かめてから、柔はうろうろと部屋の中を往復し始めた。


 ちらりと目をやった時計は、先程から数分ぶん、長針が進んでいる。


 部屋の端については振り返り、また別な方向へとふらふら歩く。歩調に合わせて立つ硬質な音は、柔の履いている白の靴、その硬い踵に依る物だ。


 おぼつかない歩みは、どこか夢見心地である様にすら見える。



 あの事件から時は経ち――撫子との挙式を直前にした、柔の一幕である。











 聖婚のこと













「よーう、柔くん!」



 ノックの音とほぼ同時に、扉の開閉音。振り返った柔の視線の先には、撫子の義理の兄、太郎が一人立っていた。



「あ……お久しぶりです。た、太郎さん」



「ふっふっふ。いやいや、もうお義兄ちゃんとでも呼んでくれたまえよ、婿殿?」



「あー……」



 茶目っけたっぷりに扉の枠に肘を当て、壁に寄りかかっている太郎はそう言って笑む。


 黒のモーニングに隙無く身を包んだ太郎の顔は、以前会った時と相変わらずだ。優しげで、落ち着いている。


 柔が慣れない呼び方に戸惑っているのを見て、太郎はくしゃりと笑みを深くした。


 彼はドアの枠に肘を着いたまま、器用に肩を竦めて見せる。



「ま、好きに呼んでくれれば良いさ」



「はい……す、すみません。何か、慣れなくて」



 ひょこりと頭を下げる柔に対して、太郎はぴっと人差し指を立てた。左右にそれを振り、壁から離れて大股に一歩踏み出す。


 行動の一つ一つ、その隅々にまで余裕を纏って居るかの様な自然体は、人を和ませる効果があるのだろうか。


 柔は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。



「気にするな、若人よ、大志を抱け、ってそりゃ違うか。……ううん、それは兎も角、随分ご機嫌な格好だよね?」



「あはは、正直、恥ずかしいんですけれど」



「新郎なんて、この時ばかりは見せ物さ。……かく言う俺も、真っ白タキシードを着せられたんだが、悪い思い出にはならないよ。さて……」



「……?」



 そして、沈黙。背の低い柔は、自身よりも上背のある太郎の顔を何となしに見上げたまま動かない。


 不思議な、暖かでどこか見守る様な色合いを湛えた太郎の瞳もまた、柔を見ている。



「君は、二年前に俺が言ったことを覚えているかい?」



 太郎は徐に口を開いた。


 部屋の中へと広がった言葉に、柔はそっと視線を下げた。緊張でじっとりと汗の滲んでいる掌、それを胸に当てる。


 二年前、それはまだ、柔が撫子達と出会ったばかり、とも言える時期。招かれた劇場での邂逅だ。


 ――忘れたことは、無かった。



「……はい」



 どくどくどくと、別人の様に力強く脈打つ鼓動を胸の内に感じてから、柔はゆっくり頷いた。


 胸部の中心、やや左寄り。服の下に隠されている柔らかなそこには、大きな傷跡が一つある。


 柔は過去に想いを馳せ、そしてじんわりと掌の熱が胸に――心臓に伝わるのを感じる。



「心臓の移植……無事、成功したんだろう?」



「……はい。ぼくはここに来るまで、足掻きました。足掻いたと……思います。ぼくが今ここに居ることは他ならない奇跡で」



「はは、なら、君はもう奇跡の経験者さ。誇って良いことだよ」



 柔は首を振る。もどかしげに幾度か口を開き、閉じ、そうして喉を震わせた。



「上手く言えないけれど、でも、それは決して、ぼくだけの力ではなくて」



「そりゃあ、そうさ。一人で何でも出来る人間なんて――完璧なんてあり得ない。周りの人や、タイミングや、巡り合わせ、そう言った物を引き寄せる為にこそ、足掻くんだから。ま、そうやってすっきりした顔をしてるってことは……感謝、してるんだろう?」



 言葉ではなく、柔は頷きを以て返答とした。脈打ち、全身に生命の源たる血液を運び続けている心臓は、厳密には柔のものではない。


 柔は生きている。――しかし同時に、色んな人や事柄に、生かされているのである。



 あの事件の後、柔の事情を全て知った撫子の尽力によって、運良く柔と適合するドナーが見つかり、無事に手術も大成功を収め、後遺症や拒否反応も無く暮らすことが出来て居る。


 言葉にすればたったそれだけの出来事ではあるが、思い返す度に思うのだ。こうして、ここに立っていることは奇跡だと。



 撫子とのセンセーショナルな『お付き合い』の報道後間もなく、柔は体調を崩して入院した。


 一連の事件による心労、怪我、今まで異常を放っておいたツケ。様々に原因は考えられたが、何はともあれ、柔は現実に倒れたのである。


 確実にだが異常を来してしまった柔の心臓は、既に最期のカウントダウンを始めている状態だったのだ。


 診断を行った医師の言では、あくまで大事を取っての入院だ、とのことであったが、自分のことだ、分かることもある。



 そう長くは、もたないだろうということ。


 心臓の臓器移植提供者が見つかる確率はとても高いとは言えず、三人に一人が手術を受けることが出来れば良いとされている。


 術後の生存率も安定しておらず、いつ命が尽きてしまうか分からない。


 柔は自分なりに、以前からそういった情報を調べていた。


 だから、完璧な――完璧すぎる笑顔を絶やさず、柔を安心させる為に「すぐ、退院出来るそうですの」と言う撫子達に対して言ったのだ。


 自分が既に、気付いていることを。


 勿論それは柔の気のせいなのかもしれなかったが、明らかに強張る二人の顔が、全てを物語っていた。


 ……いつまで、持つんですか。


 そう言った時の撫子達の顔を、柔はきっと、死ぬまで忘れないだろう。忘れられないだろう。



 それから三人で医師を交え、助かる為の方法を模索した。精密に柔の体を検査し、あらゆる角度、観点からその症状への対策を探る。


 しかし、日進月歩で発達している医療技術でも、どうしても心臓移植が必要なことだけしか、分からなかった。


 刻一刻と進む時間は限られていて、だからこそ撫子と桔梗は全力で柔のドナーを捜し回ることになる。


 あらゆる街、あらゆる国の病院、ドナーバンクに片っ端から連絡を取り、撫子の膨大な交友関係を伝ってまで遮二無二情報を求める。その中には、後に柔の執刀医となる、心臓移植の分野で権威を誇る世界的な名医も居た。


 本来ならば、そう都合良くドナーなど見つかる筈も無い。しかし、柔の場合は飛び切りに運が良かった。



 世界どころではない、日本国内でドナーの男性が見つかったのである。各機関への問い合わせの返答も揃わぬ内にだ。


 正に思わぬ朗報だった。心臓の移植は、まず脳死状態のドナーが居なければどうにもならない。脳死状態の人間は自発呼吸が出来ない為、人工呼吸器によって呼吸と循環が保たれていない限り、完全に死亡してしまうのだ。


 厳密な脳死判定はあくまで、臓器移植などの目的で法的にそれを示す必要がある場合にしか為されないし、移植直後から血液の循環を維持する必要がある為、心臓病などのない、あくまで正常な心臓の持ち主である必要もある。


 これだけの短期間で、完全に一致するドナーが現れるのは、奇跡に等しい確立だ。


 しかし柔は、この臓器提供者が見つかった時素直には喜べなかった。


 心臓の移植は、つまりはドナーの死を意味する。他人の命を奪い、胸に抱え、いつ死ぬとも分からない生の道を歩むことにもなる。


 脳死判定が間違っていて、後で意識を取り戻した例も世界には存在するのだ。


 脳死状態とは言え、体は暖かいし、脊髄反射で手足が僅かに動く場合もある。遺された人間が、その状態を死として受け止めることが出来るのか、そういう問題もあるだろう。


 自分が生きる為に、まだ暖かい体を持つ他人の命を食い潰して良いのか――そんな不安と恐怖が、柔の胸の内に巣くっていたのである。



 それに、今まで柔が治療を望まなかった最大の原因は、未だに存在している。手術には一千万は下らない、莫大な費用が掛かるのだ。


 半ば強引にではあるが、撫子に入院の費用を面倒見て貰っていた柔にとって、その負担はすなわち重荷でもあった。


 経緯や理由はどうあれ、少なくない額のお金を、自分の為に使わせている、使って貰っているのには違いない。


 柔はずっと、自分が誰かに面倒を見て貰える様な人間ではないと思っていた。むしろ、面倒を見る側にあろうとしていた。


 長くもない一生を通して、自身が華麗な主役などにはほど遠い、取るに足らないちっぽけな存在であることを、心と頭で理解していたからだ。


 色んな人に迷惑を掛けて、それでも不確かに生きていくだけの価値が、自分にあるのか――そんなことを思い悩む柔の脳裏に蘇ったのは、まさしく目の前の男に投げかけられた言葉。



『もしも撫子のことが好きならだけどね……あの子を、幸せにしてやって欲しいな。それも、絶対に』



『奇跡が欲しいのなら――運命に逆らうべきだ』



 柔は、撫子のことを愛している。気恥ずかしく、余り言葉に出したことは無い。だが、今では撫子を掛け替えのない女性として求めているし、同様に、撫子から向けられる慈愛の深さも感じている。


 だからこそ分かる。自惚れではないが――柔が死んだら、撫子は喜んだりはしないだろう。あの眩い、優しい笑顔が曇るのだ。


 それは、たまらなくイヤだった。


 映画や何かの様に、無責任に、『ぼくのことを忘れて、もっと良い人を見つけて下さい』などと言うことは出来はしない。


 死ねば、そこで全ては終わってしまうと、柔は思っているからだ。死して尚心に優しさを遺す――そういうことが出来る程、柔は器用ではないし、立派な人間でも無い。


 死ねば、撫子の心に醜い悲しみの傷痕を残す。


 良人が現れてその傷を癒すかもしれない、時の流れが無慈悲に優しく、その傷を癒してくれるかもしれない。それでも、柔の死によって彼女の心が傷つくことに変わりはない。


 柔は出来るならば、撫子を幸せにしたいのだ。心から悲しむ顔などさせたくないし、出来るなら傷つけたくもない。


 本人から聞いた、彼女の過去――柔は、彼女を置き去りにして去ることなど、それこそ死んでもしたくないのである。


 そうであるからこそ、柔は生きねばならない。少しでも長く、彼女が幸いを感じることが出来れば、それが柔の幸せとなるのだから。




 柔の命を繋いだ男、ドナーの男性が病院に運びこまれたのは、柔が入院するほんの数日前、山あいにある大学病院だった。


 工事現場で働いていたという、その男。崩れた鉄材に押しつぶされ、瀕死状態で担ぎ込まれたらしい。


 頭部への損傷が激しく、しかし奇跡的に肉体部分は殆どが無事であったという。数時間に及ぶ手術の末、一命を――完膚無きまでに心停止するという事態だけを――取り留めたその男。


 病院も慈善事業では無い。結局臨床的脳死と判断された、意識を取り戻さない男の生命維持には金が掛かる。手術の費用も同様だ。


 男に親類が居るならば、費用の請求をしなければならないし、また、今の事情を伝えることも必要だ。


 男が身につけていた手荷物をあらためた医師は、しかしがっくりと肩を落とすことになる。


 財布、免許証、よれた煙草に百円ライター。それと買ったばかりの、袋に包まれた医学書が一冊。衣服のポケットと小さな鞄に入っていたのは、それが全てだったのである。


 念の為役所に問い合わせてもみたが、男に親類は居なかった。


 しかし、所持していたドナーカードがある以上、ひとまずは脳死の判定を下し、適合する臓器希望者が居るか調べねばならない。医師は粛々と手術に疲れた体を動かし、手配をした。


 それ自体は取るに足らない、小さな出来事である。世界中で秒単位に減って行く人間の中の、たった一人。しかしその一人は、柔と完璧に適合する心臓を持っていた。


 ドナー発見の報を受け取った柔は、ドナーの状況や個人的な事情を――本来知るべくもない男の情報を、敢えて求めた。移植を受けることは、相手の心臓を奪うこと。相手のことを何一つ知らぬままで、判断を下すことは出来ないと思ったからだ。


 眉をしかめる医師を説き伏せ、首を傾げる撫子と桔梗に頼み込み。


 結果分かったのは、天涯孤独の身であったこと、医師になるという夢を持ち、日々バイトと勉学に精を出していたこと。


 そして――交際中の女性が居たこと。



 丸々一昼夜、延々と思い悩んでいた柔は、何とか結論を出す。生き延びる為に手術を受ける、そう決めたのである。


 滞っていた手術の日程等を決め、代わりにドナーに面会することを強く希望した。


 ドナーの男性に――自分がその心臓を譲り受けようという男に、会う。


 それは、言ってしまえば自己満足だった。エゴと言ってもよい。


 だが一言、たった一言だけで良い。柔は自分の都合で、彼の心臓を――命を繋ぐ、最も重要な器官を奪うのだと、そう告げたかったのである。



 白い病室、人工呼吸器に繋がれた男性の肌は日に焼けて黒く、言われなければ、脳死状態にあることなど分からない。


 手術の為に、と一つの病院に集められた柔と『彼』は、その部屋で最初で最後の対面をした。


 ベッドの傍ら、安物のパイプ椅子に腰を下ろし、柔は『彼』の顔をじっと見下ろす。ごくりと唾を飲んでから慎重に唇を震わせた。



「貴方の命を……ぼくは、貰うつもりです」



 いや、と首を振り、



「……貰います。ぼくが生きて、行くために。ぼくの為に、ぼくのエゴで」



 小さな、震える声ではあれど、そう、言い切った。時計すら無い白の病室には酷く静謐な空気が満ちている。


 その時だった。沈黙という言葉すら溶けて消えてしまいそうな雰囲気の中、柔は信じられない物を見たのである。



「……」



 それは、目の錯覚だったのかもしれない。罪悪感や現実逃避、色んな感情が、柔の思考を騙し、そんな記憶を作り出したのかもしれない。


 だが、柔はその時、しっかりと見たのである。ほんの一瞬、しかしはっきりと瞼を持ち上げ、柔の顔を見た彼の灰色がかった黒の瞳を。



 ――――。



 合わさった視線、その先で揺らめく『彼』という存在に、赦しを得た気がした。


 脳死状態だ、そんなことはあり得ない。あり得ないことは分かっている。実際、男の脳は中枢が破壊されているのだ。


 しかし、柔はその一瞬で、彼に『何か』を――言葉に出来ない、何か重たい物を託された気がしてならなかった。


 もしかしたら、それは望みだったのかもしれない。怨嗟だったのかもしれないし、そもそもやっぱり、柔の気のせいだったのかもしれない。


 それでも、柔はその一瞬の邂逅で、生きることをより強く決断したのである。


 白い無機質な病室、一度切りの顔合わせ。せめてその時まで安らかに居られる様にと、なるべく音を立てずに部屋を出た柔は、そこでピタと立ち止まる。



「あ……」



「……」



 人気の無い廊下。リノリウムで出来た床材の上には、一人の女性が立っていた。肩までの黒髪を揺らす、線の細い小柄な女性だ。


 儚げな印象の女性は、胸に花瓶を一つ抱えて、じっと柔の顔を眺めている。


 勘の鈍い柔でも、彼女が誰なのかは推測出来た。


 背後、患者の名前が書かれたプレートを振り返り、



「……もしかして、彼の」



 粘っこい唾が喉に絡むのを何とか飲み込んで、呟く。



「貴方は」



 小さい、とても小さな響きがひっそりと廊下に落ち、控えめに柔の耳朶を揺すった。


 慌てて振り返った柔の顔をひたと見詰めたままの女性は、つ、と一歩歩み寄る。



「……貴方は」



 言って、くっ、と女性は何かを堪える様に息を詰めた。瞳に名状しがたい色が浮かび、温度の無い視線が柔を貫く。


 この所色々あったとはいえ、人見知りのある柔は咄嗟には何も言えず、同様に息を詰めた。


 代わりに、とでも言う様に、深く頭を下げる。


 罵倒、叱責、哀咽、悲嘆、そのどれを叩き付けられても、柔は黙して受け止めるつもりだった。どう言い繕おうと、柔が男の体から暖かさを――命の残滓を奪うことには変わりないのである。遺された者の痛みは、柔には想像すらつかないのだ。


 欠陥品の心臓が情けなく脈打ち、肺腑が冷える独特の感覚を得ながらも、ただただ口を噤んで言葉を待つ。


 下がった視線、愚直に足下を見詰める柔の視界に、病院備え付けのサンダルが現れる。



「どうして、と……何故と……私は貴方に、……っ」



 零れた言葉は、小さなサンダルよりも尚小さかった。パタリパタリと、落ちた水滴がリノリウムを濡らす。



「顔を……上げて下さい」



「……」



 震える声に逆らう理由など、柔には存在しなかった。


 男性にしては小柄な柔より更に下、小さすぎる体躯の女性は無表情のまま、しかし滂沱として涙を流している。


 理屈では無く、堪らない気持ちが柔の胸の奥から込み上げた。ぐ、と強く唇を噛み、出来るだけ姿勢を正す。彼の命を貰い受ける身として、相応しくない態度を取りたくはなかった。



「ぼくは……ぼくが、彼の命を、貰います」



 再度の宣言。発した声は、震えては居なかっただろうか。 



「私は、どうすれば良いんですか……?」



 彼女の涙は止まらない。



「彼が死ぬなんて耐えられない。彼がもう目覚めないなんて信じられない。だって、だって私の大好きな彼の掌はまだ、暖かいのに」



 彼女の言葉は止まらない。



「どうして彼なんですか? 何故彼でなければいけないの? 何で私から彼を奪うの? 私はどう生きて行けば良いの? 泣き叫べば良いの? 諦めれば良いの? 大声を上げて貴方を責めれば良いの? 誰彼構わず当たり散らせば良いの? 誰を恨めば良いの? 貴方を恨めば良いの? 神様を恨めば良いの? 誰も恨まなければ良いの? どうすれば良いの? どうすればいいの? ――わたしは、わ、わたしは……どうすれば、いいの……っ?」



 彼女の悲しみは止まらない。



「……」



 声を荒げる訳では無い。掴みかかる訳では無い。泣き崩れる訳でも無い。ただ一人、短躯で立ち尽くす女性に対して、柔は何も言えなかった。


 柔には――否、この世の誰であっても、彼女の慟哭を止めることなど出来はしないのだ。


 彼女の悲しみを埋めることが出来るのは――柔の背後で静かに瞼を閉じている男、ただ一人なのだから。



 たっぷり、永遠にも感じられる沈黙が、二人の間に横たわった。女性は矢継ぎ早の言葉に息を切らせたのか、薄い肩を僅かに上下させ、やはり無表情のまま細く浅い息を吐いている。


 手を伸ばせば届く様な距離だ。


 その体が小刻みに震えているのも、小さな手が真っ白になる位握りしめられているのも、その無表情が、有り余る激情を処理しきれないが故のものだと言うことも、柔には漠然と理解出来ていた。


 髪の色と同じ薄茶の瞳には、小さな彼女の身には大きすぎる感情が渦巻いている。


 病院の中にも僅かにある喧噪は遠く、この場には微かな息づかいの音しか無い。


 何度も何度も、繰り返し彼女の言葉を反芻していた柔は、ふと思ったことを一つだけ、掠れた声で呟いた。



「……後を追うとか……そういうことを、言わない貴女を尊敬します」



「それは」



 柔の言葉は、適切な言葉とは、言い難い。しかし素直は尊敬の響きが込められていた。


 力なく視線を下ろし、悄然と項垂れた女性は、ゆっくりと首を振る。



「それは……違います。強くなんか、ありません。彼がもう目覚めることは無いだろうって、言われてから、もう何回も死のうと――楽になりたいと思いました。そう思わなかったと、思いますか?」



「あ……」



 柔は、失言を悔いた。同時に自分の配慮の無さに眉根を寄せる。



「す、すみませ」



「いえ」



 幾分強い口調で、女性は柔の言葉を遮った。中途半端に口を開いたまま、情けない顔を晒している柔から視線を外し、固く目を瞑る。



「謝らないで下さい。八つ当たりなのは……貴方が何も悪くないのは、分かってるんです。私には、後追いなんて選べない理由があって。ただ、それだけのことですから」



「……理由、ですか」



「……貴方は、知っていますか? 彼は医者を、目指していました」



 彼女はゆっくりと目を開け、大きく一歩退いた。動きに合わせて揺れる廊下の空気、くるりと背中を向けた彼女がどんな顔をしているのか、柔には分からない。



「……そして私は、看護師を目指していて。いつか二人で、一緒に働けたら良いな、なんて言って」



「……」



「そんな彼が、いつも言ってたんです。『俺は、例えどんなことがあっても諦めない。どんな形でも良い、絶対に一人でも多くの患者を救って見せるんだ』って。バイトと勉強で疲れ切ってるくせに、子供みたいにキラキラした目で」



 いつも。


 そう言って俯き、ふるふると小刻みに肩を震わせる彼女に掛ける言葉を、柔は持っていなかった。


 失言したばかりの柔には、尚更ハードルが高い。ただ黙って女性の背中を眺め、男の瞳を思い出す。


 白昼夢としか思えない邂逅、真っ直ぐにぶつけられた魂の力強さ。脳死状態にあって、霞んでいる男の眼は酷く愚直で、誠実だった。


 唐突に悟る。男は撫子や桔梗と同じ人種なのだと。心に一つ、譲れない信念を持つ人間の瞳は、とても気高く貴い。



「手術に投薬、整体、使えるんなら漢方も。外科志望だったけど、とにかく色んな医療技術に興味津々で……生まれ故郷の町医者で、儲け何て適当でも良いから、子供からお年寄りまで、困ってる人を助けたいんだって」



「……」



 柔はやはり、黙したままだった。


 しかし、その呼気は乱れ、その心には充足感と――そんな男の未来を完全に奪うことの、罪悪感を得ている。


 手術は受ける。男の心臓も譲り受ける。ただし、弱りに弱った柔の心臓は、その持ち主と同じ位には不器用だったのである。


 最愛の男を失う道だけがはっきりと残されている女性を前にして、我が身の明日を望むことを出来る程、柔は非情でも愚かでも無かった。


 依然、姿勢は正したままだ。それでも音が立つ程拳に力が入るの感じて、頭を振る。


 この場で一番苦しいのも、一番悲しいのも、柔では無い。



「私はずっと、彼の傍にいました。これからも……ずっと、いる筈でした。私の好きな彼は、絶対に、私が死ぬことなんて望みません。追いかけて行っても、絶対に喜ばない。バカヤロー、ちゃんと生きて、生き切ってから、こっちに来い! なんて言われるのが目に見えてます。だから、私は後追いなんて選びません。……彼の為に」



「あの」



「手術のこと! ……気には、しないで下さい。彼は貴方を恨まない。そういう人だってことは、世界で一番、私が知ってますから。……それどころかきっと、意識があったらこう言ったと思います」



 思わずと言った感じで声を上げた柔の言葉を振り切って、彼女はそこで息を吸い、止め、



「『人類皆患者。それで貴方が助かるなら、俺の心臓を使ってくれ』って」



 言った。袖で目元を抑える仕草の後、くるりと体を反転させる。



「……彼は貴方を恨みません。貴方が心臓を欲しがることに怒りもしないし、自分の死を悲しみもしない。だから、私が貴方に言うことは、もうありません。ただ後一言、言わせて貰えるとすれば――」



「はい」



 汗が滲む。一言一句聞き逃さない様に、柔は耳をそばだてた。



「――生きて、下さい」



 それきり、彼女は押し黙る。しかし万感の思いを込めた瞳が、言葉以上のものを柔へと叩き付けていた。


 彼の心臓に恥じぬ様、彼が後悔しない様、生きろ。強く、熱く押し込められたメッセージを、漏らすことなく受け取った柔は、ゆっくり、しっかりと頭を下げる。


 女性は、そんな柔の隣をすり抜けて、病室へと消えていく。


 扉が閉まる無機質な音を耳にして暫く、柔はそのままの体勢だった。廊下にはもう、先程までの張り詰めた空気は存在しない。


 じっと床を見詰めていた柔は、そっと胸に手を当てた。


 赦しを得たことの感謝と、垣間見た女性の愛情の深さに対する尊敬の念がそこにある。


 どくりどくりと脈打つ心臓は、手術が終わればこの世から消えてしまうものだ。


 男の瞳と、女性の言葉、両方はこの心臓では無く、心に抱えて行こう――そんな思いを掌につかみ取って、ようやく柔は顔を上げた。


 汗を拭い、頬をぴしゃりと叩いて自分自身の病室に足を向ける。


 そして。




 そして手術は成功し、術後も良好で、今柔は、撫子との挙式を前に緊張することが出来ている。


 生きていることが奇跡――撫子に出会う前、その存在に魂を奪われてしまう前の柔ならば、きっともうこの世を去っていた。


 訥訥と胸の内に記憶を反芻し、柔は思いを新たにする。力強く鼓動を打ち鳴らす『彼』の心臓は、まるで柔の背中を後押ししてくれている様にも感じられた。


 顔を上げ、柔は太郎と再び視線を合わせた。



「ぼくは今、生きています。そしてこれから先も、生きていく。……そう、決めました」



「そうか」



 凛と響く柔の声。初めて邂逅した時より、一味も二味も違うその姿に太郎は嬉しそうに目を細めた。


 彼は大仰な仕草でわざとらしく腕時計に目を遣り、



「君とはやっぱり、長い付き合いが出来そうだね。おおっと時間だ……妹を、よろしく頼むよ」



 そう言って踵を返す。



「では、また後でねー。ばいちゃー」



 相変わらず訳の分からない気さくさで、ひらひらと手を振る太郎に、柔は小さく会釈を返した。


 気付けば緊張は程よく解れ、式の開始予定時刻までもう幾ばくもない。くすりと笑みを零した柔は、もう一度鏡に向き直ると、入念に自分の姿をチェックする。



「……よし」



 うむと大きく頷き、ぐるりと部屋を見回した。扉の前まで歩み寄り、ドアノブに手を掛ける前にそっと目を瞑る。


 胸に手を当て、小さく小さく呟きを零した。



「行って、来ます」



 果たして、その呟きは誰に向けた物なのか。


 響きが消えやらぬ内に、柔は扉の向こうへと消えていく。マスコミ向けの、華やかな結婚披露宴とは別、極々親しい者だけを集めた挙式の会場、その場所へと向けて。





 こぢんまりとした造り、さほど大きくもないその建築物は、まさしく教会だった。


 柔と撫子、二人の門出を祝福するかの様に雲一つ無い蒼穹へ、鋭い尖塔と、その先の十字架が突き立ち。


 建物の横手には広大な蒼海。空と海の、色合いの異なる蒼色の競演が、白亜の教会とコントラストを奏で、見る者に神秘的な印象を与える、そんな場所だ。



 歴史のある建物なのだろう、海風に晒され、丁寧な修繕でもカバー仕切れない傷を持つ古びた教会には、今、十数名の人間が集っていた。


 観音開きの大扉、その先に続くのは、深紅のヴァージン・ロード。きらきらと光を透過する丸窓、高い天井の上方に位置するステンドグラスからは日差しが差し込み、聖堂内の雰囲気を一層荘厳に見せている。


 鈍く光りを反射する、ずらりと並んだ会衆席は、ダークブラウンのシックな逸品だ。


 聖堂の一番奥、数段の階段を経た先にはこれまた古びた祭壇。本来神父が居るべき位置で目を瞑り、黙して立つのは太郎その人である。


 きらきらと空気そのものが光って見える様な神聖な教会、太郎の前には、姿勢を正して扉を見詰める、柔が居た。


 席に着く顔ぶれはそれほど多くは無い。


 撫子の母を始め、桔梗、レティシア、久美子、瑠衣。そして、柔の家族――涼子、楓、落ちつかな気に体を揺すっている七人の弟妹達。


 柔のバイト先、コンビニの店長や、撫子を見初めたという、映画監督も居る。


 それで、全員だった。撫子と柔、二人にとってこの上なく大切な者達のみで構成されたこの空間は、暖かな空気に包まれていた。



 神父が居ないのは、人前式だからである。


 教会式ではあるが、神前式ではなく敢えて人前式を選んだのは、神を信じぬ撫子の想いの表れなのかもしれない。


 存在を信じてないあやふやな神に愛を誓うよりも、自分にとって大切な人達の前で愛を誓いたいと。


 そう言って笑う撫子の意見に、柔も賛成したのである。



 式の始まりは、もう新婦の登場を待つばかりとなっていた。柔にとって義父となる人物と共に、扉を潜るまであとどれくらいなのか。


 じっと大扉を見詰めている柔の視線が、ふっと細められた。


 軋む音を立てて開かれた扉から、眩い光が差し込んで来たからである。



「わはぁー……」



 まだ幼い、柔の弟妹達、彼らから真っ先に素直な賛嘆の声が漏れた。列席する皆の視線全てを一身に集め、溢れる日差しを背負って立つ一人の女性。


 撫子だ。


 柔と合わせた、純白のウェディングドレスは上品ながらも、可憐な意匠が凝らされている。


 柔らかそうな白地のシルクに、細やかな銀糸の刺繍、大胆に肩と背を露出したデザインのドレスは、大人しいすっきりしたシルエットを描く。


 紅のヴァージン・ロードに流れるレースの裾は幾重にも折り重なっていて、正面から相対する柔の目には、僅かに左から右へ、洒落たアシンメトリーに映っている。


 綺麗に為された化粧に彩られた顔は輝かんばかりに美しく、黒絹のターバンの様な髪の毛は丁寧に巻き上げられ、しっかりとセットされて。


 星々の輝きを集めて纏めたかの様な黒髪に乗るティアラと、薄く透ける細いレースの神秘的なマリアヴェールがより一層の美を演出している。


 晒された、シミ一つ無い首筋から肩口の滑らかな肌は、磨き上げた真珠の如く上品に光ってすら見えた。



 不躾な言葉などでは表せない様な、清廉な美しさである。


 何より目を引くのは、顔を隠した状態でも分かる立ち上るかの様な圧倒的な幸せのオーラ。


 近寄りがたくすら見える神聖不可侵なその艶やかさは、清らかでいて、それでいてしっかりと女性を主張している。


 遙かな高みにひっそりと咲く、玲瓏なる一輪の花。その風情であった。



 片手に華やかなキャスケードブーケを、もう片方の手を義父の腕に絡ませて、撫子はゆっくりとヴァージン・ロードに足を踏み出した。

 

 彼女の一挙手一投足、その全てに聖堂内の視線が根こそぎ惹き付けられ、本人達の気付かぬ間に感嘆の吐息を落とさせる。


 清楚でありながらも、やはり彼女は女王であった。否応無し、強制力すら感じさせるその魅力で人を、その視線と心を縛り捕らえて離さない。


 匂い立つ様な色気を滲ませながらも、あくまでそれを向ける対象は柔ただ一人。なのに、その色気の余波だけで世の男共をノックアウト出来るであろう魅力。


 ヴァージン・ロードのただ中、誰一人言葉を発しない静謐な空間にあって、柔の前に進み出た撫子がそっと義父から腕を外す。


 撫子は柔らかく、ぽんと背を叩かれたことに笑みを零し――すっと繊手を差し出した。応ずる様に、半ば呆けている柔の腕、そこにするりと腕を巻き付ける。


 ほんの一瞬だけ、ぎゅうと柔に身を寄せた撫子は、ヴェールの下でひっそりと笑って見せた。


 ぱちりとウインクを飛ばされ、柔は漸く自分の役目を思い出す。



「うん」



 呟き、短い距離ながらも、信じられない程美しい花嫁をぎこちなくエスコート。固いはずのヴァージン・ロードの中にずぶりと足が沈み込んでしまいそうな気がして、一歩踏み出すと同時にふらりと体がよろめいた。


 それとなく撫子に腕を引かれ、何とか体勢を立て直す。情けない程のぼせ上がっているその姿に、横合いの席から小さな笑いが漏れた。


 羞恥に頬を染めながらも、柔はぴんと背筋を伸ばして見せる。


 じっとりと滲む汗、朱に染まる頬、高鳴る胸、震える手足。胃の底がきりきりと絞り上がるような感覚。


 それら緊張を示す自分の体に精一杯の叱咤激励を飛ばし、それでもやはり、ぎくしゃくと階段を上る。


 目指すは数歩先、祭壇の前。ニヤニヤと笑んでいる太郎の待つ、その場所だ。


 ゆっくり、一段一段を踏みしめて、柔はようやっとその場所に辿り着いた。



「お待ちかね――これより、愛すべき美貌の我が妹、三条撫子と、愛すべきお腹の脂肪、前田柔、二人の結婚式を執り行います」



 太郎が茶目っ気たっぷりにそう言うと、くすくすと列席から笑いが漏れる。入院しても、何があっても、柔は相変わらず小太りのままであった。


 思わず腹の肉をむにゅと掴んでしまい、悪意の無い笑い声に苦笑する。



「それでは、誓いの言葉と、指輪の交換を」



「はい」



 何とか表情を引き締め、続く言葉に頷きを返す。


 これはあくまで人前式だ、決まった手順など無いに等しい。聖書に載っている愛の契約の言葉は、一先ずお預けされている。


 ここで誓う言葉は、今はまだ柔しか知らない。そういう形式でと、何を隠そう撫子に念押しされたのである。


 だが言うなれば、これは友人や知人、家族の前でするプロポーズだった。太郎は助け船を出すつもりはないらしく、やはり面白そうに頬を緩めて柔を見ている。


 柔は、油を差し忘れたロボットの様にぎこちなく、体ごと隣へ振り向いた。



「え、えと……」



「うふふ」



 当然であるが、そこには微笑みを浮かべた撫子が凛と立っている。胸の内に溜めていた想い、その言葉を口からそっと吐き出そうとして、柔は、うっと息を詰めた。


 丸暗記した筈の文言が、浮かんで来ない。柔の米噛みに、たらりと一筋の汗が流れた。



「……んもう。落ち着いて、ほら、深呼吸なさい」



「う、うん」



 間抜け顔を晒す花婿の姿に、撫子は漏れ出る苦笑をかみ殺した。


 いつも優しく、いつも弱気で、そしていつも正直な男が今何を考えているのか、彼女には手に取る様に分かってしまうのである。


 それは自身の持つ鋭い勘というよりも、むしろ経験則に近いものだ。焦ってパニックになると、柔はいつも仰け反って、大げさな位情けない顔をする。


 何か企み事をしている時に話を振れば不自然に左の眉毛が上下するし、何か嬉しいことがあれば、何とかして引き結んだ唇がどうしても緩んでしまう。


 一日。一週間。一月。一季節。そして一年。


 ゆっくりと積み重ねた二人の時間の中で、撫子はいつの間にか、そんなことを覚えてしまっていた。いつ柔の癖や仕草を覚えたのか、それすら定かでは無いのに、しかしその意味する所だけは把握している。


 そのことに、燃え上がる恋と言うより暖かな愛を感じて、くすり、と抑えきれぬ笑みを零す。


 そして誰でもなく、目の前の花嫁にそっと囁かれた柔は赤面しながらも態とらしいくらい大きく息を吸い、胸に溜めて、吐いた。



「な……撫子さん!」



 勢いよく吐き出された声は、上擦っていて殆ど裏声に近い。どれだけ緊張しているのかと、撫子はくすくすと笑いながら柔を見詰める。



「はいですの」



「その……何て言うのか、覚えてきたコト、全部頭から吹き飛んじゃって、それで」



「ん」



「お、思い出せないから……だから、想っているままを、話します」



 こくり、と撫子が首を縦に振った。



「ぼくは……昔からずっと、自分の存在が信じられなくて」



「……」



「ぼくは頭も良くないし、太ってる。運動も出来なければ、人気者でも無い。友人も恋人もずっと居なかった。イジメられたこともあるし、決して大勢の人に好かれる様な人間じゃあない。誰かの役に立つ特技がある訳でもない。だから……、両親がぼくを捨てたのは当然だって。ぼくは要らない人間なんだから、捨てられて当然で……ぼくにはきっと、生きている意味なんて無いって、ずっとずっと思ってた。筋違いかもしれないけど……恨みに思ったこともあって」



「柔……」



 小さく咎める様な声に首を振り、柔はしっかりと撫子を見詰めた。



「今はそんなこと、思ってないよ。むしろ、ぼくは感謝したいと思ってて」



「感謝、を?」



 撫子が、首を傾げた。ゆっくり、まごついたり、つっかえたりしながら続けられる柔の言葉に、誰よりも真剣に耳を傾けているのは、彼女だった。


 静かな聖堂、その高い天井へと、不器用な言葉が反響して上っては消える。



「皆に……ぼくを育ててくれた涼子さんや、一緒に育った弟や妹達、沢山お世話になった店長さんも」



 視線を横へ。そこにあるのは、皆の顔だ。


 僅かに涙ぐみ、ハンカチを目元に当てている涼子の穏やかな顔。


 しっかり者の楓が、幼い弟妹達が席から転がり出さない様に浮かべている、むんと唇を結んだへの字顔。


 揶揄う様に妖艶に笑んでいる、セクシーなドレスに身を包んだ店長の顔。



「……」



「いつもぼくたちに漬け物とか、美味しい柿をくれてた、近所のおばあちゃんにも、寂しい時一緒に遊んだ野良猫にも、背中を押してくれた太郎さんにも、いつもぼく達のことを守ってくれた桔梗さんや、応援してくれた人にも。多すぎて上げきれないけれど、とにかく皆に、今までぼくを支えてくれた全ての人に、今、すごくありがとうって気持ちが、胸の中に溢れてて」



 列席者の最前列。背筋を伸ばし、褐色の瞳を揺らめかせる桔梗の無表情は、心なしか柔らかい。


 席の最後方、並んで座る久美子と瑠衣は、ただじっと撫子を見詰めている。


 自分たちに向けられる視線、それらを一時的に意識の中から追い出して、撫子と柔は再び視線を絡ませた。



「……うん」



「桔梗さんと撫子さんに出会うまでは、他の――ぼくにでも出来ることで、何とかしてぼくの、生きている意味を補ってた。でも、撫子さんと出会ってから、凄く楽しくて、それで」



「それで……?」



「気付いたら、生きている意味とか、そういうのは、どこかに吹き飛んじゃってて。その代わりに、ぼくの体中に、いつの間にか、撫子さんが満杯で。今までに無いくらい一杯どきどきして、悩んで、躊躇って、決意して……そうしてく内に、撫子さんのことが、好きなんだって、分かって」



「……ん」



 少し恥ずかしそうに、撫子は首を竦めて目を伏せた。目元が、ほんのりと赤く染まる。



「色々あったけど、ぼくは、撫子さんと一緒に歩いて行ける様になって……ええと、何て言ったら良いんだろう。撫子さんはとっても綺麗で、凄くて、優しくて……ぼくには勿体ないくらいで、それでも、一緒に居ると幸せで」



 言葉というのは、酷くもどかしい。柔は上手く言葉に出来ない感情に四苦八苦しながらも、何とか言葉を絞り出して行く。


 頭は真っ白で、心臓はどくどく高鳴っている。それでも、撫子の顔だけは何故かはっきりと見えていた。



「だから、ぼくが皆に感謝出来るのは、撫子さんのお陰で。……ぼくは」



「言って」



「ぼくは、撫子さん」



「……言って、下さいまし」



「貴女のことを、愛しています」



 そこまで言って、柔はひゅ、と息を呑んだ。一度視線を下げ、ヒールを履いているせいで、柔の目線よりも幾分高い所にある撫子の瞳をそっと窺う。


 優しげな顔で胸に手を当てている撫子と、視線が絡んだ。


 撫子は胸に何か暖かくて心地良い物が広がるのを感じて、目を瞑り、ほぅと熱い吐息をつく。


 酷く、心が安らいでいた。柔さえ居れば何だって出来る様な、そんなドキドキが胸を占めている一方で、包み込む様な柔らかな感情が溢れている。


 柔にだけ抱くこの感情は燃え上がる様な恋情なのか、それとも静かな愛なのか。


 きっとどちらもだ、と胸の内、その深い部分に刻みつけた撫子は、しかしほんのちょっと表情を曇らせた。


 目の前には幸せがある。手を伸ばせば、それを容易に掴むことが出来る。しかし、きらきらと輝く幸いの未来を前に、ここに来て撫子は足踏みをしてしまった。


 恋人が居ることと、良人が居ることは似ている様で、まるで違う。これまで、柔に知られて居なかった自分の嫌な所が出てきて、それで嫌われてしまったら――? これ以上、柔へと依存してしまったら――?


 どんなに美しく、自身に満ちあふれた女性でも一度は味わうであろう独特の恐怖であった。


 柔は理解してはいないことだが、撫子はその精神の奥深く、最も純粋な大部分を、意図せずに柔へと預けてしまっている。


 柔が思っているよりもずっと、気を許しているのである。ふとした日常の一コマ一コマで、撫子はそれを痛感することがある。


 言葉にすべきかどうか一瞬悩んで、結局はもごもごと口を開いた。



「撫子は……余り、良い人間ではありませんの。我が儘だし、仕事はこれからも、忙しいし、きっと迷惑をや心配を沢山かけて、貴方に寂しい思いをさせることになります。……それでも、構いませんの?」



「と、とんでもない! 元より、想いの内、です。ぼくは女優である撫子さんの隣まで、歩いてきた。これからも、遅れない様に頑張って隣に並びたいから。むしろ、ぼくがその、愛想を尽かされないかの方が、心配で……」



「……もう、困った人」



 不安を一蹴されて、はにかむ様に囁かれた撫子の言葉に気弱な笑みを返すと、柔は祭壇の上に据えられた一つの指輪を取り上げた。


 穏やかな光を照り返すプラチナのそれは、それほど――著名人の結婚式に相応しいと言える程――高価な品ではない。


 しかし、柔が自分の力で手に入れることの出来た中で最も上質で、かつ最も彼女に似合うと思って手に取った指輪は、美しかった。


 永遠を象徴するメビウスの輪、控えめに飾られたルビーは、柔の持つ彼女のイメージ――滴る様な情熱の、ピジョンブラッド。



「でも、幸せです。ぼくは、今、こうして撫子さんとお話しているだけで幸せで。もし貴女が――この指輪を、付けてくれるなら。ぼくはもっと、幸せになれる。だから、あの……その、受け取って……くれますか?」



 自信に満ちた表情ではない。額や米噛みに汗を刷き、太めの体を強張らせている柔の姿は、傍目にも堂々という言葉とは遠い物だ。


 だが、この場所にそんなことを気にする人間は居ない。誰もが柔の人となりを知っているし、その想いの深さも知っている。



「本当に、困った人。撫子が……貴方の思いを受け取らない道を選ぶとでも思っているんですの? さぁ――私が欲しいのならば、撫子の指に、愛の証を」



 朗々と響く声は厳かでいて優しい。あたかもここが舞台の一幕であるかの様に、撫子は堂々とその繊手を差し出した。


 光にけぶる撫子のドレス姿は、これ以上無い程に神々しい。


 その圧倒的な美しさを形容する言葉を持たない柔は、ただ単純に一言、内心で呟いた。


 ――やっぱり、女王様だ。



 目の前には、指先、爪の形まで完璧な女王の細指が晒されている。


 この時一体、柔の思考に何が働いたのか。自身分からぬままに、気付けば、柔はヴァージン・ロードに片膝を着いていた。


 柔らしくも無い気障な仕草である。戸惑った様に、僅かに起こるどよめきはしかし、柔の意識にまでは届かない。



 目の前、視線の高さにある撫子の手を恭しく取り、その左手の薬指に微かに震える手つきで指輪を滑らせる。汗で湿る掌を、撫子はただ黙って受け入れている。



「ぼくは、ここに……ぼくが感謝する全ての人に、貴女への愛と、忠誠を」



 ゆっくりと指先に唇を落とし、視線を上げた柔の顔には真摯な色。シャープさとはほど遠い頬のラインが刻むのは、滑稽ではなく真剣なソレだ。



「――誓います」



 不思議と良く通る声だった。参列者達は、それぞれの思いを籠めてその光景を眺めている。



「お立ちなさい」



 凛然とした撫子の声。マリオネットの如くすっくと立ち上がった柔の手を取って、いつの間に手にしたのか、はめ込まれた宝石だけが違う結婚指輪を撫子は指先で転がした。


 ふ、と声にならない笑みを浮かべ、視線よりやや下、自身を見詰める男の手に指を這わせる。


 一瞬後には、柔の指には誇らしげな指輪が煌めいていた。



 恥ずかしげに、満足そうに視線を交わす二人に苦笑した太郎は、甘やかな二人の雰囲気に茶々を入れる様にゴホン、とわざとらしく咳払いをした。



「良い感じに、赤面もののプロポーズが成立した所で、では、本日のメインイベント……誓約のキスを」



 揶揄いを含めたその声色に、さっと二人の頬に朱が差した。


 それでも撫子は、無言のまま半歩分だけ柔へと歩み寄る。首を傾げるでもなく、それ以上進むでも無い撫子の双眸から、奇跡的に『貴方から』というメッセージを読み取った柔が慌ててぴんと姿勢を伸ばす。



 初めてのキスは、撫子からだった。


 柔も、一応は男の端くれである。ここぞという場面で位、何とか格好を付けたいと、そっと撫子の頬に手を伸ばす。



「幸せに……世界で一番、幸せにして下さいまし、柔」



 掌に感じ取る振動は優しく、うっとりと目を閉じる撫子の仕草に、柔は言葉にならない強烈な愛おしさが込み上げるのを感じた。


 衝動のままに頷き、ぐっと身を寄せる。



「ん……ふ」



 感じたのは、仄かな甘さと、柔らかさ。ふかふかしている様で、柔の唇を押し返す、しっとりとした弾力がある感触だ。


 付き合いがあるとは言え、柔は事件の後から最近まで入院したりリハビリしたりと言った生活で、それほど撫子とイチャついていた訳では無い。


 まだまだ慣れぬキスの味は、柔の体感にとってほんの一瞬で、しかし途轍もなく長い時間を思わせた。



 結婚式のキスにしては長いが、それでも実際には数十秒だ。ぴたりと寄り添う二人は唇を離すと、首を傾けてちょっと困った様に笑い合う。


 パチパチと、控えめに手を打つ音が聖堂に響き、振り返った二人の視界に、それぞれの笑顔が飛び込んできた。


 視線の先、席から立ち上がったレティシアが、満面に太陽の様な笑みを湛えて大きく息を吸う。仰け反る程に呼気をため込み、大きな胸がたゆんと揺れ。


 そして、叫んだ。



「おめでとう――!」



 混じりけの無い、純粋な賛辞。


 それに唱和する様に、参列者達が次々と席を立ち、手を叩きながら笑顔で祝福の意を告げる。


 「おいおい、まだ結婚誓約書とかがあってだなぁ……」と困った様に言う太郎も、遂に全員がやんやと騒ぎ出すのに呆れて、「ああもうっ、おめでとうお前ら!」と一際大きな声で叫び、柔の肩を軽くどついた。


 そして、うわっははと呵々大笑。



「うわぁ!」



 突然の張り手に大げさに飛び上がる柔の隣では、撫子がくすくすと笑みを零し。そんな二人の周りには、いつの間にやら皆が詰め寄って来ている。


 止める者もおらず、式の進行は既にどこかに投げ捨てられてしまっていた。だが、それでも二人は幸せだった。


 形式など関係無く、ここに居る皆が精一杯自分たちを祝福してくれているのを目で見て、耳で聞いて、心で感じている。



「ん、もうっ。頭を撫でないで下さいまし!?」



「ぬあはははー! 良いではないか、良いではな、痛っ! 太郎!?」



「髪の毛ぐしゃぐしゃは駄目でしょーがっ!」



「あ、ちょ……ふ、服を引っ張っちゃダメだってば!」



「すげー、サラサラしてるぅー!」



「わはー! 変な髪型だぞー!」



「いたたた!」



 何のかのと揉みくちゃにされながらも、決して離れようとしない柔と撫子の掌がそっと絡む。きゅっと手を握り合う感触に反射的に顔を見合わせた二人は、一層くすぐったそうに笑みを交わした。




 眩い日差しの下、蒼い海原を一望出来る丘の上に立つ、古風な教会。その中には今、代償様々な笑顔が溢れている。


 互いの左手、薬指。


 そこに燦然と輝く終わりの無い永遠の輪が、二人の行く先を祝福するかの様に、一瞬だけ煌めいた。






これにて、柔と撫子のお話は了となります。

ここまで読んで頂き、有り難うございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ