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黒髪の女王様  作者: 三角
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第十三話 救出のこと。







 ダンスを生業にする――否、例え趣味であっても、ダンスを好む人間を、見たことがあるだろうか。


 華やかなアイドル、実力派のバックダンサー、街角でたむろするストリートダンサーから、ブロードウェイの花形まで、世の中には数多くのダンサーが居る。


 ジャズ、ロック、ポップ、ブレイク、舞踊。力強く、繊細に、妖艶に、優美に、無邪気に、そして華麗に彼らは踊る。


 そんな彼ら彼女らには、共通する特徴が存在するのを、知っているだろうか。



 それは、肉体だ。例えゆっくり、簡単そうに見えるダンスであっても、その実、かなりの運動量を誇る。十分も続けて踊れば、汗だくにもなる。


 ダンサーは基本的に、体が強い。繊細な動き、優美な動きを表現するのであれば、しっかりと体を支える筋肉、踊り続ける為の体力、そして柔軟な間接が必要になるからだ。


 パフォーマンス、指の先まで気を払い、美の演技にかける彼らの肉体は、総じて高い身体能力を誇るのである。



 そして、稀代の大女優とまで呼ばれる、舞台の女王撫子が、演技の為ならばかなりハードなダンスでも見事に踊ってみせるのは、もはや言うまでもないことであろう。
















 救出のこと


















「――着きました!」



「うわわ!」



 シートベルトを外す動作ももどかしい、と言わんばかりに、桔梗は車の外へ飛び出した。目線を上げれば、そこにはうらぶれた廃工場がある。


 桔梗は、僅か焦燥に揺れる鼓動を宥める様に胸に手を当て、一つ息を吸う。


 そうして、のたのたと車から転がり出てきた柔を一瞥すると、さっと髪を掻き上げた。


 車を止めたのは、工場から少しだけ――見つからない程度に――離れた道路脇だ。二人は、自然と足が速まるのを感じながらも目的地へと近づいていく。



「……」



 柔は、少しずつ大きくなってくるその建物に、意識して出来るだけ険しい視線を向けた。


 放棄されてから随分立つのか、薄汚れた白の建物はこの夏空の下、心霊スポットの様に人気なくひっそりと佇んでいる。



「撫子さんが……ここに」



「ええ」



 二人は、言葉少なに会話を交わす。沈黙を誤魔化すかの様に響く蝉の鳴き声が、すぐ側の緑から木霊の如く響いている。


 柔はぐっと腕で汗を拭い、更にじっくりと建物に目をやった。


 元は何の工場だったのかは分からないが、二階建ての大きな建築物だ。


 建物の裏手、僅かに見える駐車場に、窓。


 一階には上の階程窓の数は無いが、二階には見晴らしのよさそうな窓もあり、稼働していた時はさぞ清潔な工場だったのだろうと思わせる外観だ。


 しかし、よく見れば所々のコンクリートがはがれ落ちていて、微細に入った罅、褪せた印象の廃工場は、明るい中にあっても酷く不気味である。


 換気扇のようなダクト、雨どい、柔達が居る方向から見ると、出入り口は二つ。


 片方は打ち付けられた板で封鎖されているが、もう片方はほんの少しだけ開いている。



「……どうやら、多少の騒ぎがあっても問題ないようですね。少し隠れて、待っていて下さい。裏口があるかどうか確認してきます」



 桔梗の言葉に対して、柔は無言のまま、大きく頷いた。


 目と鼻の先にある、白の建物。そこには、すぐ手の届く距離に居て、だけれども助けることの出来なかった女性が、居る。


 ぶるり、と一つ身震いするのもそのままに、柔は周囲を見回した。


 成る程、この場所は工業地帯の中でも端の方に位置しているらしい。少し視線を逸らせば、一方は海、一方は柔達がやってきたアスファルトしか見えない。


 見える範囲に他の建物は見あたらず、人影もない。


 緑化運動でも推進しているのか、やけに木々が茂っているのが気に掛かるが、柔はそっと頭に手を伸ばした。


 何とか平気な顔をしているものの、傷口は未だにじくじくと痛んでいる。これでは、全力で駆け出すことも危ういかもしれない。


 建物の窓から見られても、万が一にも見つからないように身を伏せながら、柔はほんの少し目を瞑った。



「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」



 暗示の様に自分に言い聞かせ、ともすれば叫び出したくなるような気持ちを押し潰す。


 柔一人では、どうあがいた所で彼女を――撫子を、助けだすことは出来ないのだ。


 脳みそでも、身体能力でも役に立てそうもない柔は、せめて落ち着いていなければならない。桔梗を助け、活かし、そして撫子が怪我をしない様に。


 そうして瞼を上げると、音を立てる程強く奥歯を噛みしめ、地面に散らばっている中くらいの石を拾い上げた。


 石を一,二個ポケットに詰めた所で、桔梗が隣に戻ってくる。その涼しげな顔が、緊張に引き締まっているのが見えた。



 ――戦乙女って、こんな感じかなぁ。


 ふと、柔が場違いな感想をその横顔に感じていると、振り返った桔梗はごく小さな声で囁いた。



「……裏手にある駐車情に、情報提供者が見つけたという黒のバンが停めてありました。ナンバーを確認した所、間違いないと。裏口は一つありましたが、封鎖されていました。一階には侵入に使えそうな窓がなく、二階の割れた窓から侵入するのは、少々手間で、危険が大きい。ですので」



 くっ、と桔梗は顎先を引く。応ずる様に眇められた、眼鏡越しの鳶色は燃えるように滾っている。


 隣に居るだけの柔ですら、肌にピリピリ来る様な威圧感。おいそれと声を掛けられない程の集中に、柔はごくりと生唾を飲み下した。


 言葉を切って建物を、否、その中の犯人達を睨み付けている桔梗に向かって、柔はゆっくりと声を掛けた。幸い、その声は震えてはいない。


 そのことに安堵を感じつつも、やはり言葉が詰まってしまうのは避けられなかった。



「です、ので……?」



「――正面突破と、行きましょう。あくまで静かに、迅速に」



 言って、桔梗は足音一つ立てずに立ち上がった。大きな体が嘘の様にしなやかに、気配も立てず静かに動く。


 氷の様にクールに、炎の様な激情を燃やす、桔梗の気迫に背を叩かれる様に、柔は隠れている崩れかけの塀から転がり出て、彼女を追いかけた。


 出来るだけ静かに動こうと思っても、柔は中々の体重があるし慣れてもいない。緊張から噴き出る汗を拭いながら、こそこそと開きかけの門扉の傍に取り付いた。


 桔梗は柔が追いついたのを確認すると、入ってすぐの場所に人が居ないか耳を澄ます。すぐに片手を上げると、白く細長い指を伸ばし、そっと扉に手を掛けた。閉め切られていない扉のノブは掴まずに、引く。


 微かな、隠しきれない軋みが響き、柔は思わず息を詰める。桔梗は自分が滑り込めるだけのスペースを作って、猫の様にするりと身を潜り込ませた。


 窓が小さく、少ない為に薄暗がりになっている工場の中の様子は、この小さな出入り口からはようと知れない。


 一瞬戸惑い、そぅっと震える指を伸ばしかけた柔の目の前に、先に薄闇に消えた桔梗の腕がすっと出てくる。


 どうやら、桔梗は中に入った後、自分が通り抜ける事の出来る幅では、柔が潜れないことに気付いたようだ。


 暗がりから突き出た、艶めかしい色を見せる白い指先が扉を押し、柔が通ることが出来る様に静かにスペースを作る。


 口の中で小さくお礼の言葉を呟いて、柔は何とかつっかえることなく、扉を潜った。



「……」



 明るい外から、暗い室内へ。突然明るさを消失した視界に柔の瞳孔は対応することが出来ず、結果、目が慣れるまでの数瞬は酷く暗い。


 目を瞬いて息を殺し、周囲を確認する柔が感じたのは、空気の匂いと冷たさだ。柔の肌を撫でる空気は、外よりも大分温度が低い。その冷たさに、少し汗が引く。


 僅かな埃っぽさと、煙草の香り。長い間使われていないだろうこと、そして、つい最近人が入ったことの証左が柔の鼻をくすぐっている。


 そして何より、今日柔が感じていた撫子の薫り。ほんの微量だが、空気の動きの少ないこの場所で、柔はそれを感じ得ていた。


 ここに居る。


 改めて撫子の存在を強く心に意識していると、しだいに瞳が慣れてくる。慣れれば、行動に支障は無い。柔の隣で気配を殺していた桔梗は、柔の様子を確認して立ち上がった。



「……?」



 大丈夫なんですか。という意味を含めた柔の目配せに、ちょいちょいと人差し指で柔に着いて来る様指示しながら、桔梗は足早に大部屋を進む。


 それを見て恐る恐る立ち上がった柔の目に映るのは、幾つかの並べられた作業台。灯りの灯っていない照明に、ガラクタの様に放置されている、組み立て途中のパソコンケース。


 柔の目に見える範囲では、大きな機械は見あたらない。しかし、全体的に雑然とした工場内は、一階部分が全てぶち抜きになっているようだ。


 入り口とは遠い、奥側は、暗闇に包まれていて何があるのか判然としない。




 まだ、入り口だ。


 そう言い聞かせる柔の汗は一向に止まらない。


 汗を拭うのももどかしいと、踏みだそうとした足が地面に貼り付いた様に動かないことに気がついた。


 酷く落ち着かない。跳ね回る鼓動に静まれと念じながら唇を舐める。


 口の中は緊張でからからに乾いていて、そこで舌が強張っていることにやっと気付いた。


 もごもごと小さく、何度も唾を飲む。すると今度は、呼吸が浅く速くなっていることを悟る。


 唾を飲む音、呼吸音が、だだっ広いこの暗闇の中、どこに居るとも分からない犯人達に聞こえてしまいそうな気がして、柔はぐっと息を詰めた。


 体を強張らせ、懸命に恐怖と戦いながら少しずつ落ち着けようと気を逸らせる。極度の緊張と恐怖が柔の心臓に負荷をかけ、今度はきゅっと胸が痛んだ。


 落ち着け、落ち着けと念じれば念じる程、落ち着けない。


 ずきずきと疼痛が頭を締め付け、苦しさを感じる心臓、収まらない呼吸、ぐるぐるとただ、撫子を助けるのだ、という思いが脳みそを駆け巡って柔の思考と体を縛る。


 いつの間にか、瘧に掛かった様に震える体に気付かぬまま。柔はそれでも一歩、のそりと足を踏み出そうとして、足を縺れさせ、



「――っ!」



 桔梗に、抱き留められていた。極度の緊張で、柔が過呼吸気味になっているのを見て取ると、桔梗は辺りに気を配りながらも、優しく柔の背をさする。


 桔梗は柔の耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。



「大丈夫です。私が、着いて居ます。大丈夫……」



 優しい声音であった。暗闇に閉ざされようとしていた柔の思考の中に、その声が清涼な雨水の如く沁みていく。



「あ、あ……」



「本当に、問題ありません。大丈夫です。……貴方が私に、言った言葉ですよ、柔。私と貴方で、クイーンを助けるのでしょう?」



 暗がりの中、ピンと気を張り詰めながらも、桔梗の声は柔らかく、穏やかだった。彼女がどんな表情をしているのかは、柔には分からない。



 柔は、唐突に視界が晴れるのを感じた。どくどくどく、と心臓は狂おしく高鳴っているが、痛みを伴う苦しさは無い。


 呼吸は荒いものの、しっかりと酸素を取り込み、それが血液に乗って体中を巡っているのが分かる。


 びっしょりと汗に濡れていることに気持ちの悪さを得た後で、今、自分がどういう体勢にいるのかにやっと気がついた。



「……! ききょむぐ……」



 思わず飛び上がって大声を上げそうになる。素早く、桔梗が掌で柔の口を押さえた。


 しかし、柔が叫びかけたのも仕方のないことであろう。柔は桔梗に、正面から抱きしめられているのだ。


 身長差がある故に、柔は、彼女の見事な双球の間に顔を埋めている。


 まだ消えていない、彼女の香水の香りと、僅かに感じるどこか甘い、汗の匂い。頬に当たる感触は、スーツ越しであるにも関わらず暖かく、柔らかい。


 じたばたともがく柔の背には、片方の手がしっかり回っていて、そのせいで腹と言わず太ももと言わず、刺激の強すぎるしなやかさがぴったりと柔に触れている。


 何より、覆い被さる様に寄せられた唇が耳元を掠るのを感じて、柔は先程とは違う意味で平静でいられなくなった。桔梗の腕をぽんぽんと叩き、大丈夫という念を込めてその鳶色を見上げる。


 桔梗はその顔を見て、柔が恐慌状態を脱したことだけを理解し、しかし何故そんなに慌てているのか理解出来ずに小首を傾げた。



「……? 大丈夫そうですね」



 辺りが暗いのは、柔にとって幸いであった。この状況で、柔は今顔が真っ赤になっているのだ。


 しかし、桔梗のお陰でついさっきまで自分を苦しめていた緊張感が、身を引き締める程度に収まっているのを感じた。


 小さく礼を言い、身を離す。くるりと踵を返して闇の中を進む桔梗の背中を追いながら、柔はもう一度、心の中で礼の言葉を送る。


 身は軽くは無いが、重くも無い。程よい緊張感が思考を引き延ばす様な感覚を得て、柔は慎重に歩みを進めることにした。





 桔梗は、まず壁沿いに進むことにしたようだ。左手を壁につくように、ずんずんと進んでいく。


 建物は長方形で、今柔達が居るのはその四隅の一角だ。薄暗い中でも、辛うじて辺の短い方、右手側の壁は見える。


 つまり、長い辺に沿って歩けば、一通り一階部分の探索を追えることが出来る、ということだ。


 ごみごみとした作業台の間を抜け、剥き出しの工具の隣を過ぎ、ケーブルを跨ぐ。


 もしかすると、ここはパソコンの組み立て工場なのかもしれない。埃を被ったHDDを横目に、柔はそんなことを思う。



 遅れぬように後ろを歩きながら、数分。ぼんやりと霞んでいた建物の壁が、見えてくる。どうやらこちらで当たりの様だ。


 行く先の壁に沿う様に金属製のチャチな階段があり、それは二階へと続いている。


 この全てが作業上となっている一階部分に撫子を匿う場所は無いと判断したのか、桔梗はまっすぐ階段へと足を向けた。


 工場の中に踏み入ってから、どれだけの時間が経過したのか。慣れない状況での集中は、凡人に過ぎない柔の体力と気力をガリガリと容赦なく削っていく。


 集中を切らさぬよう、柔が意識を張り詰め直していると、不意に人の声が耳に届いた。



「……って……よ」



「ま……だ」



「金さえ……」



 微かな音量だが、この薄暗がりの中では良く響く。内容までは分からないが、男の声だ。柔は反射的に、犯人達だ、と直感した。


 どこか隠れる場所を、と視線を振った柔の前で、桔梗の体がぐぐっと膨張することに気付く。


 神経の鈍い柔でも、はっきりと感じられる程の怒気が辺りに満ちた。



「居た……」



「桔梗さん……!?」



 憎き犯人達らしき声を聞いて、我慢出来なくなったのか。今にも飛びださんと体を沈める桔梗の左腕を、柔は咄嗟に両手で掴んだ。


 徐々に近づいて来る声に焦りを感じつつ、なるべく冷静に、小さな声で警戒を促す。



「ここは、一度隠れましょう……!」



 いやいやをするように、桔梗の腕が揺れ、その瞳が柔の顔を見る。毛並みの良い、しかし獰猛な狩猟犬の如く鋭いその視線に刺し貫かれながらも、柔は視線を逸らさない。男達の声は、大分近くまで来ている。階段に足をかけるのも時間の問題だろうか。



「桔梗さん!」



 必死さを滲ませる柔の嘆願に、桔梗は体から力を抜いた。


 何か、冷静な思考が働いたのでは無い。強いて言えば、身の内の激情に駆られている桔梗を押し留めたのは、漠然としたある種の感覚だ。


 その気になれば、桔梗は簡単に柔の腕を振り払うことが出来る。


 それでも、暗がりの中、僅かに差し込んでいる光に煌めくその瞳が、言葉以上の雄弁さで何かを訴えかけていたのである。


 車の中で柔が垣間見せたあの、瞳の色。


 桔梗はふと気付いた。不思議に揺らめくその強靱な色は、時たま、撫子が浮かべるそれと良く似ている。



 腕を引かれるまま、桔梗と柔は階段を見渡せる作業台の陰に身を潜めた。


 カン、カン、カン、と階段を踏む金属の音が響く。何故、柔は桔梗を止めたのか。それを確かめようと、桔梗はそっと柔に振り向いた。


 丁度、柔も同じ考えの基に振り返った為、ばっちりと目が合う。柔の唇が、ゆっくりと幾らかの言葉を作った。


 ニヤリと、凄絶な笑みが桔梗の唇を彩る。



「やってらんねぇっつの、何だあの変態親父はよォ。気色悪ぃ」



「早くやることヤって帰りてぇな……」



「馬鹿おめぇら、金だぞ。頭は愉快なクレイジーマンだけどよ、俺たちにとっちゃ大切な金ヅル様だろーが」



 二階には十分な光があるのか、階段の周囲だけはほんのりと明るい。


 その中を下りて来るのは、三人の男達だった。それぞれ煙草を燻らせ、唾を吐き、つまらなそうに頭を掻きながらだらだらと足音を立てている。


 薄く照らされた顔には、警戒心は無い。どころか、油断しきっているようだ。


 しかし無気力に、ニヤニヤ笑んでいる男達の顔に、柔は見覚えがあった。


 撫子と初めて逢ったあの日、柔に絡んできた、あの男達だ。隣で身を屈めている桔梗もそれに気付いた様で、僅かに身じろぎする気配を感じる。



 そうこうしている内に、男達は一階の床に下り立った。かなり声が大きいのだが、もしかしたら、一階と二階では防音性能に大きな差があるのかもしれない。


 ここで暴れようと画策している柔達に取って、それは有り難いことだ。この三人を何とか出来れば、撫子を誘拐して来た犯人達は上に居ないことになる。


 早く、助けに行きたい。柔は、逸る心を押し留める様にシャツの胸元を握りしめ、じっと彼らの挙動を見守る。



「どうするよ」



「外で煙草でも吸ってりゃ良いだろ」



「っち、一杯飲りてぇのによ」



「お、そういやぁ車ん中に、ビール乗っけたまんまだったぜ」



「ひゅー」



 油断しきったその顔、背中。柔は、慎重にタイミングを測った。雑談しながら、こちら側へと歩いてくる彼らの意識がどこに向いているのか、それを探る。



 そして、小さく腕を振りかぶった。


 柔の手から離れた石ころは緩い放物線を描いて宙を裂く。


 それは男達に気付かれずに頭上を通り越し、丁度、彼らの意識の及んでいない背後の死角、柔達の反対側のガラクタに見事衝突。



「なん……!?」



 結果生じるのは、不自然な着弾音だ。


 石ころは上手い具合にアルミ製のPCケースにぶつかった様で、中々に派手な音が立つ。


 気を抜いてだらしなく歩いていた彼らは、死角から響いてきた『自然には起こりえない音』に意識を取られ、反射的にそちらの方向へと向き直った。


 すると当然、



「ふ……っ!」



 今度は、桔梗の潜むこちら側が背中側――死角になる。



「ぐぉっ!!」



 激鉄に叩かれ推力を得た弾丸の如く、飛び出した桔梗の右拳が唸り、最も手前に居た男の意識を根こそぎ刈り取る。


 その男が崩れ落ちる前、残りの二人が異変を察知して向き直る前に、桔梗は既にもう一度床を蹴っていた。


 その長身が薄暗がりの中、しなやかに舞う。



「……っ」



 無音の呼気。それと共に繰り出された、鋭く空気を断ち切る左の回し蹴りが一人の側頭部に叩き込まれ、男は声を上げることも出来ずに昏倒。


 糸の切れたマリオネットの如く、膝から無様に崩れ落ちる。



「なン、だ手前ぇ……!」



 最後まで残っていたのは、男達の中で一番体格の良い、偉そうな男だった。桔梗は無言、無表情のまま三度床を蹴り、素早く腹に当て身を入れながら男の腕を捻り上げる。


 柔が緊張で息を止めている間に、男は為す術も無く地べたに引き倒されていた。



「何、何だこいつぁ……! おい、離せ! タダで済むと思ってんのか、コラァ!」



 柔は、一度ほっと息を吐いた。柔が桔梗を呼び止めたのは、偏により安全に男達を打倒する為、出来れば一人に話を聞く為だ。


 おそらく、あのまま桔梗が突っ込んで行っても男三人を気絶させるのは簡単だったのであろう。しかし、柔はより安全な方法を探ったのだ。


 思いついたのは、油断を突くこと。階段を下りきった後に不意を打てば、相手は階段を使って上に逃れることが出来ない。


 もしも万一、あそこで桔梗が飛び出して一人でも二階に逃れ、そこに居ると思われる撫子にナイフでも突きつけたら。


 それを防ぐ為の考えであった。


 男達が油断しているのは分かったが、真っ正面から襲い掛かっては、一人、二人を相手にしている間に、残りの男が何かしら対応をしてこないとも限らない。そうなれば、桔梗が怪我をする可能性も勿論上がるのだ。


 だからこそ、柔は男達の死角を、意識的に操作することにした。誰も居ないと思っている場所から大きな音が立てば、当然、人はそちらを向いてしまう。そうして彼らの意識をそこに固定してやれば、油断を突くのも簡単になる。


 ある種のミス・ディレクションとでも言えるかもしれない。廃工場の前で拾った石が役立ったのは僥倖である。


 勿論失敗する可能性もあった。ただ幸い、彼ら三人は固まって動いて居たし、別段格闘を習っているという類の人間でも無い。


 誰にでも思いつく簡単な策だが、これが柔の考えた出来ることなのである。



「おい聞いてんのかコラ! 離せっつってんだ……ぎぁ!」



 俯せに押さえつけられ、片手をギリギリと締め上げられているにも関わらず、男の口は良く回る。ほんの少し眉根を不快気に動かした桔梗は、骨が折れる寸前までちょっと捻ってやった。


 ひとしきり痛みの声を上げると、男はすぐに大人しくなった。抵抗しても、逃げられないことが分かったのだろうか。それでも、苛立たしげに舌打ちを漏らしている。



「撫子さんは、上に居るの」



 柔は、よろよろと進み出ながら男に声を掛けた。それは疑問というより、確認だ。首を捻り、柔の顔を見た男の顔に、弱い者をいたぶる嗜虐的な笑みが浮かぶ。


 男は、ニコチンで黄色く染まった歯を剥き出しにして、ゲラゲラと笑った。



「ぎゃははは! 誰が手前ぇみてぇな豚に教えるかよ。知りたいなら一人で見に行けよチェリーちゃんが! お前み……うぎぎぎ! おい待、て、折れる! 折れちまう……!」



「どうせ役に立たない腕なのですから、一,二本なら折っても構わないでしょう」



 温度の無い、ひんやりとした声が男の舌を縫い止める。酷くどうでも良いと思っているのが良く分かる、無表情の声だ。透かし見える怒りの炎が、桔梗の声に凄惨な凄味を与えていた。



「クソ、勘弁しろよ……」



 柔は桔梗の動きを掌で押し留めてから、男に向かってもう一度口を開いた。



「さっき貴方達が言ってた、変態親父ってどんな奴ですか……それと、撫子さんは、無事なの」



「さぁねぇ。今頃、トチ狂った変態親父に、撫子ちゃまは犯されてんじゃねぇのぉ? 早く行かないと使用済みになってまうぜぇ。いやぁもしかしたら、もうガバガぐぅっ!」



 乾いた音。鳥の手羽先をへし折るあの音を、数倍無慈悲に、毒々しくした音が響く。



「うぉ……お……、おぉぉ……!」



 柔が、これまで生きて来た中で初めて聞いた――人間の骨が、折れる音だった。


 無表情のまま、無造作に男の肘をへし折った桔梗は、立ち上がりざまに男の顎を蹴り抜き、気絶させる。


 そして、柔に振り向いて短く言った。



「――急ぎましょう」



「……は、い」



 ぞく、っと、柔の背筋を怖気が走り抜ける。


 知り合いの女性が、酷く遠い存在に思えていた。腕をへし折られた男に同情する程、柔はお人好しでも器が大きくも無い。ただ、人間の壊れる聞き慣れないその音に、戸惑っていた。


 そんな柔の顔を見て、桔梗は困ったように首を傾げる。



「……治りやすい角度で折りましたから、そんなに酷い怪我には、なりません」



 そう言って階段の方へと足を向ける桔梗の瞳に、どこか悲しげな光が浮かんでいるのを見て、柔は思わずその手をぎゅっと握った。


 驚いて振り返る髪の毛が、ふわりと揺らいで空気を打つ。桔梗はまん丸な目で、柔を見おろした。



「ご、ごめんなさい、桔梗さんが怖いんじゃないんです。……ただ、慣れてないだけで。だから、その、あんまり、気に……」



「……ありがとうございます」



 言って、優しく柔の手を振り解いた桔梗は、静かに階段へと歩み寄る。彼女はほんの一瞬だけ、柔には分からない様に柔らかな笑みを浮かべ、すぐに引き締める。


 背後、柔がちゃんと着いて来ていることを確認して、階段を上りきった。



「……」



 二人は無言で顔を見合わせる。階段の先は、一直線の通路だった。一階とは違って、いくつかの部屋があるようだ。扉が付いていたりいなかったりしていて、薄暗い一階よりも明るい分だけ、建物が崩れている印象を受ける。


 もしかしたら、二階は事務室の様な物だったのかもしれない。足音を立てない様に注意しつつ、手前の部屋から順々に覗いていく。


 一つ、二つ、三つ。階段から近い部屋には、何も無い。


 息を詰めながら、そっと部屋の様子を窺う二人の耳に、不意に男性の太いうなり声が届いた。



「き、きさ、貴様……!」



 慎重にだとか、静かにだとか、二人はそういう慎重論をどこかに投げやって、半ば反射的に声のする方向へとただ駆けた。


 階段から見て、一番奥から二つ目、扉の無い部屋から、その声は轟いている。



「俺を、馬鹿に、するなァァァァァア!!」



 絶叫。


 聞いているだけで心を汚染されてしまいそうな、恐ろしい怨念の籠もった大音声だ。


 桔梗と柔、二人はほぼ同時に室内へと転がり込み、そして見た。



 体格の良い、浅黒い肌の男。それが体中に怒気と力を漲らせ、部屋の中央で凛と立つ撫子へと躍りかかっているのをだ。


 扉から撫子までは、八メートル程の距離がある。


 例え追いつかないと分かっていても、構わず足を動かした二人を嘲笑うかの様に、男が距離を詰めるのを、柔はただ見ていた。



 射線上、男の背中の先には撫子が居る。咄嗟に石を投げたら彼女に当たるかも知れない。そもそも、石を取り出す時間もない。


 先程まで、軽快とまではいかないが、ちゃんと動いていた両の足は、重りが付いているかの如く鈍く、遅々として進まない。


 妙にゆったりとした世界の中で、ゆっくりゆっくりと男が撫子へと迫って行く。


 言葉に出来ない思いがお腹の奥、胸を通ってせり上がり、口をついて外へ、出た。



「クイーンッ!!」



「撫子さん……!!」



 同時に聞こえる叫び声。柔の少し前を、桔梗がゆっくり動いている。


 男の背中越し、妖艶にすら見える撫子の冷たい微笑を垣間見て、柔は目を瞑ることも出来ず、ただその瞬間を待つ。


 コマ送りの様に進む男の拳、僅かにだけ傾ぐ撫子の体、届かない自分の手、進まない足。


 距離は無慈悲に詰まっていく。残り三メートル、二メートル、一メートルを切り、


 そして、五十センチ。






「なぶ……!」



 ひゅ、という鋭い音。優美な線が、空気を断つ。


 それは、氷の鞭だった。


 柔の目に見えたのは、まさしく氷で編まれた、切れ味鋭い優美な鞭。


 ほんの一瞬だけ翻った鞭は、優美に、艶やかに弧を描いて、自らを手折ろうとする無粋な無頼漢を強かに切って落とす。



「――おイタが、過ぎましてよ?」



 首筋に吸い込むように叩き込まれた回し蹴りは、撫子の、ダンサーとして極めて柔らかい肉体と、瞬発力、ボディバランスによって成り立った絶妙な一撃だった。


 撫子に襲い掛かろうとするベクトルを、横合いからの一撃で完全に殺された男は、一、二歩よろめいてから見事に崩れ落ちる。


 ぎりぎりまで男を引きつけていた為、ピン、と振り上げた脚を天井へと向けたまま、桔梗たちの姿を認めて撫子ははたと視線を向けた。


 柔は、笑みを湛えたその顔を見、すらりと伸びる、白い太ももを見、破れたタイトなミニスカートから伸びる、



「うわぅ!?」


 

「あ……柔!? な、ななな何見てますの!」



 非常に、魅惑的な物を凝視してしまった。それに気付いた撫子は、慌てて脚を下ろし、頬をピンク色に染める。それでも、僅かに捲れ上がったスカートには深いスリットが出来ている。柔はばっと視線を逸らし、赤く染まった顔を手で覆った。


 中々お目にかかれるものではない、極上の女性美を誇る撫子の引き締まった脚、それも、内ももの部分である。柔の目には毒だが、ちゃっかり、はっきりとその色と形を脳みそに刻みつけていた。


 心なし、涙目になった撫子がキッと柔を上目遣いで睨む。目力に押されて、柔はうっと仰け反った。



「見ましたの……?」



「み、見てません……」



「むぅー……」



 しどろもどろに弁解を試みる柔。しかし、その視線はどうしても、ちらちらとスカートの方へと向かってしまう。



「撫子の、し、白色の……!」



「いえ薄い青……うわぁ!」



「……何をやっているんですか」



 呆れた、と言わんばかりに脱力した桔梗の声で、撫子と柔はじゃれ合いを止める。柔に体当たりをしていた撫子は、はっとした表情でもじもじ顔を赤らめた。



「あの、別に、ふざけているのではないですのよ?」



「まぁ、そうでしょうが……怪我は」



 落ち着いた桔梗の言葉に、柔はようやくその傷に気がついた。余り目立つ訳ではないが、頬は痛々しく腫れ、ポニーテールに結っていた髪の毛も完全に解けている。


 小さな傷も幾つかあるようで、破けたり汚れたりした衣服を見て、柔はやるせない気持ちになった。


 助けることが出来たのは嬉しい。しかし、撫子が怪我をしているのは悲しい。ぎゅっと顔をしかめ、唇を噛む。


 そんな柔に、撫子が目敏く気がついた。



「柔」



「はい」



「撫子を、助けに来て、くれたのでしょう?」



「……はい、でも、怪我を」



「でも、は要りません。撫子は、柔と桔梗が助けに来てくれて、嬉しい。それでは、駄目ですの? 少々の怪我ですし、撫子は大したことはないですの」



「……」



 撫子はそう言って首を傾げ、微笑んで見せる。気の抜けた、自然な笑みだが、そこには疲れの色がのっている。


 桔梗は、撫子の背後に回って無言で撫子の手錠を外そうと弄っていた。怪我は、もう検分し終えたのだろう。柔は、撫子が無事ならそれで良いか、と少しだけ思い直した。


 しかし、その頬の腫れ。柔は改めて赤く腫れている撫子の頬に視線を注いだ。


 もしかして、先程蹴り倒された男にぶたれたのだろうか。柔よりももっと華奢な体の、撫子が。ふっと、柔は何気なく視線を滑らせて、男が伏しているその場所を見た。



「あ……」



「柔?」



「ん、外れました……どうか、しましたか?」



 それは、死角だった。柔と正対している撫子と、その背後で、撫子の戒めを解く為に視線を落としている桔梗。彼女らの正面に居る柔にのみ、ソレが見えていた。


 ぞわり、と全身の怪我逆立つ様な感覚が柔を襲う。



「ああ……っ!」



 迸る言葉は、意味を為さない。


 ただ、出来ることはたった一つだった。膝を曲げ、太ももと脹ら脛に力を込め、上体を倒し、重力という名の鎖を引きはがす様に。


 進む先には、震える手で懐から両刃のナイフを取り出した男の姿。



「くひひ……!」



 鼻血を垂らすその姿は、道化のようで酷く滑稽だ。しかし、不気味に光る刃は毒々しく、濡れている様な煌めきと共に撫子たちに刻一刻と迫っている。



 傷、家族、施設、信念、覚悟。


 この時の柔は、何も考えていられなかった。


 回る思考はその刃を見た瞬間に沸騰し、コンマ一秒以下の時間でどこかへ飛び去って、後には白濁しか残らない。


 ノイズが走る様に、ギシギシと脳裏を駆け巡る肉体の悲鳴すらもどかしく、自身を構成する全てを、余すところなく、足へ。



 しかし、遅い。遅い。遅い。遅い。不要な贅肉を纏った体は重く、揺れる脂肪は駆ける邪魔にしかならず。


 十分に鍛えられていない筋肉は、持てる力の半分も発揮することが出来やしない。


 すぐ目の前、突然顔色を変え動き出した柔を訝しげに見る撫子の顔、異変を察知して振り返ろうとしている桔梗の顔。今、事態を把握しているのは柔だけなのは明白だった。



「あああ……っ!」



 砕けよとばかりに、足を床に叩き付ける。そうして生まれるのは、鈍い痛みを対価にした、僅かな疾走だ。


 風を裂くことなど夢のまた夢、五十メートル走に換算しても中学生男子の平均値にすら及ばない、無力な柔のスピード。


 しかし、柔は諦めずにただただ前を目指す。一歩、否半歩ずつ、蝸牛が這いずるような速度でも、柔は愚直なまでに前へと進む。


 急激な全力行使、先程までの疲れに、怪我、頭痛、脆弱な肉体、間に合わない理由などいくらでも存在する。



 諦めても誰も責めないであろうこの舞台上において、唯一の役者不足である柔は、自分の持つ全てを代償に――不似合いな力を上乗せしてでも、その一幕を駆け抜けることを選ぶ。


 奇跡は、願う者に訪れる。しかし、奇跡が欲しいのなら運命に逆らうべきである。白く塗りつぶされた柔の思考にただその言葉だけが浮かんだ。


 目に見えるのは、ナイフを構える男の姿だけで良い。耳に入る音など不要。匂いも、味も必要としない。危険を押しやり、撫子を危機から守るのに必要な、触覚があれば十分だ。


 柔の全力では、本来届く筈の無い距離、速度。しかし柔の肉体は、自身の全力を越えてほんの一瞬、奇跡を起こす。


 半ば意識的に外された脳のリミッター、その筋力が自らの自壊を引き替えに、柔が求める速度を与えた。


 贅肉に包まれた太ももの筋肉群、大腿四頭筋を構成する大腿直筋・外側広筋・内側広筋・中間広筋が膨張して膝の伸展運動力による溜めを生み、大腿二頭筋・半膜様筋・半腱様筋からなるハムストリングスが前方向急激加速の為に膝を撓め、股関節を伸ばす動きで爆発力を加算する。



 そうして得るのは、前を見据え、強く踏み込んだ柔の体の、更なる加速だ。


 やや前傾姿勢だった柔の体が、ぐっと沈み込む。



「うあああああぁぁぁぁッ!!」



 代償は大きい。たったの一踏みで軟弱な柔の筋繊維がぶちぶちと音を立てて裂け、内出血を引き起こしながら激痛を撒き散らす。


 しかし間に合わぬ筈の柔の動きは、果たしてぎりぎりで――



「ぐ、ぶ……ッ!」



 滑り込んだ。


 全力の前傾姿勢。


 低く低く地を這うが如く飛び出した柔の体は、ブレーキを一切かけず、突き出した頭部と肩口が自身の速度、その運動エネルギーをそのままに男の腹にブチ当てる。


 柔が選択した、否出来たのは、何のひねりもない体当たりだった。男が構えていたナイフのことなど微塵も考えない、無謀とも言える最短の直線運動。


 例え小太り体型と言えど、体重六十キロを越える柔の体の着弾は、少なくない衝撃を男にぶちかます。


 柔らかな腹、力を籠めて居なかったそこに思いも寄らぬ一撃を受け、男は堪えきれずに背後へと傾ぐ。


 ナイフを手放し、男のつま先が床を離れ、そして派手な音を立てて床へと激突した。


 同様に突っ込んだ柔も、足を止めることが出来ずにごろごろと転がっていく。勢いを殺せずにゴツン! と壁に衝突した所で、やっと動きが止まった。



「ぅあ……」



 想定外の衝撃と痛みに、柔の意識はそこでふつりと断絶。



「柔!?」



「……っ、クイーン!」



 ひゅるひゅると宙を舞うナイフに当たらぬ様、柔の方へと手を伸ばす撫子を反射的にぐっと引き寄せながら、桔梗は視線を巡らせる。


 一見した所、柔の体に刺し傷は無い。床の上で、今度こそ昏倒している男の姿を確認して、内心でほっと息を吐いた。背後、ナイフが床を叩く音が響く。


 撫子を離して、男の側へと身を振る。


 念のため、見るのも汚らわしい玩具の積んである中、その一番端にあった縄で男を手早く拘束した。後ろ手と、足首を縛り上げて転がしておく。


 柔の方に視線を振ると、撫子が丁度屈み込もうとしている所だった。



「……」



 無言のまま静かに歩み寄り、撫子の隣に膝をつく。



「柔が……助けてくれたんですの?」



 まだ、事態を正確には理解していないのだろう。どこか呆けた様な声を上げながら、撫子は床に伸びている柔の体に手を伸ばす。


 同様に手を伸ばしながら、桔梗はあくまで淡々と柔の状態を確認した。


 頭や、肩に新たな傷は無い。もしかしたらどこか痛めているかもしれないが、呼吸も正常で脈拍も安定している。


 気絶した柔の顔、その間抜けで、しかしどこか必死な顔に、言い様の無い安堵を得る。その理由が理解出来ず、桔梗はぐっと唇を噛んだ。



「助けて……くれたのでしょう」



 私も、完全に油断していました。そう続けて、桔梗もまた、柔の頬をそっと撫でた。うんうんと唸っている所を見ると、すぐにでも目を覚ましそうである。


 背後、転がっている肉厚のナイフを振り返る。



「助けて、くれました。彼が」



 今度は、はっきりとした言葉を撫子に届ける。


 分厚いナイフを持った男の動きを、桔梗は察知することが出来ていなかった。もしも柔が飛び込んでいなければ、桔梗どころか、撫子までもその凶刃に晒されていたかもしれないのだ。


 柔は一番頼りにならない男だが、だが、言ったことを違える様な男でも無い。ふんわりと何か熱い物が胸に溢れるのを感じて、桔梗はそっと撫子を見る。



「柔……」



 そこにあったのは、ひたすらに清らかな笑みだった。


 傷を受けても尚美しく、ひっそりと咲き誇る小さな白い花。見る物を圧倒する、鮮烈な女王の笑みでも、人の心を惹き付け離さない女優の顔でもない。


 一人の女性、その美しさをそのまま凝縮したかのような密やかな砂漠の夜の花。見る者を仰け反らせる様な威圧などどこにもなく、さりとて目を離すことが出来ない程の存在感を持つそれが、じくりと桔梗の胸を打つ。



「……」



 その余りの美しさに、桔梗でさえも一瞬見とれてしまった程だ。そして、その笑顔はただ一人、勇敢な馬鹿の顔へと向けられている。


 ハッ、と我を取り戻した桔梗は、一つ頭を振って立ち上がった。


 未だ残っていた縄をいくつか手に取り、呟きにも似た音量で小さく声を投げる。



「席を、外しますね」



 果たして、その声は撫子の意識に届いているのか否か。そっと柔の頭を膝の上に乗せる彼女の姿を尻目に、桔梗は音も無く部屋から出て行った。



 ――あんな、あんな顔をする貴女に……敵う訳が……。


 手の中に握り込んだ縄を遊ばせながら、心中で力なく呟く。そして、勢い良く顔を上げた。豊かな胸に手を当て、心臓の鼓動を感じる。


 ――敵う……? 私は何を言って、いや、そんな、馬鹿な……。


 悄然と溜息をこぼし、持て余し気味の熱を頬に感じる。気恥ずかしさを誤魔化す様にぶんぶんと頭を振り、大きく深呼吸を繰り返した。


 次に顔を上げた時には、意識して表情を引き締め、颯爽と廊下を一人、歩き出す。


 下に居る男達を縛り、次に何の手を打つか考えなければならない。事件の真相も確かめておきたいし、怪我の手当もしなければ。


 しかし、少しだけ部屋に戻るのを遅らせよう、桔梗はそう呟いて階段を下りた。



 静かな廊下には、金属をリズム良く叩く軽い音だけが残る。






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