第十二話 危殆のこと。
「……ん、んぅ」
鈍い、酷く怠惰な浮上感。
空虚な夢の終わり。
それはいつも優しく、暖かく抱き留めてくれる暗闇だ。
閉ざされた無の世界から急激に遠のいて行く感覚で、一筋の光明に導かれるまま意識が、覚醒していく。
「おい、上手く行ってんのかぁ?」
「ああ、抜かりはねぇ、何もねぇ。そうだよな?」
「……ん、おお、あの男に言われた通り、やったからよ」
撫子は耳を汚すかの様な男達の声を、目覚めた次の瞬間には捉えていた。
フラッシュバックする、途切れる直前の記憶が脳内にて高速で回転し、朧気ながら現状を把握。
どうやら、誘拐されたらしい。迂闊に過ぎたかもしれない。
咄嗟に漏れそうになる悲鳴を押し殺し、しかし瞼は開けないでおく。
目覚めているのを悟られる前に、出来るだけ多くの情報を得ておきたかったのである。
しかし目の部分を覆う布の感覚に、目隠しをされているのだという認識に至る。念のため目を開いても、視界は黒く、何も見えない。
幸い、薬の類は使用されていないようで意識の混濁や思考の乖離は見られない。
腹部、かなり鳩尾に近い所に疼痛がある。一発で意識を刈り取られてしまったのは運が良いのか悪いのか。
そう言えば、一緒に居た柔はどうなったのだろう、と撫子は同伴者のことを心配した。
「……つぅか、これ、使わなくて良かったんか?」
「いやでもよ、いきなり暴れるから思わず軽く殴ったら、気絶しちまったじゃねぇかよ」
「まぁ、それもそうか。使ってねぇならそれでいいんじゃないか」
ちゃぽん、と液体の揺れる僅かな音に耳をそばだてる。
不安そうで、それを押し隠し騙しつつ自分たちを安心させようと言葉を交わし合っている男達の声は大きく、品が無い。
それを頭に入れつつ、ほんの僅かに体を捩った。大きくは動けない。どうやら、後ろ手に縛られてもいるらしい。足は……無事だ。
撫子は、今出来ることを冷静に模索していた。
危殆のこと
どうやら、黒幕は他に居るらしい。撫子は目を瞑ったままでそう考えた。
寝起きと言って良いものか、時計を見ることが出来ない為確認出来ないが、覚醒した当初よりもはっきりと意識を持っている。
撫子は、あくまで寝ている演技を続けながら、漏れ聞こえる男達の声を聞いて大まかに情報を整理していくことにした。
頻繁に『あの男』という単語が出ている所からすると、黒幕は一人だろうか。
男達が使う言葉や内容、今の状況からして、白昼堂々の鮮やかな誘拐劇を思いつく様には思えない。
さし当たって今気になっているのは、撫子を誘拐してきたこの男達は、『撫子』を誘拐する気だったのか、それとも只若い女性なら誰でも良かったのか、という点である。
誰でも良かったのなら、このまま乱暴されてしまう公算が高い。つまりすぐにでも何かしら行動を起こさないと不味い。
そうでないなら、身代金を要求するか、何か他の要求を突きつけるか、撫子を利用することを考えるのが妥当である。
いや、もしかしたら、撫子に乱暴するのが目的なのかもしれない。そう考えて、撫子は肌が泡立つのを感じた。
嫌悪と恐怖に指先が微かに震え、ふと柔の顔が小さく脳裏を過ぎった。何故と自問する前に、撫子は努めて意識を切り替える。
大女優、撫子。彼女を夢見、彼女を調べ、全てを知った気になって彼女が欲しいと思う男は、世界にごまんと居るだろう。
芸能界に居る以上、これは良くあることだ。こちらは相手のことなど何一つ知らないのに、相手は撫子のことを知っている、というその状況。
そして彼らは、画面の上で活躍する撫子を全てだと思い込み、時に暴走する。
プレゼントと称して、婚姻届や言うに耐えない熱烈な『愛の証』を送ってくる様な輩が、世の中には少なくとも存在している。
もし黒幕がそれならば、今の撫子は非常に危険である。
何にせよ、撫子は変装していた。かなり気合いを入れての演技は、一般人程度に見破れる筈もない。
もしも撫子を誘拐するのが目的なのだとしたら、スケジュールにない行動を取った撫子を、延々とつけ回していたことになる。
マスコミには撫子の自宅はバレていない筈であるし、事務所の方もガードは固い。
かなり注意して、それこそ撫子に特徴が一致する女なら、初めから撫子だと決めて掛かる様な観察眼でなければまず気づかれない自信があった。
今日などは行く先々で変装を変え、合計三度も着替えとメイク直しをしてまで後を追おうとする者を撒いて来たのだ。
その上で撫子をターゲットに誘拐を企てたのならば、余り発作的な犯行とは言いがたい。
一体どんな目的なのか、少しだけ頭を巡らせたがすぐに止めた。携帯に声を上げていた男の一人の言葉から判断するならばその内、分かる。
後小一時間もすれば『あの男』はここに到着するらしい。
何にせよ、目隠しをされ、腕を拘束されている状況で、男達を相手に大立ち回りを演じることが出来る程、撫子は武術に通じていないのだ。
それ以外にも、分かることがある。
今現在撫子が居る場所は、おそらくどこかの建物の中だということ。
埃っぽく、空調の効いていない空気からすると、それなりに人気の無いうらぶれた場所だろう。
どの位の間気絶していたのかは分からないが、町のど真ん中という訳でもあるまい。
蝉の声も聞こえる。つまり、ここは屋内の奥まった所ではないということだ。少なくとも、少し行った所には外がある。
男達は油断しているのか、一度も撫子の方に注意を向けていない。声は大きいので過不足なく耳に届くが、少し離れた所に居る様だ。
音の反響の具合からしても、それなりに広い場所。
後ろ手に縛られた体に触れるのはおそらくむき出しのコンクリート。撫子の体温を吸った部分はざらついていて仄かに暖かい。
手の自由が利かないのと目隠し以外は、特に拘束されていない様だ。女一人、厳重に縛り付ける必要は無いということだろうか。
自身か、油断か。おそらく後者だろうと撫子は判断した。
言葉遣い、用いる言葉の種類、質問や提案に対する応答までの時間、そして微量にだが含まれる、不安。男達は、どこかそれを虚勢で押し隠している感があった。
ともかく、視界が塞がれているのが手痛い。無闇に動いて起きていることを悟られるのは得策ではないし、何も見えないのはそれだけで不安を強く煽る。
撫子はそうやって、体を動かさずに頭を回転させ、ひたすらに状況を打破する方策を考えていた。
頭を必死に巡らせることで、じくじくと自身を蝕み思考を浸食しようとする恐怖と、戦っていた。
「んふふ、ようやく着きましたよ」
肌にいやらしくへばり付くかの様な、どろどろとした粘着質な男の声。
男達の会話に耳をそばだて、考えを巡らせていた撫子の耳に飛び込んだのは、それだった。
コツコツ、とおそらく革靴の立てる硬質な音が規則正しく近づいてくる。
コッ、と一際固い音が耳の側で鳴り、ねとつく視線が肌を舐めるのを感じた。
生理的嫌悪に身を捩りそうになるのを堪え、ひたすら寝ているふりを続ける。
五分か、それ位の間、じぃっと撫子を見つめていた男は、満足げに息を吐き出した。
「んふ、ちゃんと捕まえた様ですね? 偉い、実に素晴らしい。エクセレントです」
「そんなことよりよぉ」
「おや、何ですか?」
「おい、ちゃんと金は貰えるんだろうな……?」
訝しげな、押し殺した様な男の声。
苛立ちを含んで、しかし少し卑屈、それを隠そうともしないその振動に、んふふふ、と笑い声が返る。
声は薄気味悪く反響した。
「ええ、払いますよ。ちゃぁんとね。前金で五十、完遂で七十、お一人ずつにきっちりと。あ、何なら領収書書きましょうか? んふ」
「……っち、うるせぇよ」
どうやら、余り良好な関係には無いらしい。
「どうしたんですか? 貴方がたはお金を貰えて満足、僕は獲物を手に入れて満足、何かご不満な点でも?」
「うるせぇ! 気色悪ぃ喋り方すんなっつってんだよ! くそッ!」
「……」
「んふふ」
不機嫌さ丸出しで放たれた男の声に反論はない。
撫子を襲った暴漢は、声からして三人存在するが、しかし他の二人の声が聞こえない所をみると同様の感情を持っているようだ。酷く雰囲気が悪い。
もしかしたら、今言葉を荒げている男が、リーダーなのかもしれない。
「そう、カリカリしないで下さいよぉ。金額については、貴方がたも納得したでしょう? それに……」
一端、言葉が途切れる。カツ、カツと歩み寄ってきた男は、伏せている撫子の顎を強引に掴み上げた。
「……っ!」
流石に息を呑み、悲鳴を押し殺す。肌に触れる男の指は、声から感じる印象よりもずっとごつく、太い。
気障ったらしいオーデコロンの匂いが鼻につく。
香りの選択も、付ける量も、撫子の趣味とはそぐわないものだった。
「報酬は他にもあると、最初に申し上げたでしょう? この女、貴方がたを護衛に呆気なく叩きのめさせた大女優殿が、『特別出演』する撮影に参加してもらいますよ、と。んふ……良い女でしょう? 使い心地も抜群でしょう。良い声で鳴いてもくれますよ」
「ま、まぁ……そこまで言うんならよ」
明らかに欲情を催した男の声に、撫子は内心で舌打ちを漏らした。
今の自分が、どういう格好をしているか自覚していたからである。短いスカートとガーターは、確かに男の劣情を誘うだろう。
頬を這う旦那とやらの指に、明確な敵意が含まれているのを感じて、僅かにだが撫子は背筋を震わせた。
この状況で特別出演など、撫子をどういう役で扱うかは明白に過ぎる。
切実に迫った身の危険を感じて、撫子は小さく唇を噛んだ。
「さて……ご尊顔を、拝見しましょうかね?」
嬲る様に勿体をつけながら、目隠しが外される。
急に明るくなった視界に、ゆっくりと瞳孔を順応させてから、撫子は決意を持って目を開いた。
そして、驚きに軽く声を上げる。
「貴方は……」
「あ、覚えていましたぁ?」
間の抜けた様な、肌に纏わり付く粘着質な声。
それと対照的な、男性的で、強面の男が撫子の目の前に居た。
浅黒く日焼けした肌、射貫く様な三白眼気味の強い眼光、意思の強さを伺わせる太い眉。
にたりと歪めた唇から意外に白い歯が零れ、短く刈り上げられた頭髪は整髪料で固められている。
屈んでいるので分かり難いが、確か身長も百七十といくらかあった筈だ。
名前は、確かそう、園田、と名乗っていた。
決して小さな子供に好かれなさそうな容貌の記者、過去に一度会っただけの男がそこに居た。
見覚えのある外見に記憶を掘り起こしながら、素早く視線を振る。
打ちっ放しのコンクリートの床、罅の入った窓、薄汚れたその景色。事前に推測した通りの場所である。
窓の外には、僅かな緑とコンクリートの建物。うち捨てられた病院か、いや、廃工場か何かだろうか。
窓から入り込む明かりで照らされる室内は薄暗い。
だが、床の上に少しばかり似つかわしくない物を発見して眉をしかめた。
闇を明るく照らし出すことの出来る大型のライトと、何に使うのかもよく分からない、ゴテゴテした醜悪な物の山。
文字通り、小型ではあるが山と積まれている。じっとそれを見つめる撫子の視線を見て、酷く愉快げに眺める園田が、より醜悪に唇を歪めた。
「気になりますか? 安心して下さい、ただの玩具ですから。――尤も、貴女で遊ぶ為の、玩具ですけどねぇ。全部使ってあげますから、ちゃんと最後まで『演技』して下さいよ? んふう、んふ、んふふふふ……」
唐突な理解が撫子を襲う。向けられる悪意と優越の視線に、撫子はソレらが何であるかを朧気ながら理解した。
全て、女性を痛めつけ、悦に浸る為に使用されるのであろう、卑猥な道具の数々だ。
魂の底から打ち震える様な衝撃が撫子を見舞ったが、彼女は一瞬だけ瞼を下ろし、ひとまずの冷静さをその身に纏ってみせた。
あんなものを使われるのが――否、こんな男達に陵辱されるのが嫌ならば、何としてでも、自分の身を自分で守らなければならない。
レティシアも、こんな風に思っていたのだろうか。心の中に頼りがいのある義兄夫婦の姿を描き、必死に表情を取り繕う。
とにかく情報が必要だった。それと、脱出する為の隙が。
「随分と、手荒な招待ですのね?」
「いやぁ申し訳ない。無粋なものでね。でも、やめてくれという命令は聞けませんよぅ、女王様。貴女は今、僕の支配下にあるのです。んふふ、まさかここまで成功するとはねぇ。ラッキー、ラッキー」
思わず眉根を寄せそうになる。ぐっと堪えて、再び視線を配った。
窓の外から見える木は、低い。一階か、悪くても二階だろうと見当を付ける。
下に危険なものがなければ、おそらく外に飛び出せる。
入り口には男達が固まって立っている以上、出口はそこしかないだろう。建物の構造も分からないのに、割れた窓を突き破って逃げても捕まる可能性が高い。
――うん?
撫子はふと視線を止めた。
一塊になって、むっつりと黙り込んでいる三人の男の顔にも見覚えがあったのだ。
いつかの路地、柔と初めて会った時、彼に暴行を加えていた三人組に違いない。
本来なら取るに足らない相手だが、がっしりとした体付きは確かに、正しく恐怖の対象になるだろう。
弱みを見せれば調子に乗り、つけ込んでくるタイプの人間だと撫子は判断した。
弱い物虐めが好きで、しかし強い人間には逆らえない。
誘拐の実行犯は彼らだろう。恨みか、金に釣られでもしたのか。
「何見てんだよ! クソアマ!」
「おい、やめとけよ。怖がっちまったら、楽しめないだろ?」
「は? 思いっきり怖がってる方がイイに決まってんだろぉが」
どうやら、両者の様だった。やはり、男達は単体で見れば小物に過ぎない。
頭の隅にその存在を無理矢理押しやって、改めて撫子は園田に視線を合わせる。
不可解で、読み切れないのはこちらである。
先程から丁寧な言葉遣いの裏に、どろどろした陰湿な怨念めいたものが垣間見えていた。
ニタリ、とその唇がぱかりと割れ、三日月型の笑みをかたどる。
撫子の顎に掛けていた手を離し、園田はのそりと立ち上がった。文字通り撫子を見下ろしながら、左右に手を広げて見せる。
「見覚えが、あるでしょう? 彼らにも、僕にも」
「……ええ」
直感で、撫子は会話を継続させることを選んだ。
物腰などから判ずるにおそらく、この手の男は言葉少なに対応していれば、
「彼らがあっさりと伸される所、僕ばっちり見てたんですよねぇ。だから、こっそり彼らに近づいてこの計画にお誘いした訳です。何でも、生意気な女は気に入らないとのことで、ここ最近はずっと、貴女の後をつけて貰いましたよ。……んふ、何故、こんなことになっているのか、分からないという顔ですね?」
「そう、ですわね」
こうして、自分の気が済むまでペラペラと喋ってくれる。
撫子は後ろ手に縛られたまま体を起こした。スカートが乱れない様に足を揃えて、不自由ながらも床の上に腰を落ち着ける。
持っていた筈の携帯電話の感触は無い。どうやら、捨てられたらしい。当たり前と言えば、当たり前だ。
そうしてそっと視線を下げ、不可解さを咎める様な、不思議そうな顔で弱々しくゆっくり頭を振った。
頭上、園田が、訳が分からなくて困惑していると見て取れる様に。
果たして園田は、撫子の演技力が図抜けているとはいえ、所詮は女、脅してやればこんなものです、と暗い愉悦に心を浸した。
「覚えていないんですか? 忘れたんですかね? 僕と貴女が初めて会った三年前の五月十八日、何の仕事をしていたのか? ええ、ええ、言わずともよろしいですよ。貴女が忘れていようと覚えていようと、僕ははっきり覚えています。――ドラマ初主演を前にて、監督と数名の雑誌記者を交えた対談でした」
「……」
撫子は視線だけで先を促した。僅かに瞳を潤ませ、大声を上げる園田に怯えて見せる。
興に乗ったのか、大げさに身振りを交えながら園田は言葉を続けていく。
「貴女はそこで、意地の悪い質問攻めに対して目の前にテクストが用意されているかの様にすらすら、流暢に答えを返してしまいましたねぇ。少しでもボロを出せば食いついてやろうと待ち構えていた僕に取っては拍子抜けです。僕より才能がなくて優秀でもない他の記者連中では、碌にコメントも書けなかったでしょう。記事として、非常に面白くない。ですが諦めずに時間一杯質問を重ねようとする記者陣を制して、貴女、何故か名指しで、僕に質問しましたよねぇ」
「覚えていますわ。……そう、確か、答えられなかった貴方は口ごもって」
「そうして、同席していた無能どもにソレッとばかりに飛びかかられましたよ! 隙のなさ過ぎるインタビュー内容よりも、インタビューに来た記者を一人、徹底的にやり込めてしまった、と言う方が話題性が高いと踏んだのでしょう。時間一杯まで、僕は貴女がたにたぁっぷり絞られてしまいました。貴女が何か言う度に僕は言葉を求められ、間違っていると貴女が指摘すれば連中は僕を叩きまくる! それからは悲惨なものです」
昂ぶって、落ち着き、昂ぶってを繰り返して、抑揚豊かに語り続ける園田の視線は、見えない空に向かっていた。
その瞳には何を写しているのだろうか。淀んだ焦げ茶色の瞳は焦点を結んでいない。
「僕は元々、ゴシップをすっぱ抜くフリーのカメラマン兼ライターでした。専属で契約せずとも、僕には才能があった。誰よりも多く、誰よりも確定的な写真を撮る力、そして効果的に人の目を惹く文章を生み出す力です。同席した記者連中はそんな僕の才能を妬んでいたんですよ! 彼らが力を入れて書き上げた記事には、嫌という程僕の経歴や、鮮やかに僕をやり込めた貴女のお言葉を飾る、僕の情けなさとやらが載っていました。無個性で面白みの欠片もない文章でしたよ! でも、一週間もしない内に、僕は仕事を干されました。……何故なんでしょうね? あんなに何度も、スクープの証拠写真を持ち込んでやった会社から、呆気なくもう来るなと言われた時は呆然とした物です。だってそうでしょう? あの雑誌の人気は、僕が写真を撮って僕が文を書いていたからに他ならないのに!! 無能な社長はよりにもよって、この、僕を!」
ふつっと言葉が途切れる。
ゆるりと視線が下りて来た。男の瞳に灯っているのは幽鬼の如き茫洋とした光。間違い様のない狂気が撫子の体を無遠慮になめ回す。
怒り、侮蔑、屈辱、そんなものがぐるぐる渦巻いているのを、撫子は園田の瞳に透かし見た。
拗くれた負の感情は、非道く濁って澱んでいる。
「貴女があんなことしたせいで、今まで馬鹿にしてきた奴らから散々馬鹿にされました。お前の取ってくるスクープはどうせ捏造だったんだろう、違法行為でもして取って来た奴なんだろうとまで言われましたよ。才能の無い奴らの僻みや嫉みには慣れていましたけど、流石に会う度会う度言われると、もう笑うしかない。目をかけて利用してやっていた無能な奴らに、散々馬鹿にされるんですよ。馬鹿に。馬鹿に馬鹿に馬鹿に。……貴女に僕の苦しみが分かりますかぁ!?」
ふるふる、と撫子は首を振る。分かろう筈がなかった。撫子は演技の頂点に立つ者として、他人に侮られることを良しとはしないが、同時に、他人を侮ることを良しとするような人間でもなかったからだ。
「ですが神は僕を見捨てていなかった! 僕は貴女が憎くて憎くて気が狂いそうでした。だから、貴女にも僕と同じ……いえ、僕よりももっともっともっともっと苦しんで貰おうと考えついたのですよぅ。まずは、僕を馬鹿にした雑誌記者達の弱みを、漁るようになりました。一人捕まえては、次の一人、更に次の一人……そうやって、貴女のスクープ記事を載せたあの会社……僕を捨てたあの会社の編集長の弱みまで手に入れました」
「後は簡単です、貴女のことを来る日も来る日も想像の中で、犯し苛み嬲り詰り虐め壊し殴り折り叩き蹴り砕き潰し挟んで居た僕の復讐計画のままに進めれば良い。ふふふ、僕、才能がありまして、完璧な計画でしたよ! 更に神さまも僕の味方です! 貴女を陥れるスキャンダルを探していた僕の目の前で、何と暴漢を叩きのめして見せるのですから! ……おっと失礼、手を下したのは護衛でしたね。いけない、いけない。ああ、ばっちり撮らせて頂きましたよ?」
激しく、そして滅茶苦茶な論法で園田の話は続いていく。
本人は心の底から自分の言葉を信じ切っている様だ。彼の背後、三人の男達が不気味そうにその分厚い背中を眺めている。
彼らは露骨に顔をしかめると、何かぶつぶつと呟いて部屋からぞろぞろと出て行った。
扉の無い入り口をくぐって男達が消えていくことに、園田は欠片も気付かない。というよりは、気にも留めていないのかもしれない。
「しかし本当に、僕の幸運は止まることを知りませんでした。意気揚々と街を歩いていたら、何と暴漢に襲われていた青年が居る。隣に似つかわしくない女性が立っている。目を皿にして貴女のスクープを追っていた甲斐がありましたよ。すぐに貴女だと気づけました。激写、激写です。雑誌見ました? 良い角度でしょう? すぐに彼ら三人を探し出し、金で釣りました。僕の勘は冴え渡っていましたよ。このまま貴女を追っていれば、間違いなくスクープを撮れる。でも貴女の周りはガードが固くて固くて。強請って脅しつけて、何とかパーティーに潜り込んだ時は天にも昇る気持ちでした。だってあの男、会場内に居るではないですか! 狙って狙って、絶妙な瞬間の写真を手に入れてその日はスキップで帰りました」
怒濤の長口上だ。
園田は感じ入る様に胸に手を当て瞼を下ろし、ぬらりと唇を湿らせた。ドドメ色に近しい舌が生理的な嫌悪を誘う。
そうやって常人では計りきれぬ雰囲気を醸す男に、知らず撫子は気圧されていた。ほんの少しだけ、後退さる。
「編集長を脅し、貴女にもスキャンダルをプレゼントし、ついでに片手間で調べていた彼の――前田柔でしたっけ? 彼の経歴もスパイスしてあげましたよ。陰から煽りに煽りましたから、もうネット上でも世評でも大注目です。只でさえ注目を浴びる貴女の、大・スクープ! 更に伝手を辿って、僕の撮った写真を幾らかばらまきました。後は放っておけば、貴女の擁護派と反対派が勝手に盛り上げてくれる。たった数日で、ネット上で殺人予告や自殺予告をする者が現れる始末です。ああは、愉快でしょうがない。ここ数日はずぅっと楽しくて愉しくて。更にこの後、貴女に不幸と破滅をトッピングした素敵な悪夢をプレゼント出来るなんて……ああ、ああ! 素晴らしい! 素晴らしい!」
激しく両の手を打ち鳴らし、がくがくと上下に何度も頷いてから、園田はぱちりと目を開けた。
にっこりと顔中を歪めた笑みは、同じ人間の浮かべる物とは思えない程に醜く引き攣れている。
彼は狂った笑顔のまま、狂った眼光で、しかし冷静にさえ聞こえる声音を使ってゆったりと言葉を作る。
「安心して下さい、女王様。貴女をたっぷりと、死にたいと自分から言い出す程に辱めた映像は全世界にばら撒いて差し上げます」
憎悪と。
「安心して下さい、女王さま。その輝きがくすむ程貴女を穢し抜いた後すぐの姿は、マスコミのちょっとした手違いでお茶の間に放送されますよ」
侮蔑と。
「あん心して下さい、女おうさま。これで貴女の芸能活動はジエンドです。綺麗な顔も白い肌も、爛れる程に責め抜いてくれる男を紹介します」
喜悦をトッピングした悪口。
「アンシンして下さい、じょおうさまぁ。僕が貴女を綺麗に踏み詰ってぶチ壊して差し上ゲまスカらネェェェェェェエェェェエェェェェェ!!」
「くっ……!」
常軌を、逸していた。
ゲラゲラゲラ、取り繕うこともなく禍々しい凶笑を上げる園田は、固めた拳を撫子の頬目掛けて突き込んだ。
無造作に振るわれた拳には力がそれ程篭もっておらず、威力は減衰しているものの、それでも成人男性の拳であることに変わりは無い。
迫り来る暴力に撫子は呆気なく吹き飛ばされ、為す術もなく床を転がる。
床に突き出ている錆びかけの金属が引っかかり、タイトなスカートから大胆に太ももが露出する程、深いスリットを刻んだ。
薄く、肌が裂ける。僅かに滲んだ紅の珠が白い肌に線を結び、ぞくりとする程淫靡な色気を醸し出す。
手を使えない為に受け身を取れず、それ故出来た小さな擦過傷に血を滲ませながら、撫子は強い視線で哄笑を上げる男を見上げた。
色艶よく汚れ一つなかった頬が赤く染まり、それが酷く痛々しい。
衝撃で結ったポニーテールがほつれ、黒絹の束が数筋頬にかかっている。
しかし、傷を負ってなお彼女は壮絶に美しかった。
濡れた様に爛々と強く光る瞳、怒りに燃える黒曜石の視線を喜悦と共に受け止めて、園田はぶるりと大きく体を震わせた。
「ああ、凄い! その純粋な怒りの眼差し! ああ、何て心地よいんでしょう貴女を穢すことは! 貴女がどれだけ怒っても、全ては僕の意思次第。既に、僕に逆らえないマスコミ諸君にはここの位置を連絡しています。後一,二時間もすれば撮影準備もばっちりでここへやってくるでしょう。それまでに少しだけ可愛がって差し上げます。その後は警察などに捕まらない様に場所を移して、マスコミ陣にも可愛がって貰うと良いでしょう! 大女優撫子の、新作撮影会です! んふふふふ! ああ、楽しい! 愉しい! そんな怖い顔をしては駄目ですよぅ。あはは、んふ、ヒャアハはいひひアヒアひあイああハハはハハ!」
ずきずきと痛む頬を押さえることも出来ず、ただ意思を込めて、撫子はじっと男を睨み付ける。
淀んだ視線と目を合わせてその狂気を強くはね除け、しかし次の瞬間にはその怒りを収めてむしろ悠然とした光を灯してみせた。
男は、狂っている。尋常ではない執念と独りよがりな恨みが、その身を構成しているのかと思える程に。
今までの園田の言動を検分して、現状を――男が、自分をどうしようとしているかを――確りと理解しながらも、それでも撫子はこの男に負けるとは思わなかった。
撫子を支えるのは、確信にも近い絶対的なプライド。
園田は、嘲りを込めて何度も撫子を何と呼んだのか。
――女王だ。
園田には信念がある訳でも、覚悟がある訳でも無い。強いのではないのだ。
理性を捨て、捨て鉢になってどうしようもなく狂っているだけの獣に、女王が負けて良いのだろうか。
答えは、否だ。
ゆるく、撫子は頭を振った。
撫子は、本当に強い人達を知っている。
弱くとも、人に優しい人を知っている。
彼らに共通するのは、その心だった。簡単に折れない覚悟や信念を心に宿す者は、例外なく強靱で、そしてとても優しい。
そして撫子は、そう言った人達が心の底から何か感情を動かす時の、深い深い瞳の色を知っていた。
横から垣間見たことがある。真っ正面から立ち向かったことだってある。それでも、最終的に撫子は、彼ら、彼女らから認められ、女王と名乗ることを許されている。
故に撫子の中で、園田を恐れる感情は徐々に薄れていた。
何故なら、彼が持つ狂気は常軌を逸しているだけだからだ。
彼の心、その濁った怒りが荒れ狂う、胸の奥に潜む器はその底がまだ浅い。いつの間にか肉体とは別の精神的な優位を、撫子は確りと認識していた。
心に生まれた余裕は、そのまま体を解す活力となる。
僅かに腰を浮かせて、足が何とか動くことを確かめる。
す、と細く息を吸った。
黙って聞いていれば、園田は随分と言いたい放題だった。彼の噂は、少しだけ耳にしたことがある。
金になる記事を手に入れる為なら、暴力も脅しも厭わない男。やり過ぎて、業界を追われたのだと。
撫子との遣り取りはその切欠にはなったが、それが無くとも彼は、それほど間を置かずに業界から追放されていただろう。
彼が抱え、叫ぶ怒りは、確かに激しい。だが、所詮は逆恨みに過ぎない。
園田自身が今まで踏みつけ、嘲っていた人達から猛然と反撃を喰らった結果に過ぎない。
「――園田、浩之!」
凜と響いた鋭い声が、圧倒的な優位に立って身を捩りながら笑い転げる園田の動きをぴた、と止めた。
一転して無表情になった園田は、屈み込んでいる撫子を光のないのっぺりした視線で貫く。
哄笑と無言の対比が、より一層不気味さを誘った。
だが、撫子はその視線を柳に風と受け流す。
女優として、女として、こんな男の前で本心を晒すことを自身に許す程、彼女は甘い女ではなかった。
その細い両肩には、溢れる程沢山の人達の熱い想いを負っている。
その滑らかな背には、今まで自分を認めてくれた様々な人達の、固い期待を負っている。
何をどうしたって傷つけられ、蹂躙されるかもしれない。そんな、誤魔化しきれない恐怖を更に押し殺し、繕い、代わりに口元を緩く引き上げた。
「貴方には何を言っても無駄でしょう。ですが、撫子からすれば逆恨みも甚だしい貴方の激情に、一つだけ回答をお送り致しますわ」
「……何故怯えていない。僕はそんなのは許していない」
「許されなくとも結構ですの。でも、何故撫子が三年前、貴方を名指しで質問し返したのか――知りたくは、ありませんの?」
恐怖や怯えの感情を含まない撫子の声は、切迫した状況にあってむしろ落ち着いて響いた。
ぐ、と首を傾げ、園田は濁った視線で撫子を見る。
それ以上言葉を挟んで来ないか、一拍置いてから判断した撫子は、ゆっくりと眉を下げ、唇を引き上げて微笑みを浮かべた。
気圧された様に一歩分足を引く園田に対峙する為に、ゆっくりと、優美な動作で立ち上がる。
「貴方、撫子の胸元や脚ばかり見ていただけで、何の知性の欠片も感じられない質問しか出て来ないんですもの。人としての礼儀が余りになっていませんでしたので、ついやり込めてしまったんですの」
頬を赤く腫らし、埃で汚れ、髪を乱し。それでなお傲然と撫子は言ってのけた。
咄嗟に言葉が出ないのか、園田はぱくぱくと口を開閉させるだけだ。その顔が、不細工な赤鬼の様に染まっていく。
撫子は、後ろ手に縛られていることなど微塵も感じさせない貫禄と落ち着きで胸を張り、つっと顎をもたげて見せる。
「あら……人間の言葉は、お分かりになって?」
どれだけ不利な状況にあろうとも、彼女はまさしく女王だった。
人を幻惑の世界へと誘う、美しく蠱惑的に弧を描く唇、そして遙かな彼方から相手を見下ろす絶対零度の眼差し。
優しい撫子が普段は絶対に見せないそれは、冷厳な自信を身に纏う、凍てついた美を誇る氷の女王の姿である。
「き、きさ、貴様……!」
獣の如く歯をむき出しにして米噛みに血管を浮かべ、喉の奥で低く唸る園田に対し、撫子はひんやりと笑ってみせた。
「貴方には、女王を従える資格などありませんの。――身の程を、お知りなさい」
「俺を……馬鹿に、するなぁぁぁぁぁああ!!」
絶叫と共に、園田は醜悪な形相で猛然と床を蹴った。右の拳を硬く握り込み、ぐぐっとその腕、肩の筋肉が膨張する。
地獄の赤鬼が如く、がっしりと力感のある体がぐんと迫ってくるのを冷静に見つめたまま、撫子は避ける素振りも見せはしない。
その代わり、冷たい笑みのままにほんの少しだけ腰を落とした。その米噛みを、つっと汗が一筋流れていく。
床の一踏み、腕を伸ばすのその動きはたったの数秒で迫って来る。
残り四メートル、三メートル、二メートル。そして一メートル。
大仰に振りかぶられた園田の拳、ほんの一瞬で手の届く、今にもぶつかりそうな距離に近づいた所で、二つの叫び声が室内に飛び込んだ。
「クイーンッ!」
「撫子さん……!!」
そして、五十センチ。