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黒髪の女王様  作者: 三角
10/16

第十話 姦計のこと。









「はー、面倒臭いですわねー。困ったもんですの」



 時刻は午後。頭上には雲一つ見あたらない、突き抜けるような青い蒼い蒼穹がどこまでも広がっている。


 撫子は日差しに目を眇め、繊手を翳す。指の間から差し込む陽光が、撫子の透き通る様な白皙の妍麗を照らした。


 さらさらと舞う黒髪は光を跳ね返して光の粒を纏い、柔の目には幻想的にさえ映る。



「あの、今日は、桔梗さんは……」



「ああ、撒いて来たんですの」



「撒いてきたって……」



「だって、柔の所に行く! って言ったら駄目だって言われたんですもの。撫子だって、息抜きぐらいしたいのですわ」



 そう言って、つーんと顎を反らして見せる撫子の仕草は、この前見た舞台の上の動作とは違い、ひどく子供っぽい。


 被った野球帽のつばを指先で引っ張り、より深く被り直しているのがその印象をより顕著にさせる。



 これは、ゴシップ記事で足下に火がついた様な忙しさに見舞われている筈の、大女優との遣り取りである。


















 姦計のこと






 











「ねぇん、ジュージュー」



 ちょいちょい、と自分を呼ぶ声に従って、柔は制服を脱ぎかけの状態で顔を上げた。


 約八時間の労働を終え、慣れ親しんだ疲労を抱えてさて帰るか、と一息ついていた矢先の事である。



「ちょい、こっちおいでー」



「はぁ」



 取り敢えず制服を脱ぎ、軽く畳んでロッカーに仕舞う。


 振り向いてのそのそと妙齢の店長に歩み寄った柔を迎えたのは、大きな雑誌の見開きであった。


 赤いマニキュアも艶やかな店長の指先がその両端から僅かに見えている。



「これ、どうなの?」



「どうなのって……、……っ! これ」



 危うくあげかけた声を、柔は咄嗟に喉元で押し留めた。


 珍しく真剣な表情の店長が抱え持つ雑誌には、大判の写真が載っている。


 微笑む撫子と、気弱げに頭を掻いている柔の姿だ。一応といった風情で黒の目線が入っている二人の装いは紅のドレスにタキシード。


 背後、写り込んだ人物たちを塗りつぶしていても分かる豪華な雰囲気は、紛れもなく先日のパーティーでの一幕だと判別出来るものだった。


 写真の上に踊るポップな文字は『スクープ! 稀代の大女優撫子に、男の影!?』。



「な……」



 偶然の一枚にしても、出来過ぎな写りの写真であった。


 柔はばっちり正面が映る様に、相対する撫子もしっかりと顔が識別出来る距離、角度で撮られている。


 二人は失礼にならない程度の距離感を持っているのだが、それを誤魔化せる様な絶妙なアングルだ。



 思わず捏造なのではないかと勘ぐってしまう程に恣意性の高い写真である。


 それもその筈、先行上映の後開かれたパーティーでは、柔と撫子が会話をしたのはほんの一言二言の他人行儀な挨拶で、時間にして大凡一,二分のことなのである。


 観覧している最中は、太郎らと一緒に報道関係者の目が届かない特別席に大人しく座っていたし、それ以外では撫子に全く話し掛けていない。


 それどころか、なるべく目線も飛ばさぬ様配慮していたのだ。



 無論、こういったスクープ記事を恐れてのこと、柔が気づかないだけで、撫子はもっと綿密に詳細に、報道関係者を抑える手立てを立てていた。


 そもそも言ってしまえば、柔の目の前に広げられている大衆誌――それも、著名人のゴシップを漁ることに腐心するともっぱらの評判である――の記者は先行上映の場、ましてやパーティー会場になど入れない様に手配していたのである。


 フリーの記者にしても、その経歴が怪しげな者に関しては完全にシャットアウトしていた。


 居るはずの無い雑誌の記者がどうやって潜り込み、あまつさえ写真を撮って、この様な記事を仕立て上げたのかは、今は誰にも分からない。


 重要なのは、その雑誌がゴシップとスッパ抜きを目玉とする大衆誌として、広い読者層に親しまれる有力誌に数えられているということである。


 この世の中、ある程度の情報影響力を持つ媒体が黒と言えば、白の物も黒に見えてしまうものだ。


 先入観というのは重要なもので、この記事が捏造だと世間に分かった所で、一端撫子に付いた負のイメージは完全には拭えないのである。


 今まで、活躍の割にスキャンダルが殆ど存在しなかった撫子だからこそ、この記事がもたらすであろう悪印象は大きな物になる。



「あらら、やっぱこれジュージューだったか」



 そう言って、店長は雑誌を手元に下ろした。


 物憂げにため息を吐き、頬杖をつく。



「目線入ってるケド、分かる人には分かるわよ? 現に私、ちらっと見てジュージューだって分かったし。これ、三日前に出た雑誌なんだけど……どうなってるの?」



「ぼくにも良く……」



 柔は項垂れた。自分じゃない! と誤魔化しをする気力も湧かなかった。何せ、柔はしっかりと怪しげな反応をしてしまっているのだ。


 熱狂的大ファンである先輩バイトならまだしも、撫子のファンであるなどと口外したことの無い者の反応にしては大げさに過ぎる。


 どうしようどうしよう、とぐるぐる考えを巡らす柔の頭には、撫子にパーティーに誘われた時、断っておけば良かった、という後悔が渦巻いている。


 顔色を不健康に青く染め、ぶつぶつと小さく何某か呟く柔を見かねたのか、店長は柔の手元に持っていた雑誌を突き出した。


 手に触れる雑誌の感触に我を取り戻し、顔を上げた柔に対して、店長は優しく語りかける様に声を掛ける。



「持ってお行き。アタシは詳しいこと、聞かないからさ。正直、会ったこともない大女優様がどうなろうと知ったこっちゃないしどうでも良いし……でも、大事な揶揄いがいのある部下であるジュージューが、悩むことがあるんじゃん? 明日のシフトはお休みにしておいてあげるから、話し合うなり考え込むなり自由にするんだよ。外出るんなら、一応帽子でも被ってね」



「ありがとうございます……あれ、でも帽子っていうのは……?」



「ぁんもう、馬鹿ねー、ジュージューってば。アタシが気づいたんだし、誰が気づくとも限らないでしょ? ましてジュージューはここのコンビニで三年も働いてるんだし、結構顔覚えられてるでしょ。だから、一応気を付けといた方が良いんじゃなーい?」



「なるほど……」



 言われてみれば、そうだった。柔には今一つ実感が湧かないが、もしも道行く人に写真の人だと気づかれたら面白くないことになるだろう。


 指さして何やらひそひそ囁かれるのだろうか。陰口には慣れているものだが、嫌なものは嫌だ。柔は、そっと溜息を落とした。



「じゃ、ばいにゅーん」



 ぱたぱたと手を振ったきり、椅子を回してパソコンに向かってしまった店長の背中に向けて、柔は一度頭を下げる。



「あの、ありがとうございます……」



 もう一度ぱたぱたと振られる手の動きに笑みを漏らし、柔は雑誌を手にバックルームを後にした。







 手に持った、仮にも自分の姿が掲載されてしまっている雑誌を道ばたで堂々と見る訳にも行かず、柔は無心に家路を急ぐ。


 日はすっかり西に傾いていて、山は向背を成す斜陽の裏、という和歌がふと柔の頭を過ぎった。


 夕日に照らされる柔の顔は、すっかりオレンジに染まっている。


 雑誌は足が生えて逃げ出したりしないのは分かっているが、どうにも気が急いているのを、柔は感じていた。


 何となしに顔を伏せがちにしつつ、競歩に迫るスピードでとにかく歩く。歩く。



 そのお陰で、見慣れた家に着く頃には軽く息が上がっていた。


 古びた自宅、その急な階段をのしのしと踏みしめて上る。



「はぁ、ふぅ……ただいまぁ」



 静かな室内に、柔の息づかいの音が満ちる。額に浮いた汗を拭って、電灯のスイッチを押し込んだ。


 カチ、と言う音と共に、室内に差し込む橙の明かりと白色の光がぶつかって混ざり合い、最終的に白色で部屋が満たされる。


 柔は水をコップに一杯注いで腰を下ろし、握っていた雑誌をテーブルに広げた。


 特集記事ではあるが、雑誌全体からすれば微々たるページ数だ。まずは確認と、目を更にして隅から隅まで隈無く丁寧に目を通す。


 一度雑誌を閉じて表紙を確認し、念のため目次を開いて他に特集記事に関わるものがないか調べてみた。


 見つからなかったので、柔と撫子の写真が載っているページを開き、もう一度目を走らせる。



「……無茶苦茶だなぁ」



 捏造というにこれ以上ない位の記事である。有名誌がこんなことをしてもいいのか。柔は義憤を感じて眉を顰めた。


 三ページに及んで延々と書かれているライターの文章には、つまびらかに『謎の男性』との関係が並べられている。


 そこにははっきり言って、柔にとって目眩では済まない内容が含まれていた。


 人を雇って調べたのか、かなり精密な柔の経歴が、若干のボカしを入れただけで掲載されているのだ。


 孤児院出身であること、大学を出ていないこと、フリーターをしていること、その他自称『男性の知り合い』を名乗る人物からのインタビュー。


 中には、謎の男性に口説かれて酷い迷惑を被った、という被害者の女性まで登場している。


 無論、柔は女性に強引に関係を迫る所か、まず持って口説いたことすらない。十中八九、このゲスト達は偽物だろう。



 柔はこれまでの人生で余り自分の境遇を語らない性分である為、その分マシかもしれないが、知っている人間は知っている事実ばかりだ。


 これでは、写真と照らし併せてしまうと、すぐに柔のことを言っていると分かってしまう可能性は高くなる。


 利口でない、上品でない、身の程を弁えない、人を不快にさせて反省もしないのに女癖は悪い……と、柔の性格をこき下ろして記事は終わっている。


 プライバシーの侵害、名誉の毀損も良い所である。



 柔のことを悪し様に書くだけならばいいのだが、この記者氏は撫子に何らかの恨みでもあるのか、ここぞとばかりに好き勝手に書き散らしていた。


 男を見る目がない、ファンに対する配慮が全く無いのではないか、稀代の名女優も男には騙されやすい、これで彼女の失墜は決定した様な物だ、とも言っている。


 他にも、撫子がお付きの護衛に対して、一般人に暴行を加える様指示したという記事まである。


 歩いていて、ふと目が合っただけの人物を誘惑して路地裏に誘い込み、そこで護衛に暴行を加えさせたという。


 ご丁寧にも、暴かれた女王の暗部! 隠された暴行事件とは!? と拡大された大文字が愉快に踊っているのである。


 書いた人物の悪意が透けて見える様な書き方だ。


 二人がホテルに出入りするのを見たとする、名前も分からない匿名の情報提供主まで登場する辺り、情報の精度にばらつきがある。




 ただ、柔と変装した撫子、桔梗が一緒に居る所を撮影した写真が小さくだが一枚載っていた。


 知り合って間もない頃のことだ。丁度、お気に入りのベンチでお礼のティーカップを渡した時の写真である。


 写真の中央では、撫子が笑顔で笑い転げている。


 良く撫子の変装を見抜いたものだが、三人とも自然な表情をしているのがこの場合よろしくなかった。


 見ようによっては、親しい人物同士の会話の様子にしか見えないからだ。



 写真単体で見ればおかしな所は何一つ見つからないが、ここまで書かれた記事を読んだ後にこの写真を見れば、大勢がどう思うか、ある程度想像はつく。


 余り、愉快に思う人はいないだろう。


 この記事中の謎の男は、飽くまで性格が悪く卑屈で、他人を不愉快にさせること、女性にネチネチ迫ることだけが特徴の人間だ。


 可愛さ余って憎さ百倍、と言うが、狂信的なファンどころか、一般的な感性を持つ者なら祝福しようとは思わないだろう。



「……どうしてこんなことになったんだろう」



 呟き、柔は上半身を後ろに投げ出した。


 ポケットの中に納めていた携帯電話が肉に沈み込み、僅かな痛みとなってその存在を主張する。


 手探りでポケットから端末を引き出し、癖で着信の有無を確認した所で、ふと思った。



「……伝えて、おいた方が良いよね」



 丸っこい指を懸命に動かしてキーを押さえ、電話帳から撫子のメールアドレスを呼び出す。


 一通り文字列を打ち込んだ所で、柔は珍しくも推敲せずに送信ボタンを押し込んだ。

 

 送信中、送信中、と動作を伝える携帯のディスプレイをぼんやりと斜視して、柔は持っていた携帯を壊れない様に慎重に放り出した。


 そのまま目を瞑る。


 急速に意識に靄がかかっていくのを自覚しながら、柔はその睡魔に逆らわず、体から力を抜いた。


 何を考えるにしろ、バイト後の疲労が溜まった状態では、良い案が浮かぶことはそう無い。判断し、ひとまずの安息を求めて、眠りに落ちる。



 暫く後、蛍光灯に照らされた狭い部屋の中で眼鏡も外さず、外着のまま眠りこける柔の鼾がふごふごと響いた。






 翌朝、目覚めた柔は、兎にも角にもまず風呂に入った。


 店長の好意で今日はコンビニのバイトはない。仕分けのバイトは今日と明日は入っていない。


 手隙な一日になってしまったが、寝汗でべとつく体が気持ち悪かったのである。



 きちんと体を拭き、汚れを落としてさっぱりした柔は、冷蔵庫の前に立って中身を検分する。


 六個入りの卵のパック、それと半分程食べてしまったハムの包みが目に入った。


 ひとまず卵とハムを取り出し、フライパンを火に掛ける。


 フライパンが暖まるまでの間を利用して、食パンを一枚オーブンレンジに放り込んだ。目盛りを適当に回す。


 取って返すと、油を回してハムに焼き目をつける。


 若干の焼き目が付いた所で卵を落とした。


 焦がさない様に気を払いつつ、塩胡椒を振って味付けをし、火を止める。これで、少々大雑把ながらもハムエッグの完成だ。


 タイミング良く完成の音を響かせるオーブンレンジから狐色のトーストを取り出し、その上に熱々のハムエッグを乗せる。


 冷蔵庫で冷やしてある麦茶を一杯グラスに注いで、床ではなく安っぽいベッドに腰を下ろした。


 柔の体重を受け止めて、小さなベッドはぎしりと悲鳴を上げる。


 朝食の準備は、これで万全だった。フライパンには既に水を入れて、後で洗いやすい様にと流しに置いてある。



「……」



 無言のままトーストを囓る柔はふっと窓の外を見た。


 北向きの窓から見える景色はお世辞にも良いとは言えない。それでも見慣れた風景である。


 じめじめした空気を蒸発させてしまえそうなかんかん照りの天光の下では、あの雑誌を目にした者達が、義憤を抱いているのだろうか。


 ――柔に。


 ローテーブルの上に一瞬視線を落とす。


 一晩ぐっすり眠れば良い考えが浮かぶかと思ったが、そう簡単には何も思いつかないようだ。


 そういえば、と撫子に宛てて送ったメールに返信が来ているか確かめようと携帯電話に手を伸ばした。指先が触れる寸前で、素っ気ない着信音が空気を震わす。


 ぴくっと驚きに体が跳ねたのもつかの間、柔は細く息を吐いて携帯を拾い上げていた。


 鈍く光るディスプレイに表示されているのは、メールの新着、撫子からのものだ。ごくんとトーストを飲み下す。


 パンくずがついている唇を手の甲で拭いながら、急いでキーを連打し、メールを開いた。



「……十五時、写真のベンチで」



 短い。


 たったそれだけの内容に、柔は、メールに気を回すだけの暇が無いほどの騒ぎになっているのだろうな、と想像した。


 そういえば、殆ど何も考えずにメールを送ってしまったが、渦中の人物である撫子が、この記事のことを知らない筈もないのだ。


 ひとまず今日はもう何の予定も無い。ぼうっと天井を見上げ、もう一口トーストにかぶりつく。


 ずるりと滑ったハムエッグが指に当たり、その熱に慌てて視線を戻した。




 後片付けをして、さてどうしようかと柔は首を捻った。撫子に指定された時間は十五時だが、まだ午前中である。


 外に出てぶらぶら時間を潰すのも良いが、雑誌のこともある。落ち着いて行動するならば、部屋に籠もって居る方が賢明だろう。


 柔は、ローテーブルの上に鎮座するノートパソコンに目を向けた。


 娯楽、というより物が少ないこの部屋で唯一、様々に時間を潰せるツールだ。


 雑誌記事に対する世間の反応はどうなっているのか調べてみるのも一興、と筐体に手を掛ける。


 ネットの世界は時に冷たく、無慈悲で、そして相手の顔は見えない。


 対人関係にストレスを覚えるタイプの柔は、この冷たい精密機械を通して、世界と通じることが好きだった。



 そのまま、用意しなければならない時間まで、柔はネットの世界に没頭した。









「場所、移しますわよ」



 白い椅子に腰掛ける柔を迎えた、撫子の第一声は素っ気ないものであった。


 シンプルな細身のシルエット。


 白のキャミソールに合わせた、黒のセクシーなマイクロミニのスカートから覗く太ももは、むっちりと張り詰めていて眩しい。


 そこから下には黒のガーター付きニーハイソックスと、艶のあるブラックの膝まであるサイドレースのロングブーツ。


 白と黒のキャップを目深に被って艶やかな黒髪をサイドの長い特徴的なポニーテールに結っている。


 薄く唇に色を乗せている以外に化粧をしている様には見えず、だが普段とは表情が違った。



 煌めく黒曜石に、今日は凍てつく様な闇の凜烈さが覗く。


 冷めた瞳に冷ややかな笑みを浮かべているのだ。


 短いスカートとガーター、大胆に露出した白い肩と鎖骨が男の劣情を誘うが、しかし酷薄な瞳がその厭らしい情欲を凍てつかせる。


 どこか近寄りがたい雰囲気を放つ、そんなスタイルである。


 堂々と腕を組んで仁王立ちしているのだが、纏う雰囲気と表情を『撫子』から遠く離れた性質のものへと変えているせいか、やはり群衆は誰も気づかない。


 ちょっと服装と替え髪型を弄り、後は雰囲気を意のままに着せ替える。


 それは、撫子にしてみれば朝飯前、凡百の俳優家業では決して届かぬ日常内での演技技巧だった。



 そんな撫子は声を掛けてすぐにくるりと踵を返し、速くも遅くもないスピードで姿勢良く歩いていく。


 少し高めのヒールのせいで柔より幾分高い彼女の後ろ姿を、柔は無言のままに追いかけた。


 安からぬ出来事が起こっているのは、想像に難くない。ネットでの評判も、やはりそれほど好意的とは言えなかった。


 人目のある場所で、柔と撫子が声を上げて話し込む訳にはいかないのだろう。そんなことまで考えながら、とぼとぼとぼと足を動かす。



 そうして大通りを避け路地に入り込み潜り込み、薄暗く、人通りが絶えたうらぶれた場所に出た所で、ようやっと冒頭の遣り取りに至るのである。






「あの……」



「ん、何ですの?」



 二人は結局、手近な所に腰を落ち着けられる場所が無かった為、ゆったりとしたペースで並んで歩いていた。


 人通り、他人の視線ががなくなったことで幾分落ち着いた柔は、自分なりに言葉を吟味しつつ口を開いた。



「雑誌の記事は……どうなっているんですか?」



「ふむん?」



 何とも迂遠な言葉である。しかし、それでも正確に柔の言いたいことを読み取った撫子は、頬に手を当てて首を傾げた。


 動きに合わせて揺れる尻尾からは、僅かに嗅ぎ慣れた甘い匂い。


 返って来たのは、問い掛けだった。



「まぁ、そうですわね。……柔は、今撫子の周辺がどうなっていると思いますの?」



「ネットで見た限りなんですけど……」



 言って、柔は空を見上げる。


 眺めの良い大通りで仰いでも、薄暗い路地の中から見上げても、空の青さと明るさは変わらない。


 家を出るまでに見たネットの情報では、まだあの雑誌を信じている者は半々位かな、という印象だった。それを素直に口に出す。



「同意ですわ。まぁ、雑誌一つが突出して撫子をバッシングしているだけですので、まだ余り浸透しきってはいない様ですわね。ただ、力のある雑誌だったので、傘下にあるゴシップ好きの雑誌は好き勝手書き散らしていますし、そのお陰でニュースやワイドショーで引っ張りだこですの。事務所の電話も鳴りっぱなし、抗議のメールも大量に、どこへ行こうにも記者連中がひよこの様に着いてくる、と余り面白くはない展開ですわ」



「……」



 そう言って、撫子がふぅっと小さくため息を吐いたのを、柔は珍しくも見逃さなかった。


 小さいながら、万感の思いを込めたかの様な吐息には、柔でも感じ取れる位の疲労が滲んでいる。



「一応、ある程度対策は打っていますの。一度テレビで公式に心当たりがないことを主張しました。あの雑誌には正式な抗議文を送りましたし、事務所の社長なんかは『名誉毀損で訴えてやる!』と息巻いていますけれどね。余りじたばたしてもことが大きくなるばかりですから、今はとにかく騒ぎが過ぎるまでじっとしてるしかないですわねー。何か、この醜聞を吹き飛ばしてしまえる出来事でも起これば、また話は別ですけど……」



「醜聞を吹き飛ばす、出来事ですか……」



「――あ、愚痴っちゃったですの。ごめんなさいね?」



「いいえ! ……気にしないで下さい」



「有り難うございます。……ふぅー、柔と一緒に居ると落ち着きますわー」



「えっ」



 落ち着く、その言葉に柔は軽く目を瞠った。


 しかしその真意を問いただす訳にもいかず、ぐるぐると肩を回して背筋を伸ばしている麗人を横に、そっと口を開く。


 どうしても、確認しておきたいことがあったのだ。



「あの」



「あ、もしかして今、『ぼくのせいで、その、こんなことになってしまって……』とか、言うつもりでしたの?」



「……何で」



 柔は、間抜けにも口を開けたまま目を見開いた。無意味に上手い声真似を披露した撫子は、くるりと体ごと振り返り、悪戯っぽく柔に笑いかける。


 翳りの見えない笑顔の眩しさに、柔は思わず目を細めた。


 ぴん、と得意げに人差し指を立てた撫子が片目を瞑る。括った黒髪が、体の動きに合わせてしなやかに跳ね、微かに甘い香りが鼻に届く。



「だぁめですのー。そもそも、どうやったのかは知りませんが、あんな写真と記事を雑誌に載せた奴が悪いんですの。隙を見せた撫子にも非はあります。撫子も芸能人である以上、相応の振る舞いを求められる物ですし。であるからして、言い方は悪いですが一般人の柔がくよくよ悩む必要なんてどこにもないんですのよ? だって貴方は、撫子に気に入られて、お話してるだけでしょう?」



 そもそもこの関係は、撫子から始まったものですから、連絡を取らない方が云々は一切取り合いませんと続けて撫子は笑む。


 柔は、その笑顔を直視出来ずに俯いた。



「はい……」



「まぁ、そういう風に、撫子のことを心配してくれるのは嬉しいですの。でも柔? 貴方も取りざたされてる人物なのだから、撫子のことよりも、むしろ自分のことを心配しないといけませんのよ?」



「え?」



「ベンチの写真、会場の写真。地元の人間なら、特定出来てもおかしくないでしょう? それでなくても、毎日ニュースやらで多くの人の目に、あの写真と柔の姿が晒されているのですから、誰かが貴方だと気づかないとも限らないですの。マスコミだとかに追いかけ回されたりしていません? 大丈夫ですの?」



 撫子に、心配をされている。恐縮する様な、言葉にし難いくすぐったい気持ちを得て、柔はくしゃりと苦笑う。


 幸い、そんな事態に困らされてはいなかった。大部分のマスコミは、まだ柔の存在を特定出来て居ないのかもしれない。


 だとすると、あの詳細に過ぎるプロフィールは一体何だったのだろう、と柔は首を捻った。


 あれだけ詳しいことを調べたというなら、当然柔の住所くらい掴んで居るはずである。


 記者が調べたのか、それとも匿名か何かでタレコミがあったのか。柔にそれを知る術はない。



 だが視線の先に居る撫子を見つめて、ふと柔は、もしかしたら彼女が気を払ってくれているのかもしれない、と考えた。


 撫子が当代一流の女優であることは言うに及ばない。


 それだけでなく、様々な分野で才覚を遺憾なく発揮する彼女は、かなりの人脈を持っている筈だ。


 その人脈を頼って、柔の情報が漏れ出ない様に手配してくれているのかもしれない。


 確証はない。あくまで想像に過ぎないが、そう考えただけで柔の胸の真ん中の当たりに、ほわほわした気持ちが浮かんできた。


 そうだといいな、申し訳ないけど。柔は心の中だけで独りごちた。



「そうそう、駅前に新しくデザートショップが出来たらしいのですけど、柔は……」



 そうして、世間を騒がすスキャンダルの渦中に居る二人は、のんびり、至って穏やかな時間を過ごしていた。


 だが、幸せな時間という物は得てして続かない物と相場が決まっている。



 この時、束の間の安息を送る二人に襲い掛かったのは、ごつく無遠慮な掌だった。


 突然口を塞がれたことに目を見開き、瞬時に抜け出そうと身を捩った撫子の腹に深々と拳がめり込む。



「ん……っ!」



 苦悶の息を吐き、強制された意識の断絶に撫子の瞳が焦点を失って霞み、瞼が下りる。


 ただ事でないその苦鳴に、振り返ろうとした柔の後頭部に鈍い音を立てて鉄パイプが落ちた。



「え、……ぐぅ!」



 柔の脳天を貫いたのは、痛みではなく衝撃と、次いで熱であった。


 くわんと揺れる視界の中、指先まで駆け抜けた痺れのせいで、体は上手く動かせない。


 頭部に叩き込まれた痛打は、ただの一撃で柔から自由を奪っている。


 暗く暗く、徐々に思考が明滅していく中で、僅かに残った意識がぐったりと力なく項垂れている撫子の姿を捕らえていた。


 僅かに押し開かれた口からは、声にならない息だけが漏れる。


 咄嗟に声を上げることも叶わず、柔は糸の途切れたマリオネットの如く、地面に倒れ伏す。


 固いアスファルトの地面に、顎を痛烈に打ち付けた柔は、事態を正確に理解し得ぬままあっさりと意識を失った。



 総勢三人。


 覆面をして顔を隠した男達は、頽れた柔にぞんざいに蹴りを入れて意識がないことを確かめると、手に持っていた鉄パイプを無造作に投げ捨てる。


 金属が地面に当たって跳ね、転がる乾いた音が響く中、気絶した撫子だけを担ぎ上げた男達は頷き合い、無言のまま駆け去っていく。


 人通りのない道を歩いていたのが災いしてか、目撃者は無い。


 矮小な人間達を無言で見下ろす太陽の下方、五分にも満たぬ凶行の後には、倒れ伏した柔一人が残る。




 じくじくとアスファルトに染み出す僅かな赤色が、モノクロームな薄暗い路地の中に鮮烈な彩りを添えていた。







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