表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒髪の女王様  作者: 三角
1/16

第一話 邂逅のこと。

この作品は、私三角が舞氏のHP『SS捜索・投稿掲示板Arcadia』の方にも掲載しています。

また、作品としては前作、「マジカル・マッスル・プリンセス」の続きとなります。



「――お止めなさい!」


 薄暗く、狭苦しい路地の澱んだ空気を引き裂いて、その声は凛と響く。

 無様に垂れる鼻血のせいで、肺に流入する空気はひどく鉄臭く、湿っぽい。

 路地の入り口、生理的な反応で滲んだぬるい水の膜で薄く覆われた視界の中。涼やかな眼差しの女性が、光を背負って立っていた。









 邂逅のこと









「バイト、長引いちゃったな……」


 男は重たい体をのたのた動かしながら、家路を歩く。

 時刻は既に夕方。一面をオレンジに染める夕焼けも、今にも沈み込もうとしている。

 今日一日は朝からバイトで、本来昼過ぎで上がれる筈だったのだが、急遽体調を崩したということで代わりが決まるまで数時間残業することになったのだ。

 いつもより少しだけ長い労働時間は、その分だけストレスと疲れと、来月分の給料袋の厚みとなって残る。

 今日はもう掛け持ちのバイトもない。適当にご飯を食べたら、家でパソコンでも開いてゴロゴロしていよう。

 バイト代は、手取りで考えても中々の額があるが、男は贅沢という言葉とは無縁だった。食事も質素、遊びにも出ない。家にはテレビもなければ小説もマンガもない。

 本当は喉から手が出る程欲しいのだが、今の所彼の家には古びたパソコンが一台あるだけだ。

 それにしたって、今じゃあ時間もなくて少々のネットサーフィングと無料制のネトゲをちまちまやるだけのツールに過ぎない。


 ほわり、と欠伸を漏らす。

 掛けている不格好な眼鏡のレンズに触れないよう、浮かんだ涙を指先で拭った。

 もう少しでも痩せられたら、何か変わるのだろうか。

 男――前田 ジュウは今まで何度も考えたことを思い浮かべ、ぷっくりと膨らんでいる自分の体を見下ろした。

 身長はそれほど高くない。体重は平均よりちょっと――言い訳はよそう、大分重い。

 筋肉がついているからとかではなく、単純にぽっちゃりしているのだ。壊滅的デブという訳ではないのが唯一の救いだった。小太りでおさまる範疇だ。

 ただ、似ている動物占いが豚だった時は本の著者を恨んだ。


「頭も悪いし、運動も出来ないし、得意なことはないし……はぁ」

 

 客観的な自己評価といえば良いのだろうか。トロく、ドンくさく、気は利かないし、はきはきした自己主張何て夢のまた夢。

 今はもう卒業してしまったが、小中高と友人は居なかった。大学には行っていない。当年とって二十三歳のフリーター。

 情けなくも、それが柔の肩書、その全てだ。バイトをして、バイトをして、少し休んで、またバイトをする。日常はその繰り返しで成り立っている。

 娯楽の類に熱中出来る程の気力もない。出来るのは微々たる恩返しだけだ。しかしそれも、いつまで続けられるか分からない。


 ――俯いて、そんなことを考えながら歩いていたのが悪かったのだろうか。


「ってェな! 何だテメェ!?」


 ふとした拍子に、通行人と肩がぶつかり、衝撃に堪えきれずよろよろと尻もちをつく。柔が視線を上げると、如何にも弱い者苛めが生甲斐です、といった風情の男達が三人、そこに立っていた。

 風貌に似合いの、不細工と言っても差し支えのない薄っぺらな怒りの表情を貼り付けた男が、わざとらしく腕を押さえる。


「おーイテテ。こりゃあ骨が折れちまったよ……俺ぁ保険とか入ってなくてよ、おいブタ、勿論お前が治療費払うんだよなぁ? イシャリョーもだぜ。ただで済むと思ってんのか? あぁ!?」


「おいおい、大丈夫かよ。コイツってばぁ碌なモン食ってないからなぁ、そりゃ簡単に骨折れちまうよなぁ」


「で、お前はどう落とし前つけてくれるんだ、おい!? 誠意の見せ方っつーもんがあんだろが!?」


「い、いえ、あの……」


 小太りで、気弱。そんなことを読み取ったのだろう、薄気味の悪い笑みを浮かべた男達は一瞬で一致団結して倒れた柔を口汚く罵った。居丈高に詰め寄って来る男達に怯え、地べたに手をついたままの柔は、のっそりと後ずさる。

 勿論、男達の言い分は紛うごと無き言いがかりである。

 目の前の男達が嘘を吐いているのも、今すぐに警察でも来てくれれば目の前の男達が逮捕されるだろうことも、知識として柔には分かっていた。

 

 しかしそれとは別に、無力な柔にとって単純に凄んでくる男達は怖かったのだ。

 毒々しい刺青が覗く腕で、先ほど折れた! と騒いでいた筈の腕で、柔の胸倉を掴み上げる男。

 キツイ煙草の匂いが鼻を突き、息苦しさと相まって、柔は反射的に顔をしかめた。

 じっとりと肌に貼り付く様な脂汗が米噛みから落ちるのが先か、しまったと思うのが先か。

 その顔が気に食わなかったのか、男達は無言のまま手近な路地へと柔を引きずり込んで行く。

 助けを求めようと何とか上げかけた悲鳴も、口を押さえられた為に発することが出来ず、結果くぐもった音だけが小さく響いた。


 代わりにと目線で助けを求めてみるが、柔と目線が合った人達はあからさまに視線を逸らし、そそくさと足早に歩き去っていく。

 野次馬根性はあるくせに、警察に通報することもしてくれない。

 眉をひそめて通り過ぎていく女性の一人が、「鈍くさいからよ。カッコワルー」と吐き捨てる様に呟いたのが、妙に印象的だった。

 取りたてて金持ちそうでも何でもない男を助けた所でフラグが立つ訳でもないし、何のメリットもない。関わりたくないのだろう。

 柔が逆の立場だったら、助けに入ろうとするだろうか? ――きっと、せいぜいが警察に電話を掛け、家路を急ぐことぐらいだろう。

 どこか冷めた気持ちがお腹の底に座り込んだような気持ちになって、視線を落とす。

 今、大金を持っていないのが唯一の救いだった。

 柔は、柔らかな絶望感が首を絞めるのを感じながら抵抗を諦めた。

 どの道、こういうことには慣れている。



「おいテメェ、ナメてんのか!? 何か喋れっつってんだよオラ! クソブタがぁ!」


「うぐ! う! うう!」


 固い拳骨が何度も体にめり込む感覚。

 頬や腹、肩。場所を問わず無茶苦茶に殴られて、痛みだけがただ蓄積されていく。

 男達は代わる代わるに殴ると決めたようだった。面白半分にじゃんけんをし、五分交替。そんな言葉が微かに耳に届く。

 殴られても、余り痛くはない。学校で虐められていた時の方が余程痛かった。

 それは部活で体を鍛えているか、街中でたむろして鍛えることなど夢のまた先にでも置き去りにして来た奴らとの差なのだろうか。

 それとも、完全に諦めてしまった柔の心が、痛みを痛みと認識出来なくなってきているせいなのだろうか。

 何にせよ、痛くないのはいいことだ。そしていいことは長くは続かない。

 ――どうせすぐ飽きて終わるんだ。

 思い、体を揺さぶる暴力の囁きに従ってゆっくり目を閉じようとする。

 同様に意識がゆっくりと暗闇に染まっていくのを感じた。全てが安息の暗闇に包まれた先にあるのは、暴力の停止と、痛みと、そして情けなさだ。


「そこの方々――何を、しているんですの?」


 だから、闇を切り裂くような鋭さを孕んだその声が響いた時……柔は驚いて目を開き、そして目を疑ったのだった。






「……んだ、姉ちゃんよ。俺らとこいつはトモダチなんだよ……分かるだろ? おめぇは関係ねぇんだからよ、ちょっとすっ込んでろよ」


「そうだぜ、キレーな顔に傷ぅ付けられたくなけりゃな。……それとも何かぁ、ネエチャンが体張って俺らの相手してくれんのか?」


 険のこもった荒々しい男の声。押し殺した様に陰鬱な口調は獰猛で、暴力の興奮に身を浸しているせいか酷く目がぎらついている。

 息も荒く、辺りにはどことなく獣を彷彿とさせる臭気が立ち上っていた。空気の停滞した路地の中では隠しきれない鉄の臭いが、それを更に増長させる。

 乱暴に掴まれた胸倉に首を締め上げられている柔は、痛みにガンガンと霞みそうになる頭をちょっと振り、何とか路地の入口の方に目を向けた。

 涙を滲ませ恐怖と驚愕を等分に貼り付けた顔を、路地の入口から差し込む光が僅かに照らす。

 ――情けない顔だ、きっと。

 はじけ飛んだ眼鏡、それを除いた顔はお世辞にも美男とは言えないものだ。止めどなく鼻血と鼻水を垂れ流し、頬にも既に痣が出来つつある顔は、まるで人間になりそこねた小豚のようにすら見える。

 精悍、秀麗、美貌、怜悧――そういう言葉とは、およそ遠い所にある顔だった。


「関係はありませんが……もういいですわ。日本語はお分かりですの? 撫子の言葉が理解出来るのなら、お怪我をなさらない内にさっさと犬小屋にお戻りなさい。子犬風情がキャンキャンと……見苦しいですのよ、坊や達」


 対する女性は凄む男達に怯えた風もなく、余裕を滲ませて淡々と言葉を紡いでいる。

 場違いなまでに涼やかな、強制力すら含んだその美声に、男達は内心で気圧され、一瞬口を噤んだ。


 柔は、腕を組み、光を背負ってしなやかに立つその姿に目を奪われる。

 こんな汚い場所にあって、全く根本から違う存在感でもって場を圧倒しつくしている女性の姿にだ。

 引き延ばされた数瞬ながらも痛みはどこかへと消え去り、ただ逆光で判然としない女性の姿を凝視することに意識が奪われる。

 きっとこの女性は、どんな状況でも、好きなだけ周囲の視線を釘付けに出来るだけの存在感を持っているのだ。意味も理由も無く、そう確信した。


「っの……アマぁ!!」


「っち」


「良い女だなぁ、剥いてから楽しませてもらおうかねぇ」


 ぎりぎりと締め上げられていた首元から男の手が離れ、その代わり三人組の男達が一斉に女性の方へと飛びかかる。

 反動で突き飛ばされ、背後の路地、ファーストフード店の壁に背を叩きつけられて、柔は盛大に咳を吐き出した。

 むせる呼吸は一瞬でおさまる物ではなく、「危ない」と叫ぶだけの力すら柔から奪ってしまっている。

 逃げて、という言葉と、誰か、という言葉が心の内に轟いたのも束の間。


「――桔梗」


 対する女性は、取り乱す様子もなく。優雅に伸びる髪の毛をゆるりと手で払い、そのままあくまで優雅に、右手を掲げて指を鳴らした。

 鋭く響いた音が鳴り終える前に、彼女の後ろから一つの人影が飛び出した。

 影は、ほんの一瞬で三人組の前に躍り出すと、


「ぐ、え」


「うご!」


「おぅふ」


 停滞すら生じない、それは刹那のことだった。

 影は、柔の目では何が起こったのか分からない様なスピードで、男たちを打倒してみせたのだ。

 口をあんぐりと開けて視線を動かせば、三人が三人とも吹き飛ばされ意識を失い、めいめい地面と熱い抱擁を交わしているのが目に入る。

 ピクリとも動かずうめき声も無い、恐ろしく強い一撃を入れられたのだろうか。思考が追いつかず、ぼんやりとそんなことを考えた。

 汚らしい路地の壁にへたり込み、呆然とその光景を眺めていたのに、柔には彼らがどのように伸されたのか、全く理解出来なかった。

 一応の警戒なのだろうか、残心を取って居た人影は、曲げていた膝を伸ばしてすっと立ち上がる。


「お怪我はありませんか、クイーン」


「もう、その呼び方はよしなさい。……それにしても喧嘩を売る相手も選べないなんて、愚かな男たちですわね」


 路地の入り口、そこから差してくる光を背負って立つ人影からは涼しげな女性の声。クイーンと呼ばれた女性は地面に転がる男たちを踏みしめながらこちらに歩み寄ってきた。

 驚きに目を瞠りながら、一歩一歩近づいて来るシルエットに目を丸くする。


「貴方、災難でしたわね。でも殿方なら、もう少し毅然としませんと、ね?」


「あ、あ、え……」


 優しい声と、差し出された手。

 近づいて初めて分かったのだ。目の前の女性はちょっと記憶に無い程の美女だったのである。

 女性と碌に関わったことのない柔は、状況も忘れてパニックに陥った。

 それでも男の性なのか、手が届いてしまう程のごく近くにいる彼女のことを、まじまじと見詰めてしまう。

 すぐ目の前にある手は細く、そして驚く位に白くてきめ細かい。ほっそりと伸びる指の先まで造形の神に愛されているかの様に整っているのが良く分かる。

 

 この手を、地べたについてしまった――いやいや、そもそも自分なんかの手で触ってしまってもいいものだろうか?

 そんなことを真剣に考えてしまう柔の視線の先で、女性がん、と小首を傾げてみせた。

 自身訳の分からない焦燥に駆られ、意味を為さない言葉をただ喉の奥から絞り出す。


「ぼ、ぼくっ、あの」


「いいんですの、こんな所に居たのでは気分も落ち込んでしまいますわ。さ、兎に角立ち上がりなさい?」


「あ、うわ!」


 躊躇う素振りも見せず強引に手を掴まれ、柔の体は意外にも力強く引き上げられる。

 さんざん殴られたせいでふら付いていた足元は、いつの間にやら元の調子を取り戻していた様で、自分の意思というよりは彼女の声に誘われるままに立ち上がっていた。

 立ち上がると、目線は女性と同じくらいになる。いや、少し女性の方が柔より高い。

 間近に迫った顔に柔の頬が爆発炎上し、慌てて掴まれていた手を振り払った。

 柔には、女性に――それも、美女と言う意外に形容出来ない様な女性に手を取られた経験など、例え前世を振り返って見た所で心当たりが無いのだ。

 挙動不審になるのを自分でも理解しつつ、路地に引き摺られて来て最初、殴られた時に飛ばされていた眼鏡を拾い、震える手でいそいそと顔に掛ける。

 幸いレンズに大きな傷は入っておらず、支障もなく使用できそうである。

 そのことにほっと胸を撫で下し、段違いにクリアになった視線を上げる。


「ふぅむ……」


「う……!」


 柔は、何故かすぐ目の前にある整った顔立ちに飛び上がり、盛大に仰け反った。

 衝撃で、掛けたばかりの眼鏡がちょっとズレる。


「な、何、な!」


 ぼやけていた視界がクリアになると、色んな物がはっきりと目に入るのは言うまでも無い。

 それは例えば彼女の顔だ。

 ぼやけた視界ですら明らかだったことも納得の、とにかく桁外れの美しさである。

 まず目を引くのはその瞳。薄暗いこの路地でもはっきりと煌いている黒曜石の瞳は、意思の強さを示すかの様に大きく、澄んでいて、それでいて色は月夜の闇よりなお深い。

 すっと通った鼻梁、形よく整えられた上品な眉、桜色に光る小さな唇は甘く幼くすら見えるのに、小さな顔の中で完璧なバランスを保つそれらはずっと大人びた印象を見る者に与える。

 無駄な肉などどこにも見当たらない頬から顎にかけてのラインを縁取るのは、印象的な瞳の色にも劣らない、風に靡く長い濡れ羽色の髪。

 透き通る様に白い首筋のラインまで美しく、立襟の白シャツにシンプルなネクタイ、上品さと可愛らしさを併せ持つざっくりとしたチェック柄のミニスカートを纏っている。

 太ももの半ばまで覆うオーバーニーソックスとスカートの間、僅かに覗く太ももの絶対領域は色っぽく眩しいばかりだ。

 身長に対して頭は小さく手足は細く、脚など恐ろしく長く、腰は服の上からでもきゅっと括れているのが、女性に疎い柔の目にも良く分かった。

 風に靡くままに流している黒髪を掻きあげる仕草は、どこか少女らしいあどけなさと大人の女性特有の色香の両方を不思議と感じさせる。


 無邪気さと妖艶さ、親しみやすさと神秘性の両方を違和感なく従えている独特な美貌だった。一度見たらまず忘れない、それだけのインパクトのある容姿だ。

 そんな顔が、特に冴えたる部分もない柔の顔を、至近距離から覗きこんでいるのである。


 距離が近いせいで感じる甘やかな匂いが心臓を叩き、それがそのまま顔面に集まっているのではないかと言う位に顔が朱に染まっていく。

 今なら、顔から湯気が出せそう。いいや、心臓がドキドキしすぎて死んでしまうかもしれない。柔は、本気でそんなことを思った。

 元々器用な方ではないが、それに輪をかけて思考が回らない。目も耳も意識までも完全に奪われ、舌も口の中に貼り付いてる様で、指の先すら自由に動かせなかった。


「んー、特に酷い怪我はありませんわね、見た限り。痛むのなら病院に行くですのよ?」


「……ええ、特に問題はないでしょう。これからは気を付けて下さい。最近、物騒ですから」


「わぁ……」


 合わせて口を挟んだ長身の女性も、また方向性の違う文句なしの美女であった。

 まず背が驚くほど高い。百八十センチも越えているのではないかという位で、柔からすれば、殆ど見上げる様な高さに顔がある。

 感情を感じさせない、どこか冷たくも見える無表情の仮面、縁なし眼鏡の奥にある鳶色の瞳は酷く落ち着いて。

 さらさらと動きに合わせて揺れるくすんだ茶の髪は、肩口で無造作に切りそろえられているだけなのに、それが恐ろしく似合っている。

 引き締まった体からは鈍重そうな印象はかけらも感じない。

 むしろ豊かに張り出したスーツの胸元や腰回りと、引き締まった腰のくびれと手足の差分だけ、女性らしさを強調しているようにすら思えるのだ。

 大の男を三人、一瞬で気絶させた女性とはとても思えない容姿だった。


 どちらも、飛び切り魅力的な女性であることだけが共通していた。

 なので、言ったきりうんと頷いて背を向ける二人組に声を掛けることが出来たのは、偏に奇跡のようなものであった。

 こんな美人とお近づきに……などと考えていられる余裕があった訳では無い。

 ただ、助けてもらったことに感謝の言葉も述べていないのを思い出しただけなのだ。


「あの!」


「……何ですか?」


「何ですの?」


「ど、ど、どなたかは知りませんがっ、そのぅ、あ! 有難う御座いましたっ!」


 柔はつっかえながらも何とか言い切り、勢い良く頭を下げる。依然垂れ続けていた鼻血と汗が地面に落ちるのが見え、慌てて手の甲で拭った。


「あらあら、ふふふ……うふふ! どなたか知りませんが、ですって。そういうのも久しぶりですわー」


「……珍しいですね」


 てっきりそのまま去っていくのだと思っていた彼女らが立ち止まり、あまつさえ一人は口元を押さえて笑っている。

 何だか、なにか悪いことをしたのかと思って慌ててもう一度頭を下げた。

 いつも、自分はそうとは思っていなくても誰かが嫌な思いをしていると言われるのだ。

 自分が謝れば丸く収まる。世界はそう言う風に出来ている。少なくとも、今まではずっとそうだった。


「ご、ごめんなさいっ!」


「あら、何で謝るんですの? 撫子はただ、自分のことを知らない人なんて久しぶりで、それが酷く面白かっただけですのに」


 面白かった? きょとん、といった感じで告げられた言葉に導かれるように、恐る恐る顔を上げる。そしてそのまま仰け反った。


「……本当に、あの顔を見たことがないのですか?」


 目の前に、長身の女性が迫っていたからである。掴まれた肩がギリギリと痛み、しかしその痛みは恐怖とは結ばれない。痛いのに怖くは無い。不思議な感覚だった。

 はて、そんなに有名な人なのかな……。

 改めて涙を滲ませながら笑っている女性の顔を見る。やはり、心当たりなどなかった。

 間違い無く、一度見たら忘れない様な美貌だ。


「い、いや、ない、ですけど……」


「あははは! 凄いですわ! これではもっとお仕事に力を入れなくては、ね」


 楽しげに笑い転げる女性と、肩を掴んで難しげに眉を顰めている女性。何が何やら分からず、柔の表情はみるみる情けないものになって行く。

 ふと思いついた可能性、まさかと思いながら、脳裏に過ぎったそれを口にした。


「も、もしかして、有名な人なんですか……?」


「あの人は……」


 柔の返答に溜息を吐く。

 どことなく疲れたような声音を押しだした長身の女の人は、額を押さえながらゆっくりと身を起こした。

 合わせて丁度目線の少し下に巨大なメロンが映り、慌てて視線を明後日の方に逸らした。


「モデル兼女優兼コメンテーター兼歌手兼……とにかく、知らない人はほとんど居ない程に有名な、飛ぶ鳥を落とす勢いで人気急絶頂な役者です」


 ほとんど、の部分にいっそ苦々しいような力を込めて断言し、溜息を吐く長身の女性。

 その背後、ようやく笑いをおさめた美貌のその人が、涙を払って歩み寄って来た。

 シンプルな紙片を一枚取り出し、何かを書き込んですっと差し出してくる。


「撫子、と言う名でお仕事していますの。もしよろしければ、応援して下さいね?」


「は、はぁ……」


 ぱちぱちと目を瞬かせ、生返事。

 じゃあね、ばいばい、と手を振って今度こそ歩き去っていくその姿を、柔はただ呆然と見送っていた。


「今日、クイーンに助けられたことは無闇やたらに吹聴しないで下さい。あの人は、曲がったことが許せない御方なだけですので――いいですね? いいですかいいですよね。お返事は?」


「は、はい」


 冷たく言い放ち、颯爽と身を翻して撫子の背中を追う長身の女性。

 柔は言葉尻にこめられたプレッシャーに無意識に何度も頷いて、数分間、意味もなくその場にとどまっていた。

 人間は、余りに想像を越えたものに出会うと思考を停止してしまうのだ。それは、二十三年間生きてきて、前田柔がこの日、初めて味わう感覚だった。


「あ!」


 そうだ、早く離れなければ。

 未だに地面に倒れ伏しているとはいえ、柔に絡んだ男達はいつ起き上がるか分からない。

 他に何か落っことしていたりしないか確かめようとして、右手に握らされたままの名刺の存在を思い出した。


 ひとまず他に何も落としていないのを確認して、この場から離れる様に足早に歩く。すっかり忘れていたが、殴られた所がジンジン痛む。

 ――早く家に帰って手当しないと。

 いつの間にか薄暗闇に包まれた町並みの中、小さな紙切れと睨めっこする訳にもいかず、とにかく歩く歩く歩く。

 顔を伏せて繁華街を過ぎ、角を三つ曲がる。

 そうすれば高級なマンション街の極々外れの方にぽつんと、いっそ清々しい位みすぼらしいマンションが建っているのが見えてくる。


 控えめに言っても、築三十年は下らない代物である。四階建てで、エレベーターもない。

 薄く額に浮いた汗を払いながら、薄汚れたエントランスで郵便受けを確認し、傍にあるゴミ箱に要らないDMを放り込む。

 角度がそこそこに急な階段をよいこらよいこらと三階分登れば、部屋はすぐそこだ。

 三階の一号室。突き当りの角部屋で、見事に北向き。

 一日中暗く、しかも隣に超高級マンションが建ったせいで以前よりもっと暗くなった。

 洗濯ものも満足に乾かせない代わりに、家賃が幾獏か下がったのは、柔にとって儲け物かもしれない。


「ただいまぁ」


 口の中が痛い。ぼそぼそと呟くように室内に声を掛けるが、当然中には誰も居ない。ただの習慣だ。

 電気のスイッチを手探りで探しあて、押しこむ。パチっと硬い音がして、五畳半の1Rを安っぽい蛍光灯が照らし出す。

 火力の弱いガス台と一口コンロ。ユニットバス。申し訳程度のベランダとクローゼットとは口が裂けても言えない押入れ。

 家賃は月五万円と、交通の便や、ここが大都市であることを鑑みてもかなり安い。

 安普請のベッド一つに、小さな木製のローテーブル一つ。その上に置かれた少し古い、型落ちのノートパソコン。

 それと地味なグレーのカーテン。衣服を入れる収納箱などは押入れに押し込んでいる。

 それで全てだった。CDコンポや雑誌、本、ちょっとしたお菓子――そういうものは一切無い。

 柔は貧乏暮らしには慣れているので、生活する上では全く問題ないと思っているが、同世代の人間に聞いたら、まず驚かれる様な内装だった。

 ローテーブルに紙片をそっと置き、救急箱を押し入れから引っ張りだす。

 洗面所に向かって口を濯ぎ、歯がぐらついたり、他に何か酷い怪我をしていないかじっくりと確かめてから湿布を取り出した。

 何とも言えない、湿布独特の匂いが鼻をつく。

 その匂いにまゆを顰めながら、ひんやりとした感触の湿布をぺたぺたと貼り付ける。

 散々に痛めつけられていた割には、切ったり、擦れたりした傷は無かった。目の届く範囲、痛みを感じるものは、せいぜいが打ち身だ。

 ついているのかな。

 そう思った所で、そもそも殴られること自体不幸じゃないか、と気付いて溜息を吐く。

 簡素な治療を終え、救急箱を閉じる。安心したせいかぐっと重みを増した体を引きずって部屋に戻った。

 何か口に入れるだけの気力も湧かない。空腹は感じていたが、迷わずベッドに倒れ込んだ。

 長時間のバイトに、暴力を伴ったいざこざ、信じられない邂逅。決して耐久力があるとは言えない柔にとって、今日という一日はハードに過ぎたのだ。

 ギシリと盛大にベッドが悲鳴を上げ、思わず「ごめんなさい」とベッドに向かってすら謝ってしまう。

 そんな自分に溜息を吐き、打ち身が痛まないように慎重に寝がえりを打った。そう言えば電気を消していない。

 節約節約、電気代がもったいないぞ、と思い直して体を起こす。


「……あ、貰った紙」


 ローテーブルに放ったままだった。ゆっくりと手を伸ばして、両手で捧げ持つようにその紙片を引き寄せる。

 良く見れば、それは名刺だった。

 名前と芸能事務所、それと事務所のものらしき連絡先が書いてある。

 例え柔が自分の記憶を信じられなくとも、手の中の紙が告げていた。柔を理不尽な暴力から救ってくれたあの美女達は、確かにあの時あの場に居たのだ。

 もしもこの名刺を貰っていなければ、今頃アレは夢だとでも思っていただろう。それだけは間違いない。

 妙な所だけ、力強く頷く柔だった。


「凄いなぁ」


 何気なく名刺を裏返す。そこには、走り書きで『もし今度会ったらよろしく』とだけ書かれていた。

 驚いて三度その文を読み返し、裏返して蛍光灯の光に透かし、もう一度表から裏へ何度も繰り返し目を通す。

 例え社交辞令だと分かっていても、嬉しかった。

 頬が緩み、そのせいで僅かに切れた唇の端が痛む。

 痛いのに笑いが堪え切れない。柔は折ったりしないようにそぅっとローテーブルの上、畳まれたパソコンの上に名刺を置いた。

 のそのそと立ち上がり、部屋の電気を消し、今度はゆっくりと薄い布団に沈みこむ。

 それでもベッドは重いと抗議するように音を立てたが、今はそんなことは気にならなかった。

 目を閉じる。

 快い歓喜の余韻を残しつつ、ふとあるフレーズが心を過ぎった。


 ――明日が、良い日でありますように。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ