第6話 男と女とその教訓
俺は模範的大学生なので、当然のようにバイトをしている。女の姿になってからバイトに行くのは初めてなので、色々と説明する事が多く大変だったしなんやかんやで仕事内容も少し変わった。
と、そのせいもあってか家に帰った時俺はすごく疲れていた。
「おー、おかえりー。飯はー?」
なので、ドアを開けた瞬間可愛らしい顔を輝かせてそう聞いてきた天使長に、物凄く腹が立ったのは疲れていたからだ。きっと。
そう、普段から家事の一つもせず飯を食ってはゴロゴロとして、部屋を散らかす天使長に鬱憤が溜まっていたのは理由にならないだろう。きっと。
シンクの中に残された、俺が天使長に作っておいた昼飯の皿を無言で片付けて無言でお手軽にパスタを茹ででペペロンチーノを仕上げた俺は、それを嬉しそうに頬張る天使長を睨み付ける。ジッと。
気付けば口が開いていた。
「天使長……あんたは何歳だ? 恥ずかしくないのか? 家事の一つもせず、穀潰しが。どこのヒモ男だ? ああ?」
疲れているので……もう一度言うが疲れているので俺は天使長の幸せそうな顔すら憎らしく思えた。イライラを隠さずそう言った俺に、天使長は口に運ぶフォークを止めて、戸惑いがちに……上目遣いで聞いてきた。
「ど、どうした? 機嫌が悪いぞ? 生理か?」
俺はブチ切れて天使長を外に追い出した。その時に何を言ったのかすら覚えていない。外からドンドンと、扉を叩く音。ごめんなさいと何度も謝る天使長を小一時間外に放置してから、仕方なく俺は扉を開けた。
開ける少し前から静かになっていたのでもしやどこかへ行ったのかと心配していたが、どうやら扉を出てすぐのところで壁にもたれて体育座りで泣きべそをかいていたようだ。しかし俺は絆されない。厳しい顔をしたまま、家に入れて説教をする。
「もう! わかったってば! ワシも金を稼いでこればいいんじゃろ!!」
だが反抗期らしい天使長は最初こそしおらしかったものの、次第に不満を顔に出すようになった。そして逆ギレである。
しかし大きく出たものである。天使長のような世間知らずの穀潰しに、簡単に金を稼げるとは思えないがな。
「ほぉ。ならやってみろよ。そしたら、謝って褒めてやる」
そういうことになった。
*
「ええ? 大丈夫なのかそれ。天使長って……こう、天界から来たとかそんな感じだろ?」
次の日、学校で藤代にそのことを愚痴っているとロリコンの彼は心配そうに言った。俺はため息を吐き、頬杖をついて気だるそうに答える。
「天界的なのがあって、そこでどう暮らしてたかは聞いたことないなぁ……でも、天使長ってつまり、役職だろ? ってことは社会人じゃねーの?」
「いや、とはいえ心配だよ。今日は朝から仕事探しに行ったんだろ? もしかしたら悪い人に騙されてるかもしれない。俺が面倒見てあげようか?」
「嫌だよ。幼馴染がロリコン系犯罪者になるの」
「決めつけないでくれない?」
しかしまぁ、藤代と話をしていて俺も少し不安になってきた。天使長は世間知らずだ。本当に悪い人間に騙されているかもしれない。見た目はかなり良いので、もし変態にでも目をつけられたら……。
俺は授業がまだあるというのに、荷物をまとめて立ち上がった。
「どうした? 心配になったのか?」
俺は言葉に詰まり、だが素直に心配だと認めるのは癪なので言い訳を考える。
「いや、もしかしたら盗みとかするかもしれない。そうすれば俺の監督不行き届きになる、なので俺は探しに行く」
「苦しいなぁ……」
ニヤニヤとする藤代を無視して俺は大学を後にした。しかし天使長は携帯も何も持っていない。とりあえず家に帰ることにしたが、俺が家に着いた時にはすでに天使長は家の中には居なかった。後ろから付いてきていた藤代があわあわと口を震わせて顔を青くした。
「本当にどっか行っちゃったじゃん、どうすんの?」
うるさいやつだ。だが、天使長は一体どこへ……ちゃんと鍵を掛けて出て行ったことは、認めてやる。
その後フラフラと街に出て探してみるが天使長を見つけることはできず。日が暮れてきた頃トボトボと家に向かうと、ちょうど天使長が帰ってきたところだった。
「天使長! あんた一体今まで……っ!」
「おおっ! シオミ! 見てみろこれを!」
俺が怒りを露わに詰め寄ると、それに気付いていないのかそれとも浮かれているのか天使長はポケットから何かを取り出した。それは数枚の一万円札だ。
俺は訝しげな目でそれを手に取り、まじまじと夕陽にすかしたりして確かめる。横に居た藤代が言った。
「本物だ……」
五万……。どこでこんな大金を……。
「天使長、一応聞いておきますけど、悪さはしてませんよね……?」
俺が冷や汗を垂らして聞くと、天使長は何をバカなと胸を張った。
「ふふん! ちゃんとした金じゃい!」
「どうやって手に入れたんですか」
強めの口調で聞く俺に、しかし天使長は誇らしげな顔を崩さず腕を組んだ。
「それはのぉ……いや、言えん! くくくっ! まぁ明日も楽しみにしておれ!」
高笑いをしながら家に帰っていく天使長の背中を見つめながら、俺と藤代は顔を合わせて首を傾げた。
次の日、俺は大学に行くために家を出た。そしてすぐさま近くの路地裏に姿を隠す。そこには既に藤代がいて、俺にアンパンを渡してきた。
「いや、わざわざ尾行するの?」
「天使長な、昨日いくら聞いても教えてくれなかったんだ。五万なんて普通一日で手に入る金じゃない」
それはそうだけど、と藤代は呟く。
しばらくすると、ウキウキの天使長がおめかしして出てきた。白いワンピース姿だ。ちなみに俺はそんなものを買い与えた記憶がない。
「うぉっ……天使……シオミ、お前センスあんなぁ」
「あれ買ったの俺じゃないぞ」
そして天使長は懐から携帯電話を取り出し……しかも最新型のスマホだ。それでどこかへ連絡を取っている。俺の脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。どうやら藤代も同じらしく、俺達は顔を見合わせた。
どこかを目指す天使長へ着いていくと、どうやら彼女は街に出るつもりのようだ。バスか、電車か……そのどちらでもなく、天使長の目の前に車が止まる。高級車だ。
「おお! おじさん!」
「やぁ天使ちゃん。さぁのってのって」
そして天使長は車に乗り込み去っていく。
「…………」
「…………」
俺と藤代は無言でそれを見つめていた。
変身。俺はキューピッドモードに変身した。もちろん天使長は変身させない。実は補佐キューピッドの天使長の変身は俺が操作できる。
藤代を抱え、俺は空を飛んだ。
「ぎゃああああ!」
叫ぶ藤代を無視して俺はキューピッドウィングをはためかせ空を駆ける。追うのはもちろん天使長を乗せた高級車だ。
やがてその車はおしゃれな飲食店の駐車場に止まる。俺も透明化して中に入ると天使長と謎のおじさんは楽しそうに食事をしていた。
しばらく二人の近くで盗み聞きをして、その様子からやはりと俺は思い至る。
俺は頭を抱えた。
外で待っていた藤代の元へ戻り、俺はキューピッドモードを解除してどうだったと視線で訴えてくる藤代に対して首を振った。
「パパ活ですね」
俺は言った。
パパ活とは、雑に言えば金を持ったおっさんと若い女がデートっぽい事をする……そしてそこに金銭を絡ませる、なんかそんな感じのやつだ。
つまり世間体的にはあまりよろしくない。というより、そのような方法で稼ぐことを覚えると金銭感覚が歪む。おっさんに若い大事な時期の時間を売っているのだという、ぐうの音も出ない反論をされると買うような大人が存在する以上何も言い返せないのだが、何はともあれ世間体がよろしくない。
日本において世間体とは、とても大事な価値観である。いや、日本だけではないだろう……人間がコミュニティを作り、そこで生活する以上それは生きる為に必須な事である。俺は混乱して訳の分からない思考をし始めた。
「どうする? 通報するか?」
藤代がいきなり最強のカードを切ろうとするのを俺は止めた。そうするのが一番正しいのかもしれないが、しかし天使長のこの先を思えば……少々、痛い目にあってもらう必要もあるかも知れない。
「まぁ待て藤代。人は、痛みを伴ってようやく心に刻むことができるんだ。それを教訓と呼ぶ」
「つまり、どういうことだ?」
俺は少し思案した。困ったことにうまい策が思いつかない。どうやら俺は混乱しているらしい。
とりあえず、今日のところは様子見ということにした。その後、俺と藤代は天使長とおっさんが別れるまで監視する。
暗くなる前に帰ってきた天使長が俺にまた数万程の金を渡してくる。ニコニコとトンデモない笑顔だ。知り合いがいい商売を見つけたとマルチにハマった時の様な顔だった。
「あのさ、天使長……このお金どうしたの? 俺、見ちゃったんだけど、天使長……知らないおじさんと会ってたよね」
「ん? なんだ見てたのか!」
そう言って、天使長は懐からスマホを取り出した。
「アイツ、すげえ太っ腹でなぁ! ほら! スマホも買ってくれたしー、ご飯も食わせてくれてその上金までくれるんだぞ! シオミも紹介してやろうか!?」
「いや、いいです……」
俺は気圧されていた。天使長の無垢な笑顔を前に、汚れた世界の真実を伝えていいものか躊躇していた。
あのおっさんも、このように穢れのない姿を見て辛い現実から逃げているのかもしれない。天使長の見た目は人外の如き。見ているだけで視力が上がる程美しいロリを見て、かつ飯を奢って金を渡すだけで……いや、ダメだな。ダメです。
俺は決意した。
例え天使長の心を汚す結果になろうと、人間の闇というものを知ってもらわなければならない。
*
「うわあぁっ!」
寂れた怪しいホテルの一室、そこに連れ込まれた天使長はベッドに投げ捨てられる。彼女はまるで何かを恐れるように見た。その視線の先には、鼻息荒く服を脱ごうとする男。
「ひ、ひいっ!」
天使長が引き攣った声でベッドの上を這う。しかし、腰が抜けたのかうまく動けず、その姿すら愛おしいと男は下品に顔を歪ませた。
男は、ここまでする気はなかった。ただ、この目の前で恐怖に顔を歪ませる少女の……美味しそうにご飯を食べる姿を見ているだけで充分だった。
だが、男の中のダークサイドは我慢ならなかったらしい。時と場所を選ばず、まるで耳元で囁かれるような声。それは、まるで男自身が自覚していなかった欲望をそのまま言葉にしたような不思議な声だった。
そして気付けば、男は目の前の天使を手籠めにしようとしていた。もう、退けない。既に手遅れだった。
ギシ……と、男が膝を乗せたことでベッドが軋む。瞳から宝石の様な涙を零し、天使が何事かを言おうと口をパクパクさせるが、どうやら言葉にならないらしい。男には、己の命すら燃やす覚悟があった。
しかし、それを許す俺ではなかった。
突如としてベッド脇に現れる俺、男は驚きのあまり俺の方を見て声にならない声を出した。そこにすかさず俺のハイキック。
「死ねっ! この変態野郎が!」
ゴッ! と、鈍い音が響く。突然の事に目を丸くさせる天使長は、豹変した男にハイキックを決める俺を見て安堵に顔を綻ばせる。
だが、次に顔を歪ませたのは俺だった。完璧に決まったと思われた俺のハイキック。しかし男ことパパ活おじさんのガードは速く、しかも俺の蹴りを肘で受ける事で俺の足の甲にダメージを与える。激痛が走った。何という早技、的確に固い骨の部分をミートさせる事により防御と攻撃を両立させるだと……っ!?
俺は足を抑えて蹲った。目の端から涙が溢れる。凄く痛い。俺は泣きそうだった。いや、泣いてた。
「シ、シオミッ!」
「て、天使長……やばい……これ折れてる……マジで……ぐええぁ」
メソメソとしている俺をパパ活おじさんはヒョイっと持ち上げポイっと投げた。コロンとベッドの上を転がって、俺は天使長の前にきた。彼女はキョトンとしている。
「その声は、僕に囁いていた悪魔の声だね……そうか、こんなに可愛い子だったなんて……」
「おい、まて! 何でにじり寄ってくる!」
まぁ、隠す気もないがパパ活おじさんを唆したのは俺である。そして声でバレる前に気絶させようとしていたことをすっかり忘れて普通に自分の声を聞かせてしまった結果、パパ活おじさんに謎の声の正体が緑髪美少女の俺であることがバレてしまった。
すると、何故か嬉しそうにおじさんは満面の笑みを浮かべ俺に近付いてくる。俺は冷や汗を垂らし、横の天使長にしがみついた。
「や、やばいぞこの展開」
「シオミ……っ! ところで囁くうんぬんって何のことだ?」
今はそんな事どうでもいいだろうと俺は天使長を無視した。
ビクビクとその場で留まっていれば、当然すぐにパパ活おじさんに捕まる。おじさんはまず俺の腕を掴み、そのまま俺を押し倒した。
「なんで俺から!?」
「君のが生意気そうだからねェ〜」
普通にやばい分からせおじさんに変身していた。このままでは俺の貞操が危険で危ない。俺は半泣きで暴れるが、残念な事に男の力には敵わないらしい……え? こんな流れで俺は身体の変化を感じなきゃいけないの? 俺は憤慨した。こんな汚い男に、この俺様を好きにさせるわけにはいかない。
「うおおおおっ!」
突如として叫ぶ俺、人間は大声を出すと力が入りやすい構造になっている。しかし男の力には敵わなかった。やだ……これが男と女の差なの?
「変身ッ!」
俺の辞書に諦めと身を許すという言葉はない! キューピッドパワーを解放し、俺はついでに天使長も補佐キューピッドモードにしてパパ活おじさんの視界から二人して消えてみせる!
「き、消えた!?」
だが掴まれた腕はそのままだ。しかしキューピッド手のひらクルーっによって弾き飛ばし、そのまま弛んだ腹を蹴り飛ばす。
ベッドから落ちたパパ活おじさんに、天使長からの追撃がかかる。顔面に飛び蹴り、容赦のない攻撃にしかし悲鳴を上げたのは天使長だった。
「ひえぇぁ! な、舐めとるっ!?」
ベローッと、おじさんは顔面に叩き込まれた天使長の足を舐めていた。俺はドン引きした。勝てない、強すぎる。絶望とはこのことかと俺は足を震わせた。
天使長の足を掴み、おじさんは立ち上がる。そこにすかさず俺がキューピッドラリアットをかますが、それを無防備に受け……たと見せかけて、空いた手で俺を捕まえる。
「くくくっ、どうやら見えないだけらしい。だが僕には見える、匂う、美味しい。無駄だ、逃げられないよぉ」
つ、強すぎる……! 俺は、どうやら虎の尾を踏んでしまったらしい。欲望の解放された化け物を前に、例えキューピッドであろうと無力であった。
俺は天使長と目を合わせる。一人では勝てない。だが、二人なら或いは……!
足を掴まれ、宙ぶらりんになった天使長の眼光が鋭くなる。覚悟を決めた顔だ、拳を強く握り込み、ちょうど目の前にある男の急所をぶん殴る……!
「グアアッ!」
パパ活おじさんは突然の激痛に股間を押さえようと身体を丸めた。その瞬間、その動きに合わせて俺は肘でおじさんの顎をかちあげる!
名付けて、キューピッド・ツイングレイヴ……!
脳が揺れたおじさんは糸が切れた人形の様に床に崩れ落ちた……。俺と天使長は、緊張から解き放たれてペタリと座り込んでしまう。
息を切らしながら、俺は真剣な顔をして天使長に言った。
「分かったか? 男ってのは、みんな狼だ。金を渡してくる輩なんてやましい気持ちしかないだろう。天使長……あんたはもう少し危機感を持ったほうがいいんだ……」
俺の説教に、天使長は涙目でおじさんの股間を殴った自身の拳を嫌そうに見つめた。そして一度瞠目し、頷く。
「うん……ワシにもよく分かった。男はみんな、薄皮一枚の下はケダモノなんじゃって……ところでおじさんがさ、囁きがどうこう言ってなかった?」
「ふっ、分かったならいいんですよ。今回は俺にとっても良い教訓になりました」
俺は自分の無力な拳を見つめ、唇を噛む。自分が言ったことだ。人は痛みを持って教訓とする。
俺の得た教訓。それは、人を侮ってはいけないということだ。例えば見た目がメタボリックだから、と油断していてはいけない。
時に人間は、意志の力によって凄まじい力を発揮するのだ。そして、それは善なる力とは限らない。巨悪とは、すぐ身近にひそんでいるのだ。
俺は結果として無事だったものの、最悪の悲劇を想像して自身の腕で身を抱いて震わせる。今の俺はか弱き美少女……ケダモノからすれば、格好の餌食なのかもしれない。窓の外を見つめ、俺はため息を吐いた。
「いつまでも、男の意識でいたら危ないんだ……俺は天使長の事を言っていられる立場ではなかった……」
アンニュイな表情を浮かべる俺に、天使長が真顔で聞いてくる。
「だからさシオミ、囁きって何?」
俺は無視した。