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「ルードリア王国で最も優れた剣士とされる剣聖、クレイアス殿に、ヨソギ流が当主、カエハの子、シズキが試合を申し込みます!」
次の日、穏やかで平穏な朝食の時間は、そのシズキの一言で打ち砕かれた。
……えっ、クレイアスの肩書って、そんなに大袈裟な物なの?
僕がびっくりしていると、ウィンも同じくびっくりしたらしく、口からぽろっと腸詰めが落ちそうになったので、風の精霊に頼んでキャッチして、彼の皿の上に置く。
しかしどうやら、シズキがヴィストコートに来たがったのは、これが理由だったらしい。
いやでも剣聖って、こう、もっと剣に全てを捧げたお爺さんみたいな人の称号なイメージが、僕にはある。
確かにクレイアスは、僕の知る限り最も腕の立つ剣士だけれど、割と俗っぽい人間だ。
彼は、そう、剣に全てを委ねるよりも、どんな手を使ってでも足掻き、生き抜く、……冒険者としての印象が強いから。
正直な所、クレイアスに剣聖の肩書は、あんまり似合っていない。
まぁ流石に、今の空気では笑うのは堪えたけれど、こんな時でなかったなら、きっと指を差して笑っただろう。
試合を挑まれたクレイアスは少し困った様に、まず僕を見て、それから隣に座るマルテナを見て、誰も助けに入ってくれないと悟って、漸く正面からシズキの視線を受け止めた。
シズキの目に込められた感情は、それを正面から見たクレイアスにしか、わからない。
「……わかった。でも見た所、君はまだ身体が完全に出来上がっていない、剣士を名乗るには早い年齢だ。木剣を使っての打ち合いなら、朝食後で良ければ応じよう」
暫しの沈黙の後、根負けした様にクレイアスは、そう口にする。
シズキはそれに、少し不満そうな表情を浮かべるが、それでもクレイアスの言葉が正しくて、譲歩をして貰った事も理解したのだろう。
頷き、大人しく席に着く。
けれどもあの様子では、恐らく碌に味もわかるまい。
少し勿体ないなぁと、そう思う。
腸詰めは美味しいし、肉の旨味がたっぷりと出たスープも、絶品なのに。
腹ごなしの準備運動を終えたクレイアスとシズキが、木剣を手に向かい合う。
そんな二人を見た僕の感想は……、クレイアスが老けたなぁと言う事だった。
相手が子供だからと言うのも無関係ではなかろうが、今のクレイアスが構える木剣は、片手半剣位のサイズだ。
以前の彼ならもっと大きな、両手剣を軽々と操っていたのに。
最初に会った時は、二十歳位だった彼も、今は四十代の半ばである。
体型や動きを見る限り、両手剣を操るだけの筋力はまだある筈だが、咄嗟に寸前で止めるとなれば、片手半剣位のサイズが丁度良いのだろう。
つまりクレイアスの全盛期は、もうとっくに終わってしまっていると言う事だ。
勿論、年月を重ねた分だけ技は練っているだろうから、彼が弱くなっているかどうかは、わからないけれども。
シズキに関しては、特に心配もしていなかった。
結果は最初から見えているし、そもそもシズキが望んでいるのは勝利でもない。
彼自身に自覚はなさそうだが、恐らくは自らの父親と思わしき人物と、剣を通して触れ合いたいだけである。
もっと言うなら、不器用に甘えようとしているだけだ。
幾ら僕でも、そこに余計な口を挟んだり、妙な心配をする程に野暮じゃない。
でも一つ思うのは、……こんな風になるんだったら、たとえ馬車を使ってでもミズハも連れて来てやれば良かったと言う事。
いやでも流石に、ウィン、シズキ、ミズハの三人ともなると、僕が一人で目を離さずに引率するのは厳しいか。
「ィィイヤアアァァァッッ!!!」
最初からシズキは全力で動き、子供とはとても思えぬ程に鋭く剣を振る。
それは間違いなく、天才の剣だ。
道場に生まれたと言う周囲の環境や、本人が積み重ねた努力もあるのだろうが、非凡な才覚がなければあの年齢で、あんな腕前には到達出来ない。
しかし当然ながら、クレイアスはシズキの非凡な剣を、軽々と受け止め、流して捌く。
たとえシズキが剣の天才であっても、クレイアスは数十年の修練と、無数の実戦経験を積み重ねた、剣の天才だ。
だからそれはまさしく、子供扱いであった。
シズキの木剣はクレイアスに全く届かず、逆にシズキの見せた隙を嗜める様にクレイアスの木剣は打ち込まれる。
或いはシズキが慎重になれば、強引に間合いを詰めて圧を掛けて崩し、打ち込む。
……そう、子に対する剣の指導で、子供扱いなのだ。
何と言うか、楽しそうで何よりであった。
僕の腕の中で、ウィンがポカンと口を開けて、打ち合う二人を眺めてる。
一体この子は、今は何を考えているのだろうか。
そのうち僕も、ウィンとあんな風に打ち合ったりして、じゃれ合いたいとは思うけれども。
うぅん、まだ少し早いか。
今は、こんな風に腕の中に納まってくれる可愛いウィンで居て欲しい。
案ずるより産むが易しって言葉を、ふと思い出す。
……確か、事の前にはあれこれ思い悩むが、実際に始まってみれば意外と何とかなる物だって意味だった。
シズキとクレイアスの打ち合いは、正にその様に僕には思える。
カエハやその母、クレイアスにマルテナ、……彼等が何を考えて行動し、こんな風にややこしい事になっているのかを、僕はまだ知らない。
だけど皆が、シズキにミズハも含めて、悪性の人物は一人もいないだろう。
だったら僕は、あれこれ思い悩まずに、ただ彼等に必要とされれば応じるのみ。
絡まった糸だって、何時かは解けるかも知れないし。
余計な事を考えずに観察すれば、二人の打ち合いは僕にとっても良い刺激になった。
僕は手も足も出ないシズキが、それでも何とかクレイアスを攻略しようとする様に、シズキの闘争心と、強くなりたいと言う意志を見る。
多分あれが、僕に最も欠けてるものなのだろう。
またクレイアスの一挙手一投足が、シズキの闘争心を上手く引き出してるのもわかった。
それは彼等の間に繋がりがあるからか、それともクレイアスが冒険者相手の教官として経験豊富だから成せるのか。
少し興味はあったけれども、僕も流石にあの二人の間に割って入る程に野暮じゃない。
そんなシズキとクレイアスの打ち合い、交流はシズキが力尽きるまで続いたどころか、僕等がヴィストコートに滞在してる間は、時々行われた。
だけどそんな時間も無限に続く訳じゃなく、僕等は二週間をヴィストコートで過ごし、そして王都に戻る為に町を発つ。
懐かしい場所を見て回り、折角だからとウィンとシズキを連れてプルハ大樹海も少しだけ覗いて、良い気晴らしにはなったと思う。
アズヴァルドに、あのクソドワーフ師匠に師事した兄弟弟子達にも会い、彼等には品評会での優勝を約束させられた。
王都に帰ったら、うん、今度こそ他には気を取られずに、品評会に向けた鍛冶に打ち込もう。