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左右を山に挟まれた回廊、死の谷は、空が分厚い霧で蓋をされているので、酷く暗い。
陽光が重く濃い霧に遮られ、地上には殆ど届かないのだ。
そして谷に生息する魔物は、その暗さを活かして隠れ潜む事に長けており、視覚以外の方法で獲物を感知して襲い掛かる。
しかしそれを恐れて灯りを、松明やカンテラを用いたならば、今度は上空の霧の中から地上を見下ろす空の魔物に、自らの位置を大声で教えているようなものだった。
成る程、どこの誰が名付けたのかは知らないが、死の谷の別名である死の迷宮とはよく言ったものだと思う。
プルハ大樹海や人喰いの大沼といった他の危険地帯のように、ただあるがままの自然が脅威なのではなく、死の谷の環境はどこか、そう在るようにと整えられた、誰かの意図を感じる物だ。
地上にありながらも地下を思わせる、暗く閉ざされた回廊は、広くはあっても曲がりくねって先が見えず、分岐し、時には行き止まりとなって、人を迷わせ心を狂わせる。
正に迷宮と呼ぶに相応しい場所だけれど……、だけど僕はこの場所の他で、迷宮という言葉に触れた事はあっただろうか?
迷宮とは、恐らく人が作った物との意図が込められた言葉だ。
僕は前世の記憶があるから迷宮という言葉に違和感はないし、複雑な地形の森を見れば天然の迷宮のようだと感心もした。
だがそれは迷宮が人の作りし物だと知っているからこそ、天然の迷宮なんて言い回しを使うのだ。
つまり何が言いたいのかというと、この死の谷を見て迷宮と名付けた誰かは、どうやってその言葉に思い至ったのだろう。
もしかするとその誰かは、この場所が人工的に整えられた、正しく迷宮であると知っていて、そう呼んだのではないだろうか。
だとすれば迷宮との言葉を広めたのは、霧の山脈や死の谷の環境を整えた何者かと、深く関わりのある誰かだったのかもしれない。
或いは僕のように前世の記憶を持った、何千年か前のハイエルフである可能性も、同じくらいにはありそうだけれど。
まぁいずれにしても、その答えがわかったところで、この谷を進む役にはほんの少しも立たないから、この推察は僕の単なる遊び、妄想だった。
この世界には僕の知らぬ事はまだまだ多くあり、その全てに手が届く筈なんて、幾らハイエルフであってもありはしないのだから。
注意深く、僕は山の間の回廊、死の谷を進む。
幸い、谷の空気は完全に留まってる訳ではなく入れ替わっており、要するに緩やかな風は吹いていた。
これなら灯りを使わずとも、地上の魔物は風の精霊に索敵を頼めるし、風の流れで道もわかる。
またこういった場所にありがちな、毒性のガスが噴き出て溜まるような場所も、風の精霊なら素早く察知してくれるだろう。
尤も霧の中に関しては、いや、それどころか霧に近付く事すら風の精霊は嫌がるので発想を切り替え、あれはもう特殊な湖や海のようなものだと考えて、水の精霊に警戒を任せた。
霧を水の塊、中を飛ぶ鳥の魔物を、泳ぐ魚のような物だとするならば、その感知は船の上で、もう何度も経験している。
空を遮る霧を見上げて水の精霊と共感すれば、中を飛んでる魔物の数は僕が思った以上に多い。
既にこちらを見付けて獲物として認識しているのか、その内の数匹が僕の上をクルクルと旋回しながら、互いに牽制し合ってた。
あの争いがひと段落すれば、その勝者が上空から強襲してくるのだろう。
これまで幾度か危険地帯を踏破した経験上、僕はまず環境に適応する事こそが、踏破のコツだと思ってる。
もちろん他の危険地帯の踏破者なんて知らないから、そのコツが合ってるのかどうかなんて、意見交換はできないけれども。
危険地帯の厄介さは、まず何よりもその広さだと僕は思う。
仮に人喰いの大沼が、二~三日、もう少しかかったとしても一週間以内に徒歩で踏破できる広さなら、六つ星や七つ星の冒険者のチームなら、踏破は十分に可能な筈だ。
いやそれどころか、東部との交易が齎す利を考えるなら、近隣の国は大軍を派遣して魔物を駆除しながら、道を切り開く事すらするだろう。
そうならない理由はもちろん、危険地帯の範囲が広過ぎるからだ。
危険地帯は木々や水に行く手を遮られても真っ直ぐに突っ切れる僕ですら、踏破には月単位の時間が掛かった。
六つ星や七つ星の冒険者でも、危険地帯に滞在し続ければ体力を消耗するし、戦闘で傷も負う。
それが数日ならともかく、一週間以上も続いた場合、確実に体力が尽きて魔物の餌食となる。
多少の力があったところで、まともな休息もなしに戦い続けられる時間なんて、誰だって限られてるから。
大軍を派遣する場合なら尚更で、進みの遅い軍が魔物と戦いながらチマチマと危険地帯を切り開くのに、一体何年の時間が掛かるかわからない。
そしてその間の、軍を維持する為の兵糧や資金は、道を切り開いたり拠点を設営する分も含めると、莫大な物だ。
更に大勢が危険地帯に踏み入る事で環境を刺激し、人間の手には負えない大型の魔物を引き寄せてしまう可能性だってある。
下手な手出しは火傷じゃ済まず、国その物を滅ぼす事態にも繋がるだろう。
要するに危険地帯という環境を力尽くでどうにかするなんて、竜でもなければ不可能って話だ。
故に強引に突っ切るのではなく、その環境に適応し、休息を取り、その環境で食料も得て、危険地帯の中で暮らせる生物となる事こそが、僕の思う踏破に必要な条件だった。
僕が地面に手を突いて、硬い石壁を生やすと同時に、そこに急降下して来た鳥の魔物が突き刺さる。
霧の中で他の魔物を牽制し、僕を狙う権利を勝ち得た個体だったのだろうけれど、石壁を突き破る事はできずに激突して死んだ。
つまり頑丈な石壁で周囲を覆えば、死の谷でもある程度は安全を確保して休息が取れるだろう。
あぁ、石壁で覆われた囲いの中でなら、火を使って魔物を焼いて食う事もできる筈。
煙を出す煙突や空気孔から光は漏れるが、それはもう仕方がない。
仮に石壁を壊せそうな魔物がやって来たら、それこそ地に穴でもあけて、潜ってやり過ごそう。
死の谷を抜けるのに、どれだけの時間が掛かるのか、今の僕にはわからない。
だからこそ焦らずに、今はこの環境で生きる手段を見付けていく。
それもなるべく快適に過ごせるよう、理想を言うなら、この死の谷という危険地帯を好きになれてしまうくらいに、適応するのだ。