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夜のマルマロスの町を、僕は浮遊の魔術を用いて空から見下ろす。
町の各所を、松明を持った衛兵が複数人で纏まって警邏してる。
既に二度起きた、そしてこれからも起きるであろう殺人事件に、警戒を巌にしているのだ。
暗い空からこうして見下ろせば、まるで町が不安に怯えているようだった。
マルマロス伯爵が仮に脅しに屈したとして、すぐに殺人事件が止まるかといえば、恐らくそんな事はない。
ビスチェーア大司教と繋がりの深い商人への大理石の販売量を増やしても尚、少しの間は殺人は続く。
それとない形で脅しておきながら、殺人との無関係を取り繕い、それからマルマロス伯爵の反抗心を圧し折っておく為に。
但しその殺人の対象から、マルマロス伯爵の子息や重要な家臣といった、追い詰めすぎて強い恨みを抱きかねない相手は外される。
実に薄汚い話だ。
衛兵達が幾ら警戒しても、夜の町に落ちる闇は濃い。
暗闘の場所は幾らでもあった。
僕はキュッと弓に矢を番え、続けざまに二度放つ。
闇夜を切り裂き飛んだ矢が貫いたのは、低く宙を舞ってた輪の中央。
尤もそれは輪投げの輪のような玩具じゃなくて、縁に鋭い刃の付いた戦輪、チャクラムとも呼ばれる大陸東部の南方諸国で用いられてる暗器の一種だ。
そう、僕の矢は二本とも、倒れた諜報員、この町を守る影にとどめを刺そうと放たれたチャクラムを、狙い違わず大地に縫い留める。
衛兵の目が届かぬ暗闘であっても、しかしこの町に吹く砂混じりの夜風からは逃れられない。
僕は浮遊の魔術の効果を弱め、倒れた諜報員の傍らに降り立つ。
その間、更なる追撃は来なかった。
いきなり攻撃を阻害されて警戒したのだろう。
町で派手に殺しを晒した殺人者にしては随分と慎重なように思うが、まぁ暗殺者らしくはあるか。
僕が下りた場所は公園で、そして足を傷付けられて倒れてる相手は、……いつぞやこの公園で、飾られている巨狼の像がマルマロス伯爵の、マイオス先生の作品だと教えてくれた老人だった。
「お、お前さんは……」
空から降りて来た僕に驚いたのは暗殺者だけでなく、倒れた老人も同様で、彼は絞り出すような声を上げる。
あぁ、今日襲われてる諜報員が誰かまでは確かめていなかったけれど、少しでも縁のある相手だったのだから、助けられてよかったと、僕は素直にそう思う。
「やぁ、久しぶり。アレから僕も色々あってね。悪いけれど、この相手は譲って欲しいな」
複数回の殺人事件が起きても尚、どうして諜報員が単独で暗殺者の相手をしてるのか。
これにはもちろん理由がある。
諜報員達が複数で集まり、殺されぬように警戒を強くすれば、暗殺者の選ぶ道は二つ。
それでも強引に襲って複数の諜報員を殺すか、或いは別の対象を狙うかだ。
暗殺者が狙う対象は、何も諜報員ばかりではなかった。
警戒を強めた諜報員が手強いとなれば、例えば家臣団に狙いを変える。
集まった事で動きの鈍った諜報員では、その狙いの変更に対処できない。
だから諜報員達は敢えて、自分が狙われ易い状況を変えず、その中でもこの老人は、特にわざと隙を多く見せていたのだろう。
他の若い諜報員が、自分より先に犠牲になる事を防ぐ為に。
だけど、うん、それも終わりだ。
だって今回は、今ここに、僕が来た。
このマルマロスの町での事件は、今日ここで終わらせるし、件の大司教に対しても、僕の学びの日々を終わらせた罪は贖って貰う。
当然ながらビスチェーア大司教は僕なんて眼中にもなかっただろうけれど、悪い事をすればどこからともなく報いは降り注ぐ。
因果は応報すると学べばいい。
なんたって聖職者なんだから、それくらいは知っておくべきである。
僕の言葉に、老人は一瞬迷ったが、今の状況で他に取るべき手もないと考えたのだろう。
一つ頷き、自分の足の応急処置を始めた。
流石は長年この町を守ってきた諜報員だけあって判断が早い。
故に僕は、もうそれ以上は老人を気にせずに、強く前を睨む。
暗闇の向こうの物陰に隠れた暗殺者に、それが無駄だとわからせるように。
やり過ごす事はできないと察したのか、攻撃は唐突に始まった。
物陰から、まるで僕に引き寄せられるかのような動きで、二枚のチャクラムが飛来する。
身を翻してそれを避ければ、しかし通り過ぎたチャクラムはまるで自らの意思を持っているかのように旋回し、僕の後を追う。
恐らく命中するまで、どこまでも。
あぁ、どうやらこれが、この暗殺者の神術の効果らしい。
チャクラムを自在に意のままに操り、自らは隠れ潜んだまま相手を追い込み仕留める神術。
実に暗殺者向きの能力で、となると恐らくその正体は……。
いずれにしても、どこまでも追ってくるチャクラムを相手に逃げるだけでは、やがて追い込まれて殺される。
相手が操れる数だって、二枚だけとは決して限らない。
僕は迫るチャクラムを叩き切って落とす為、腰の魔剣に手を伸ばす。