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ヨソギ流の道場での日々は、穏やかに過ぎる。
僕が道場に戻ってきて一ヵ月程が経つが、新しい顔とも次第に打ち解け始めたように思う。
それは真っ先に手合わせを申し出てくれたシズキや、鍛冶場で何かと僕を立ててくれるソウハ、それから元より顔を知る古参の弟子達の尽力のお陰だった。
当主の一族や古参の弟子が、僕を身内として扱い、親しく振る舞えば、他の弟子達は少し戸惑いながらもそれに倣い始める。
何時もの流れ、とまでは言わないけれど、久しぶりにヨソギ流の道場に戻って来た時には、割とありがちな光景だ。
しかしそうやって落ち着き、打ち解けて来ると、弟子達の中ではなくカエハの曾孫、シズキの孫達の中にだけれど、一人だが問題児がいる事に僕は気付く。
それは当初から僕に敵意を剥き出しだった、ソウハの長子であるカイリ……、ではなくて、当主の一族では最年少である少女、アイハ。
彼女はカイリとは真逆で、出会った翌日から真っ先に旅の話を聞きに来たくらいに、一番に懐いてくれた子なのだけれど……。
些か以上にやんちゃというか、好奇心が旺盛かつ、怖いもの知らずで、非常に危なっかしい子供だった。
例えば、そう、今もこうして物思いに耽りながら歩いていると、
「エイサー!」
声と共に、アイハの身体が僕の頭に降ってくる。
建物の上から、ダイナミックなジャンプで。
もちろん僕は、他人の気配には敏感な方だし、何よりも周囲の精霊が色々と教えてくれるから、彼女の存在には気付いてた。
即座に両手を差し出し、落ちてくるアイハの身体を受け止める。
「こら、危ないから屋根から飛ぶのはやめなさいって、一昨日も言ったでしょ」
僕は受け止められてご満悦の彼女を地に下ろし、そう、小言を口に出す。
さっきのも、僕だから事前に察知して受け止めれたが、相手によっては危険な行為だ。
アイハだけでなく、相手に怪我をさせてしまう可能性だって、皆無じゃない。
「うん、でもエイサーがいる間は、エイサーにしかしないから、大丈夫よ!」
でも彼女は僕の小言なんてどこ吹く風で、ケロッとした顔でそんな事を言う。
何が大丈夫なのかさっぱりわからないが、今のところはあまり改める気がない事はわかった。
全く以て、困った子供に懐かれたものである。
何が困るって、アイハのその態度を、僕があまり強く注意できない辺りだろうか。
そう、懐いてくれる事も、それ自体は嬉しいのだ。
単に彼女の破天荒さが、少しばかり心配なだけで。
……恐らくアイハの危険に対する想像力の欠如は、世界の狭さが故だろう。
道場という小さな世界で最も幼少、かつ当主の一族という特別な立場に育つ彼女は、皆から守られる存在だった。
だから自らが傷付く事に考えが及びにくい。
また道場に生まれた者として、自らの腕に自信があるのも、それに拍車をかけている。
或いは怪我にも慣れているから、恐れが足りなさ過ぎるのだろうか。
周囲は当然、彼女が危険な事をすれば叱るけれど、道場という環境はやはり特殊だ。
大人達は稽古で痣をつくり、時には血を流すし、骨も折る。
彼らの言葉は、危険の違いが判らぬ子供には、届き難いのかもしれない。
思えばアイハの曾祖母であるカエハにも、実は似たようなところがあった。
出会った頃のカエハは大きな苦労の最中にあったが、それでも幼少の頃は箱入りの、まるで姫のように大切に扱われていたから、そこに所以する無鉄砲さというか、感覚のズレを時々見せていたように思う。
例えば、出会ったばかりの僕を簡単に家に住まわせたりとか。
もちろんそれは、カエハの懐の深さでもあったのだろうけれども……。
あぁ、だからか。
だから僕は、アイハの破天荒さを心配しつつも、彼女の度量を狭めたくもなくて、強い注意ができないのだろう。
望ましい解決は、アイハが自身の世界を広げ、世に満ちる危険を知り、身に迫るそれを想像できるようになり、同時に己の実力を高めてそれに対処できるようになる事だ。
できればそうなるように、この道場に滞在する間は、彼女を見守りたいと思ってた。
だってやっぱり、心配だから。
「エイサー! ねぇ、ジゾウの話して」
地に下ろしたアイハが、僕の服の裾を引っ張って強請る。
彼女には旅の話を良くせがまれるが、その中でもお気に入りは、黄古帝国で出会った地人である、ジゾウの話だった。
あぁ、いや、どちらかといえばアイハが興味を持ったのは、ジゾウの生き方や遊侠の存在にだろうか?
恐れを知らぬ無鉄砲さ、まだまだ未熟なれど年の割には立つ剣の腕、それから持って生まれた、或いは周囲から分け与えられた善性が加われば、……あぁ、確かに彼女は、遊侠に向いてるのかもしれない。
ただここは黄古帝国ではなく、ルードリア王国だ。
あの生き方が、そのままこの地で通用したりはしないのだけれど……。
黄古帝国の遊侠に近い生き方は、この地だとやはり冒険者になるのだろうか。
それでも僕は、乞われて話を拒みはしない。
僕の話がアイハの世界を広げる切っ掛けになればいいとも思うし、やはり友の話を語るのは楽しいから。
身振り手振りを交えながら語る僕の話を、彼女は楽しそうに聞いている。
「ねぇ、エイサー。私も義の為に、弱い人を助ける為に、剣を振るってみたいの!」
そんな言葉を、ジゾウの話を聞いたアイハは、口にする。
無邪気で善性な、世の中をまだ知らぬ子供の言葉を。
僕は思わず苦笑を浮かべ、
「それには、やっぱりもっと強くならないとね。今の君だと、悪い奴にも、魔物にも、まだ勝てないよ」
シズキやトウキ、彼女の祖父や父と相談する事を、決めた。
その答えに少し不満気なアイハの手を引いて、僕は剣の稽古に誘う。
彼女に、今の自分がどれ程に足りないかを、教える為に。