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「成る程、今の君達の事情は理解したよ。……でもそれって、僕には何の関係もないよね」
但しそれは、全て妖精側の都合であって、僕の知った事ではない。
僕はこの島の妖精を、積極的に排除しようとは思わないが、だからといって敢えて助けようとする程に、好意を持ってもいなかった。
「そもそも君、僕が隙を見せて寝てたりしたら、仙桃をくすねようと思ってたでしょう?」
真っ暗な深夜に気配を殺して、僕の船室にまで、音を立てずに忍び込んできた以上、あわよくばそうする心算はあった筈だ。
或いは僕の命を奪って荷物の全てを手に入れる事だって、考えていた可能性は低くない。
尤も、だからといってそれを怒る気は、あまりなかった。
だってそんなの、隙を見せた方が悪いのだし。
ただそんな相手を、好んで助ける気になるかといえば、それはもちろん否である。
……とはいえ、僕は話し合いを拒絶もしない。
何故なら、妖精だけの問題で済むなら別に放っておいても構わないのだけれど、恐らくゆっくりと滅び行く妖精は、その足掻きにこの島の人間を巻き込むだろうから。
仮に妖精と一緒にこの島の人間が滅べば、周辺の海域の情報は途絶えてしまって、人が比較的安全に進める海は、少なからず狭くなる。
その結果、大型の魔物の縄張りに迷い込み、沈められてしまう船だって、幾らかは出るだろう。
扶桑の国から黄古帝国まで送ってくれた船や、今乗ってるスインの船の船員達には、僕は割と好感を抱いてる。
そんな彼らの同類が、或いは彼ら自身に、悪い影響が及ぶかもしれない芽は、できればここで摘んでしまいたかった。
しかし当然、僕がそれを妖精達に教える必要はない。
故に仙桃を譲るにしても、その対価は当然ながら要求するし、妖精達が調子に乗らぬように釘も刺す。
妖精相手の交渉は、常にこちらが優位にあるくらいじゃないと、まともに進まないだろうから。
「わ、我々ノ、秘伝の蜜と、交換スる用意がありマす」
僕が軽く睨めば、暗闇で視線は通らずとも雰囲気を察したのか、慌てたように彼女は言う。
だがその言葉の内容に、僕は再び剣を、鞘を彼女に向ける。
「それは僕を、蜜に依存させて操りたいって言ってる風に聞こえるね」
そう、この島の妖精が作る蜜は、確かに貴重品ではあるのだろう。
でも多幸感と依存性のある怪しい蜜なんて、僕には不要だ。
或いはそれを詳しく調べれば、病や怪我の治療に役立つかもしれない。
特に痛み止めとしては、有用な可能性は、多分とても高い筈。
……だとしても、幾らでも悪用されそうな代物だし、僕はそれを活用したいとは思えないから。
有益、有害を天秤にかける訳じゃなくて、個人的にそういった代物が好きではないのだ。
当たり前だが、自分で舐めるなんて以ての外である。
妖精がどういった心算でその提案をしたのかは、分からなかった。
実際、単に彼らにとってはそれが最も貴重品である可能性は、決して低くないだろう。
けれども、いや、寧ろ悪意なく依存性のある蜜を交渉に持ち出してくる方が、余程に危うい。
相手を蜜に依存させて思うが儘に操りたいと思っての事なら、どんな結果が待っていても、妖精の自業自得である。
だけど意図せず、単に貴重品だからと蜜を出し、相手を依存させてしまえば、それは不幸だった。
場合によっては、蜜に依存したからこそ、独占する為にこの島の妖精を全て捕獲して連れ帰ろうと考える事だって、恐らくはあるのだ。
仮に僕が何も知らずに蜜を口にし、万一それに依存してしまったならば、間違いなくそうするだろうし。
「ケっ、決しテそんナ事はッ!!」
強まった圧と再び向けられた剣、……妖精銀の仕込まれた鞘に、彼女は怯みながらも慌てて弁明を口にした。
幾ら妖精に取り込まれていても、人間の少女の姿をした彼女を責める事は、ほんの少し心が痛む。
それにもう十分に妖精は屈服したし、釘も刺せただろうから、ここからは手早く交渉を纏めようか。
元々、僕には妖精から欲しい物なんて、特にはない。
そもそもこの仙桃は、僕が誰かに対価を支払って得た物じゃないのだ。
使い道に関しては一応の予定があるけれど、少しばかり数が減ったところで、特に大きな問題はない。
それでも僕が妖精から仙桃の対価を要求するのは、臆病かつ慎重だが、同時に残酷で悪意が強いという、彼らの性質を警戒しての事である。
生命の実、仙桃を得て繁殖力を回復し、数を増やした妖精が調子に乗れば、悪意はバドモドの人間に向く可能性もあるだろう。
もちろんそれは、バドモドでの人間と妖精の関係を壊してしまう程ではないけれど、陰湿で性質の悪い物になるかもしれない。
僕は妖精をそういう生き物だと思ってて、そして残念な事に妖精に取り込まれた人間の少女と相対してみて、抱いた印象は大きくは間違っていないと感じたから。
故に僕が対価に、妖精の産物ではなく、人間を通してしか得られない物、金や装飾品、酒等を要求する事で、バドモドの住民の価値を高めようと思ったのだ。
今のバドモドは、妖精と人間のバランスが取れているという印象を受けた。
人間は一方的に支配されてるだけじゃなく、妖精から得られる物を享受しながら暮らすしたたかさを持つ。
そうでなければ、臆病な妖精が完全に主導権を握っていれば、外からの船をこの島が受け入れてる筈がない。
しかし妖精が数を増やして力を強めるなら、人間も価値を高めなければ今のバランスは崩れてしまう。
その程度の事で妖精がどこまで自重するかは分からないが、やるだけやって損はない。
要求したのは、金や装飾品、酒類を合わせて、価格にすれば大金貨で五十枚程度。
そう、以前にアイレナから、アプアの実なら少なくともそれくらい、或いはそれ以上の値が付くと聞いた価格だ。
尤も本当は、流通自体がしてない物だから、大金貨で五十枚積んだところで買えないって意味なのだろうけれど、儲ける為の対価ではないのだからその程度で充分だろう。
……そうして彼女に仙桃を一つ手渡した翌朝、バドモドの人間達の手で、僕の船室に要求した品々が運び込まれる。
どうやら妖精達も、交わした契約を破る程には、愚かではなかったらしい。
突然の事に船長であるスインは驚き、僕に事情を問うてきたが、説明は実に面倒臭かった。
何故なら全てを明かすには、妖精の抱えた事情も、僕が荷物袋に詰め込んでる仙桃も、些か話が大き過ぎる。
結局、仔細は伏せて、妖精とエルフの取引だとだけ告げ、迷惑料として酒樽を船に譲る事で納得して貰う。
だって運んで貰ったはいいが、僕の船室に酒樽を並べられたところで、邪魔で仕方がないから。
そもそも全部は入らないし。
そしてその日の昼、全ての準備を終えた船は、バドモドの港を出港する。
余計な寄り道も、これで終わり。
目指すは海沿いの強国、ミンタール。
僕はそこで次の船に乗り換えて、また西を目指すのだ。