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中央部のように北からの冷気を山脈が遮らないからだろうか?
草原の気候は中央部に比べるとかなり寒冷だ。
僕がこの居住地にやって来てから、数日が経った。
バルム族の人達は、馬や羊、牛といった家畜の世話を行う為、朝が早い。
彼らに合わせて天幕の外に出ると、吹く風の冷たさに身体が震える。
しかし季節によっては南の海から暖かい風が吹いて来て、寒暖差はかなり大きいという。
また冷たい風と暖かい風がぶつかり合うと天気が荒れ、強い雨風となり易い。
雨に打たれれば体調を崩してしまう家畜が出る為、バルム族の人々は草原に吹く風を信仰し、それが穏やかである事を望む。
本来ならば、ツェレンが名乗った風読みの巫という役職は、天候の予報と祭事を司る物なのだろう。
代々の風読みの巫が蓄えた天候のデータを基に、風の吹き方、雲の流れを読んで近日の天気を予測する。
だけど今代の風読みの巫、ツェレンは実際に風の精霊の声が聞けてしまった。
過ぎたるは猶及ばざるが如し、なんて言葉があるけれど、彼女は兎も角としても、次代の風読みの巫はとても大変だ。
早朝の家畜の世話を終えて食事を取れば、男達は集まって的に向かって矢を射始める。
どうやら鍛錬の時間らしい。
弓の腕は、上手い者もそうでない者もいるけれど、……全体的なレベルは高めだ。
特に上手い数名は、僅かな精鋭の生き残りだろうか。
色々と面白い発見があったので暫く眺めていると、男達に手招きで呼ばれる。
どうやら僕が弓を持ってるのを見て、射ってみろと言いたいらしい。
折角言葉が通じるんだから口で言えば良いのに。
そういえば中央部でも東部でも、エルフもドワーフも人間も、その他の種族だって喋る言葉は皆が同じだ。
これは言葉を被造物に与えたのが、創造主だったからだとされる。
創造主は神を含む己の被造物に言葉を授け、神もまた己の被造物に言葉を教えた。
故に場所によって存在しない単語はあるものの、基本的には誰もが同じ言葉を交わす。
さて、招かれた僕が弓に矢を番えて構えれば、周囲で一斉に笑いが起きた。
彼らは僕の構えを見て、弓の素人だと思ったらしい。
まぁ、無理もない話である。
何故なら僕と彼らの構えは、何から何まで違うから。
例えば僕は矢を弓の左側に番えるが、彼らは右に番える。
僕は人差し指と中指、薬指を使って弦を引き、矢は人差し指と中指の間に挟む。
しかし彼らは親指に皮の装具や金属のリングを装着し、それを使って弦を引く。
恐らく彼らの弓の構えは騎乗した際に射易いが為にそうしてるのだろう。
また指に何かを装着するのは、張りの強い弦を引く為だ。
僕とは何から何まで違うから、彼らからすると僕の構えは奇異で、弓を知らぬ者に見えたのだ。
うん、笑うのも仕方ない。
そんな事で怒りはしない。
取り敢えず、放つ。
飛んだ矢は真っ直ぐに的の真ん中を貫く。
たったそれだけで、笑い声は止んだ。
一射で、彼らは自身の勘違いに気付いたらしい。
彼らも弓の心得があるからこそ、それをまぐれだとは思わずに、目を見開いて僕を見てる。
次も引く、もう一度真ん中を狙うと先に打った矢を破壊してしまうから、今度は隣の的の真ん中を射抜く。
動きを止めずに矢筒から抜いた矢を、次々に放って彼らの修練場にある全ての的の、真ん中を射抜いた。
僕はこれでも、割と弓は得意なのだ。
「偉大なる戦士だ!」
そう叫んだのが誰だったのかは分からないが、バルム族の男達が一斉に歓声を上げる。
命中率が気に入ったのか、矢を放つ速度が気に入ったのかは知らないけれど、僕の弓の腕は彼らの琴線に触れたらしい。
彼らは口々に褒め称えながら、僕の肩を叩きに来た。
いや、正直、唐突に態度が変わり過ぎでちょっと引く。
あぁ、でも、この草原では弓こそが主要な武器であるならば、……いや多分どこの戦場でも弓は主要な武器だけれど、うぅん、違うか。
えっと、戦士の象徴的な武器であり、好まれる武器ならば、この反応も分かるかもしれない。
だって彼らの反応は、多分僕がカエハの剣を見た時のそれと、非常に似通ってる風に感じたから。
ただ同じ弓ではあるけれど、僕とバルム族の男達が使う物は、射方だけじゃなくて弓自体も随分と違う。
僕の使う弓は霊木の枝から作られた特別製だが、一応は木製だ。
でも彼らの弓は、……木材に別の素材、恐らく馬の骨や皮を張り付けて張力を大きく増してる風に見える。
あの弓は僕には引けそうにないから、純粋な意味で、僕と彼らの弓の腕を比べるのは不可能だし、あまり意味はない。
僕はバルム族の男達を適当に相手しながら、的に刺さった矢を抜きに行く。
後で回収しなきゃいけない事なんて分かってたんだから、わざわざ別々の的に射るんじゃなかった、なんて風に思いながら。
だけどその時だった。
風が、吹く。
この居住地に、敵意を持った存在が近づいて来てると報せる風が。
どうやら風の精霊は、僕だけじゃなくてツェレンにもそれを報せたらしい。
天幕から飛び出してきた彼女が、地に膝を付き、両手を胸の前で組んで、祈るように僕に向かって頭を下げた。
いや、もしかすると、実際に祈ってるのかもしれないけれど。
全く以て本当に、心配のし過ぎである。
戦場についてこようとする男達を諫めて思い留まらせた後、僕はツェレンを安心させる為、笑みを浮かべて一つ頷いてから歩き出す。
心配なんてしなくていいのだ。
何にも問題なんて、ありはしないのだから。