前編・渡る世間は狐ばかり
「あひゃ〜もふもふ。仁ちゃんの毛皮気持ちいい〜」
狐の里より離れた場所に洞窟があった。入り口から入る光が西へと傾いてきていた。俺は書物を読んでいる所だったが、奥から娘のぎんが現れて俺の背後に抱きついた。
ぎんは俺の本当の娘ではない。幼いぎんを残して逝った彼女の親は、俺の親友であった。
俺は、俺よりも遥かに小さなぎんにされるがままだ。はたから見れば……愛らしい光景だろう。だが、自慢の毛皮に頬を擦り付けてくるせいでとても暑苦しい。最近歳のせいか大量に毛が抜け落ちることを気にしてるのだが、果たして十年後にはどうなっているやら……俺は自分の毛皮の未来が心配でしょうがなかった……。
「仁ちゃんとは違う獣の匂いが外からするよ!」
「おいおい。雄の加齢臭よりも目立つ匂いなんて存在するのか?」
ぎんは俺から頭を離し、嗅覚を頼りにしなやかに駆け出した。俺は彼女を追いかけ、ほら穴の外に出る。
そこには、俺の予想をはるかに超える巨体が木々の向こうを横切っていた。それは一匹の猪であった。相手はこちらにはまだ気づいていないらしい。
ほら穴の中から、あの距離で、獲物の匂いを嗅ぎ取ったのか。俺は感心した。
「ほう、ぎんは鼻が良いんだな。俺は気付かなかったよ」
「わあい! ご飯だーーい」
猪を目の前にしたぎんは、子供のように無邪気な笑顔をしながら駆けていった。
ぎんは猪を捕らえようとするために、ーー水着の人間の若い女性が色気のあるポーズを振りまく写真集ーーいわゆるエロ本に化けた姿で猪の前に現れる。
とっさの判断で相手の嗜好に合わせようとしたぎん。
しかし猪はぎんのエロ本に微塵も振り向かず、そのまま走り去っていった。
「ああーーっ!」
「仕方ねえな。俺が手本を見せてやろう」
俺は不敵な笑みを浮かべながら猪の前に立ちはだかり、エロ本に化けた。同じ物に化けたといえ、ぎんよりもさらに過激で露出が多い。俺は思っていたーー喰いつくだろうと。
しかし、またもや猪は一瞥こそしたが……再び走り去ってしまった。
何故だ。俺の読みは完璧だったはずなのに……。
「仁よ。おめえ堅気になってから少し鈍ったんじゃねえか?」
後ろから低い声が聞こえた。俺とぎんは振り返る。
「おやっさん!?」
歳のせいか毛色が薄くなった狐ーー俺はおやっさんと呼んでいるが、人々には稲荷兵衛と呼ばれる男だ。この界隈での自警組織である狐組の頭で、かつての組員である俺の面倒を見てくれた人であった。
おやっさんが、エロ本に化けた仁をひょいと片手で拾い上げ、そのまま乱暴に投げ捨てた。
「ああーーっ! 俺を粗末に扱わないでくださいよーー‼︎」
「やれやれうるさい奴じゃ。わしが手本を見せてやろう」
おやっさんは手を握り目を閉じ、地を足で踏み込んでどっしりと構えた。
その姿には迫力があり、百獣の王の風格すら感じられた。俺とぎんは固唾を飲んで見守った。
猪が向かってくる。近づいてきた猪を十分に引きつけてから、おやっさんはカッと目を見開き、変化したーーどうなったんだ!? 俺は目を凝らして辺りをうかがった。
視界の先ではーー猪が鼻息を荒くしておやっさんが化けたものに喰いついていた。目が血走っている。俺でも奴の心は掴めなかったのに、一体どうやったんだ……疑問を感じながらも、俺は猪の目線の先を更によく見る。
上品そうな中年の女性だった。おやっさんと並べると夫婦だと納得してしまいそうだ。
くっきりと浮かんだほうれい線、白髪混じりの頭ーーその女性は、一糸もまとわぬあられもない姿で、たるんだ体を惜しげもなく晒していた。
……熟女もののエロ本だ。
「うおいっ! そいつの好み、そっち系かよ!」
俺は脱力した。
答えが分かったら簡単、俺にだって仕留められたはずだ。
だが、思えば最近は特殊な性癖のものに化けることはしなくなった。昔の俺なら、試行錯誤を繰り返していただろうな……ふとそう考えた。
「すごいやすごいや! 稲荷のおじちゃんは! それに比べて仁ちゃんは甥成組の幹部だったのに、なんで上手く化けれなかったの?」
ぎんは子犬のようにはしゃいでいた。
その澄んだ真っ直ぐな瞳が、俺には少し眩しかった。
「お前の親父の顔が脳裏にちらついて……なあ……」
年頃の娘の扱いを俺は知らない。ましてや親友の子だ、責任だってある。俺は言葉を濁してごまかす事しかできなかった。
「日が暮れてきたしよ。メシにでもすっか」
熟女ものがよっぽどお気に召したらしい……。大河の激流のように大量の鼻血を垂れ流し、満面の笑みで気絶している猪を担いできたおやっさんが俺達の間に割って入った。おやっさんはぎんの好きそうな狩りや動物の肉の話で、ぎんの興味を引いてくれた。おかげで気まずい空気が続かずに済んだーー俺は安堵のため息をついた。俺とぎん、そしておやっさんは一緒にほら穴に戻り、そのまま食事も一緒に取ることになったのだった。
ーー差し込む日の光で、俺は目を覚ました。どうやら昨日たらふく食った後に、そのまま寝てしまっていたらしい。穏やかな目覚めだったが、俺はそのことが引っかかった。
そうだ、ぎんだ。いつもなら空が白み始める時間に叩き起こされる。俺はぎんが来てからというもの、静かな朝を迎えたことが無い。
ぎんは、俺に断りなく遠出なんかしない。常に行動を共にし、煩わしいと感じるくらいだ。
……嫌な予感がする。近くにぎんはいない。思わず俺は大声で探す。
「ぎん! ぎぃぃーーん! どこだああーーーー⁉︎」
俺は必死だった。ぎんなら呼ばれたらすぐに飛んでくる。そう思いたかったが、俺の声は無情にも辺りに響き渡るだけだった。
「朝からうるさいのう! どうしたんじゃい?」
先ほどまで呑気にいびきをかいて寝ていたおやっさんが起きてしまったようだ。
「ぎんの姿が見当たらないんですよ」
「おい、気持ちは分かるがよ。慌てるな。ほれ、見てみいや」
おやっさんが指をさした先には、俺のものと思われる毛がぽつんぽつんと落ちていた。
「おそらくぎんにお前さんの毛がついていたのが落ちたのだろう。今のところ……これを辿るしか手段はなさそうじゃな。」
不確かな情報だが、おやっさんの言う通りだった。俺は急いでおやっさんについて行く事にした。
ぎんが俺に抱きついた時、ついた毛だろうか……しかし、いつの間に俺の毛はなんでこれほどに抜けやすくなってるのだ? ぎんの行方を追うのに役には立ったが、このような形で自分の老いを感じ始めるのは俺にとっては悲しい事だ。
俺とおやっさんは毛を道標に進んでると、俺たちの住居とは比べものにならないくらい大きな洞窟にたどり着いた。
俺はこの先へ続いていく痕跡を確認すると、顔を上げて洞窟を見渡した。
「この中にぎんが……?」
「ここまで分かりやすいと逆に怪しいのう」
おやっさんは腕を組みながらそうつぶやいた。「ーー怪しいのは確かですが、ぎんが危険な目に遭っているなら俺が助けなければ……!」
わざわざ目立つ痕跡を残して、袋小路に入ること。それは狩る、狩られる立場のどちらから見ても不利益しか得られない。それ故にぎんが自らその状態を望んだとは考えづらい。おやっさんはこう言いたいのだろう、これは罠だ、と。ーーしかし、俺は迷わなかった。
「俺は一人でも行きます」
俺は、目に見えている危険に飛び込むことを諌められる覚悟をしていた。だが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「いつのまにか水臭い男になったもんじゃのう。亡くなったぎんの父「珀」から娘を引き取って、堅気になったとはいえ……お前さんとわしの絆はどこにいったんじゃ? わしが我が子のように面倒を見てきたお前の悩みを一緒に解決してやるのも、それもまた一つの親子関係ではないのか? ほら、行くぞ!」
「はい!」
おやっさんの激励に後押しされ、俺は洞窟の中へ飛び込んだ。




