柔和な青年
アカド下町コウセン寺近く、人の行き交うその中程に小料理屋「しずく屋」はあった。
そのしずく屋の中に並べられた長椅子に座る客に蕎麦を運んでいるのは、ゼラである。
「ゼラ、おいらにも蕎麦!」
「俺ぁ、酒が飲みてえ!」
「へいへい」
ゼラが店の裏に居る店主のゴンジに向かって、客の注文を叫び、出来上がった料理を運んでいく。
客と客の間を通ろうとした折、客の男の腕が伸びて、ゼラの尻を触ろうとした刹那、ゼラの身体は軽やかな跳躍と共にそれをかわしていた。
「いいじぇねえかよ!」
客の叫びに振り返ったゼラは、
「モキ、ぬし酒癖悪いな。マサ、ぬしの分も飲ませてさっさと酔い潰せよ」
とマサという大工体の男に笑いかけた。
「勘弁してくれよ。俺の酒だぞ」
「あ?俺にくれるんじゃねえのか!?」
2人して酒の勢いの喧嘩を始めるのを尻目にゼラは仕事に戻った。客の下に料理を運び、注文を訊く。
しかし、すぐにそれは、しまいには掴み合いの喧嘩に興じるモキとマサの2人を止めに入る為に中断された。いや、これも仕事の1つと言ってしまえばそうなのであった。
2人の腕を捻り上げ、
「暴れるんなら、出て行ってもらうぞ」
と、ゼラがあくまで穏やかな口調で言い、長椅子に無理やり座らせて、
「まだ、何か飲むかい?」
と微笑みかけると、モキとマサは代金を置いて逃げるように店から出て行った。
「あら、もっと飲めば良かったのにねえ」
とゴンジの妻マウが頬に手をやっているところに、代金の銭を手渡して、
「まったくです」
とゼラは応えた。
ゼラが、この店で働き始めてそこそこの月日が経っている。ゴンジと立ち食い寿司屋で意気投合して、雇われ今やこうして店員兼用心棒として働いているのであった。
「あんた、店仕舞いするよ」
マウが厨房のゴンジに声を掛け、閉店となる。
厨房から出てきたゴンジに、
「おやっさん」
とゼラが店の外を見据えながら声を掛けたのは、4月も終わりの頃の涼し気な夕刻であった。
店にどっと入って来たのは、3人組の官憲だった。
「お客さん、もう店仕舞いでして」
とマウが3人の前に出て言うと、
「何を言うか!」
「まだ日があるじゃろうが!」
「蕎麦を3人前!さっさと作れ!」
乱暴な様子で長椅子に腰掛け、ゼラの方を見ると、
「茶を出さんか!」
と喚いた。
どことなく酒の匂いをさせた彼らの来訪に、ゼラはゴンジとマウの双方を見ると、マウがゆっくり首を横に振った。
溜息をついたゼラが茶を3人分運んで持っていく。すると、そのうちの1人がゼラの腕を掴んだ。
「酒はないか?あるのなら酌をしてくれ」
と言う。
「それにしても良いおなごじゃあ」
「こんな店にはもったない」
ゼラが引き離そうとぐいっと手を引っ張ると、向こうはさらに強く握りしめてきた。
「……お客さん、持ってきて欲しいんなら、手を放してくださいやせんかね」
ゼラは抑えた口調で言った。
しかし、男達は、
「おい!そこの婆、お前が持ってこい!」
と言い、尚もゼラから腕を放そうとしなかった。
「お前はここで俺達の相手をしろ」
ついにゼラの手がすっと動いた。
ゼラの手は男の腕を掴み、指が二の腕に食い込む。ぎりぎりと骨が軋む音がし、男が悲鳴に近い苦悶の声を上げた。
たまらず男はゼラから腕を放した。
「何をする!」
残りの2人の男が激高して立ち上がった。
「いえ、そんなに強く締めやしたかねえ?」
ゼラはすっとぼけて、さっきまで万力を込めていた掌をひらひらさせた。
「無礼者!」
「我らを誰だと!」
呻く1人を尻目に、2人が怒気を飛ばしながら喚き散らす。
「お客さん、酒入ってるのに頭に血上らせちゃ駄目だよ」
対してゼラが平然と笑みさえ浮かべているのに、さらに激発し1人が腕を振りかぶろうとした刹那――
3人の男はがくりと地面に突っ伏したのであった。
「あらあら」
ゼラは首を振り、
「おやっさん、この3人はその辺の道に放っぽってきやす」
「ああ」
ゴンジは大きく息をつき応えた。横にいたマウは唖然としていたが、次の瞬間には、呆れ果てた酔っぱらいの男達に対して夫と同じ反応を示すのであった。
ゼラは3人を大通りに横たわらせ、腰に手をやって一仕事終えた気分を満喫した。
3人には、酒に潰れたと見せかけて、強い法力を当て失神させたのである。
「さて、腹減ったな」
とりあえず店主夫婦に挨拶をして帰ろうかというところである。
しかし、ゼラの歩みは数歩で止まった。
眼前に佇む者に対して、彼女らしい不敵な笑みを浮かべて、
「何か用か」
と尋ねた。
その青年は、身なりもヨウロ紳士のいで立ちで、帽子を深々と被りステッキを携えていた。しかし、顔つきは明らかにサパン人であった。
「ゼラさん、お見事でした」
青年の言葉に、ゼラは身構えた。
「身構えないで。僕はただ賞賛しているだけです」
「何が何だか分からねえな」
「先程の法術、お見事でした」
「何の事やら」
青年はクスクスと笑った。
「隠しても無駄です。貴女が法術を使えるというのを僕は知っているのです」
歩を進め青年は近づいて来る。
法力は今のところ感じない。サーマのように無理やり蓋をしている感じではなく、もともと無いように感じる。
ゼラは、しかし眼前の青年に不気味さを覚えた。
夜闇の中顔が見える位置まで青年が近づくと、ゼラは彼の顔をはっきりと見た。
柔和な表情で一見無害に見える。
「ではまた」
青年はにこりと微笑み、軽く会釈をして踵を返した。
「何か用があるんじゃねえのか?」
ゼラは声を掛けたが、腕を上げて応えるだけで振り返ろうともせず青年は歩き去って行く。
ゼラは冷笑気味に笑った。どうせ、用事があれば向こうから再び姿を現すだろう。その時に相手してやるのもやぶさかではない。
このところ何処かに隠れていたゼラ生来の気質の1つが顔を出したようであった。それは闘いを好み楽しむ一面である。血液が沸騰するかのような高揚を味合わせてくれるのは、法力や法術を存分に駆使させてくれる状況であった。ゼラ自身、その気質を救い難いものであると自覚しているのだが、そもそもあんな法力の欠片もない青年に何を感じるところがあるのであろう。しかしあの青年が歩み寄った時、異様な薄気味悪さを感じたのは事実であった。
ヨコハミの街。王都アカドからも大勢の人が行き交い、特に新時代になってからは外国人の居留地となっている。ヨウロ風の屋敷も次々と建てられ、一見ここはヨウロではないかと思わせるが、通りは石畳ではなく土であった。
そのとある屋敷にダウツ・エルマイは馬車を止めた。
使用人がそれを出迎え、屋敷の主のもとへ彼を案内する。
屋敷の主は客間で待っていた。
ダウツの説明を、彼はパイプを吹かし、その紫煙を天井まで送り届けながら耳を傾け、話が一通り済むとゆっくりと口を開いた。
声色に感嘆を滲ませながら。
「ほう、というとその娘はカナリスに留学していたというのだな。しかも赤髪」
「はい」
ダウツは応えた。
主は口角を吊り上げ陰険ささえ滲ませる笑みを浮かべた。
「エルトン・サーマとゼラ。彼女らにはパラスで面白い関わり方をしてね。エルトンはともかく、あの赤髪か」
主は底冷えのする笑い声を上げた。
「只者ではないようでした」
「そうだ。いや、しかし、だからこそいずれ絶望するであろうな」
「その通りです」
ダウツの笑顔も屋敷の主同様、陰惨なものとなって、空気を澱ませるに充分だった。
「法術など、旧時代の遺物でしかありません」
憎悪すら籠った口調で言い捨てたダウツに、主は満足げに頷いた。
「戦争には強い兵器がいる。強い兵器を使えない国は敗れるしかないのだ。貴国と私は良きパートナーでいようではないか」
「ミンブリン伯。我が国は貴方の御助力にいずれ感謝する日が来るでしょう」
ダウツは頭を下げた。
ミンブリンは彼の頭を上げさせておいて、極めて友好的な態度を示したうえで念を押した。
「我がゴーレムの晴れ舞台もいずれあろう。それまでに導入を貴国にはお願いしたい」
「魔動省のエアイ卿にお話ししておきましょう。恐らく卿も同じ考えでしょう」
ダウツの返答は、自信と確信に満ちていた。