乾杯
長屋の若者が走るのに後ろからついて行って、辿り着くとそこには人だかりが出来ていた。
若者が舌打ちをして人の波を押しのけていく。ゼラも後に続くと、人の壁の向こうには果てさて、数人の男達が怒鳴り絶叫しながら掴み合い殴り合いを演じていたのだった。
火事と喧嘩はアカドの華、とはよく言ったものだ、と、ゼラが鼻を鳴らして顎に手を置き眺めていると、
「やめろ!」
とどこからか声がした。
すると男達は
「邪魔しねえでくれトマイ!」
「首突っ込むんじゃねえ!」
と人込みをかき分け現れた青年に言った。
「こんなところで、喧嘩して、官憲にしょっぴかれてもいいのか?」
「うるせえ!」
男の1人が殴りかかろうとしたのを、軽やかに交わし、足を引っかけ倒す青年。
別の1人が掴みかかり、もつれ合う2人。
「やれー!」
「ええぞ兄ちゃん!」
野次馬がここぞとばかりにはやし立て、ゼラを連れてきた若者ですら、興奮して絶叫する有様であった。
彼らにとって、喧嘩は貴重な娯楽の1つだ。ほんの数年前のトトワ王朝時代、娯楽の制限されていた民衆にとってのそれは、新時代となった今も変わっていない。
止めに入った青年が1人を投げ飛ばしたのを、背後から別の者が殴りかかったその時――
ゼラの掌底が腕を振りかぶった男の顎に直撃していた。男は空中で回転し、地面に倒れ込んでいた。
群集がわあっと声を上げ、喧嘩していた男達の動きが止まり、その視線は茫然とゼラに集まっていた。
無論、その青年も、ゼラを驚きの表情で見やっていた。
ゼラは口角を上げ、にやりとした。
「久しぶりだな」
ゼラは、トネ村で別れて以来久々の旧友との再会を、倒された仲間の仇討ちで向かって来た男を捻り上げながら果たした。
「……ゼラ、助かった!」
トマイの返事はそれであった。
男達が不満げに立ち去った後、ゼラはトマイから招待を受けた。
トマイの家は長屋の一室で、シルカもいた。
「ゼラ!」
シルカは喜色溢れる笑顔を浮かべ、ゼラに歩み寄った。
「2人ともアカドにいたとはな」
ゼラは囲炉裏を挟んでトマイとシルカの2人を向かい合って微笑んだ。
「まあな」
「アカドで心機一転しようとトマイが」
「トマイ、シルカをあまり振り回すんじゃねえぞ」
「なんだと」
3人して笑い合った。久々の友情の語り合いだった。政府軍から追われた事も、雪山に隠れ籠った事も、今では良き思い出であるかのように、彼らの胸中には思い出されるのであった。
「ゼラも元気でよかっただ」
「おらは何時でも元気だ」
「ゼラの場合は、強がりじゃないのが可愛げがねえんだよな」
ゼラはニカっと口角を上げ、
「憎まれ口も変わらねえな。ところであいつらは大丈夫なのか?仕返しに来やしねえか?」
トマイを見て言った。
彼は腕組みした。
「ゼラ、お前はアカドで暮らした時間が俺達より長い癖に、アカドの華を知らねえとは。あれはただの喧嘩だよ」
「心配してぐれて嬉しいゼラ。でもあれは大丈夫」
「……なら、いいんだ」
長屋暮らしの経験は2人の方が長い。2人が大丈夫というなら、信じてみる事にしよう。
「これからよろしくな。まあ隣の長屋だが」
こうして、ゼラの下町暮らしの初日は始まったのであった。
お節介でにぎやかな人々に囲まれて過ごし、仕事に行って帰っては長屋に顔を出し、小屋に戻って眠りこける。休日や暇な時は通りに出て、出店や露店を見て回る生活であった。
サーマがやって来たのは数日後、長屋の主のモメがゼラのところへ顔を出し、
「なんだか、身なりの良い娘っこが、ゼラという人はどこだって。案内していいかい?」
やや警戒の色を見せながら言うモメに対してゼラは、
「いえ、おらの友人だと思います」
と応えた。
「えらい別嬪さんで、育ちも良さそうだったねえ。娘っ子というよりご令嬢かね?あれは。ゼラとはえらい違い。今頃皆に構われてる頃だよ」
「おらと同じくらい別嬪でしょう?」
ゼラは笑いながら応えて、長屋に駆けつけた。
そこには、長屋の若い衆や婦人や子供に囲まれているサーマがいた。
「ゼラ!」
助けを求める様子で苦笑いを浮かべながらゼラに手を上げるサーマであった。
「いやあ、あれがアカドっ子か」
助け出されたサーマはゼラの家の床に荷物を置くとふうと息をついて、苦笑を浮かべた。
「引っ越し祝いじゃ」
とゼラの前に差し出す。風呂敷に包まれているものが数点。
「有難く頂戴するよ」
ゼラは一瞥した。
「新しい生活はどげんか?」
サーマは柔和な表情で言った。
「悪くねえよ。金も興行で稼いだ分がたんまり残ってるし、困る事はねえだろ」
それからしばし、2人は近況を語り合った。とはいってもここ数日の事ではあるが、
「……わたしはあまり変化はなかよ。いつも通り掃除ばっかりしとる。ああ、じゃっどん、今度お雇い異人の魔動師と会う機会を得た。まあ、通訳だけれども」
サーマは顔を綻ばせて本当に嬉しそうに語るのであった。
「そうか」
ゼラも思わず嬉しくなり、口角が吊り上がるのを感じる。
「よし、開けよう。食いもんか?酒か?」
「もう開けるとか?」
サーマが驚きの声を上げるのに、
「1人で食うより、2人で食った方が楽しい」
ゼラはニカっと笑って応えた。
「そいなら、もっとよかもんを持ってくるべきだったな」
サーマがふふと笑いながらおどけ、2人は前途に言いようも知れない希望を抱き感じながら、友情と未来へ向かって乾杯するのであった。