引っ越し
「ほら、今日の分」
「どうも」
ゼラは手のひらに置かれた銭を腰に縛り付けた銭袋の中に入れ、揚々と荷上場を後にした。
今日は荷上場の日である。次の日はどこぞの工事現場に居る事だろう。
その足で、ある場所へ向かう。
やや寂れた区画で、12月の肌寒い風がまともに当たる。
広くなった場所の一部に、掘立小屋があった。一見見すぼらしいが、土壁の状態も良く、雨風は凌げそうだ。
「やっぱここにすっかなあ……」
近くの長屋に行くと、老婆が現れた。
名をモメといった。
夫には先立たれ、子は皆自立して家を去って行った。こうして1人大家暮らしを送っているという。
話によれば、夫はかつてトトワ王家に仕え王城に出仕していたというが……。
「決めたかい」
とニコニコしながら言った。
「ええ、決めやした。でも、本当に良いんですかい?」
「構やしないよ。誰も使ってないし。むしろ誰かに住んで貰った方が、あの小屋も喜ぶってもんさ」
すると、数人の女性と、大工のいで立ちの男が現れ、
「お、今度の子は別嬪さんじゃないの」
「よろしくねえ」
「でも、髪が赤えって珍しいなあ」
とゼラを取り囲んだ。
「よろしくお願えしやす」
ゼラも丁寧に頭を下げると、婦人たちが、ゼラをじっと見つめ、
「釣り合う男はいないねえ」
「残念ながらねえ。元岡っ引きのモキチは出て行っちまったし…」
「おいらはどうなんだよ」
と大工のいで立ちの男が口を尖らせると、女性達の総口撃が彼に食らわされるのであった。
ああ、これが下町の風情なのであろう。ゼラは感じ入った。
「……そげんか…」
サーマに、屋敷を出て居を移すと知らせると、寂しそうな光を瞳に湛えつつ、ぽつりとそう呟いた。
ゼラはサーマの前にあぐらをかき、
「だいぶ、世話になっちまったな」
と頭を下げた。
「いや、気にせんでよか。友なら当然じゃあ」
「…長屋の皆も良い人そうだし、金もそこそこ持ってる。暮らしには困らないだろうよ。心配すんな」
ニカっとゼラが笑うと、サーマも微笑みを浮かべた。
「そげんか……」
洋書を取り出し、机の上に並べ始めながら呟く。
「……魔動省はどんなだ?上手くやってるか?」
ゼラがその様子を眺めながら尋ねた。洋書の表題も読めないが、省内での仕事に関するものだとは察しがついた。
サーマは手を止め、数秒黙っていたが、溜息をついて、
「……歓迎はされんと思うとったが」
と応えた。沈鬱な声色だった。
しかし、微笑みを浮かべゼラに振り返って、
「まあ、そいでも頑張るしかなか。省内もいろいろあっとじゃ。入り方が入り方だし、無理もなか。
……ただ、実績を急ぐのもよくないと思って、今は大人しくしとる。焦れば過ちにつながるだろうし」
微笑みがやや不敵さを滲ませた。
ゼラもニヤっと笑って、
「そうか、いつでも遊びに来いよ。良いもんは出せねえだろうが、愚痴なら聞いてやる」
と応えた。
やっと、サーマが弱音を吐いてくれた事が、ゼラには少し嬉しかったのであった。強がるなら強がるで、それもまた構わなかったが。
自分がここを出るというので、サーマも吐露したくなったのであろう。
「ああ、そん時は土産ば持っていく」
サーマが表情を明るくして言う。
「おう、なら、愚痴言いたくない時も来ていいぞ」
「なら、とは何じゃあ」
ゼラはニヤ付きながら、サーマは苦笑いを浮かべながら、であった。
翌日、ゼラが屋敷を出る朝。
「見送りはいらねえよ。無用無用」
朝食中にゼラは言った。
「ないごて?」
サーマは身を乗り出した。
「馬車を用意させるのに」
「それだ。馬車は駄目だ。アカドの長屋暮らしだ。政府の者だと知れたら、どんな歓迎受けるか分かったもんじゃねえ。用心するに越した事は無い」
サーマは渋々頷いた。
王都アカドは元々トトワ王朝の首都であった。そこに新政府と新しい王が乗り込んで新たな政を始めた。下町の人間なら内心複雑であってもおかしくはない。
「じゃあな」
「また」
2人の別れは往来で軽く交わされた程度だった。
ゼラが少ない荷物を背負い、長屋に着いたのは日が昇りきる前である。
「今日からだね」
長屋の主のモメがにこやかに出迎えてくれた。
「はい、よろしくお願えしやす」
「家賃は、月1で頼むよ」
「はい」
簡単な挨拶を済ませ、新居である小屋に向かおうとした、その時である。
「てえへんだ!」
と慌てふためくように若者が駆け寄って来た。彼も身なりはそこまで良くない。下町長屋の貧乏暮らしといった体である。
「道向かいの長屋の連中が喧嘩始めてやがるぜ!」
慌てつつも、どこか面白がっている様子の男の後に続いて、ゼラも飛び出していた。