懐かしき家
「なかなか立派な屋敷じゃねえか」
ゼラがサーマの屋敷を見回してそう言った。
迎えにはバレラが現れ、2人をしげしげと見やった。
バレラはサーマつきの家政婦である。
「ああ、バレラさん。わたしの友人のゼラです。しばらく泊めてやりたいのですが…」
サーマが手の平でゼラを示すと、ゼラが前に出て、
「御厄介になりやす」
と頭を下げた。
バレラは淡々と2人を眺めやり、頷いた。
「部屋はどうされますか」
「空き部屋のどれかを」
サーマは応えた。彼女とバレラ2人には、この屋敷は広すぎたので、空き部屋はいくつもあったのである。
ゼラが通された部屋は、殺風景な部屋だったが、広さは申し分無かった。
「悪いな。すぐに出て行くから」
ゼラがニカっとサーマに笑いかけると、
「好きなだけおってよかど」
とサーマも微笑んだ。
「そいつは悪いから…」
ゼラは手のひらをヒラヒラさせた。
翌日、ゼラは静かに起き上がって、周囲を見回し、襖を音を立てずに開けた。縁側を足音一つ立てずに進み、門を飛び出した。
路地を抜け、大通りへ出ると、人も未だまばらだ。
いくつかの橋を渡り終えると、見知った道に出た。
この道を進めば、かつての法術奉行シンエイの屋敷があるはずだった。
ゼラは歩を進めた。
懐かしい道だった。
確かシンエイ先生に初めて会ったのはこの道だった。
腹を空かせたゼラがシンエイ先生の腰にぶら下がった握り飯を掏って、路地裏で頬張っていると、先生が路地裏の出口で呆れたような笑い顔で立ち塞がっていた。
話によると、法術による結界を張っていたにも関わらずゼラが盗み果せた事に驚いていたようであったが…。
ゼラは確かに不思議な抵抗の力を感じて、指先に神経を集中させたようなところはあったが、法術だなんだのと言われてもピンと来るものでは無かった。
それから、先生に拾われて先生の家で厄介になった。
風呂に入らされ、服は洗濯され、いつの間にか小綺麗になったゼラは、彼の教え子達と机を並べて勉強した。
そこで兄弟子であるリュカとも出会った訳ではあるが…。やはり他の教え子や弟子達からしてゼラは目障りな存在であったらしく、多少の嫌がらせは受けた。
その度にやり返し、喧嘩両成敗を何度食らった事か。
懐かしい思い出に頬が緩むゼラであった。
文字の読み書きも、世間一般の事も、あらゆる事を教わった。
(おらは、先生から見て、良い生徒だったろうか)
ゼラの足はとある門の前で止まった。
かつて、寝食を過ごした懐かしの場所が、ゼラの眼前に現れたのである。
門はゼラが居た頃と変わらぬ、慎ましい姿を湛えていた。だが、ところどころ、門や白壁に傷みが目立つのが気になった。
しかし、門の先に広がる庭は、草木の手入れが行き届き、ゼラの見たかつての庭と変わりは無かったのである。
今にも、ふっとシンエイ先生が縁側に姿を現すのではないかと感じる程であった。
ゼラはしばらく立ち尽くした。
足が進まなかったからである。
地に足が引っ付いてしまったように、ビクともしない。
思わず苦笑してしまい、総身に喝を込め再び足を上げようとしたところであった。
「ゼラ……?」
ゼラにとって、聞き覚えのある声がしたのである。
振り向いたゼラは、
「奥様!」
と喜色の声を上げると、眼前には淑女然として、穏やかで気品ある様子の女性が立っていた。
以前と変わらぬ優しげな双眸が、ゼラをじっと見つめていた。
ゼラは頭を下げた。
「ご無沙汰しておりやす!」
しかし、次の瞬間には拳をぐっと握りしめ、顔を強張らせていたのである。
「元気そうで何よりです」
先生の妻であったヨニイは柔和に微笑んだ。
「リュカも行方を知らぬと言うし、誰も会っていないというので、やきもきしておりましたよ。さあ、どうぞ上がって」
ゼラはさっそく、シンエイの牌の前で、深々と頭を畳に擦り付けたのだった。じいっとそうしたまま動かないゼラに、ヨニイがようやく声をかけた。
「ゼラ、あの人もそこまでされると恥ずかしがりますよ」
「で、でも…!」
ゼラは思わず声を荒げてヨニイを見上げた。
ヨニイは微笑んだ。しかし哀し気な微笑みだった。
「ゼラ、いいのです」
ヨニイは、ゼラに茶を出した。
「すっかり寂しくなってしまって。リュカが居てくれるから良いものの」
「リュカさんもこちらに!?」
ゼラは思わず身を乗り出した。
ヨニイは頷いた。
ゼラがごくりと息を飲んだ。
「なら、先生の最期の事、ご存じなんでございやしょう?」
ゼラは服の裾をぎゅっと握りしめていた。
それに視線を移したヨニイがまた頷いた。
「ええ、聞いております」
しばし、沈黙が流れた。
シンエイ先生が新政府軍により捕えられ、咎無く刑死されかかった時、ゼラはあと一歩間に合わずシンエイは自害して果てた。
あと少し、あともう少し早く駆けつけていれば……。何度悔やんだか分からない。
「ゼラ、あなたは悪くないのですよ」
沈黙を破った声は、あまりにも優しく温かいものだった。春の陽光にすら喩えようのないものであり、ゼラの臓腑に染み渡るそれに、ゼラは思わず拒否感を覚える程だった。
愛情というものをどこか拒絶している自分が、奥底に眠っているのをゼラは感じていた。
それは、孤児育ちというのが影響しているのだろうか?
ヨニイはゼラをゆっくりと抱きしめた。
「あの人が死を選んだだけです。あなたは悪くありませんよ。生前、あの人もわたしも、あなたを実の娘の様に思っていたのです。それだけは本当なのですよ。シンエイはあなたを、良い弟子であり娘だと、わたしに申した事があったのです」
「それは本当ですか?先生はおらにはそんな様子は…!」
ゼラの声は震えていた。
「あの人は照れ屋だから、あなたの前では厳格を演じていたかもしれません。でも、シンエイは語っておりました。
『ゼラはやんちゃだが、根は素直で良い子だし、物覚えも良い、だから、此度の留学でもゼラを行かせる事にした。私の自慢だ』と」
ヨニイは頭を撫でてきた。
ゼラは気づいた。ヨニイは涙を流していた。
「わたしにとっても、自慢だったのですよ。何も恥じる必要はないのです…。ゼラ、あなたはわたし達2人にとって、自慢の娘だったのですよ」
ヨニイの涙ながらの温かな言葉と、言外に示された愛情に、ゼラはこらえきれなかった……。
肩を震わせ、溢れ出る感情を押し隠す努力を放棄した。
父や母の温もりも知らぬ身で、これまで生きてきたつもりだった。シンエイ先生とその妻ヨニイは、血のつながりが無いにも関わらず、ゼラを娘だと思ってくれていた。これ程嬉しいものはなかった。
そして、自身もまた、シンエイ先生とその妻ヨリイを、両親の如く思っていたのだという事実に、ゼラは驚いてもいた。
ヨニイが、ゼラの泣き声に感応してさらに声を大きくして泣いた。
「ゼラはわたしの娘であり、ネイの妹なのですよ!」
実の娘の名を出して、さらに泣きじゃくるヨニイ。
「あなたが無事で良かった!シンエイだけでなくあなたまで居なくなっていたら!」
こうした場合、相手が激しく泣きじゃくったり平静を失ったりすると、もう片方は逆に冷静になるものである。
ゼラも例外では無かった。
感謝と感激に心を震わせていると同時に、ヨニイの様子に戸惑いもしていたのである。
(先生が亡くなって、心の拠り所が1つ減ったんだ。しょうがねえよな)
ゼラはヨニイの背中を撫でてやった。
そうこうしていると、玄関の方から
「ただいま帰りました」
との声がした。
またもや聞き覚えのある声に、ゼラはヨニイの背をトントンと叩いてやって、
「ちょっと、出迎えに行かねえと」
と起き上がった。
「な、何してんだお前…」
襖の開け放たれた隣の部屋から、唖然とした様子で眺めていたのが、リュカであった。
タカマ・リュカ、ゼラの兄弟子にして、カナリスに共に留学した仲間である。
隣に、ネイがおり、これまた口元に手をやって驚いていたのであった。
「どうしてここに」
「先生の墓参りに…」
動揺を押し隠せない様子のゼラが応えたところで、
「あ……」
とゼラの顔を見て小さく驚きの声を上げたリュカが、感慨深げに微笑んで、
「無事で何よりだ。まあ、無事だろうとは思っていたが」
「……。もうちっと心配してくれてもよかったんじゃねえですか?」
口を尖らせるゼラに、リュカが隣のネイと見つめ合い笑い合う。
「まさか、リュカさんが先生のところでお世話になってるとは思いませんでした」
「リュカが居てくれて本当に助かりました」
ヨニイが笑いながら言った。
「さてさて、ゼラ、しばらくここでゆっくりしていきますか?」
「いえ、長居する訳にも参りません。もう1つ用を果たしたら帰らせていただきやす」
ゼラは微笑んだ。
「…先生のところか…」
「ええ」
ゼラは頷いた。
「案内しよう」
と言ったリュカが、ヨニイとネイの顔色を窺うように見回すと、ヨニイは、
「弟子2人で訪れれば、あの人も喜ぶでしょう」
とゼラとリュカの2人を門まで見送ってくれたのだった。