酔い覚ましと誘い
ゼラがあくびをしつつ障子を開け、朝の陽光を招き入れると、サーマが床から起き上がった。
「おう、起きたか」
「……ゼラ、おはよう…」
サーマはゆっくりと息を吐きながら頭を押さえていた。
「ああ」
ニヤリとしたゼラは床柱に寄り掛かって、
「ぬし、まだ寝てた方が良いんじゃないか?」
「…いや、寝れん…気分が悪い…」
とよろよろと起き上がって、
「水飲んでくる」
と階下に降りようとするサーマに、
「おい、歩けるか」
とゼラが慌てて駆け寄るのに、
「大丈夫。心配せんでよか」
とふらつく足で歩を進めようとするサーマであった。それを制しつつ座らせて、水を入れた碗を飲ませてやったゼラに襖の向こうから声が掛かった。
「開けるぞ!」
隣で寝ていたマリナリの声だった。朝から高圧的な奴だ。と呆れつつも、
「構わねえ」
とゼラは応えてやった。
襖をばんと開き入って来たマリナリは、サーマの様子を見て、
「酒に弱かとは。おはんもカツマおなごの端くれじゃろうが」
と吐き捨てるように言った。
「こいでは、要人と会食も出来んぞ」
「……面目ない……」
白い顔でぽつりと応え、ごくり、ごくりと何度も飲み込む仕草をするサーマ。
「ま、ぬしにはぬしのやり方がある」
と笑って背中をぽんぽん叩いてやって、
「…厠行って吐いてこいよ」
と言いつつすくっと立ち上がったゼラは、
「さて、昨夜は来なかったが…」
と声色を低いものに変えて言った。
「まさか……」
サーマは顔を上げて、青白い顔に苦笑を浮かべて、
「嗅ぎつけるとしても、もっと掛かるはず」
マリナリは一瞬2人の意思疎通に遅れをとったが、すぐに顔を青ざめさせて、
「そ、そうじゃ、でなければ、あんなにこそこそして来た意味がなか!」
そうして声が裏返えさせた。馬車を途中で降り、小舟で川を進み、港で大船に乗り換え、さらにこうして政府の宿舎でなく、旅籠に泊まっているのである。そう簡単に辿り着かれては苦労が台無しなのである。
「だといいがな」
ゼラの表情は注意深いものになっていた。
「おらも同じ力を持つから分かるが、法術封じをされても、感知は以前のように出来る。恐らく今戦ってもおらとサーマの2人に敵わないからだろうが、せっかく酒が入った状態の2人に挑んで来なかった」
「酒が入った法術師は危ないというからな」
サーマが口角を上げながら冗談じみて言うと、ゼラもニヤリとした。
「そして、おらも奴の法力を感知出来る。近くに来れば分かる」
しかしサーマは暗い表情を浮かべて、
「そうなると、奴が取る手段はこちらを呼び寄せるものとなる」
場の空気が一気に重苦しいものと変わった。
「追い掛けても、間違いなく逃げられるとあれば、相手が逃げないようにするしかなか」
「それが厄介だ」
と頷いてみせたゼラだが、すぐに不敵な笑みを浮かべて、
「だが、法術封じをされた相手を感知出来るか、と言われたら困る。今のところ、奴の気配はしないがな。もしかすると、近くに居るかもしれねえ」
「おい、ゼラ、やめんか」
マリナリが苛立ちを抑えきれない風に言う。だがそれは、恐怖を押し隠そうとして現れた強がりとゼラは見たようで、
「分かりやしたよ官吏さん」
とおどけてみせた。
しばらく風に当たって酔いを醒まそうと思ったサーマであったが、残暑厳しい9月の真昼間は太陽が照り付けるので、縁側の日陰で息をついた。
頭を抱え、困り果てた様に顔をしかめるサーマであった。
ずきんずきんと脈打つ頭痛に、どうしてゼラとマリナリの2人は平気そうなのかという疑問が浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返していた。簡単な話、自分が酒に弱いのである。
溜息をつく。
途中から記憶がない。どうやって寝たのかも分からない。気づくと寝床にいた。
すると、ゼラが黙って横に座ってきて、しばらく庭の様子をぼうっと2人して眺めた。
「…おらは、こういうゆったりとした時間が好きだ。だが、どうしてか戦いになると血が騒ぐ。居ても立っても居られない。困った性分だ…」
自嘲するかの様なゼラの言葉に、サーマは首を振った。
「興行をやるのも、法術を使うも、おはんの勝手。わたしがとやかく言うものでもないし、今のところ法に反したと指摘された訳でもなかろう?それにわたしは役人でも官憲でもなか」
と微笑んだサーマは、額をなぞり乍ら、
「わたしも、法術封じを刻んだ」
ぽかんと口を開け、唖然とした表情でゼラがサーマを見つめた。
「旧トトワ陣営の者達ばかりさせられるのは不公平だと思った。交付された中身を読んだがそんな制限はなかったはず」
淋し気に笑うサーマ。
「だが、追随者はほんの僅かだった。要は法術禁止令など政府に都合の良い運用しか
されとらん。だから…」
大きく溜息をつく。
「だから…、賊達の不満も分からんでもない」
神妙な表情で聞き入っていたゼラが、
「おはん、やはり変わったな」
と笑った。
「な、何ば言いよるか」
「昔はもっと、純粋で夢見がちだった」
「今も夢見勝ちじゃ」
とサーマも微笑む。
「ところで」
はっとしたようにサーマが言った。
居住まいを正して、しかとゼラと向き合って、真剣な面持ちで口を開いた。
「わたしを頼る気はなかか?ゼラ」
「は?」
首を傾げるゼラ。眉を顰めている。
「王都アカドに一緒に行かんか?」
「なじょして?」
サーマはゼラの手を握り、
「今はまだ、賊の事もあって難しいかも分からんが、ひと段落ついたら、もしおはんがいいと言うなら、わたしを頼ってくれんか?」
「…ぬしの力を借りるまでもねえよ。おらは充分生きていける」
「そうかもしれん。じゃが、マリナリだって今は良いかもしれんが、事情が変わればおはんを切り捨てるかもしれん。彼の話を訊いたが、マリナリだってとある有力者の後ろ盾有って初めて興行を行えているらしい。でもそれもいつまで続くか……」
「別に構わねえよ。稼いだ分抱えてとんずらするだけだ」
ゼラは少々煩わし気に応えた。
「それに、ぬしは奴の事あまり信用してないんだな」
とぞっとするような笑みを浮かべた。
サーマは苦笑した。
「信用はしとる。じゃっどんマリナリにも立場がある。おはんもそこそこ付き合って分かるじゃろうが、彼は他人の為に我が身を犠牲にする性質じゃなか。そいは貶して居る訳じゃなく、人にはそれぞれ優先すべきものがあるだけ」
「ま、そうだな」
ゼラの今度の笑みは快活なものだった。サーマの笑みも苦みの取れ去ったものとなり、互いに笑い合っていると、サーマが再び真剣な表情となった。
「おはんが嫌なら、無理強いはせん。気持ちが変わったら、わたしと王都アカドへ来てくれんか?」
ゼラはしばし沈黙していたが、息をついて応えた。
「政府軍と度々戦い、魔動の新兵器も破壊し、法術封じも破り、要人とも直接戦った」
サーマの腕をぽんぽんと叩く。
「その政府が治める新時代、おらには日陰者が御似合いだ」
ニカっと笑うゼラと違い、サーマの表情は険しいものとなった。
「…確かに、旧トトワ陣営の者達は、謹慎処分となったり、隠居引退させられたり、獄に繋がれた者も多い。しかし、ようやくそれらも解け始め、中には公職に復帰する者までおる。サパン国全体を纏め上げ治めるには、彼ら旧王臣達の経験や能力が必要だから。トトワだからとか、敵対したからといって、日陰者ではなか。おはんもそう」
サーマは首を振った。
ゼラはじっとサーマを見つめ、目を細めた。
「おらに政府の為に働けというのか?」
「そういう訳ではなか」
サーマは用心深く周囲を見回して、声を一段と低くした。
「万が一何か起きれば、おはんに責が負わされんとも限らん。おはんは元々政府の敵でトトワ側の法術師で、誰かを悪者にしようとすればうってつけの存在じゃ」
「別に構わねえが」
ゼラは事も無げに言った。
「また、ちょっと暴れてから逃げりゃいい」
サーマは顔を紅潮させ、眉を吊り上げた。
「おはんは、そうやって、皆の前から姿を消す」
震え声を落ち着かせようとしたのか、深呼吸をして続けるサーマ。
「一度や二度ではなかじゃろう。そうやって何でもない様に皆の前から消えて、音沙汰無し。何かある度に無頼の身になって、今はむしろ気楽かもしれん。後腐れが無いように思えるから。そいどんいつまでもこげん事続けられる訳もなか。年も取るし、どこぞで恨みを買ったままかもしれん。逆にどんどんしがらみは増え、おはんはこういう生活から抜けられんようになるのじゃ。ヤクザ者とも何度も関わったろ。あまり続けるとヤクザの世界にどっぷり浸かってしまう。政府に喧嘩を売り続ければ、いずれ政府もおはんを目の敵にする。そいでも良かというなら、わたしはこれ以上おはんに無理に頼めん!」
ゼラは呆気に取られた風であったが、突然笑い出した。
「じゃあ今やってる興行を辞めればいいのか?ぬしはマリナリの事やはり信用してねえじゃねえか。嫌いなんだな奴の事が」
サーマは頬を膨らませた。
「真面目な話ばしとる!」
「いずれ、アカドへは行くつもりだ」
ゼラは息を吐き出すように言った。
「シンエイ先生の墓参りをしてねえからな」
ゼラの言外にある痛ましい様子に、サーマは落ち着きを取り戻し神妙な表情となった。
「でも、行くのが怖えんだ。先生の奥さんに顔向け出来ねえ。おらが間に合っていれば先生は……。今までずっと考えない様にしてた。王都に足を踏み入れたくなかった。ずっと逃げてた…」
頭を抱えて、掻き毟ろうとしかけたゼラをサーマは両手を広げて包み込むように抱きしめていた。
「……なじょしてぬしが泣く」
「友だから……」
「相変わらずの泣き上戸だな」
「……酔いはもう醒めた。実は、ゼラ、わたしも少し気持ちが分かる。留学からカツマに帰るのが怖かった。許嫁の死を、タロの死を、伝える役目があったから。……わたしのせいと言われた」
サーマの腕に力が入るのを、ゼラは抵抗もせずに受け入れた。
「おはんには辛い事を言った。おはんの気持ちを考えずに…。無理はせんでよか。わたしの頼みを絶対にきいてくれとは言わん…」
「サーマ……ぬし……」
かつて留学先で時折聞かされた許嫁の死をゼラは今初めて知ったのである。実のところもう祝言も済ませているのではと勘ぐっていたがそういう素振りも話もしないので、違和感はあったのだ。
「いや、分かった。マリナリに話してみよう」
サーマの背中を擦って、軽くぽんぽんと叩くゼラであった。
「むしろ、こうして逃げてる方が、先生にも奥さんにも申し訳が立たねえ」
「ゼラ…」
「奴がどう出るか。固辞するようならいずれにしろ、後々面倒な事になると分かる。すんなり許可してくれるんなら、より面倒な相手かもしれねえ。なに、墓参りをしたいだけと言えば、拒否する理由は無いからな」
「……おはんがいないと興行が成り立たないから駄目だ、と言われたら?」
顔をしかめて唸り、
「それもあるな……」
と腕組むゼラ。
2人して考え込み、ゼラは腕組みしたまま天井を見上げ、サーマは顎に手をやって、数秒間それらを続けた。
「いざとなったら腕づくでも許可させるしかないな」
「そいはよせ」
「…傍に居て賊からおいを守れ、と奴は言うだろうな」
「そいは有り得る。賊がマリナリを襲う可能性は充分にある」
「それも無視するか」
「そいはさすがに可哀想じゃ」
「そうか?」
と首を傾げるゼラに、
「…マリナリを嫌いなのはおはんじゃなかか?」
と苦笑を浮かべるサーマであった。