旅籠の夕餉にて
ゼラ、サーマ、マリナリの3人が無事旅籠に着いたのは、その夜の事だった。1つ前の街で馬車を降り、そこからは駕籠に乗り換えて進んだ。
2階全てを貸し切った3人は、お膳を向かい合わせて夕餉をとった。
「政府宿舎はちとまずいからのう」
マリナリは言った。
「おはんらを連れ込むのはよろしくなか」
「そいは、その通りでごわんど」
サーマが苦笑いした。役人がおなご2人を宿舎に連れ込めば、公私混同の誹りは免れまい。
「なら、これはいいのか?」
ゼラが笑った。
「女2人を旅籠に連れ込んで、官吏さんは何をするつもりだ?」
「何ば言いよるか。人聞きの悪か」
マリナリが少し声を荒げた。
ゼラが目線をじっとマリナリに向けて、
「サーマを巻き込んで、何をするつもりだ?」
ゼラの口調には底冷えするようなものがあった。
マリナリはむっとした様子で、
「……何もなか!おはんとサーマが友人と聞いて、日頃の労いの意味も込めたとじゃ。サーマにしても、ゼラの事を気にしておったと聞いたのでな」
とまくし立てると、
「ま、そういう事にしておこう」
ゼラは徳利を手に持ち、マリナリに差し出した。
ぐいっと飲み干し、
「そげんこつじゃ!」
と吐き捨てるように言うマリナリ。
「おはんも、サーマに会えて嬉しかったろうが」
「そうだな」
ゼラがサーマの方を見ると、
「わたしも、ゼラに会えて嬉しかった」
とサーマが目を細めて微笑んだ。
ゼラが猪口を傾けつつ、
「サーマは飲めない性質か」
と言うと、マリナリがじろりとサーマを見た。
「政府で働く人間には、必ず酒を飲む席というもんがあるとじゃ。おはんも新時代に活躍したければ、飲む事じゃ」
サーマは猪口を傾け杯に清酒を満たすと、ぐいっと流し込んだ。
「どうじゃ」
マリナリは笑った。
「おい達は新時代の勝ち組じゃ。そいを噛み締めつつ飲む酒は旨かろうが?」
「勝ち組とかそういうもんじゃなか。政府側の人間には新時代を築く責任があるだけ」
サーマがマリナリをじっと見て言った。
「責任くらいは感じとる!」
マリナリは自身の膝をばんと叩いた。
「そいとは別の話じゃ。敗北した反政府陣営の藩士に勝利の酒など飲めはせん。特にヤイヅ藩士など、肩身の狭か思いしとるはず。そいに比べれば、カツマ藩士として生まれて幸福じゃったと感謝せんか。この席も誰が用意したと思うとる?」
サーマは猪口を膳の上に置き、居住まいを正した。
ゼラは黙って杯を口につけ、その様子を見守っていた。
「……。政府の人間達は、夜な夜な花街に繰り出し、酒と芸妓に遊んでいると聞く。金をばら撒き、酒を煽り、芸妓を侍らせ、醜態を晒している、というが」
サーマはマリナリから視線を逸らして応えた。
「その金はどこから?まさか公費ではなかろうな?そいとも、官吏とはそこまで高給か?」
マリナリは、サーマの冷然とした口調にむしろ、諭すような雰囲気で返し、
「何ば言いよるか。新時代を築く為には、必要不可欠な事じゃ。政を推し進める為にも、色々便宜を図る必要がある。そいも立派な政府の人間としての仕事じゃ。政府の重鎮の方々も、そうやって藩の垣根を越えてきたとじゃ。どうせおはんが聞いたとはやっかみの類に過ぎん。いつの時代も、政を知らぬ者が文句を言うとじゃ」
マリナリは呆れ果てるといった風に溜息をついた。
「おはんは真面目過ぎる。もっと世間を知る事じゃ」
「便宜とは何の事じゃ。清廉潔白な政治をしておれば、斯様な批判は出まいに」
「清廉潔白とは片腹痛かぁ。そんな甘ったるい方法では、政治は進まんとじゃ!」
マリナリが鼻で笑うと、
「まあまあ、その辺にして、せっかくの席だ」
ゼラはどちらかというと面白がっている表情で、2人を宥めた。
「勝ち組とか負け組とかそういう話は止して欲しか。新時代を築くにそんな心持はわたしはいかんと思う」
「管を巻くのはもうよそうサーマ。ま、おらにとっちゃ、カツマ藩の人間は皆勝ち組に見えるけどな」
と口角を吊り上げゼラが言った。
「いや、ゼラ、そういう話では…」
サーマが唇を尖らせた。
「ところで、サーマは今何しとる?2年間何しとった?」
ゼラが強引に火花散るこの話を終わらせると、それから2年分の空白を埋めるべく、2人の少女は語り合った。ゼラは2年の隠遁生活の果てに興行に出会った事、サーマはミラナ王女の教育係を辞め、ひたすらヨウロの書籍の翻訳作業に費やした事、を語ったのである。
「ゼラも色々あったとな……」
と途中で涙ぐむサーマに、動揺するマリナリと、口角を吊り上げて
「久々に、サーマの泣き虫が騒ぎ出したのを見たぞ」
とからかうのを、
「やめてくいやい。こいばかりは…」
と涙を拭うサーマ。
しかしだんだんと話が変わっていき、賊と呼ばれているものの存在を互いに認識しているのも共有する事にもなったのである。サーマが一度襲われている事、ゼラが駆けつけたのは2度目の襲撃であった事も…。
「賊達は、政府の関係者を襲っとる。そいは今のところは関係者のみに限定されているのがまだ幸いといったところだが、非常に危険な相手なのは変わらん。法術師が複数いるようだし…」
サーマの話にゼラも渋々といった様子で口を開いた。
「…賊の首領に会った」
「何!?」
さすがに、サーマとマリナリの2人は身を乗り出して口をあんぐりさせた。
「どんな奴じゃ!?」
「何が目的か!?」
マリナリとサーマは口々にゼラに質問した。
ゼラは顔をしかめ、唸った。
「まだ、信じたくはねえんだが…。ここだけの秘密にしてくれるか?あの方の名誉にも関わる」
「おはんが、そげんこつにこだわるとは思いもせなんだ。さっさと言わんか」
マリナリが痺れを切らした風に言った。
「……あの方?」
サーマが神妙な表情を浮かべた。
ゼラがこういう言い回しをするというのは、ゼラにとって旧知でかつゼラが敬う程の人物である事を示していた。
「トトワ・カルプ様だ」
前王太子の実弟の名を、ぽつりと渋々と呟いたゼラはまた一杯口に運んでいた。
「トトワ家の……?」
「そうだ、おらに仲間になれと言ってきた。それで断ったら、追われる身に」
自嘲的に笑うゼラは、どこか苦し気だった。
「ふん、もはやトトワ王朝の再興など有り得ん事じゃ、何ば夢を見ておられるのか。サルプ前王は身を慎しまれ、謹慎が解けた後も隠遁されておる。実の兄君の前王太子パルプ殿は留学されておるというのに…」
マリナリはいよいよ、呆れ果てた様に額を押さえた。
「マリナリ……」
サーマが俯きながら囁くように言った。
「わたしの記憶違いかもしれんが、カルプ様はそもそも、このサパン国にはおらんのではなかったか?」
「あぁ!」
マリナリが唸り、ゼラが、
「どういう訳だ」
と問うた。
「ミラナ殿下の書状にあったが、今から2月程前に留学したのでは?」
サーマが顎に手を置きながら、とろんとした目で言う。少々呂律が回らなくなってきていた。
ゼラは口をあんぐりさせて、
「酔っぱらいの言う事は真に受けられないが…」
と応えた。確かに1月と少し前に自身の前に現れたのはカルプだったのである。それが見間違いかもしくは……。
「いや、そいは確かだ」
サーマは頷いた。
マリナリは首を傾げ、
「そうか、兄に着いて行ったのか。パルプ前王太子が幾人か同族を引き連れたとあったが、その中に弟君もおったと…!」
「あまり大々的にはしとらんからな。あくまでトトワ家は旧王朝の王家だ。今はシミツ家が王家であるから、下手をすると権威の復活の足掛かりにもなりかねん。陛下の皇子が留学ともなれば、国を挙げて祝うところだが…例えばミラナ殿下がそうなれば、それこそ官民挙げての祝賀になろうな」
サーマが俯かせた顔を上げて言った。
「わたしも、姫様の書状で初めて知ったくらいじゃ」
「ゼラ、本当にそいはカルプ様じゃったのかあ?」
マリナリが声を荒げて、身を乗り出した。
「他人の空似か、それとも偽物かじゃろう!」
「そんなのは思いもしなかった……」
ゼラが顔を強張らせて、マリナリを見た。
マリナリも真剣な表情になって、
「只事じゃなかろうな」
語気を重々しいものに変えて呟くのであった。
「ああ。少なくとも、賊達は自分たちの主君はカルプ様だと思って仕えていた。只事じゃねえ。他人に化けられるか、それとも法力を感じ取れるおらにすら、幻術と分からぬ幻術だったか……」
ぞっとするような結論に、場の空気が重々しいものに変わったその時、ゼラとマリナリの2人は、サーマが頭を垂れてすっかり静かになっているのに気付いたのであった。
「サーマ、ぬしはどう思う?」
目をつむり、寝息を立てているサーマから返事がない事を悟ったゼラは、
「今晩はこれで終いにしよう。おらとサーマが同じ部屋で、ぬしは別の部屋だからな」
とマリナリを見据えつつ言った。