2年後
――新サパン暦4年6月2日。ゼラとサーマの山中での別れから2年が経っていた。
サパン政府の政は推し進められていった。魔動機の導入やヨウロの法制度の導入、それらと並行しての留学生派遣、サパン国はヨウロ諸国を手本としようとした。それは、ヨウロ諸国への友好意識というよりも、負けてはならぬという危機意識からであった。
社会の風俗も大いに変化の時を迎えていた。
ヨウロの装いをするサパン人も増え、ヨウロの文物も多く人々の目に映るようになった。街灯や馬車が往来に現れ、街中にも時折ヨウロの人々が見受けられた。
一方で、隅に追いやられるものもあるのだ。何より象徴的なのが、サパン古来の法術である。政府に対抗した藩の法術師達は、法術の使用を禁じられた。それは赤い紋様を特殊な魔動機によって刻印される事によって法力そのものを封じ込められるというものである。『法術禁止令』の中に法術師は法術封じの紋様を施すべしと定められているのだ。
しかし、政府側の法術師がそれを遵守したとは言い難く、一方で、反政府勢力側についていた法術師達を時に適当な理由でしょっ引いて強制的に紋様を刻印させた事からも、一種の政治的贔屓があったのは否めない。
サーマは逸早く自ら紋様を埋め込んだ。
しばし、気怠さと吐き気を覚え、紋様の刻印された額には痛みが走った。
その帰途、サーマは苦笑をするのであった。
これを無理やりされたのでは、ゼラも新政府に反感を持つのは当然かもしれない。
だが、ゼラの時はむしろ、ゼラ自身が法力を以て反抗したのと、法術封じの魔動機の精度が弱かった事、そしてゼラの肉体的強靭さが、それらを気にさせぬ程度に留めたのである。
サーマがくらったのは、ゼラのせいでより強力になったものであった。ゼラによって破壊された後、改良が加えられたのである。
法術封じの魔動機は、黒っぽくどこか禍々しさを感じさせた。その前に立った瞬間、サーマは恐れすら覚えたのである。
だが、自分の様な立場の人間が率先してする必要があったのだ。政府側の人間だからこそ、尚更先んじて行わなければ手本となるまい。
「ないごて、わざわざすっとか。カツマのもんじゃろうが」
と言われても、サーマは
だからこそ、だと応えた。
「法術を失わせようとする企みに加担するとは」
「ヨウロかぶれもここまでくると」
と言う批判もひそひそ聞こえてきたが、元反政府側ばかりに不公平を背負わせる訳にもいかぬし、また、もしそうした批判の結果法術禁止が解かれるならそれもまた一興だと考えたのだ。政府側が緩和策を打ち出す可能性も充分にある。それは、反政府側だった人間ではなく、政府側の人間がするからこそ、意味があるのだ。
家に帰ると、気怠さでしゃがみ込んでしまう。
「サーマさん、お休みになったら如何ですか」
家政婦のバレラが表情を変えずに言った。
バレラは妙齢の女性で、顔立ちは整っていたがそれ故に無表情がかえって不気味ですらあった。
サーマが宿舎から、1軒の屋敷に移ったのが新サパン暦の4年に入ってからである。ミラナ王女の教育係に再任して励んでいたが、エガレス文化に精通していてエガレス語を話す教育係が必要になり、カナリス語やカナリス流マナーを主に得意とするサーマはいったん身を引く事になった。勿論これは、有形無形の思惑が働いた結果といえるが、そして、王女からヨウロの書籍の翻訳を頼まれて1年近く経ったのが今のサーマの状況である。
今度の教育係は男性であり、しかもヨウロ人とあって、王女からは恨み節とも取れる手紙があったりした。
「お主は何故辞したのか。同じ女でなければ、女に必要な立ち居振る舞いは学べぬではないか。何を考えておるのか」
と言った内容をつらつらと書かれ、サーマは口角が上がるのを止められなかった。
王女の元教育係の住まいが、旅籠を用いた宿舎のようなものでは、体裁が悪いらしく、サーマには屋敷が与えられたのであった。そして家政婦も一緒に。
翻訳生活は決して楽とは言えず、苦悶苦闘の連続であった。単語や文章の意味をただ把握すれば済むというものではない。文章の流れや、内容によっても意味が全く違ってくるし、ヨウロの文化風俗に通じていなければならない。どう訳すのが適当か、サパンの言葉も漁って悩み苦しむ日々だった。自分が読む分には意味さえ理解すればいいが、人に読ませるに足る文章力も求められた。
カナリス語だけでなく、エガレス語やダウツ語の書籍も送られて、サーマの部屋に積まれていった。物語や伝記といったものから、風俗や流行を紹介した本、学術本と多岐に渡った。
ミラナ王女の学習意欲の高さの現れといえたが、サーマは考えるところがあって、姫はこの通り原文を読むのではなく翻訳を求めたが、同じように世間の人々もヨウロの学問や物語を翻訳で欲しがるのだろうか、と自問した。はてさて、サパン人が原文を理解できるようになったがいいか、それとも翻訳を充実させるがいいか、どちらがいいのだろうか?
机に向かって頬杖をついていると、襖の向こうで声がした。
「サーマさん、お疲れでしょう」
バレラが白湯を持ってきてくれたのだ。
「ありがとうございます」
サーマは受け取って、ふと思いついて、訊いてみた。
「バレラさん、何か読みたいのがあったら、言ってください。とくにこれとか…続きが気になるくらい面白いですよ」
とサーマがある一冊を手に取ろうとした瞬間、バレラは冷たい声音で応えた。
「いえ、結構でございます」
一礼して、
「失礼致します」
とバレラが襖を閉じて去っていった方向を、つまり襖をじっとサーマは茫然と見つめるのみであった。
嫌われているのだろうか。
いや、仮にそうだとしても構わない。好意以外を向けられるのには慣れてきた。
苦笑しつつ、自らの仕事に戻るサーマであった。
とある山中の川辺。水浴びを済ませ、釣り糸をじっと垂らしながら鳥のさえずりを聞いていたゼラは、ここ2年寝床にしている小屋付近が騒がしいのに気付いた。
慌てて駆け戻り、岩陰から伺うと、幾人かの腰に刀まで差した風体の悪い連中が
「誰かいるみたいだぞ」
「無宿人が勝手に住んでんだろ」
「俺達の根城が」
「何年も放っておくからだろ」
と口々に喚きながら、ゼラのいる岩影に向かって来た。
幾ばくかの時が過ぎた後、ゼラの前には男達が失神した身体を横たえていた。
「やはり、賊かなんかが住処にしてたとこか」
ゼラは息をついて、
「ここともおさらばかな」
と残念がる瞳を空に向けた。じりじりと照り付ける日が青く澄んだ空を鬱陶しいものにしていた。
ゼラの視線は林のある部分に注がれた。
2人の男が愕然とした様子で立ち尽くしていた。
「て、てめえは!?」
「なんで、ここにいるんだ!?」
男達の呻きに、ゼラは小首を傾げた。
「どこかで会ったか?」