洋書
カナリス国伯爵ミンブリンは、カツマとカナリス国のパイプ役を務めている得難い存在であった。
白髭をたくわえているものの、年はいっていない。まだ若いはずであった。
「イワラドノ、トトワのコトハ、ワタシニ、オマカセクダサイ」
ミンブリンはカツマ使節団代表イワラと部屋に2人きりの時切り出してきた。
「どげんするつもりじゃ」
イワラは何となくこの伯爵を信じ切れなかった。
遠き異国の使節を快く受け入れ、便宜を図ろうなど、何か魂胆があるに相違ない。とイワラは考えている。
「ワガクニハ、カツマヲ、エンジョシマス」
「大統領はトトワを支援すると言うた」
ミンブリンは苦笑しながら首を振った。
「コレハ、ガイコウデス」
イワラは腕を組んだ。
「つまり、カナリスにはカツマを支援する用意があるというとか」
「トトワニ、オモキヲオクハ、ガイコウギレイニ、スギマセン」
イワラはニヤッとした。
「トトワは王太子の弟君まで遣わしたからな。致し方なしとは思うておった。そいでトトワをどげんするつもりじゃ」
「オマカセクダサイ」
ミンブリンは恭しく言葉を濁しただけであった。
イワラは部屋を歩き回り、サーマを呼び出した。
サーマは驚きと高揚感を隠しきれないようであった。
「おはん、トトワのもんと親しいと聞いた」
サーマは眉を顰めた。
「わたしはカツマの人間であるのに誇りはありもすが、だからトトワの者とは付き合わん、というのはいかんと思います」
イワラはほう、と言った。
「別にそいはどうでんよか。おはんに訊くとは、そのトトワの者が襲撃を受けたという話じゃ」
サーマは、はっとしたように応じた。
「聞きました。何か見張られているようだと」
「おはん、何か気づいた事はあるか」
「1度、彼女が怪しい人影を追いかけておったのを見ました。残念ながらわたしはその人影をはっきりとは見ませんでしたが……」
「それ以外は?」
「いいえ」
イワラは頷いた。
「そうか、下がれ」
サーマは恭しく退出しながらも、ゼラを見張っていたという者が、カツマの手の者ではなかったというのに安堵した。
サーマはその後、自室に戻り勉学に励んだ。
『三権分立』なるものに興味が湧いたからだ。
それらに関係ある本を手に入れ、テーブルに座ってめくってみる。
(そういえば)
ゼラが言っていた。
――「おらは、まずこの国の言葉が分からねえ」
ゼラは顔をしかめていた。
「勉強するしかないですよ」
「カナリス人の先生の話聞いても、何言ってるかさっぱりだ」
「最初はわたしもそうでした」
サーマは笑った。
「わたしなんて、1人部屋で泣きながら翻訳と意味の理解に苦闘しておりました」
「ぬし、涙もろいのか」
ゼラはからかうように言う。
「そげな」
サーマは頬を膨らませた。――
これから、サパンの人間が外国の文明を学ぶにあたって、最初に立ちはだかる壁が言葉の壁だ。より多くの人が学ぶ為には、翻訳の必要性があるだろう。
(その為にも、事柄に関して深く理解したサパンの者の存在が鍵になる)
サーマ自身も、今手に取っているこの本を、完全に理解し翻訳し切れる自信はなかった。
ゼラは、リュカの部屋で彼の講義を聞いた。
リュカは洋書を手に取り、興奮している。
「やはり、本場ではすぐ手に入る。サパンでは手に入りにくいものでも、ここならば感嘆に手に入るんだ」
「そうだすね」
「この本を見てみろ」
ゼラが覗くと、カナリス語がずらりと書かれている横に図が載っていた。
「魔動陣ってやつだ。さらに呪文も書かれてある!」
「そいつはすげえだすね」
「これを読む限りだと、確かに技術さえ学べば誰でも使えるようになるようだ。ちゃんと学べばな」
「学ばなきゃ駄目ですか。学ばなきゃ使えねえだすか」
「何言ってるんだお前は」
リュカは呆れたように言って本を閉じた。
「この中に、ヨウロの発展の全てがある」
ゼラはふうんと呟き、窓際まで歩いた。
リュカは予想していたと言わんばかりに、鼻を鳴らして応えた。
「これからは、おなごでも学問を学ぶ時代なんだぞ」
「それは素晴らしい事だす」
ゼラは頷く。
「お前だって、シンエイ様のもとで法術を学んで今があるんだ」
「シンエイ様には感謝しておりやす」
「好きなのを持っていくといい」
リュカはテーブルに向かい、紅茶を入れ始めながら言った。
ゼラは彼の善意を無碍にするのはよくないと思った。本の山を見ながら、適当に本を1冊手に掴む。
「これでいいです」
リュカはニヤニヤした。
「まずはカナリス語の勉強だな。まだ読めないはずだ」
「いつか読めるようになりやす」
そもそも、ゼラが文字というのを読めるようになったのがここ3年くらいの事である。それまでは身寄りのない孤児に過ぎなかった。
それが、予想だしない人生の流転である。
ゼラは自室に戻り、ベッドに横になった。
最近ようやく、この寝床の感触に慣れてきたところである。
深夜、彼女の部屋を含めた宿舎の部屋という部屋を、向かいの建物からじっと監視する者の存在に、ゼラはまだ気づかなかった。