王女の母
ヤイヅの地でゼラが新兵器を破壊せしめるのに成功した、新サパン暦2年1月11日、カツマの姫にしてサパンの王女ミラナの教育係を任じられたサーマは、女官からのお達しに息を飲んだ。
王女の母、院の宮から呼び出しを受けたのだ。拒否するのは許されるはずもなく、サーマは自身を快く 思っていないであろう相手のもとへ向かった。
女官が出迎え、サーマは部屋に通された。
「しばし待たれよ」
跪き、院の宮の到着を待った。貴人というのは、相手を待たせるのが好きらしい。
長い時間だった。体感ではなく、実際経過した時間もかなりものであろう。
サーマはじっと畳を見つめ、時折視界の端で周囲を観察した。
あろうことか女官すら現れぬ。1人部屋に残され、寂しく跪いていた。
耳をそばだててみるものの、足音すら聞こえない。
これは嫌がらせだろうか。
だとすれば、何と馬鹿げた事をするのだ。
こんな事をしていていいものか
国全体が大きな転換期にあり、動乱すら辞さぬ時世に、王妃たる者が…。
さらに長い時を待たされた。
女官が1人現れたので、顔を上げて訊いてみた。
「あのう、院の宮様は……」
「そろそろ参る」
女官は冷たく言った。
「院の宮様の御成り!」
サーマは頭をさらに下げ、相手を迎える。
院の宮は付き添いの女官数人と入ってきて、上座に座り、冷然とサーマを睨みつけた。
「苦しうない。面を上げよ」
「麗しきご尊顔を拝し恐悦の極みに存じます」
サーマは恭しく答えた。
院の宮は無感動にそれを見ているだけである。
見目麗しい容貌だが、娘のミラナ王女と比べて生気に乏しい感じがした。活力が負の方向に捻じれているような薄ら寒さすら感じて、身震いした。
溜息をついて、院の宮は言った。
「お主、姫に対して無礼を働いたな」
「は……?」
サーマは呆気に取られた。
院の宮の言う事がてんで分からなかったからである。
「わたくしがお主に下賜したものがあろう」
院の宮の口調は淡々としていた。
横で女官達がクスクスと笑っている。
「わたくしは、お主にそれは見事なサパン服を与えるつもりでおったのじゃ。じゃが、誤って麻のボロにすり替わってしまった」
サーマは絶句した。
「にも関わらず、平然とお主はそれを着て、姫のもとに出仕したな」
「は、はい」
「無礼者が!!」
院の宮は激高した。部屋自体の空気が一変するかのような圧であったが、サーマには真に迫るものが感じられなかった。負けてはならぬと思った。
「わたくしがボロを下賜すると、左様に思うたか!」
「申し訳ございませぬ」
サーマは頭を下げた。
ここまで、白々しくされるとは。
「お主は、わたくしを侮辱し、あまつさえ姫に見せ付けた!」
「何と……」
「恐ろしや……」
女官達はひそひそとし出す。明らかに聞こえるようにであったが。
「斯様な無礼、許しておくわけにはいかぬ。姫の指南役なぞ認める訳にはいかぬ」
「そうじゃ、そうじゃ」
女官達は口々にサーマに雑言をぶつける。
「奥の主たるわたくしがこう言っておるのだ、お主は指南役を降りるべきじゃ」
サーマは顔を上げた。
「お言葉ですが、院の宮様、わたくしは陛下からこの役目を仰せつかった身」
我ながら、蛮勇かもしれない。とサーマは思った。
「奥の主はわたくしであるぞ」
院の宮の口調はより冷たいものに変わった。
「お主は、エルトン家の娘であったな」
「はい」
サーマは思わず身構えた。
「エルトンの家の為の事を考える事だ」
「院の宮様、わたくしは家の事も大事ですが、お役目の事も大事と思うております」
サーマは引き下がらなかった。明らかな脅しだが、ここで屈してはそれこそ、父と母が悲しむと思ったのだ。
「わたくしは仰せつかった役目を果たしとうございます」
院の宮は顔をしかめ、怒気を漲らせた。
「命を下さねば分からぬか。お主は姫のもとへ出仕してはならぬ!」
正直、サーマにはどうしてここまで、院の宮が自分を嫌悪するかが分からなかった。
「院の宮様の命を承るは臣の役目でございましょうが、わたくしは陛下からの命も受けております」
「奥の主はわたくしであるぞ」
相手の意見を刃で斬り捨てるかの様な、有無を言わさぬ口調であった。
サーマは唇を噛み締めた。
さて、ここで院の宮の命を受け入れるしかないのか。もし、陛下の命である事を盾に反命を決め込めばどうなるであろうか?陛下が味方であり続けるならば、サーマにも戦う意味はあろう。しかし、梯子を外されれば……。
当のミラナ王女は?何とも言えない。母親に対して反骨の意思を示しサーマの指南を受け入れはしたが……。
だが、サーマはというと、どうしようもないくらい院の宮の命に背きたいのであった。1度決め込んだものを諦めたくなかった。王女への指南役は新時代の為の大事な役目だと、自負と誇りがあった。
「姫様はこれから、サパン国の代表として諸外国の王侯や有力者と会う事になります。その時の為に、ヨウロの作法や文化を学ばなければなりません」
「だからどうした」
「母親たる院の宮様が、姫様に彼らの前で恥をかけと仰せなのでしたら、わたくしも何も言えませぬ」
サーマ自身、背中に冷たいものが流れるのを感じる程、痛烈な言葉であった。
彼女の理性が、よしておけ、と信号を発するのを、サーマの感情は跳ねのけた。これが若さ故の性質なのか、それとも生来のものなのかはサーマにも判断がつきかねた。
女官達はざわつき、言われた当人は顔を真っ赤にし歪めた。
「無礼者が!何様のつもりじゃ!」
院の宮は立ち上がった。
「お主はそれ程大層な者か!?お主などおらぬとも…!」
「ならば、そう仰せになって下さい。わたくしの代わりの者が見つかったと」
要は、自分が選んでいない者がやって来たのが不服なのであろう。そのうえ陛下が選んだ者とあっては、自分の領分を侵された気がするのであろう。
サーマは冷めた心持でそう推察した。
「黙れ!」
院の宮の手に持たれた扇子がサーマに振り下ろされた。
サーマは思わず手で防ぐものの、幾度となく扇子は振り下ろされた。
「教育係は母が選ぶもの!お主のような身分の人間はいらぬ!」
院の宮は金切り声を上げながら、サーマを打ち据えた。
「よいか!お主は姫のもとに行ってはならん!部屋に籠っておれ!」
息を切らしながら部屋を出ていく。
蹲るサーマに、女官が憐みの色を声に乗せて言った。
「院の宮様の命は聞いたか?許しを得るまで部屋におる事じゃ。食事は運ぶからの」
誰もいなくなった後、サーマはよろよろと立ち上がった。
黙って、部屋に戻っていく。
彼女にあてがわれた部屋に入ると、座り込んで膝を抱えた。
哀れなのは、院の宮様の方だと思った。王女の母親としての、王妃としての、奥の主としての、せめてもの矜持が彼女にああさせるのだ。
言いようも知れない焦りと不安とが、院の宮の胸の内に影を差している。これから来るであろう変化によって、奥ですらもこれまで通りに行かぬようになるであろうからだ。ぶつけられたサーマとしてはたまったものでない事は確かだが。
「……っ」
背中に手を回して、擦ろうとして呻いてしまった。
あらゆる箇所に、しこたま打ち据えられてしまった。
……挫けてしまいそうだ。
外には女官が待機している。
新時代の為に働きたいと思っていた。それが陛下の側女にされるとなって、夢が打ち砕かれる思いであったが、それが杞憂であって、留学経験を活かし王女の教育係となった。しかし今、それすらも出来なくなった。
城の奥という、古い慣習の支配した場所に閉じ込められ、何も出来ずに無為の時を過ごせというのか。
ここに至って、ついにサーマは涙が零れてきた。
「まったく……!」
瞼を擦りながら、自分の泣き虫具合にはほとほと呆れた。だが、生来のものらしくどうしようもない。
希望があるとすれば、ミラナ王女だが、王女にそこまでの義理は無いであろう。来なくなった教育係の方こそ、不忠の誹りを受けるべきだからだ。