狼の襲撃
ゼラは山道を進む。
夜闇を突っ切ろうかと思ったが、適当な洞窟が見つかったので、ひとまずそこで宿を取る事にした。
うねった枝が不気味な木々の隙間を、かすかな星光が照らす。岩肌にぽっかりと闇が広がっていた。星光など吸収して、まったくの闇にしてしまうのだ。
ふとした気配だった。
ゼラは目覚めると、起き上がる。
周囲を見回す。
嫌な予感がした。
それらは、自らの気配を消そうとしていた。ゆっくり音もなく近寄ってくる。
闇の中に光点があった。2つの光点が同方向に右に左に動いている。
5頭の…野犬か狼の群れ…。
冷や汗が飛び出す。
(参ったな、法力が使えれば)
これまでなら、法力で追っ払ってきた。だが、今となっては身1つしかない。
(うら若いおなごのそれじゃあなあ……)
ゼラは一般の少女とは全く違っていたが、それでもまずい状況には変わりない。大の男ですらも震え上がるであろう。
光点の主は枯葉を音もなく踏みながら近寄ってくる。
飛び掛ってきた!
人を襲うのに慣れた獣は、こうして顔面を狙い目潰しをしてくる。ゼラは経験上知っていた。
飛び掛ってきたその瞬間、ゼラは拳大の石で光点の主の顔面を思い切り殴った。
悲鳴を上げ、逃げる光点。
だが、別の光点はそろそろと間合いを狭めてくる。
(怯まないか)
ゼラは自身の腕がポタポタと血が滴り落ちているのを感じた。
また別の光点が襲い掛かる。それに石で殴りかかろうとすると、すかさずかわされた。
ゼラは背後に回り襲い来るもう1つの光点に向かって、身体をくるりと回転させ石でぶん殴る。
「舐めんな!」
さっきのは陽動だと分かっていた。
ゼラは、周囲をきょろきょろと見回し、敵の位置を再確認した。
「まずいな……」
思わず口に出していた。
光点の群れは諦めていなかった。
用心深くゼラを取り囲んでいる。近くで間合いをはかるもの、遠くから様子見しているもの、全て連携が取れていた。
この狡猾さ、野犬ではない。狼だ。
松明でも用意していれば。杖でも持っていれば、充分武器に成り得たはずなのに。迂闊だった。法術を使えなくなった法術師の、何と無防備で無力な事か。
(ちくしょう新政府の奴ら……)
歯軋りしても始まらない。ここはどう切り抜けたものか。
腕からは狼の爪にやられた傷から流れ出る血が。
一度は飛び掛ってきた光点が再び襲い掛かった。
ゼラは腕をぶんと振り、血による目潰しに怯んだ狼に向かって蹴りを入れる。
狼は悲鳴を上げて吹っ飛んだ。
そして、用心深く様子見していた一頭に石を投げつける。
かわされてしまったが。
苦笑するしかない。
(でも、これで残り2……)
光点はそれぞれ、じりじりとゼラと間合いをはかっている。特に用心深いその2光点はゼラをじっと見つめていた。
「ちくしょう、お前らもこうしてやるぞ。だからさっさと向こう行っちまえ…」
ゼラは自分自身でも呆れるくらいの弱音を吐いた気分だった。
思わず額の紋様が赤く光りだした。闇の中を眩く光る赤光。この紋様さえなければ。
その時だった。狼達は、その光に怯えたのか、ゼラの気迫に根負けしたのか、闇の中に消えていく。
ゼラはそのままじっと闇を睨んでいた。まだ、罠のような気がした。油断したところを一気に襲い掛かってくるかもしれない。
しかし、幾時待ち構えてもそれは無かった。気が遠くなった。気づくと何箇所も傷を負い、そこから血が流れ落ちていた。ゼラが、自身の極度の緊張と疲労と出血による消耗に気づいた頃には遅かった……。
ゼラの意識を暗闇が支配した。
良い匂いだ。
夢うつつの中、ゼラが最初に気づいたのはその匂いだった。
目を開けると、ぼやけた視界に粗末な板張りが見えた。
起き上がる。
「あ、まだ寝てなくちゃ」
見知らぬ女が慌てて近づいていった。
いや、見知らぬ……か?
ゼラはその女の顔を見た。
ゼラ自身は寝床に寝かされ、土間に立つ女を見た。女というより少女であったが。
「ぬし、確か……」
「シルカだよ。久しぶり」
にっこりと微笑む少女。
「ああ!」
「あの時は、助けてくれて、村の皆感謝しとった」
「という事は、ここはコン村か!?」
コン村はかつて、ゼラが野盗を撃退した縁のある村だった。政情不安で野盗山賊の類が出没し、ゼラは偶々それと戦い撃退し、しばらく滞在した事もある。
シルカは頷いた。
「粥作るから」
「申し訳ねえ。じゃあそれ食ったらおらは出て行く」
ゼラは言った。
「どうしてそげな事、怪我しとるのに。ずっとここに居てくれたって……」
シルカの口調は悲しげであり、むしろ咎める感すらあった。
「そうだぞ、まだ安静にしてねえと」
ゼラはその声に振り向いた。
戸口の者を見たゼラは口をあんぐりして、目を見開いた。
トマイだった。
「ぬし、どうして……」
「やっぱり、俺と一緒に逃げれば良かったな」
トマイはニヤニヤと笑った。
「お前が倒れているところを見かけて、慌てて連れ帰ったんだ」
「あの時は、驚いたなんてもんじゃなかった」
ふうふうと冷ましながら、匙をゼラの口元に持っていく。
ゼラは気恥ずかしい思いでそれを頬張った。自分が看病されるなんて。自らの強さと体力気力に相当な自信があったゼラは、滅多にない経験にどうしていいか分からない。
だが、口中に広がる優しい味と、暖かさが全身に広がり、久々に一息つけた気がした。
「旨い」
ゼラは微笑む。
「旨い。旨い」
「あ、腕……」
「心配ねえ」
シルカから椀を渡してもらい、自ら匙でかっ込む。
それを見て、シルカもトマイも笑い合った。
「ああ旨い」
腕に痛々しく布を巻き、身体のあちこちに傷を負った娘とは思えぬ程、元気に頬張るゼラであった。