エピローグ 松の木は残った
カナリス国の都パラスの住宅街にあるごくありふれた家にマリーは住んでいた。この家の庭には松の木が一本植えてあり、その前には木の立て札がある。マリーには読めないが、遠い東の国の文字とは聞いていた。
彼女の祖母がこれを大事にしており、マリーも慈しみながら世話をした。この木はもともと祖母のこれまた祖母が大事にしていたものだという。
人類史上の災厄でもあった世界大戦でもこの家も松の木も残り、祖母は、
「この木が守ってくれたのよ」
と半ば本気で語ってくれていた。
聞くところによると、この松の木はサパン国由来だという話だ。マリーも無論サパン国の事は知っている。東方の島国だ。多少なりとはその文化についても把握している。
そして、マリーの祖母の祖母がサパン国の2人の少女に命を救われ友人となり、2人が別れ際に記念として植えていったものだという。
ある日、マリーは新聞の広告を読んでいて驚いた。サパン国から2人の女性が彼女の先祖とゆかりのある松の木の植わった家を探しているという。
さっそく書かれていた連絡先に電話をし、今晩相手方が尋ねて来る事となった。
チャイムが鳴り、
「いらっしゃい」
とマリーが招き入れると2人の少女が立っていた。1人はサパン人らしく黒髪だが、1人は煌々とした赤い髪をしていて、思わずマリーは目を見張った。
彼女らは2人とも愛らしい容貌をしていて、溌溂としていた。2人が言うには先祖とは直接会った事はないものの、それぞれの祖父母からそれぞれの先祖の女性の話を聞かされていた。彼女ら曰く彼女らのひいひいひいお祖母ちゃん達が、この家に残していった松の木と立て札とこの家の人々への思い出を語っていたという。
「それをどうしても見たくて来ました」
と2人は言った。
マリーは快く松の木のもとへ案内した。遠い異国からわざわざやって来たのである。しかも、マリーの先祖と2人の先祖には深い関わりがあったのである。むしろ、訪ねて来てくれた事が嬉しくてならなかった。
2人は松の木の前に案内されると、感慨深げにそれを見つめていた。
ゼラとサーマの2人が植えた頃よりも、一回りも二回りも大きく成長した木が、歳月の流れを示していた。
しかし、それと同じくらい歳月を感じさせたのが、木の前に植わった立て札である。すっかり黒ずんでおり、汚れの濃淡となって全体を覆っていた。何時の間にできたか、ところどころに傷がある。
だが、それでもはっきりと刻まれている文字は読み取れたようであった。
2人が文字を指で何度も追い、やがて笑い合っていた。
「何て書いてありましたか?」
マリーは居てもたってもいられずに尋ねた。
黒い髪の少女が応えた。
『ゼラ参上』
『エルトン・サーマ此処に有り。トトワ歴269年5月17日、讃歴867年6月21日』
赤い髪の少女が苦笑しながら、
「参上って……」
「昔の暦って今に直すと何年か分かんないや」
と黒い髪の少女も苦笑いする。
「でも讃歴って書いてくれてるし、分かるじゃん!」
(ああ……)
マリーは長年の謎が解け感無量であると同時に、その内容に微笑ましさを感じるのだった。遠い異国からやって来た少女2人が笑い合いながらこの文章を彫った情景が浮かび上がってくるようだった。当時は船で何日も何日も掛かったであろう。心細さもあっただろう。しかし、それでもこうした茶目っ気を忘れないでいたのだ。
その2人の少女が生きた証が、今ここに2人して尋ねて来てくれた。
「ねえ、今日は夕食をごちそうさせてもらってもいいかしら」
「いいんですか?」
「喜んで!」
2人の少女は喜色満面でそう応えた。
かつてマリーの先祖も、彼女らの先祖に夕食を御馳走したという。今度は子孫である自分が、同じく子孫である彼女らに振る舞うのだ。
これは運命なのだろう。何世代にも渡る縁なのだ。そして、自分と彼女らを繋げたのが、あの松の木である気がしてならなかった。