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医務室のマドンナが「それじゃあごゆっくり~」などと手をひらひらさせてハートマークを飛ばしまくるのは、何も逸希が彼女のお眼鏡にかなうイケメンだからではない。「それじゃあごゆっくり~」と同じ口調で出て行こうとする束瑳の服を掴んで引き留めた。恭一郎は大人しくベッドの上で上体を起こしたまま笑っている。
「ごゆっくり、じゃねえんだよテメェ……。お前だろ! 妙な噂流しやがったの!」
「何のことだろう?」
「忘れたとは言わせねえ、お前が忘れるとかありえねえからな!」
「身に覚えのないことは憶えられないなあ」
「俺がっ、コイツとデキてるとかワケわかんねえこと言いふらしやがってテメェ絶対ぶっ壊す……!」
「じゃあ訓練室で何があったか言ってみろよ、言えないんだろ? そうだよなァ言えるわけないよなァ。あーんなことやらそーんなことやらヤッてましたなんて言えるわけがねえよなァ」
「んなわけッ、あるかァアアア!」
「二人とも、うるさいよ。逸希、束瑳はやきもち妬いてるだけだから気にするな」
「恭ちゃぁあああああん」
サラリと出された助け舟だか落とし穴だかに、逸希は恭一郎へ抱きつき、束瑳は握りしめた拳をわなわなと震わせた。
「やっぱデキてんじゃねえか」
「妬いてんだって? 束瑳」
「は? 誰が誰に妬くって?」
逸希は恭一郎に抱きついたまま束瑳に向かって舌を出した。
訓練室での出来事は、逸希の方もできることなら束瑳に説明したかった。普段の報告を恭一郎に任せっぱなしにしていたせいか、自分でうまく説明することができないまま急速に記憶が風化して、余計に説明が困難になってしまった。
人の心は強い。案外簡単に壊れはしないのだと逸希は思った。こうして自分も恭一郎も無事に戻ってこられたことを思えば。そして、簡単に記憶から生々しさが薄れ、細部が思い出せなくなるのもまた、人の強さなのだろう。
恭一郎が医療センターから医務室へと移されるのには逸希より少し時間がかかった。
傷を治すなら傷を知る必要がある。負った傷を診るのに、恭一郎はご丁寧にもそこへプロテクトをかけて医療スタッフの手を煩わせた。解析の係長が出てきて解読を試みる羽目になったが、それでも解けることはなかったと束瑳から聞いた。読み取る力の強い恭一郎は、読み取らせない方法を熟知していた。結局、恭一郎は自分で傷を解決して戻ってきたことになる。
「ちゃんと治したわけじゃないから、いつあの傷が顔出すか分からないよ」と医療センターの女医は言った。豊満なバストが自慢の医務室のマドンナとは異なり、こちらは眼鏡が似合うキリリとした短髪の才女だ。どちらもイイオンナだなぁと逸希は鼻の下を伸ばす。
訓練室の中のことは束瑳に伝わらない。
訓練室に設置されたレコーダーは解析係が回収していたが、束瑳はその内容を殆ど知らない。解析を担当した者がうっかり束瑳に口を滑らせたせいで始末書を書かされることになった、と束瑳は嬉々として語ったが、それでも逸希には、束瑳の知っていることはそう多くはない感触があった。
何か、束瑳に関わる重大なことが含まれていたような気がする。
それが逸希にはもう思い出せなかった。
「あのさ、逸希。……重い。っていうか暑苦しい」
恭一郎が遠慮がちに訴える。逸希は恭一郎から離れると、腹に向かって軽く拳をぶつけた。当然のように固い筋肉が衣服越しに当たる。
逸希は確かめるように今度は手のひらでトントンと叩いた。
「穴、塞がってんじゃん」
「そもそもあいてないから」
「そりゃそうだ」
笑い合う二人に、束瑳が露骨に嫌そうな顔をした。
けれどあの傷が現実のものではないと確認させるよう逸希に勧めたのは束瑳だ。逸希は壊すのが専門だが、本質は書込能力者だ。あいた穴は書き込んで埋めてしまえばいい。
「なんか見境なくイチャイチャするようになったな」
「そりゃまあ一緒に死にかけてんだし?」
「束瑳は俺に逸希を取られたのがよっぽど悔しいらしい」
「あーハイハイ、そーね悔しいね。逸希、メシ食いに行こうか。そこの誰かサンは病人食しか食えないらしいしな」
付き合いきれないとばかりに束瑳が誘う。さっさと出口へ向かう束瑳を追いかけて、逸希はベッドからあっさりと退いた。
「束瑳奢ってくれんの?」
「逸希をメシで釣らないでくれ」
「仕方ない、食堂のカレーを奢ってやろう。喜べ」
「えっ、ドケチか!」
束瑳が奢るなど天変地異の前触れのようなものだ。逸希はそれ以上の文句は言わずに束瑳へついていく。
なんだかんだで食堂のカレーが一番好きだから問題はない。高価なカレーも、誰かの手作りカレーも、カレーは何でも旨いが、食堂のカレーは小さい頃から知るいちばん馴染んだ味だった。
医務室の扉をくぐったところで逸希はひょっこりと中を振り返る。
「ちゃんと寝ろよ」
「そっちこそ。ちゃんと食べておいで」
恭一郎が笑って手を振った。
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