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「おめでとう、お前の勝ちだ」
と、束瑳が言った。
ぼんやりと見上げる天井は自室の物ではない。付属の医療センターから施設内の医務室のベッドへ移されて一週間が経つが、逸希は言葉を失ったままだった。
何を喋っていいのかが分からなかった。
「先に目覚めた方が勝者ってこと」
束瑳はそんな風にも言っていた。果たしてあれは勝ち負けを決めるような類いのものだったのだろうか。
逸希は出された食事をただ黙々と平らげる。
食べろと恭一郎が言ったからだ。
その恭一郎はまだ医療センターから出てこない。意識が戻らないと聞いた。
無事なのか。
復旧の見込みはあるのか。
訪ねたいことは山ほどあったが、恐ろしくて口にすることはできなかった。
「お前が静かだと調子狂うね」
散々煩い煩いと言い続けてきた束瑳は、こんな時でも嫌味を忘れない。
彼なりに、心配しているのだとは思う。
「ま、そんだけメシ食えたら充分だろ」
彼の手には本ではなく紙の資料が握られていた。大量のリストと、図面。ペーパーの方が頭にイメージとして入りやすいのだと言っていた。
次の任務に関する資料を、情報部が精査しているのだろう。
それまでに復帰しなければ、と逸希は漠然と思った。
狩らなければ。
きっと獲物を壊し続ける得体の知れない何かが自分の中にいる。
逸希はそれを自覚する。
任務に出してもらえなければ、また身近な誰かを破壊してしまう。
チカラは弱点だ。
束瑳が神妙な表情で動きを止めた。誰かと交信している顔だった。
仕事の連絡だろうか。
実動隊の逸希たちと情報部の束瑳では繁忙のタイミングが異なる。忙しいなか束瑳は逸希と恭一郎の見舞いを欠かさなかった。反応の鈍い逸希に、飽きもせず毎日嫌味を言いに来る。
「恭一郎、目が覚めたとさ。行くか?」
逸希の口が開き、わなわなと震える。
ありとあらゆる筋肉が弛緩して、涙も鼻水も涎も垂れ流しになりそうだった。それぐらい、ずっと、ずっと今まで緊張していた。
恭一郎が。
逸希は名を口にしたはずだったが、声は上手く出せなかった。
「恭チャン、が」
まるで気持ち悪いものでも見るような目付きで束瑳が見守る。
「……どんなかお、して、会えばいいか、わかんねえ」
途切れ途切れに逸希は口に出した。
恭一郎の紡ぐ嘘を読み誤って目いっぱい傷付けた。きちんと彼を知っていれば見抜ける嘘だった。
「おはようつっとけばいいんじゃね? 随分ゆっくり眠れたみたいだしな」
束瑳のノリはあくまで軽い。
やはり返事のない逸希の腕を、束瑳が掴んで引っ張る。
「お前の負けだバーカって笑ってやりゃいいんだよ。行こう」
「えっ、今? ちょ、待って……」
逸希は医務室のパジャマ姿のまま束瑳に引き摺られていく。廊下ですれ違う職員らがぎょっとしたように振り返るが、束瑳は構うことなく医療センターへと向かった。
外は初夏の陽射しが眩しい。
逸希は日の光から顔をそむけるように地面へ視線を落とす。
目の奥がじんじんと痺れて痛いのは、日の光が目に痛いからに違いなかった。
訓練室の扉を開けた後の記憶がない。
目覚めた時から束瑳はそのことに気付いていた。
気が付いた場所が自室ではなく、執務室のソファだったため痛む頭を押さえながら自分のデスクへ這って行き、積んであった資料の裏にボールペンで殴り書きをした。
訓練室。
逸希。
恭一郎。
血の海。
吐き気がするほどの頭痛がしていた。記憶が消されたにしては雑なデリートだと思った。これでは忘れた内には入らない。
むしろその先のことを本当に知らないとしか思えなかった。
カタカタとパソコンのキーボードを叩く音がして束瑳は顔を上げた。向かいの席で解析係の室戸が一心不乱に何かを入力していた。真ん丸の顔の肉にまるで眼鏡が埋まっているようだ。そのレンズの奥で蛇のような小さな目が画面を睨みつけている。
「……なに、まだ仕事してんの」
「訓練室トラブったからさぁ、レコーダーの解析。松比良に気付かれないように今晩中にレポート上げろってさ、サビ残確定、今月八十時間ブッチ切り。ブラック企業も真っ青なブルー企業」
「あーなるほど。あの二人は?」
「無事っちゃ無事だし、無事じゃないっちゃ無事じゃない。ウチの係長が医療センターに駆り出されてる。……ああっ、もう、意味が分からんこのデータ」
腹立たしげに室戸がキーボードを叩いた。解析は手こずっているらしい。
「レコーダー、見せてよ。手伝うから」
「ダメダメ。松比良には絶対ナイショって上からの命令。刺激が強すぎるからね。チェイサーのデータに傷でもついたら大変」
「過保護だなあ」
「僕もそう思ってたけどコレはだめだ、うん。ダメ。松比良はダメ絶対」
「ケチ臭え。見してくんなきゃムースくんが童貞だって言いふらすぜ?」
「僕は童貞じゃないって言ってるだろチェイ……ッサァアアアっ? ええええぇッいつからーッ?」
「どォもー、チェイサーこと松比良でぇす。……これ何のギャグ?」
身体も丸い室戸が椅子ごとひっくり返って泡を吹いていた。いくら解析に集中していたからと言って、この口のユルさで情報部にいて大丈夫だろうかと束瑳は思った。
やはりドアの向こう側の記憶は消されたわけではなく、最初から存在しない。おそらく入室するより先に、乱暴な方法で止められたのだろう。
室戸のデスクへ回って覗き込むのは簡単だが、頭痛が酷くて立ち上がる気にはならなかった。
「ま、いーけど。どうせ二時間みっちり二人がセクッてるとこなんざ見てもねえ?」
「セッ……!」
室戸は青くなったり赤くなったりしながら起き上ると、椅子を元に戻した。
左腕で頭を支えながら束瑳はじっと室戸の目を見る。
「刺激が強すぎて見せられないってソレどんなAVよ? 俺に見せられないってんならさ、俺が見なきゃ問題ないんだろ。俺が質問してムースくんが説明してくれんのはオーケー」
「……まあ……そうなるのかな」
「ふうん」
ニヤと束瑳は笑った。「松比良に見つかる前にレポートを上げる」と自分で言ったことを室戸は忘れている。
「勝ったのはバマー?」
「うーん……多分」
「はっきりしねえな、相討ちか?」
「ラザラスにとどめを刺したらバマーが壊れた。そうとしか言いようがない」
束瑳は目を細める。
恭一郎にとどめを刺したら逸希が壊れた。
「ラザラスが調子こいて煽ったんだろ」
「あーそういうとこはあったね。何の意味があるのか全く分からないけど」
「バマーに壊させたかったってことだ、自分のこと」
「はぁ、何のために」
面倒臭そうな様子の室戸に束瑳は眉を顰めてみせた。データの解析は得意でも、人の心の機微には無頓着らしい。データだけでは紐解けないものがあるからこうしてわざわざ人手を割いて解析しているということを、人生経験豊富な十歳年上の後輩は知っておいた方が良いだろう。
「バマーがラザラスを壊せばバマー本人が壊れる。そこにラザラスは賭けたんだよ。ドMで負けず嫌いで自信過剰なアイツらしいやり方だ」
「……えーと」
「ムースくん童貞でも分かるでしょ、恋人殺したら流石にこたえない?」
「いやいやちょっと待ってチェイサー」
「まじデキてんじゃない? あの二人」
淡々と告げる束瑳だったが、室戸が「僕は童貞じゃねええええ」と見当違いなことを叫ぶと、その声の煩さに頭を押さえた。