3
矛盾3
痛む右腕を押さえながら束瑳は跳ね起きた。
荒く呼吸を繰り返し、左手の甲で額の汗を拭う。
寝るにはまだ早い時間で、自室のアームチェアに腰かけたままだった。読みかけの本が、床に落ちていた。
束瑳はもう一度、左手で右腕を押さえる。腕は確かにそこにあった。
ほっと息を吐き出して、なぜそんなことを確認したのか不思議に思った。
(夢を、見た?)
夢にしたって忘れる筈がないのだ。ジョーカーのシステム下では。
思い出せそうで思い出せないその気持ち悪さを、束瑳はジョーカーのチップを埋め込まれて以降一度も経験したことがなかった。
(ジョーカーの支配域外に自分の記憶容量が別にある?)
自分の思いつきに束瑳は驚いた。
ジョーカーの支配域外など、考えること自体が禁忌だ。特に束瑳は記録が専門で、記憶はすべてデータとして蓄積され、監視されている。
束瑳は右手を握ったり開いたりしてみた。
問題はなかった。
きっと、なにか都合の悪い夢を見てデリートされただけのことだろう。
思考は自由だ。おそらく研究対象といった意味合いが強い。野放しにしておいて、都合の悪いことは後から制限する。
束瑳はデスクに置かれた付箋に「右腕」と走り書きをして壁に張り付けた。同じようなメモで壁は埋め尽くされているが、そのどれを見ても束瑳にはピンと来なかった。
きっと、この「右腕」も知らぬ間に記憶から消されるに違いない。なにせ日々の業務で覚えなければならないデータは膨大で、こうした壁に貼ったとりとめのない単語を振り返っていられる余裕もない。
それでも、壁に付箋を貼り続けるのは、束瑳なりの抵抗だった。
抜け落ちている記憶がある。それに気付いた当初はパソコンへ入力した。保存場所もパスワードも分からなくなって、ノートへ書くようになった。保存場所とパスワードが分からなくなったことに気付いただけでも奇跡だった。何せ、保存したことすら憶えていなかったのだから。
職位が上がって部屋を引っ越す時、記憶の違和感を書きなぐったノートがあちこちから出てきた。どのノートも、最初の数ページで途切れていた。書いていたことも、それを保管した場所も憶えていなかったということだ。
それ以来、束瑳はこそこそと隠れて記録することを放棄し、堂々と付箋に書いて壁に貼ることにしている。
ジョーカーシステムが流出したとき、政治家たちが恐れたのは、システムを悪用した他人の記憶への侵入と改竄だった。保護する機能や法整備が整う前の流出のせいで、商用開発は絶望的になったと習った。類似品や改造品が多く出回り、自分たちはこうして取り締まりに奔走する。どこかの国では軍用としての開発が進んでいるとも聞く。
ここも同じだと束瑳は思う。
研究所などと看板を掲げていながら、逸希や恭一郎のような戦闘要員を抱え、そして記憶や思考は組織の都合の良いように書き換えられる。
ピッと小さな通信音が鳴って現実の視界にオーバーレイでウインドウが開く。相手の顔を認識して回線をオープンにした。
解析係の室戸だ。
『バマーとラザラズの両名と連絡が取れない。回線を遮断しているようだ』
室戸は施設内にいるときでさえコードネームを使用する。束瑳や逸希とは異なり大人になってからここへ来たせいか、それが妙に芝居がかっていて可笑しい。
『知らねえよ、セックスでもしてんじゃねーの?』
『セ……っ、ふ、二人とも男、だよな?』
『このご時世に偏見? 分かってないねえ』
『そ、そ、そそれにしたって、もう、二時間にもなるんだ。……そんなにっ、掛かるもんなのかっ?』
『なに、ムースくん童貞なの?』
戦争ごっこが大好きな堅物には意地悪な冗句だろう。せせら笑いながら束瑳は卓上のデジタル時計へ視線を走らせた。
『なっ、なななななに言ってんだよ、そんなわけないだろう! ぼぼぼぼぼくは君より十も年上なんだぞ!』
『分かった分かった。俺のが勤続年数長いから先輩だけどネ』
『そうじゃなくて人生経験って話をだなぁっ』
『憶えておく』
うぎゃああああと悲鳴に近い念が送られてきて束瑳は苦笑しながら回線を切った。マルチで接続を要求した逸希と恭一郎には繋がる気配がない。
二時間。
二人が回線を遮断するとしたら、場所は医務室ではなく訓練室だ。
自室を出て、足早に居住エリアも抜ける。束瑳は一直線に訓練棟へ向かう。足はいつの間にか早歩きから駆け足に変わっていた。
逸希に、恭一郎と対戦しろと唆したのは束瑳だ。
無論、逸希の方に充分な勝算があると見越してのことだった。それこそ手加減するだけの余裕もあるだろう。束瑳の持つデータを照合するならば決着は五分も掛からない。
走りながら束瑳は神経を研ぎ澄ませる。逸希ですら束瑳の気配が読めると言った。確かに、回線など開かなくても同じシステムなのだからその気になれば不可能ではない。
読まないようにしていたのだ。余計な記憶が増えることを恐れて。
読むのは、元々苦手ではない。嫌いなだけだ。
エレベーターのボタンを連打して、束瑳は結局待つのを諦め階段へと走る。血生臭いにおいがしていた。
読み取れるのは断片的な映像。それから、ガチャガチャとした音。元は音楽だった成れの果て。
拾えているのがどちらの意識なのかすら束瑳には分からない。予想するだけだ。
「……心中でもする気か」
二人のいる訓練室の前で束瑳は立ち止った。
中は血の海だ。
ドアを開ける前からそれを予感する。二人のいる部屋が、束瑳には正確に分かる。データ照合と推測ではなく、拾い上げた能力波から読み取れる。
意を決して扉のレバーに手を掛けた。
束瑳の意識はそこで途切れた。