2
いつだったかこうして恭一郎と対峙したことがあった。それがいつの日のことか逸希は思い出すことができない。
代わりに思い出すのは大規模遊園地。任務の最後で地雷を踏んで獲物を一人仕留めそびれた。地雷を踏んだ初任務の新人が完全に壊れ、庇った束瑳が深傷を負った。束瑳にはその時の記憶がない。憶えていてはその後普通に生きていくことが困難だからだ。そして、逸希自身もまた、その時の記憶は曖昧だった。
任務の内容は遊園地の来客を狙った集団マインドコントロールのテロリスト一味を捕獲すること。破壊を厭わないという指令も出ていたため、逸希自身は一人も思考が無事という意味での生け捕りにはしていない。一人仕留めそびれはしたものの、無事にテロを阻止した上、被害を天秤にかければ敗北ではない。仕留めそびれた一人も逸希の反撃を受けて到底無事では済まされないだろう。
右腕が吹っ飛んで殆ど意識のない束瑳を抱え、救護スタッフの待つバンへ向かった。束瑳は何か巨大な魔物に喰われたと意味不明なことを訴えていた。そんなこと、あるはずがない。普段冷静沈着な束瑳がこれほど混乱するような空想を、敵は彼の脳に叩き込んだのだ。
現に遊園地を楽しむ群衆は、誰一人としてふたりを気にも留めなかった。右腕が千切れて血まみれの束瑳のことも、それを抱える逸希のことも。ただ寄り添って歩く男同士の二人組からそっと目を反らすだけだ。
常人には見えない大怪我。逸希の目には力無く垂れ下がる束瑳の右腕が徐々に見え始める。
ダメージを受けた束瑳の精神は、読むのが大して得意ではない逸希にすら血まみれの彼を見せ付けていた。それだけ攻撃者の思念が強かったということだ。そして、表れ始める右腕は、束瑳の意識レベルが低下していることを意味していた。
(誰か……!)
夕方から夜へと向かう遊園地は、これから始まるパレードに向け、パーク内で夕食をとった後の客でごったがえしていた。自分より長身の束瑳を抱えた逸希は、前に進むことすらままならず、祈るような気持ちで緊急回線を開く。
『こちらバマー、チェイサーが負傷。至急医療班の応援を要請する』
『こっちも手一杯なんだ。連れてくることはできないか?』
『やってっけどッ、殆ど意識ねえから俺ひとりで運ぶのキツいんだよ!』
男勝りな女性スタッフに向かって逸希は心の中で怒鳴りつける。表れ始めていた束瑳の腕が再び消えた。
「煩ぇ逸希……」
減らず口が自慢の束瑳が蚊の鳴くような声で呻き、身を捩って逸希の腕から逃れる。左手で頭を押さえ、ふらふらと三歩も足を進めないうちにその場へ倒れこむ。そして逸希は彼の口からゴボリと大量の血の塊が吐き出されるのを見た。周囲の一部から悲鳴が上がる。この惨状が、一般人の目にすら見えていることに逸希は驚愕した。
『こちら……チェイサー。……記録を、停止……します』
『駄目だ。君の記憶は大事なデータになる』
『それじゃ束瑳が死んじまう! 今すぐ束瑳のシステムを切ってくれ!』
殆ど呂律の回らない束瑳と本部との回線に割り込み、逸希は悲痛な声で訴えた。束瑳を助けるにはそれしか方法はない。ジョーカーのシステムが作動していなければ、忌まわしい大怪我の妄想からは多少なりとも逃れることができる。
『バマーか。君は何か勘違いをしていないかね。チェイサーの負傷は、本当の負傷ではない』
『ただの妄想で片付ける気か!』
『死にはしない。君はチェイサーを必ず持ち帰るように。手段は問わない』
「……ふざけんな」
必要な伝達を終えて通信は無情にも一方的に切断される。逸希は地面に拳を打ち付け、そのまま束瑳の元へと這って行った。束瑳はもう完全に意識を失っていた。
「あの……救急車、呼びましょうか」
パレードの観客のひとりが不安そうに声をかけた。心配というよりも恐怖の方が強そうだった。彼女の目にも、消えたり現れたりする右腕が見えたのかもしれない。
「いや、……大丈夫」
逸希は、束瑳の右腕を引っ張って起こしながら背中へと背負った。意識がないのであれば、痛みや苦痛を感じることもない。それがほんの少しだけ逸希の気を楽にさせた。
脳内に埋め込まれたジョーカーという名のチップさえなければ、こうして束瑳が負傷することはなかった。きっと物覚えの良い彼のことだから、例え助かったとしても今夜与えられた傷は深く彼の精神に刻み込まれることになる。
チカラは所詮弱点だ。
食堂で束瑳の言った言葉を思い出す。鼻腔を擽るのはカレーの匂い。
(あれ……?)
逸希は僅かな時空の捻れを読み取る。
急速に失われる背中の重み。果たしてそれは本当に束瑳のものだったのだろうか?
情報部解析班記録係の彼が、こうして現場にいたはずがない。
「甘えよ、恭チャン」
ニヤリと笑う逸希の額からは汗が伝い落ちる。
向かい合う恭一郎は遊園地内の建屋に背を預け、両脚を投げ出して座り込んでいた。パレードからは死角になる場所で。微かにパレードの音楽が聞こえる。
探る記憶との一致。
初めて恭一郎と出会った日の夜。
彼は負傷し、身動きできない状態だった。
逸希は任務の最後で取り逃がした一人を探している最中で、束瑳ではない手負いの誰かを医療班へ引き渡した後だ。束瑳でなければあれほど取り乱したりはしない。上層部がまるで物のように持ち帰れと命じたのが彼でなければ――彼のチップでなければ、逸希は何の疑問も持たずに首を切り落としてでも任務を遂行する。
現場で最も冷酷なのは、冷静沈着な束瑳でも理性的な恭一郎でもなく、逸希だ。でなければクラッシャーの異名は務まらない。
「逸希が……フィールドに設定するならここだと思っていたよ。……俺は、身動きできる状態じゃなかったからね」
苦しそうに胸を喘がせながらも恭一郎は笑みを浮かべて見せた。
「なるほど、逸希の弱点は相変わらず束瑳か。……妬けるなあ」
「ただの腐れ縁だろ。子供の頃から知ってんだ」
「重ねた年月には、勝てない。か」
「目の付け処は悪かねえが……相手が悪かったな」
逸希は拳銃を構えると、恭一郎の眉間にピタリと銃口を合わせた。
ジョーカーは俺の庭だ。
逸希は舌舐めずりして獲物を観察する。
ここではかまいたちで相手を切り刻むのも、火の玉で燃やすのも逸希の思うままだ。
最も残酷な映像で嬲り殺しにしようか。それとも格好良くドラマみたいに銃で一発で仕留めるか。なにせ自分にはこのリボルバーがよく似合う。
「その銃は撃てない」
恭一郎が強く吐き出す。
それは呪詛だ。
想像が支配するこの世界で、言葉はシンプルだが相手が信じれば最強の武器になる。
「悪あがきだ」
逸希はあっさりと切り捨てた。相手のシステムに直接バグを書き込んで破壊するのが得意技の逸希と、相手のシステムを読み取るのが得意な恭一郎では、初めから勝負になる筈もない。むしろ、読取専門の恭一郎は、逸希の攻撃を正確に受け入れるだろう。
逸希としては訓練棟の一室へ入った瞬間にはケリを付けるつもりでいた。睡眠不足の恭一郎を大人しく寝かしつけるには、束瑳の言うとおり殴って気絶でもさせるほかない。恭一郎は逸希を甘やかしはするが、逸希の言うことなど聞きはしないのだから。
二人共通の記憶の中でも逸希が最も有利になる条件でフィールドを設定した。逸希の記憶が曖昧な部分で束瑳を差し込まれたのは予想外ではあったが、逸希のことをよく知る恭一郎らしいやり方とも言えた。
「逸希に、俺は撃てないよ」
自信たっぷりに続けられた呪いの言葉は真綿のように柔らかく逸希に纏わりつく。
「俺を、撃てないでしょう」
二度、重ねて。
念を押す。
このやり方は、散々自分がやるやり方で――逸希の手の中で拳銃がぐにゃりと熔ける。
チッと逸希は舌打ちをする。
ふりだしだ。
けれど、束瑳に差し替えた記憶を看破した以上、恭一郎に勝ち目はない。
「まさか俺を眠らせるのが目的とはね」
「勝手に人の心覗いてんじゃねえ」
「そういうゲームだよ、逸希。本気で来ないと、壊れるのはお前だ」
「調子に乗ってんなよ、今ラクにしてやる」
「本当に、あれは束瑳じゃなかった?」
悪あがきにもほどがある。恭一郎のこういった諦めの悪さが、逸希は嫌いではない。事実、何度もこの諦めの悪さに救われてきた。
「俺は記憶を引っ張り出すのは得意だが、捏造するのは得意じゃない。それはお前の仕事だからね。……あれは、本当に束瑳じゃなかった?」
「束瑳があんなところにいるわけがない」
「俺は、自分の記憶と、お前の記憶を合わせて整理しただけだ。あれは、本当に束瑳じゃなかった?」
「くどい! お前の記憶の方が見間違ってんだろ」
「逸希は憶えてないからね。あれは、束瑳だったよ」
湿った風が吹き抜けた。あの日の夜の遊園地は夏だった。
目の前には深手を負って動けない恭一郎がいた。
パレードの音楽が、遠くで聞こえる。
「……束瑳が、こんなところにいるはずがない」
「どうして?」
「あいつは、記録係で、現場には来ない」
「それは今の話だ。帰投してからお前の記憶を俺が読み出して束瑳に記録させてる。じゃあ俺と組むまでは? 束瑳はどうやって記録していた?」
「……読取ができるのは何も恭チャンだけじゃねえよ、他にも――」
「俺が来る前、束瑳はお前について行って直接記録を録っていた。現場にいるなら記憶する以外に特殊な能力は要らない」
まだ居なかった頃のことを恭一郎は断定で告げる。
惑わされるな。
これは、記憶の書き換えだ。
逸希は首を左右に傾けてコキコキと鳴らす。
身体の緊張を解いて、身構えすぎず、相手のペースに乗らない。
ピシッと恭一郎の周囲で風が薙いで、頬の皮膚を裂いた。
呪詛は、聞かなければ効果がない。最大の防衛は、「聞かない」ことだ。
逸希は両足を揃えてぴょんぴょんとその場を飛んだ。
また一つ、恭一郎の肌に傷が増える。
「悪趣味だな……嬲り殺しにでもする気か」
「お前が寝たらすぐにでもやめてやる」
「随分な子守歌だ。生易しすぎて眠れやしない」
打つ手無しと思ったのか、恭一郎にしては自棄気味な台詞だった。
「強がんなよ、目ぇ開けてんのもやっとの癖に」
二ヶ月余り。他人の感情に晒され続け、殆ど眠れていないところに古傷の記憶へ引き戻した。その上で更に細かい傷で痛め続ける。いくら恭一郎の精神が強靭でもこたえない筈がない。
少し、深く風の刃を入れる。血飛沫が、その風に乗せられて舞い上がった。
「そろそろ観念した方がいいぜ、恭チャン。それともまだヌルい?」
「……そうだな、今更こんな掠り傷」
「そういやその怪我の理由、聞いたことなかったな」
「お前は他人に興味がないからね」
恭一郎はわざと不快な言葉を選ぶ。挑発には乗るまいと、分かっていても逸希は眉を顰めた。乱れるステップを、恭一郎は見逃しはしなかった。
「お前がやったんだ。俺が、魔物に束瑳の腕を食わせた時に」
くつくつと恭一郎がくぐもった笑い声を漏らす。
トンと逸希の両足が着地してそれきり地面を離れることはなかった。
「ヌルい子守唄は聞き飽きた。逸希、本気で来なければお前もあの魔物に食わせる」
――こんなところに束瑳がいるはずかない。
――見ィつけた。仕留めそびれた最後の獲物。
心の中にいつも二匹の悪魔がいる。今殺すべきか、もうあと少し先延ばしにすべきか。囁きを聞きながら逸希はどちらの声にも従わない。なぜなら逸希がそれらを従わせる側だからだ。
生温い風があたりの湿り気を巻き込みながら吹き上がる。
パレードの電飾が、遊園地の灯りが、黒い渦となって夜空を染めた。
まるでブラックホールだ。
穴のような、黒い塊。
時折そこかしこから臭気を吐き出して、それが生きていることを知る。
噂。陰口。嘲笑。
怨み。妬み。憎しみ。
黒い塊はひとの感情を糧に成長を続ける。
「なるほど。怖えな」
見上げる逸希は口許に笑みを浮かべた。
コレに食われるのはさぞかし恐ろしかっただろう。それは目にするだけでも、耳にするだけでも、自らが穢れを負いそうなくらいに醜い化け物だった。
(残念ながら、俺、他人にキョーミねえから)
噂も、陰口も、悪口も。
黒い魔物が持っているありとあらゆる黒い感情に対して興味がない。
さっき、誰かがそう言った。
そのとおりだと逸希は思う。
「来い、化け物。餌を与えてやる」
魔物が咆哮を上げて巨大な体躯をくねらせた。
主を探す素振りに見えたが、もう逸希は見上げるのをやめ、目の前の手負いの獲物へと照準を定めていた。
この世界は俺のもの。
「俺に従え」
支配者は、俺だ。
逸希は天へ向かって高く右手を上げる。
腕を捻ると黒い渦が呼応した。
掲げた手を拳に握り。
もう一度獲物を見据える。
束瑳の腕も、持ち帰れと命じた上層部も、何もかもがどうでもいい。
ただ、ようやく仕留められるその一瞬を思うだけで心が震える。
これが快楽でなくて何だと言うのか。
逸希は掌を開きながら勢いよく腕を振り下ろした。
黒い巨大な塊が吼える。
渦を巻き、逸希の腕に従って。
獲物の腹部を貫いた。
恭一郎の腹に大きな空洞ができて、向こう側に建屋の壁が覗いていた。
「これで……やっと、眠れる」
開いた恭一郎の口からはゴボゴボと赤い血が溢れた。黒い魔物は恭一郎の腹の穴に吸い込まれて跡形もない。
遠くでパレードの音楽が聞こえる。
恭一郎の身体が傾いて地面に崩れ落ちるのを、逸希はただ見ていた。
現実の世界なら即死だろうに、恭一郎は恐ろしい精神力で意識を保っていた。
逸希は思わず後ずさりした。
「やっぱり、逸希には……俺が必要だな。読みが、……甘い」
碌に見えもしない目が、虚空を見つめたまま左右に揺れる。恭一郎が、逸希の姿を探していた。
地面に這いつくばる恭一郎が、血を吐きながら必死に手を伸ばす。
なぜ。
(なんで、こんな怪我して)
リロード。
再読込して記憶を回す。
(そうだ、コイツが束瑳の腕を魔物に食わせたっていうから。あの時逃がした獲物だったから)
――束瑳はこんなところにいるはずがない。
「俺が、あんな魔物……書き込めるわけ、ない、でしょう」
束瑳の腕を食らった魔物の使い手は、束瑳の精神を通して逸希にまでその姿を見せるぐらいの書込能力者ではなかったか。
「じゃ、さっきの、は……」
痺れる脳で逸希は声を絞り出す。
口の中が乾いて仕方がない。
「……お前の、中にいたから……」
魔物が。
だから読み取って引っ張り出した。
逃した獲物が恭一郎でなかったのならば、何のために自分は恭一郎を手にかけるような真似をしなければならなかったのか。
なぜ、恭一郎が壊れなければならないのか。
――ピシィ。
と、世界に亀裂が入る音を逸希は確かに聞いた。
「なん、で……」
伸ばされた手に向かって逸希は足を踏み出す。
分かるのは、最初から恭一郎の目的が逸希の中の魔物を引きずり出して自分自身を攻撃させることにあったということだけだ。
「逸希、ごはん……ちゃんと食べて」
伸ばされた手が地面を這ったまま力を失った。
最も伝えたかった言葉を残して恭一郎が力尽きる。ここまで破壊してしまって、復旧は絶望的に思えた。
「恭……」
逸希は目を見開いたまま、ただ懸命に恭一郎の元へと足を進める。それほど遠い距離には見えないのに、足は鉛のように重く、思うようには動いてくれない。
早く。早くフィールドを解除して、緊急回線で医療スタッフを呼ばなければ。
思考は、見えている世界とは別の時空を猛スピードで流れていく。早すぎて掴み取ることができず、逸希は世界に取り残される。
(なんでコイツ、俺がメシ食えてないって知ってんの)
恭一郎には、逸希のことで知らないことなどきっと何一つない。
そんなことは、予め分かり切った当然のことじゃないか――。
(コイツ拾う前、俺どうやって生きてたんだっけな……)
恭一郎のいない世界を、逸希はうまく想像することができなかった。
これから、その世界が待っている。
ピシッ、ピシッと世界の割れる音がする。フィールドは逸希が解除しなくても勝手に壊れてくれるようだった。
ようやく辿り着いた恭一郎の元に逸希は跪いた。地面は血の海で、そこに浮かぶ恭一郎の顔がやけに白かった。
夜空が剥がれ、ぽろぽろと降り注ぐ。パレードの電飾がぼやけて広がる。遠くで鳴っていた音楽は大きくなりすぎてあたりに反響していた。
すべてが形を成さなくなっていく。
解除が難しければせめて離脱して、恭一郎を助ける手立てを――。
別の誰かが考えているみたいだった。
逸希は恭一郎のすぐ隣に身を横たえ、紅い海に浮かびながらゆっくりと目を閉じた。