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矛盾  作者: 藤崎 京
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 カレーは正義だ。

 その昔、カレーは飲み物だといった人物がいたそうだが、逸希(いつき)にとってカレーは正義だ。

 なにせ小さい頃から慣れ親しんだ味であり、各家庭ごとに味のバリエーションがあり、かつ大きく外れた味は存在しない。

 カレー味といえば万人が共通して思い浮かべる味がある。美味しいカレーや美味しくないカレーはあっても、不味いカレーというのは滅多には存在しないのだ。

 逸希は指に挟んだスプーンを器用にクルリと一回転させ、ルーと白飯の境目に突っ込んだ。

「聞いてんのかよ」

 不機嫌に放った声は、一応目の前の男には届いていたらしい。束瑳(つかさ)が、読んでいた本から僅かに目を上げた。

「聞こえてる。逸希の声は普通にしてても煩い」

「聞こえてんのと聞いてんのとは違えだろッ!」

「煩えっつってんだろ。こっちは聞きたくもねえんだから黙ってメシ食ってろ」

 聞こえてくること自体が不愉快だと束瑳ははっきり宣言してページを捲った。逸希と目が合ったのはほんの一瞬だ。イライラしながら逸希がスプーンで皿をつつきまくると、昼食の賑わいが去った食堂にはカツカツと嫌な音が響き渡った。

 まるで駄々っ子のような仕草に束瑳の眉が跳ね上がる。その後彼は心底呆れ果てた様子で深い溜息を吐き出した。

 食堂で遅い昼食を取る職員が、遠巻きに二人を見ていた。それに気付いて逸希は舌打ちをする。慌てて視線を逸らす人々に、今度こそ逸希は口を閉じた。

 二人が煩く騒いでいるから遠巻きにしているわけではない。

 ――逸希を避けているのだ。

 誰からも愛されるカレーは正義だが、そうではない自分は到底正義のヒーローにはなれやしないと逸希は思う。

「逸希。訓練の対戦相手がいなくなんのは自業自得」

 それでもこうして逸希の向かいの席を陣取ってくれる束瑳に感謝すべきだろう。

「何人目だ? 訓練で壊したの」

「んなの憶えてるわけねえだろ」

「やりすぎると事故で処理できなくなる。相手してくれるヤツがいなくなるっていう単純な問題じゃねえのよ」

 束瑳は本を置くことなく淡々と言うが、彼に掛かれば逸希が訓練中に対戦相手を何人壊したのか、果ては任務で破壊した人数も含めてあっという間にはじき出せるだろう。それを教えてくれるかくれないかは残念なことに状況と機嫌によるが。

「別に殺すわけじゃねえし」

「今月入って管理棟の中庭に飛び降りたヤツが2人いる。先月は3人。立派な殺人未遂だと思うけどね」

「管理棟の中庭なんざ元々ネット張ってあんじゃん。死ぬ気ねえだろ」

「逸希のその目出度い思考回路は尊敬に値する」

「壊すぞテメェ」

「さっきから言ってんだよ、お断りだってな」

 束瑳が指しているのは、まさにこの言い合いの発端だった。

 訓練で手加減のできない逸希と対戦しようという物好きなど、もうこの施設には存在しない。そもそもクラッシャーの異名を取る逸希は、相手の精神を破壊することに関して負け知らずだ。その、最強の逸希が、手加減せずに壊しにくるのだから、相手をするのは自殺行為に等しい。

 誰も相手をしてくれなくなって困り果てた逸希は、自分とはまだ距離を置こうとしない束瑳を呼び出して訓練相手を頼んだのだった。一番最初にはっきりと断られたにも関わらず逸希はしつこく食い下がる。しつこく食い下がったところで束瑳も頑固で意志を曲げないのだが。

「ちゃんと。ちゃんと手加減するからさあ、頼むよ束瑳ぁ」

「お前が? 俺に? 手加減? 無理だろ、冗談だろ」

「……デスヨネ。束瑳は俺に手加減されたくねえもんなー」

「お前が俺相手に手加減できねえっつー話してんだよ」

「確かにあんま自信ねえわ、ソレ」

 大体、束瑳とは顔を見れば言い合いか小突き合いしかしていない。束瑳が嫌味しか言わないのが悪いと逸希は思う。

「そもそも俺、情報部。非戦闘員。俺の能力知ってる?」

「なんかアレだろ、やたら記憶力いいやつ」

「おーご明察。忘れてんのかと思ったぜ」

「……あのな。いくらお前ほど記憶力良くなくったってさ、こーんな小っせえガキの頃から一緒にいんのに忘れっかよ」

 束瑳はもう本を読んではいなかった。背もたれに上体を預けたままではあったが、気持ち的には身を乗り出さんがばかりに活き活きと逸希を苛めに掛かっていた。こうなると逸希には不利だ。今の時点で形勢が決まっていなくても、それは経験で分かる。なんだか分からないが束瑳は「最後の一手」を持っている。きっと束瑳に付け入る隙を与えるような何か重大な失言をしてしまったのだ。逸希は口の端をぷるぷると震わせた。

 切り札を切る直前に、高揚を抑えられなくなる気持ちなら逸希は充分知っていた。

 それは狩りの本能がそうさせる。そこで思い留まって手加減などできるはずもない。あと一手で仕留められるという、その瞬間に。

 じわじわと首を絞めた相手が苦しげに顔を歪め、もう限界というところで一気に力を加えてへし折る。そのギリギリ直前の高揚を例えるならば、――それは快楽だ。

「……逸……希」

 苦しげな声が更に逸希を駆り立てる。今だ、いいやまだだ、と頭の中で悪魔が嗤う。

 全身の毛孔から一気に汗が噴き出て、一瞬で蒸発するような身の毛のよだつ想像に、逸希は身震いしてから全身の力を抜いた。

 無意識にありとあらゆる筋肉が緊張していた。

 束瑳に気付かれぬよう慎重に息を吐き出し、ふと前を見ると束瑳が自分の首元を手でさすっているところだった。

 束瑳はもう、先ほどまでのような勝ち誇った表情を浮かべてはいなかった。肩が、浅い呼吸を繰り返していた。

 逸希の能力の本質は、残酷な想像を相手の脳に直接書き込んで強制共有させるところにある。けれどこんな日常生活で無作為に能力を行使していないつもりだった。

「憶えんのが得意ってことはさ、俺ねえ、忘れんのが苦手なんだよ」

 低い声で束瑳が言った。

 もちろん、実際に首を絞めたわけではない。だが、束瑳はそう感じなかったかもしれない。

「なので、俺のココロって掠り傷ひとつついても治んのにすげえ時間かかんの」

「……ああ」

「逸希と違って俺はデリケートだからサ」

「……それはちょっと同意したくねえんだけど」

「まあトラウマ抱えやすいっつーね」

「弱えな」

「チカラってのは所詮弱点だ」

 人の心を壊していくことしかできない逸希には、束瑳の言う弱点の意味はよく分からなかった。弱みがあるとすれば、こうして近寄ってくれる存在がとても少なくなってしまったこと。それと、うっかり身近な人を傷付けてしまうかもしれないという、恐怖。

「頼むなら恭一郎に頼めよ。俺なんかよりよっぽどお前のこと知ってんだし」

 だから頼めないのだ、と逸希は自嘲した。言葉にしないまま、再びスプーンでカレーを掻き混ぜる。固くなった手ごたえは、それがすっかり冷めてしまったことを伝えた。

「俺がなんだって?」

「うぉああっ」

 突然現れた恭一郎の声に、逸希は椅子から転がり落ちそうになる。それに構いもせず恭一郎は立ったまま束瑳に向かって「よっ」と手を上げて笑いかけた。対する束瑳の方は少し肩を竦めて「ドーモ」と返すだけで素っ気ない。束瑳の態度は誰に対してもこんなものだから、恭一郎の方も意に介したりはしない。

「恭チャンさ……気配消して来んのやめろよ心臓に悪ィ」

「逸希と束瑳が俺の陰口言ってる気配がしたからこっそり盗み聞きしようと思ってね」

「あーなんだっけ、恭一郎には十キロ先の逸希の声が聞こえんだっけ? で、逸希には恭一郎の気配が五百メートル半径で分かんだっけ? 気持ち悪ィわ」

「回線開いてたら普通でしょう」

「回線閉じてても俺、束瑳の気配ぐらいなら読めるけどなあ」

「うん、俺も読めるね」

 束瑳がげんなりした目で二人を見た。そして、とりあえず座れ、と勧めるつもりか、恭一郎の前に置かれた椅子の足をコツコツと蹴った。

 能力者同士、テレパシーで会話することは任務遂行中なら普通のことだ。そういう訓練ももちろん受けている。ただ、いつでも脳内での会話が自由にできるというわけではなく、頭の中に埋め込まれた携帯電話で相手の番号へコールする程度の手順は必要だ。それを能力者たちは「回線を開く」または「回線を繋ぐ」というような言い方をする。

 そのアンテナ感度の高い恭一郎が、回線を開かなくても気配を察知するのは、それはそういう能力だからとしか言いようがない。恭一郎が相手の記憶や感情を読み取り、逸希がそこを狙う。二人が最強のバディと言われるのはそういうわけだ。

「俺の気配はね、確か音楽が鳴るんでしょう」

「指定着信音、エレクトリカル・パレードのやつ」

「だから意図的に鳴らさないようにすれば気配は簡単に消せるよ」

 恭一郎は椅子に座りながら逸希に向かってさらりと口にした。少し窮屈そうに長い足を組む。

「エレクトリカル・パレードってまた似合わねえな、どんだけノー天気なんだよ。で? 俺の気配も何か曲かかんの?」

「ダーンダーンダーンってやつ」

「は?」

「レクイエム。怒りの日」

「あっ、恭チャン勝手に人の頭ン中読んでんじゃねえよ!」

「逸希は心の声が大きすぎて読みたくなくても流れてくるんだよ」

「ちょっと待て。なんで恭一郎がエレクトリカル・パレードで、俺がレクイエムなんだ。そんなに俺のことが嫌いか」

「むしろ逸希は俺のことが好きすぎるだけだから。束瑳は気にしなくていいよ」

「違えしッ! 恭チャン、こういうときはちゃんっと、正確に心ん中読んでくれ!」

 ああもう、と逸希はカレーの乗ったトレイを持ち上げ、足を踏み鳴らしながら返却口へと向かった。

 その背を二人が見送る。

「報われないねぇ」

 先に口を開いたのは束瑳の方だった。

「気配消して、汗かくほど慌てて駆け付けてんのに、当の本人は気付いちゃいない」

 恭一郎は黙ったまま逸希の背に視線を向けたまま答えない。

「逸希が俺の首絞めて殺そうとしてんの視て止めに来たんだろ」

「まさか。逸希が意図的に送り付けて来ないとさすがに視えないよ」

「お前なら意図的に視ようと思えば視える筈だ」

「まあ意図的に視ようと思えば。……四六時中受信可能な状態にアンテナ張っとくのって割と冗談じゃないんだけどな。見たくないものも視えるし、聞きたくないことも聴こえてくる。疲れるよ」

「だから気付いてねえ逸希に腹が立つんだよ。それと、お前にも」

 腹が立つと言いながら束瑳の声は普段と変わらない。恭一郎は逸希から視線を外し、それからもう一瞬だけ逸希の方を見た。

 逸希が戻るまでの時間を、距離で測っている。それに気付いて束瑳は呼吸でタイミングを計る。恭一郎は逸希に背を向け、その気配と足音を拾うのに注力する。

「俺が、気付いてないとでも思ってんのか?」

 逸希が戻る少し前に席を立つつもりだった恭一郎の行動を、束瑳が先回りして制した。

 読み合いで負ける気はしなかったが、結局仕掛けるタイミングで束瑳の方がうわ手だった。

「なになに、今度は俺の悪口?」

「今度はって、やっぱり二人で俺の陰口言ってたんじゃないか」

 束瑳の鋭い視線を受け流し、恭一郎は普段と変わらない柔らかな口調で逸希を詰る。けれどそうして話題を混ぜ返すつもりでも、束瑳には通用しないと頭の片隅では知っていた。

「逸希。お前に負けた連中がなんで全員揃いも揃って中庭に身投げしてるか知ってるか? コイツが全部裏で介入してるからだ。お前と対戦相手の頭ン中、四六時中監視して、相手が自傷行為に走る寸前で管理棟の屋上へ誘導してる。中庭に飛ぶんじゃ死にはしないからな」

「え……?」

 戸惑う逸希の方を、恭一郎が見ることはなかった。意を決したように唇を内側へ巻き込んで湿らせる。開いた時には息が漏れた。

「……読んでいれば気付くことはできる。けれど止めるだけの力が俺にはないからね」

「それで一番ケガしにくい中庭投身自殺未遂へ誘導ってわけか」

「いつから気付いてた?」

「2人目が飛んだ時、1人目と飛んだ位置と方向が全く同じだった。3人目の前に監視システムを仕込んで解析したら、お前の波形が上がってきた」

「……随分早い段階で。それにしては未だ俺に何の処分もないのが妙だな」

「能力波の監視システムはウチの部署にあるし、解析担当に回さなくてもお前らの波形ぐらい俺は正確に憶えてる」

「システムの持ち出しは服務規程違反じゃないか?」

「許可もなく人の頭ン中覗きまくんのは服務規程違反じゃ済まされねえな。そういう連中を刈り取るのがおたくらの仕事でしょうが。逸希、コイツ殴っていいぞ」

 それまで茫然と話を聞きながら立ち尽くしていた逸希は、突然名を呼ばれて二人の顔を見比べた。二人とも逸希と違って滅多に感情を表に出すことはないのに、今は逸希ですら束瑳が怒っているのが分かる。普段はもう少し諦めの悪い筈の恭一郎からは観念した様子しかない。

「なんつーか……俺普段からコイツには覗かれ放題だからサ。麻痺しちゃってンのよ」

 えへ、と逸希が笑うと、二人が同時に溜息をついた。

「今回は別として、勝手に覗いたりしないっていつも言ってるだろ。逸希の場合は読みたくなくても勝手に漏れてるから」

「いいからさっさと気絶するまで殴って医務室連れて行けよ。どうせソイツ、二ヶ月近くロクに寝てねえから」

 ギョッとしたように見下ろした逸希に、今度は恭一郎の方がぎこちない笑顔を浮かべてみせた。

「いや、そこまで寝不足ってわけじゃないから大丈夫だよ」

「いいかよく聞け逸希。人の心を覗きまくるってのは、普段人が隠してる悪意や疲労に触れっぱなしってことだ。普通の人間ならとうに発狂するレベル」

「分かった、医務室連れてく」

「ついでに逸希もカウンセリング受けとけよ。破壊衝動がどう考えても異常。そんなに訓練する必要ねえだろ、お前のは壊したくて仕方がないっていう病気だビョーキ。最近任務なくてストレス溜まってんじゃね?」

 逸希と恭一郎は互いに顔を見合わせた後、束瑳の方を見た。束瑳は言いたいことを言うだけ言ってすっきりしたのか、澄ました顔で机に置いてあった本へと手を伸ばす。

 恭一郎が逸希に向かって手招きして耳元へ口を寄せた。

「束瑳に逸希と同じチカラがあったら俺たち今頃生きてないな。お前より容赦ない」

「読む方もチカラあったら恭チャンより上じゃね?」

 二人は今度は恐る恐る束瑳の方を見た。

 目の前の陰口が聞こえていない筈もないのに、束瑳は本へと視線を落としたままだ。

 恭一郎がこっそりと席を立つ。

「記憶した。一言一句忘れねえから」

 本を読みながら恐ろしい宣言をする束瑳に背を向け、二人は逃げるように食堂から駆け出した。

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