龍馬を斬った男
龍馬を斬った男は、誰なのか?誰でも興味持ちますよね!
お答えしましょう。
と言いたいのですが、ごめんなさい!
この暗殺事件に関してこれまで、星の数ほどの書籍に数々の諸説が述べられています。
しかしながら、決定的な諸説はなく 「日本史4大ミステリーの一つ」 とされています
新撰組隊士説、幕府見廻り隊士説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説、その他も色々ありますが「完全な犯人像」を確定しきれていません。
困りましたね!
僕の得意な偏見と想像で推理してみましょう。
犯人を捜す早道は、犯行現場と言われていますので、現場に行って手口や証拠品など詳しく調べてみましょう。
龍馬暗殺の現場状況
普段龍馬は、刺客対策として近江屋裏手の土蔵を利用していたが、風邪をひいていた為、母屋の2階に移っていた。
午後8時半ごろ、峰吉に軍鶏を買いに行かせ、龍馬と慎太郎の2人は、倒幕論について熱く論議を始めた。
午後9時頃犯人が「十津川郷士の者だが、才谷先生(龍馬の変称)がご在宅ならば、お目どうし願いたい」と名刺を出した。
昔相撲取りの藤吉が名刺を受け取り、2階の龍馬の所へ行った。(藤吉は2階に行く前に切られたかもしれない)
3人が戸口から入って主人を脅した。入り口に1名ないしは2名。1階の近江屋新助をはじめとする住人脅しに1名。裏手に1名。(人数も定かでない)
藤吉が龍馬に名刺を渡して戻る途中に襲われて斬られる、藤吉が転げ大きな音がした。その物音に対して「ほたえな!」(騒がしい!)と龍馬が言った。
犯人は、この声か、藤吉が名刺を持って2階に行ったので、龍馬の居場所が分った。
犯人達は、2階の座敷に入り、正座して「坂本先生お久し振りです。」と手ついて挨拶をした。
龍馬は名刺をよく見ようと、行灯に手をやった時、いきなり犯人は、龍馬に斬りかかった。
床の間の掛け軸の血の跡からは、かなり近くからいきなり斬りつけたと思われる。
慎太郎はそれに驚き、脇差をつかみ立ち上がろうとした。
龍馬は、深手を負いながら床の間の刀を取ろうと、身をひねった後ろを、犯人に「こなくそ!」(この野郎!)と言いい、斬られた。
それでも刀を持ち、前を向いて受け止めた鞘を削り龍馬の前額にもろに刀が入り、この傷が致命傷になった。
慎太郎は手足など11箇所を斬られ、倒れた。
慎太郎の息のあるのが分ったが「もうよい、もうよい」と言い、犯人達は引き上げた。
龍馬は立ち上がり「慎太どうした、手は動くか」「残念、残念」と言い、隣の座敷まで行き「俺は脳をやられた、もうだめだ」と言い、血の海に倒れた。
現場の状況わかりましね!手がかりはないのか分析してみましょう。
1)遺留品が2つあった。
・下駄 京都先斗町「瓢亭」(ひさごてい)の焼印入りの下駄一足。「瓢亭」は新撰組がひいきにしていた料亭である。
・鞘 伊藤甲子太郎高大寺党党首で元新撰組参謀は、事件を聞きつけ近江屋は駆けつけ、この鞘を見て、「新撰組副長助勤の原田左之助のものである」と証言した。
2)犯人は龍馬が醤油商近江屋いることを知っていた。
3)犯人は「十津川郷士の者だが」名乗るが、龍馬が十津川郷士と関係のあることを知っていた。
4)龍馬は何時も用心していて奥の倉にいるのに、風邪をひいていたので母屋の2階にいた。
5)「ほたえなや」の声で、龍馬とわかったのは、竜馬の声を犯人は知っていた。
6)正座して挨拶をしたのは、龍馬は犯人の顔を知っていた。「久し振りです。」と言った。
7)犯人は「こなくそ」は土佐の言葉で伊予弁だ。
8)慎太郎に止めを刺さなかったのは、竜馬が目的だった。
物証や手がかりは以上です。このことから犯人を推理してみよう。
遺留品から先ずは、新撰組が怪しいのでは?
1「瓢亭」は新撰組がひいきにしていた料亭の下駄が遺留品として残っていた。
2新撰組副長助勤の原田左之助の鞘が遺留品として残っていた。
3犯人は「こなくそ」と言い頭部を斬りつけた。原田は土佐の伊予出身だ。
4新撰組には確かに動機はあり、寺田屋事件で、龍馬と長州、三吉慎蔵が伏見奉行に襲われた際、龍馬はピストルで2人を射殺した。
新撰組は「殺人犯」(池田屋事件の時、龍馬はピストル隊士を2人殺している)として龍馬を捕殺する義務があったわけですから、もし暗殺を行っていたとしたら否定する理由はどこにもないわけです。
上記の4点から考えると案外簡単でした。犯人は新撰組、斬ったのは原田です。
・・・・・・・いや!よく考えると、あまりにも簡単すぎませんか、下駄とか鞘など犯人が直分る物を置いていくとは考えられないのでは、「こなくそ」も慎太郎が聞いたので、竜馬が言ったのかもしれないのです。
新撰組をはめようとした、何か意図的感じしませんか。
犯人は新鮮組でないような気がします。
ただ土佐藩と薩摩藩は最後まで新撰組説を強固に主張したと言います。大久保利通から岩倉具視に宛てた手紙の中で「暗殺犯は新撰組である」と断言した文章が残っているそうです。
はっきり新鮮組だと言っている薩摩藩も怪しいのでは?
薩摩藩の剣客で、すぐに思い起こされるのが、「人斬り半次郎」 こと中村半次郎ですね!
薩摩藩 「中村半次郎説」 を主張されているのが、龍馬暗殺の研究を35年以上も続けられている、歴史家の西尾秋風です。
西尾秋風の薩摩藩説の根拠は、暗殺現場となった近江屋の主人,新助の子孫である井口新助宅で発見された、海援隊幹部、佐々木多門が岡又蔵に宛てた密書です。
密書の内容は、このようなものです。
「才谷殺害人,姓名まで相分かり,これにつき薩摩の処置など,種々愉快の義これあり,いずれ後使,書取り申上ぐべきと存じ奉候」
訳すと、このようになります。
「才谷 (坂本龍馬の変名) を殺害した人間が判明した、と報告する文書である。その人間の名前は書いていないが、「薩摩の処置」 とあるため、犯人は薩摩の人間と判断出来るというのである。」
この蜜書から、西尾秋風は切り込み隊長格の中村半次郎を中心として、土佐脱藩者で暗殺グループを構成したと推測したのです。
宮川助五郎 (新撰組捕らえられていた土佐脱藩者) らを土佐藩は引き取れず、薩摩藩が引き取りとったという事実はあります。
宮川助五郎を含む土佐脱藩者を龍馬暗殺グループに引き入れたのかもしれません。
事件当時、薩摩と土佐は「薩土同盟」の関係にあり、このくらいの裏取引は簡単にできたというのです。
薩摩藩説の動機を西尾秋風はこのように考えたのです。
1、武力倒幕を主張してきた薩摩藩にとって、龍馬の行った「大政奉還」 は恨むべき行為です。
今後の政治体制は、薩摩藩、西郷隆盛らの主張する徳川家取りつぶし、および中央集権政治に対し、土佐藩、山内容堂、後藤象二郎らの(素案は龍馬の主張する)、徳川も含めた、上院・下院を置く議会政治は非常に邪魔な意見だった。
2、龍馬とは「倒幕」の同志として親交の厚かった中村半次郎だが、「徳川救済」にも見える龍馬の「大政奉還」をはじめとする様々な思想は、裏切り者と感じた。
中村半次郎にはアリバイがなかったとか、「こなくそ!」は薩摩弁の「こげなくそ!」の聞き違いだと、西尾秋風先生は言っています。
中村半次郎と龍馬や慎太郎は顔見知りだが、中岡慎太郎の証言には、「顔見知り」の証言は一片もないし。
アントレのコメント(慎太郎が犯人を見て、慎太郎に止めをしていないところ見ると、慎太郎が見たこともない人物であることは確かですね。)
土佐藩も「ぐる」であり、慎太郎の証言を変えたのかもしれないが、非常に考えにくい推理です。
西尾秋風先生の説は、密書内容を前面的に信用しているが、いろいろな面で無理があると思いませんか?
「西尾秋風先生35年間何を研究したのですか?」と言いたい。
新鮮組でなく、薩摩藩、でもなければ、むぅ・・・・・・・・・・・・・やはり紀州藩ですかね!
いろは丸で賠償金を取られた紀州藩が怪しいのでは?
竜馬暗殺の年の4月に、紀州藩は、「いろは丸事件」によって、竜馬に多額の賠償金を支払わされていた。そのため、紀州藩士は坂本の辣腕に深く恨みを抱いていた。
そこで新撰組を使って、紀州藩は黒幕ではないかと言う疑いだが、これには証拠も何もない。
実行犯も新撰組ではないと、前の記事で結論づけた。
常識的にそんなことで、人を殺めないのではないか。紀州犯はどう考えても白でしょう。
人が殺された場合、一番得をするのは誰かですね!竜馬暗殺の場合、土佐藩の後藤象二郎です。
大政奉還が、竜馬のアイデアであることは、後世の我々は知っているが、当時、これを知っていたのは、海援隊書記の長岡謙吉と数人です。
信じられないような話だが、大政奉還は、後藤の考え出した妙案だったと堅く信じられています。
竜馬のアイデアを盗用した、土佐藩の後藤象二郎が怪しいのでは?
土佐藩の後藤象二郎を調べてみましょう。
1、盗用したことを、世間に知れたら名声が地に墜ち、賞与の1,500石もフイになってしまう。
2、後藤象二郎は、竜馬の死で大儲けした。海援隊の財産をそっくり岩崎弥太郎にくれてやり、そのかわり使い込んでいた40万両の借金を肩代わりさせている。
3、後藤象二郎は、坂本竜馬と仇敵関係にあった。後藤象二郎の恩師の吉田東洋を暗殺させたのは、竜馬の親友武市半平太であった。そして後、武市半平太を切腹させ、武市一党の粛清に抜群の働きをしたのが後藤象二郎なのである。
怪しいのは、怪しいですね!名誉と金が一番ひっかかりますね!
実行犯でなくても、龍馬の居場所を教えたかもしれませんね!
しかし証拠がない!
灰色ということで、棚上げしましょう。
長州藩はどうだろう。
もう分らないので、長州藩が怪しいのでは?
この頃長州藩はボロボロで薩摩の後ろを歩く事を決めていた。
慎重過ぎる性格の桂小五郎を政治のトップとして、「ゆっくり(維新の)功を焦らず慎重に行こう」としていた。
その長州藩が坂本龍馬という要人の間で名の通った人物を暗殺するだろうか?
軍のトップであった大村益次郎も「なるべく(戦争は)後の方が良い」と語っていたように、大軍を繰り出すなんて事の出来る状態では無かったのに、竜馬を暗殺してまで倒幕に急ぐ状態では無かったと思う。
龍馬暗殺によって唯一長州が得そうなメリットは考えられない。
もう焼け糞で、幕府、徳川本体が怪しいのでは?
幕府、徳川本体についてです。
大政奉還は徳川慶喜が待ち望んでいた待望の策であった。慶喜は土佐藩主山内容堂から、この案を聞いた時「さすがは容堂!」と唸った程であるから、大政奉還を示唆した龍馬など知るよしも無いだろうが、例え知っていたとしたら感謝こそすれ恨む筋合いなど全く無いのである。
さらに龍馬の有名な言葉で、大政奉還を徳川慶喜が受け入れた時「よくぞ苦しいのに受け入れてくれた。私は将軍のためなら命も捨てよう」と言った内容の記録があるから、そんな龍馬を徳川が殺す理由など無いのではないか?
まったく八方塞がりですね!
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
実行犯と黒幕を分けて推理してみます。
黒幕を幕府と倒幕側に分けて、幕府側が黒幕と仮定して実行させるとしたら・・・。
実行犯・・・・・・・・・・
怪しいのは・・・・・・新鮮組は白だから・・・・・・。
幕府!そういえば幕府の関係は新鮮組だけでなく、京都見廻組があります。
見廻組は良いところの坊ちゃんの集まり、新撰組は身分の低い人たちの集まりです。
池田屋事件なので新撰組は有名になっていましたので、見廻組は新鮮組をあまりよく思っていなかったはずです。
新鮮組の仕業に見せかけようと遺留品を置き忘れたように細工をしたのでないでしょうか。
新鮮組に嫉妬していた、京都見廻組が怪しいのでは?
竜馬は伏見池田屋事件の時、確か新鮮組の隊士を2人殺していますね!指名手配中です。
京都見廻組が龍馬を捕らえようと殺しても不思議でないですね!
新鮮組の鼻をあかすことにもなります。
調べてみると、京都見廻組隊士が犯人ある根拠が3点出てきました。
1、京都見廻組隊士、今井信郎なる者は、坂本竜馬暗殺の犯人として一時捕まるのです。しかし直に解放されています。後に今井は、戊辰戦争が終結した明治3年2月、函館で降伏し逮捕され、竜馬暗殺を自供しました。
今井は函館戦争中にも、五稜郭政府の軍奉行の大鳥圭介に竜馬暗殺のことを仄めかしています。
2、元見廻組隊士、渡部篤なる人物が明治後期遺言にて佐々木只三郎の命により、竜馬を斬ったとの告白している遺言が発見されました。
3、竜馬を斬った小太刀(見廻組隊士、桂早之助遺物)子孫の方より伝えられ認知されています。
この3点について明日検証しましょう。
京都見廻組隊士が犯人ある根拠が3点出てきところでしたね!
1、今井信郎の自供を、再現してみましょう。
boo 「今日お前を取調べする、booだ!よろしくなー」「今井!お前が龍馬を斬った犯人か!」「スッカリ吐いて、楽になれ!」
今井 「・・・・・・・・・。」
boo 「共犯は誰だ!」「お母さんも泣いているぞ!」
今井 「・・・・・・・・・」。
boo 「お前が早く犯人を喋らないと、ぶんママに怒られるんだ。頼む!喋ってくれ!」
今井 「・・・・・・・・・」。
boo 「この親子丼でも食べて、それからでいいから、知っていること全部話すんだぞ!」
今井 「はい!」
boo 「お前は!食べ物に弱いなー」
親子丼を食べ終わり、今井はポツポツと話はじめた。
boo 「近江屋へ行くのを誘ったのは誰だ!」
今井 「佐々・・・・・・・・・木」
boo 「佐々木只三郎だな!」
今井 「坂本竜馬という男がもう一人の男と河原町三条下の旅宿に潜んでいる。上からの命令で捕まえに行って、万一手に余れば斬れ」
boo 「龍馬と一人の男がいると言ったんだな!」
今井 「ハイ!先に桂隼之助が確認にいきました。」
boo 「旅宿に行ったのは、誰々だ!」
今井 「近江屋に向かったのは、・・・・・・・京都見廻組組頭・・・・・佐々木只三郎と、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7名で向かいました。」
boo 「始めに近江屋に入ったのは誰だ!うん!」
今井 「佐々木只三郎は十津川の偽名刺を渡しました。」
boo 「それから、佐々木はどうしたのだ!」
今井 「佐々木は、1階の階段下で待機しました。」
boo 「お前は、どうした!」
今井 「私と土肥仲蔵、桜井大三郎の3名は表口、裏口見張り役をしました。」
boo 「と言う事は!渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、が2階に上がっていったのか?」
今井 「はい!そうです。」「渡辺吉太郎が鞘を落としてきたらしいです。」
boo 「まぁーお茶でも飲め!ゆつくりいこう!」
今井 「間違っていました。私と渡辺吉太郎、桂隼之助が2階に行ったのです。」
boo 「おいおい!しっかりしろ!」「どっちだ!」
今井 「私が龍馬を斬りました。」
boo 「そんなこと!間違うか!馬鹿!映画主演、萩原健一「龍馬を斬った男」は、お前は見張り役になっているぞ!」
1、今井信郎の明治3年に供述した記録(口述書)によると、今井は見張り役なのに、明治33年になって「近畿評論」 という本の中で発表された内容は、今井が龍馬を斬ったとなっており、それによると、桑名藩の渡辺吉太郎と京都の与力で桂隼之助という人物ともう1人の4人で、近江屋を襲い、今井ともう一人が8畳間で竜馬を斬ったと述べている。明らかに矛盾している。人数も違えば、今度は自分が斬ったなどと、違う事を(写真は、桂隼之助は小太刀) 言っている。
昨日の今井信郎のあやふやな自供は置いといて!
2、渡部一郎(篤)の遺書を見ていましょう。
襲撃したのは、佐々木只三郎の命により、佐々木、渡辺一郎、今井信郎、世良俊郎の他2名の計6名です。給仕の少年は助けました。鞘を忘れたのは世良俊郎です。暗殺の報酬として毎月15人扶持(7升5合)を貰いました。私が龍馬を斬りました。と書いてある。
3、桂隼之助(本名早之助)の龍馬を斬ったという小刀も出てきたら、竜馬を斬ったのが、3人も名乗り上げた事になります。
誰かが嘘をついていることになりますね!3人とも嘘をついているのでしょうか。
3点が一致していたら問題はないのですが。京都見廻組隊士を一番疑っていたのにどうしましょうかね!困りました。
この三人1、の今井信郎2、の渡部一郎3、の桂隼之助についてもう一度考えてみます。
今井信郎は長い間、追及され拷問を受けた後の極限状態に追い込まれて精神の中、自白したもので信用できない。それに後になって内容が違っています。
しかし、今井が30年後に言った中には一部本当の事があるような気がします。
もう誰にも、強制されない時、ふと友達の息子にもらしているのが「近畿評論」に掲載されたのです。
しかし、龍馬を斬ったと言うのは、自慢話をしていて、つい英雄気取りで言ったもので、嘘のような気がします。
(桑名藩の渡辺吉太郎と京都の与力で桂隼之助という人物)とありますが、この事は本当で渡辺吉太郎、桂隼之助、今井信郎は実行犯の中に入っているのではないでしょうか。
2、渡部一郎の名前は、今井信郎の自供の中には出てこないですが、人間死ぬ前に嘘をつくでしょうか。
3、桂隼之助は小太刀の使いの名人だったようです。真実身があるような気がします。
誰の証言からも名前がでてくる、佐々木只三郎の事を推理してみましょう。
今までの事柄から、佐々木只三郎は龍馬暗殺に何らかの関与があったのは間違いないでしょう。
龍馬暗殺の実行犯、佐々木只三郎が自分の意思でしょうか?違うでしょう!黒幕は絶対にいるはずです。
佐々木只三郎は、上司には忠実な男だったそうです。
佐々木只三郎に暗殺を指示した、黒幕は誰か?
思い出しました、竜馬は伏見池田屋事件の時、確か新鮮組の隊士を2人殺していますね!指名手配中の身ということは佐々木只三郎が龍馬を暗殺したとすると、勲章ものです。
京都見廻組の手柄にして、世の中に直に発表するのではないでしょうか?
でも発表しなかった、これは背後に、殺害を指示した黒幕の存在を意味します。
竜馬暗殺の事実を実行犯である見廻組頭、佐々木只三郎に口止めした人物、その人物が黒幕です。
見廻組頭、佐々木只三郎に口止めした人物、その人物が黒幕で、それは誰なのかでしたね!
大政奉還直後のこの時期、15代将軍慶喜を新政府の要職につける画策を、盛んに会津や彦根藩などの徳川親藩が水面下にしていて、薩長連合や大政奉還に奔走した竜馬を要注意人物として普段からその行動をマークしていたと思われます。
そして実際、竜馬の政治力や各要人とのパイプが邪魔だったのです。
幕府側上士達は追い詰められ手詰まり状態だったので、何か手を打たねばと焦っていたのは間違いありません。
将軍慶喜が、暗殺を指示したとは考えにくいとのことでしたね!
当時、見廻組は、京都守護職だった会津藩主、松平容保の配下の組織です。
容保自らが一介の浪人である坂本竜馬の暗殺を指示したとは思えませんので、容保の意(徳川権力維持)を汲んだ上士達の一部が「竜馬暗殺」という行動に出たとみるべきです。
見廻組を掌握していた会津藩の中にその人物がいたとするのが一番妥当な推測です。
佐々木只三郎の実兄、会津藩士、手代木直右衛門は以前、尊攘派の志士、清河八郎を、弟の佐々木只三郎に命じて暗殺した前科があります。
今までのデーターから、無理やり考えをまとめましょう。
実行犯は京都見廻組隊士、佐々木只三郎、今井信郎、渡辺一郎、世良俊郎、桑名藩の渡辺吉太郎、京都与力の桂隼之助、その他数名、黒幕は会津藩士、手代木直右衛門に決定!
と言いたいのですが、手代木直右衛門の遺書が出できたのです。
内容は、
『坂本を殺したるは実弟只三郎なり、当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、深く幕府の嫌忌を買ひたり、此時只三郎見廻組頭として在京せしが、某諸侯の命を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠家を襲ひ之を斬殺したりと。蓋し某諸侯とは所司代桑名侯を指したるなり、桑名候は会津候の実弟なりしを以て、手代木氏は之が累を及ぼすを憚り、終生此事を口にせざりしならん』
これって弟が犯人です。それを指示したのは桑名藩で、会津藩の実弟なので、何かあったら会津藩にも影響受けるから、話さなかったてことですね!
渡辺吉太郎は桑名藩でした。
桑名藩が黒幕なのか?
会津藩主松平容保の弟である松平定敬が桑名藩を相続し、京都所司代を務めていました。
桑名藩も会津藩と同じく、「大政奉還」の後、新政府が出来た時点でのことを考えると、不安感が藩内には鬱積したと思います。
しかし、所司代が直接指示をしたのは考えにくいので、桑名藩上士が関与したのでは!
一度否定したが薩摩藩が、気になってしょうがない。
「西尾秋風先生35年間何を研究したのですか?」と失礼なことを言ってしまったが、もう一度考えてみたい。
1、武力倒幕を主張してきた薩摩藩にとって、龍馬の行った「大政奉還」 は恨むべき行為です。
今後の政治体制は、薩摩藩、西郷隆盛らの主張する徳川家取りつぶし、上院・下院を置く議会政治は非常に邪魔な意見だった。
西郷は龍馬と友情関係があったはず、しかし、大久保利通はどうだろうか。
竜馬の実行力を知る人間の一人である大久保は鬱陶しく思った事でしょう。
西郷以上の工作力と計算力を持っているのだから、大久保独断で関与したとも考えられる。
西郷は、今井や新撰組の近藤に対しても、龍馬暗殺の疑いがかけられた時、寛大な処置をしてほしいとの意思を示している。
大久保の龍馬暗殺に関与したことを、後で西郷は知ったのではないか。
西尾秋風先生の実行犯、中村半次郎は違うが、後の考えは正しいのではないでしょうか。
大久保が関与していたなら、実行犯の中に土佐藩士がいてもおかしくない。
結論
「実行犯」
「佐々木只三郎、今井信郎、桂隼之助、渡辺一郎、世良俊郎、渡辺吉太郎、土佐脱藩者数名」
人数は定かでないですが、9名説が正しいのではと思います。
このメンバーは京都見廻組、佐々木只三郎中心ですが、「最近目立ってきた竜馬を皆で斬ってやろうか。お偉らさん殺してと言っているし」といった若者の軽いのりで、混合されたメンバーだと思います。
「2階に上った犯人」
「桂隼之助、渡辺吉太郎、渡辺一郎、世良俊郎、土佐脱藩者1名」
世良俊郎が鞘を置いていった。
犯人は、名刺など渡さず、佐々木只三郎が一番先頭で突入し、藤吉を斬っている間に、次に突入した順に、「ほたえな!」と龍馬の声がした2階に次々と上がっていったのです。
「情報提供者」
「後藤象二郎、伊藤甲子太郎」
ユダさんの意見で、龍馬は後藤象二郎のことをよく思っていたとのことですが、後藤象二郎は龍馬のことはよく思っていなかったと思います。
何らかの情報の提供はしていると思います。
鞘が「新撰組副長助勤の原田左之助のものである」と証言した伊藤甲子太郎は、近藤勇が本来の尊皇の意志を捨て、幕府の犬に成り下がった事から新撰組から分裂という形で離反し、高台寺党を作り薩摩の庇護に入った人です。
龍馬の居場所を、教えたのは伊藤甲子太郎です。
「京都見廻組の発表を止めた人」
「手代木直右衛門」
「黒幕」
「大久保利通、桑名藩上士」
薩摩藩と桑名藩は、仲が悪いですが竜馬暗殺の時点ではそうでもなかったようです。何かの時に大久保と桑名藩上士が出会って、龍馬暗殺の意見があった。
大久保利通は伊藤甲子太郎に指示、桑名藩上士は佐々木只三郎に指示した。
しかし、この接点は証明できません。これを証明できると推理は完璧なのですが。
「致命傷を負わせた男」
「桂隼之助」
桂隼之助の物的証拠の刀が、一番有力だと思わざるを得ません。
「龍馬を斬った男」
「桂隼之助、渡辺一郎」
この結論は、個人的な推測であり、事実ではないかもしれません、日本史のミステリーはミステリーだから面白いのかも!?・・・・・・・・・・。
長い間お付き合い頂だいた皆さんありがとう御座います。