夕食ですの
王女との会話を済ませて、再び家に帰ると、既に我が家には胃袋をくすぐる良い匂いがたちこめていた。
「…リーネちゃん、か?」
アリッサがお節介をしているのだろうと高をくくって台所を見てみれば、そこには小さく跳ねた栗毛を揺らして、懸命に料理を作る少女がいた。
「あら、ヘイネスさん。ご無沙汰ですね」
僕の呼び掛けに応えて、鍋に蓋をしながら、弾けんばかりの笑顔で挨拶をする。その姿が昔の記憶と重なり、彼女がアルナスの妹であることを確信する
「えっと、何年ぶり…かな?…すっかり、可愛らしくなったね」
代わり映えのしない栗毛とその背丈に、思わず目がいってしまう。
「ヘイネスさん、わたくし、背の小ささは気にしていませんよ?」
「…ごめんなさい」
頭ひとつ分、またはそれ以上の身長差を、彼女は気にしているのだろう。悪いことをしてしまった
「いいのですの。今日はでき損ないの兄様から直接のお願いでしたので、伺わせていただきましたの」
「アルナスが?」
「アリッサお姉様はこれから多忙だとかで、ヘイネスさんを世話する人が居なくなってしまいますの。ですから、私が夕食だけでも作ってくれないかと、兄様が土下座するもので、仕方なくなく、お邪魔させていただきましたの」
「嬉しいけど、プライベートがなくなっちゃうな」
「昔から生活に関してはヘイネスさん、とってもダメでしたから、ほっといたらどうなることかわかりませんの」
「それは、まぁ、たしかに」
王都にいた頃も、寮長や管理人に何度怒られたことか…
「それ以外に関しては、あのダメ兄様に爪の垢を飲ませたいくらいなのですが…」
大袈裟にため息をつきながら、熱したフライパンでベーコンを焼きはじめる。
「相変わらず、アルナスには厳しいんだね」
その言葉を聞くと、今まで動き続けていた手と口が同時にピタリと止まった。そして、キッチンから僕の方に向き直り、いつものような口調で再び喋りだす。
「ガシンショータンですわ」
「ん?東方の国のことわざかい?」
「学者というものは何でも知っているんですのね。そうですわ。ガシンショータン」
「亡国の悔しさを忘れずに薪に臥せ、またその悔しさに胆を嘗める。戦乱の中でできた逸話の一つだ」
「兄様はヘタレですから、どんなときでもわたくしがおしりを叩かないといけませんの。わたくしが薪であり胆でありますの」
「なるほど、じゃあアルナスは何を忘れないようにしているんだ?」
「…。現状、ですの」
「現状?」
「ただでさえ跡取りとして色々と準備されてきた生活を捨てたのですから、今みたいなよくわからない仕事に甘んじていてはいけませんの!」
やや強い語調で、リーネちゃんは言い切る。そこまで必死に兄のことを思っているとは…。根の優しさは、昔と変わらないようだ。
アルナスは商家の長男だった。だった、と言うのは、僕がいない間に両親と対立して、勘当されたことを、最近知ったからだ。
「リーネちゃんは兄さんのことが好きなんだね」
「当然ですの。ヘタレですけど兄様は兄様ですから。放っておけませんわ」
隠すことなく兄への想いを打ち明けながら、鍋のスープを皿に移し、ベーコンを掬い上げ、別の皿に乗せ、軽く塩をかける。竃の下に貯まっている灰を、燃えている薪に少し被せ、火力を調整してから、すべての皿を器用につかんで、食卓へ置いた。
「あまり上手ではないのでお恥ずかしいですが…」
恥ずかしげもなくそう言って、最後にパンを二人が手の届く位置に並べる。
「いや、僕なんかじゃ到底できないことだから、助かる」
湯気の出ているスープは、パンとの相性を考えたオニオンスープだ。溶いた卵が中に入っていて、なんとも美味しそうだ。肉とパンとスープ。シンプルかつ食欲をそそる、まさに家庭料理の代表と言ったところか。
「さぁ、冷めないうちに食べてくださいな。冷めても美味しい自信はありますけども」
「では、お言葉に甘えて…」
「あーんしなくて大丈夫ですの?」
「流石にそこまでなにもできなくはないよ…」
「冗談ですの」
そんな他愛もない話をしながら食事をしていると、いきなり出入り口の扉が勢いよく開かれた。
「すまん!ヘイネス!立て込んでいて夕飯が遅く…な…」
緋色の髪も、健康的に焼けた肌も煤だらけのままの、息を切らして入ってきたアリッサは、僕とリーネちゃん、そして食卓を見ながら目を点にしていた。
「ごきげんよう、お姉様。二、三言いたいことはございますが、まずはお風呂に入られては如何でしょうか?」
「うぇ?あ、うん」
「ヘイネスさん。わたくし、料理をして汗をかいてしまいましたの。このままでは少し気持ちが悪いので、さきに体を洗って来ますの」
反論を許さないほど重い言葉で明るく振る舞うリーネちゃんは、一切汗をかいていなかったが、僕は触れないことにした。