彼らの事情
「私は子供の頃から何度かあそこから抜け出していてね。グラーネおば様には非常に良くしてもらったのよ」
「…」
「レイオスおじ様も優しいお方だったなぁ。よく森の美味しい木の実がある場所を教えてもらったよ」
「…」
「マリアお嬢ちゃんは余り外に出ていなかったから、面識はほとんどないけど、おば様に似て綺麗な方だと聞いているわ」
「…」
「…?どうしたの、へイネス」
「何のために僕を怒らせる…」
余裕がないことは自分でもわかっていた。怒気を隠すことなく、彼女に対して凄む。彼女もなにかを察したようだ。
「…ごめんなさい。なにか気の障ることを言ってしまったようだけど、心当たりがないの」
「…何にも知らないって言うのか、この村の為政者に囲まれながら過ごしていて」
「…ごめんなさい」
何に対する謝罪か、誰に対する謝罪か。苛立ちが加速する。それと同時に、本当になにも知らないのかもしれないと言う疑問も浮かぶ。身体中の血が逆流したような吐き気が、僕を襲う。拳の絞まる音がする。ぬめりと嫌な感触、皮を破り、血が出ているみたいだ。
無言で踵を返す。彼女が慌てて呼び止める。
「今日は帰らせてもらう」
制止の声も無視して、僕は怒りのままに歩を進める。身を切るように冷たい風が吹く。
「へイネス」
家に帰ると門前にアリッサの姿があった。
「アリッサ、どうしたんだ?」
普段の彼女なら昨日のように家に入って何かしているのに…
「昨日は、その、すまなかった…」
「あぁ、僕の方こそ、アリッサにあたるのは間違っていた。ごめん」
先程のことがあり、すっかり忘れていたが、冷静になってみれば、あの時の言動はアリッサに対してすることではなかった。僕が謝ることが意外だったのか、彼女は慌てて首をふり、アンタが謝ることじゃない、と言った。
「家の前にいるのに立ち話をするのもおかしな話だし、入りなよ」
「そう、だな。お邪魔させてもらうよ」
ぎこちなさは残るものの、彼女は僕の誘いを受けてくれた。
「なぁ、アリッサ」
「どうした?」
「王女フュリアーネに会ったことはあるかな?」
夕食の何気ない会話として、話題を振ってみる。アリッサはフォークに刺していた兎肉を口に運ぶ寸前で止まり、複雑な表情をしている。
「ナイヨ」
「嘘つけ」
元来、曲がったことが嫌いな彼女は、本当に嘘が下手だ。子供の頃から素直すぎて、悪戯などしようものなら叱られたものだ。ただ、そんな彼女も、相手を庇ったり、なにか懸念があるときは、今のようなバレバレの挙動をしながら、嘘をつく。
「いや、ないよ、ホンとに」
「無理だよアリッサ。バレバレ」
なおも否定する彼女を諭すように説けば、顔をひきつらせたのち、観念したように息を吐き出して顔に手をあてる。
「この事は、誰にも言わないでよ?」
「わかった」
「アタシが最初に会ったのは、多分、子供の頃だね。その時はまだ王女様は身分を隠してたから、いつからってのは明確には覚えてないんだ」
ボサボサと頭をかきながら訥々と話し出す。余りしっかりと覚えてないのだろう。
「近くの森にはいるときはいつもついてきてね、あそこに行きたいとか、あっちに木の実があるとかで振り回されたもんだよ」
「ここ数年で王女に会ったことはあるか?」
「最近、か。仕事を除いてだとあんまり会うことはなかったね。村の路地でどこかに向かうときに目があったり、それくらいさ」
「何かあったのか?お互いに」
「アタシゃ別にないけど…、まぁ、これは噂だがね…。どうやら村長たちはフュリアーネ王女の逃亡を警戒しているとかなんとかで、警備を厳重にしたらしいんだよ。それでも抜け出して、また戻ってくるんだから、そんなことないとは思うんだけどね」
「そうなのか。しかし、長女とはいえ、そう頻繁に抜け出して、政務に支障はないのか?」
僕の質問に、アリッサは狐にでもつままれたような顔をした。聞き損ねたのかと思い、言い直そうとすると、彼女に制された。
「そう、か。アンタは留学していたから、知らなくて当然、か」
「どういうことだ?」
「いや、簡単に言っちゃえば、フュリアーネ王女はほとんど政治的なことには関われていない…らしいんだ」
「なぜ?確かに立場上は難しい位置にいるが、今までそんなこと許されていなかったはずだ」
「詳しいことはわかんねぇよ。本人に聞いてもはぐらかされたし…とにかく、王女はなんにもできない状態なんだ。監視も厳しくて、村の事情にも疎くなってる。本当に生け贄みたいで、可哀想だよ…」
思わず天を見上げる。今日の彼女の言葉を思い返せば、かなりの疑問があった。アリッサの言葉には嘘がない。となれば、フュリアーネは、本当に父さんや母さん、マリアに起きたことを知らなかったのだ。ため息が漏れる。そんなとき、入り口の扉から、控えめな、しかし確かな意思を感じるノック音が響いた。
――
「リアーネ!」
石畳の廊下に明瞭な声が響く。振り向けばお姉さまが肩で息をして、鬼気迫る表情で詰め寄ってきた。
「どうかなされましたか、お姉さま。こんなにも取り乱して…」
「リアーネ、あなたが“話せる”ことだけで良いわ。私に教えてほしいことがあるの」
真っ直ぐなお姉さまの瞳が私を射抜く。なにかが起きたときはいつもこの眼をしている。
「ええ、私でよろしければ、“話せる”限りのことをお話いたします」
「ごめんなさい。ありがとう。聞きたいことはたった一つなの。良いかしら?」
「はい、お姉さま」
「“少し前から、北部の警備が厳しいのは何故?”」
お姉さまの声がやや震えていた。聞きたくはない、でも聞かなければならない、そんな意志があるように見えた。
できれば、私の口から言いたくはなかった出来事。されど、アイルツァーネの娘として、隠してはいけないこと。そう、私たちは王女として、この責任を背負わなければならない。
「“以前、あの付近で亡くなった人がいます。穢れがお姉さまに降りかかっては一大事ですので、村長の判断のもと、警備をしておりましたわ”」
お姉さまの表情が一段と険しくなる。聡明なお姉さま、だからこそ、この言葉で何が起きたかを理解してしまったのでしょう。天を見上げて深いため息をつき、なにかを決意して、凛とした眼で向き直る。
「ありがとう、リアーネ。どうしても行かなければならない場所ができた。少し出掛けてくる」
「“ええ、お姉さま。暗がりには御気を付けてください”」
私の言葉を聞き終えるとすぐに踵を返し走り出す。真っ直ぐで実直で、聡明なお姉さま。本当はお力になりたいのだけど、私たちを取り巻く環境がそれを許さない。思わず、手に力がこもる。
「せめて、悔いのない人生を」
ただ、ただ。それを祈るばかりだった。
――
「フュリアーネ様!」
日も暮れ、火の光りが暖かさを与え始めた頃に、アリッサの驚愕した声が響いた。確かに、今しがた訪ねてきたのはフュリアーネ本人だ。先ほど会ったときと同じ格好で、しかし、余程急いできたのか、服が乱れ、肩で息をするほどだった。汗で額に張り付いた髪を振り払うこともなく、真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ僕を見ている。
「こんばんは。夜道に女性が出歩くもんじゃない。何かあったらどうする」
適当にはぐらかそうと他愛もない話でもしようかと口を開きかけたとき、彼女の美しい金髪が舞った。
「ごめんなさい」
それが謝罪のために頭を下げているのだと理解したのは、その言葉を聞いてからだった。アリッサが言葉とも言えないような言葉を発しながら、慌てて家の扉を閉める。
「ア、アアアンタ!いったい王女様になにしたってのさ!」
「アリッサ、久しぶりです。ただ、誤解しないで。無礼を働いたのは私なの」
アリッサを、フュリアーネは頭を下げたまま制する。凛とした言葉に、アリッサもたじろぎつつ、落ち着きをとりもどしていく。
「別に…知らなかったんだから仕方ないことだろ」
「無知であることが免罪符にはならない。私はあなたを傷つけた。そのれっきとした事実に謝罪をしたいの」
「いいよ、もう…」
誰がどうしたって、死人は生き返らない。
「ごめんなさい…」
「いいって…」
沈黙が流れる。好きじゃない静寂だ。
「このことは、調べたのか?」
「それは、すまないが、言えない」
「…それは、ずいぶん勝手だな」
「えっ?」
「おい、ヘイネス!」
「こっちの家庭の事情は好きなだけ探って、そっちの話は出来ないってのはフェアじゃないだろう。言い訳になるかどうかはこっちが判断する。だから教えてくれないか?」
フュリアーネはそれを聞いて顔をあげた。その顔には戸惑いの色はなく、僕は肯定と受け取った。
「じゃあ、外へ出ようか。案内したい場所がある」
「それは…?」
「僕の家族がいる場所さ」
「…ありがとう」
フュリアーネは再び、しかし今度は後ろめたさを感じさせない礼をとった。