第二話:始まり
前話までのあらすじ
遥を殺しにきた和久。彼の全身に走るのは、鋭利な痛みと悪寒。生きるために選んだ道は、彼女を匿うこと。
なぜ私は彼女を匿ったのだろう。おそらくは恐怖。恐怖?死ぬことを恐れたことはない。なら痛みによって判断力が鈍ったのか。よく分からない。とりあえずは成り行きに身を任すしかないのだろうか?
繁華街の雑居ビル。その地下一階。コンクリートがそのまま露骨に出ている部屋は、湿度が高く、換気扇を一日中回したところでも住みよい環境は得られないだろう。
和久は鏡の前に立つ。脱いだスーツは床に無造作に放られていた。右肩の傷は深い。止血はしていたが、その傷が癒えるわけではない。本来なら医者に通い、縫わなければならない傷だろう。
しかし、和久に通う医者はもういない。クライアントを裏切ったのだ。いくら闇医者といえども、自身の存在を極力避けるべきだ。
ゆっくりと、机に歩く。机の上にはいくらかの薬が置かれている。消毒と包帯を巻くぐらいはしておかないと腕を失いかねない。きつく包帯を巻いていく。血は何とか流れ傷は完璧にふさげるように。
痛みが全身を駆け抜ける。痛みに慣れているとはいえ、痛くなくなるかといえばそんなことはない。歯を食いしばり呻き声を抑える。
「静かにしてもらえませんか?」
「黙ってろ。」
「あなたもね。」
痛みで存在すらあやふやになりそうな遥を和久はにらむ。右肩の傷は遥につけられたものだ。彼女といるだけでも気が狂いそうになる。どうして俺がこんな奴と生きなければならない。
「それは、あなたが生を選んだからです。」
和久の心を掌握するかのように彼女は答える。
「黙ってろと言った。」
「そうですか。」
彼女はそれっきり何も話そうとはしなかった。
和久は机の引き出しに手をかける。引き出しの中には、拳銃が二丁。小型拳銃と大型拳銃が一丁ずつ。弾薬は…百発といったところか。
床に広げられているスーツまで歩く。ポッケトから取り出したのは煙草。今日と明日を考えようとして咥えた煙草に火を点ける。
一人を一発で仕留めるののは不可能だ。おそらくは十人単位での攻撃だろう。牽制を含めて使う弾丸は一人当たり良く考えても五発。
「二十人か。」
和久の気持ちは重い。とてもではないが、この状態で無事に明日を乗り越えることができるとは考えられなかった。
殺風景な部屋の中、換気扇だけが音を立て回る。部屋にあるのは、ベッドとソファー。あとは机があるくらいだ。無機質な部屋とだけいうと、遥の部屋も同じだが、色にたとえるとあそこは白銀。ここは灰色。錆びた銅色だ。
重い空気と煙草の煙が部屋を包む。
病院を出たのは夜の八時。車を飛ばして駐車場に着いたのが夜の九時。そこから徒歩で五分ほどの距離に和久の家があった。 繁華街の中にある家にたどり着くには、多くの視線をくぐらなければならない。奇異な視線が二人に注がれる。
和久の後ろを歩く女はパジャマ姿。和久はスーツの右肩が血で朱く染まっている。それだけでも人目を引く。しかしながら、一番の原因は二人の容貌にある。
シャープな顔立ちに、透き通るような肌。凛々しく清廉な眼差しの中に鋭く光る瞳。一文字に結ばれた口元は小さく、女のそれを連想させる。小さな整った顔は女性ならずも男も目を遣る。それが遠野和久。
後ろに歩く一条遥は、闇さえも吸い込むほどの漆黒の長い髪。ネオンに照らされる髪は、色という次元を越え、人々を惑わす魔となる。
細く整った眉に、切れ長の目。睫は長く、瞬きと共に、微かに震える。すらっと高く通った鼻は、整形をしたとしても手に入らないであろう天物。小さな口元はルージュを引いたように赤く、可愛らしい。
薄い生地のパジャマ越しに見え隠れする、なだらかなライン。細身の身体に胸はなく、ふくよかな臀部も存在しない。
しかしながら、今にも崩れそうな儚さと決然と存在する凛々しさが融合され確固たる美を創造する。
行き交う人々は二人を見つめても、警察に通報をしようとは考えない。繁華街のけたたましさは、何もかもを吸収する。誰もが厄介ごとに足を突っ込むことを嫌い、血やパジャマ姿などここでは日常のことでしかない。
遥と和久を刺す視線はすべては興味半分の視線。または劣情感を満たす視線でしかない。
二人は様々な視線を無視しながら歩き続ける。
しかし、二人は気づかない。多くの視線の中にある、監視という視線に。
重い空気と沈黙を破ったのは遥だった。
「これからどうするつもりかしら。」
さしたる不安も不満もなく呟かれた言葉は和久の思考を妨げる。
「いま考えているところだ。お前はどうしたい?」
彼女は部屋を見渡していた瞳を、和久に向けなおす。
「とりあえずは、二人称を変えてほしいわ。」
「二人称?」
「そう、二人称。さっきから君やお前でしか私を呼ばないわ。自己紹介はもう済ましたでしょ?
これから一ヶ月間付き合う間柄なのに、そんな呼ばれ方じゃ気が滅入ってくるわ。
それとも、あなたが二人称を使うときは私にだけ使ってくれるつもりなのかしら。それならそれで、文句はないけど。だって夫婦みたいじゃない?」
何が楽しいのか、満面の笑みを差し出す。凛々しい顔が一瞬にして向日葵のような笑顔を作り出す。
それに対して出てくるのは、和久の苦笑い。その笑顔は誰もが笑顔で返さざるを得ない。
「初めて笑いましたね。」
彼女の言葉に、和久はしばらく笑顔を作ったことがなかったことに気付く。
「わかった。君の要望を飲もう。遥。」
君と遥が混ざった言葉に、和久はまた苦笑いを浮かべる。それにつられて遥も笑う。
沈黙から笑い声。談笑はまだ終わりそうにはない。
「右肩を見せてください。」
遥は、意味のない会話を打ち切り和久に近づく。
「止血はした。傷は縫っていないが、閉じることは閉じるだろう。」
「いいから見せてください。」
有無を言わせぬ態度に、和久は縛ったばかりの包帯を解く。朱い傷口が蛍光灯のもと照らし出される。
「痛そうですね。」
「お前が。いや遥がやったんだろ。俺には何の落ち度もない。」
「私を殺そうとしたくせに。」
遥の目が細まる。和久を睨む。
「確かに。この傷に対して何も文句はない。これでいいだろ?包帯を貸せ。」
「あった早々で命令ですか?」
遥はやれやれといった態度で少し首を振る。それを黙殺しながら、和久は包帯を取る。
「それじゃあ明日乗り越えられないのではないですか?もっと利口になってください。それとももう忘れましたか?私は和久を助けると約束したんですよ。」
「敵が来た時だけでいい。」
ぶっきらぼうな言葉を吐く和久を見て、ため息をつく遥。
「黙って、傷が治るイメージをしてください。」
「はあぁ?」
「早く。」
遥の意図を掴めない和久は言われるままにイメージする。
「もっと強く。イメージよりもさらに上。願望、呪詛、何でもいいですからもっと強く想像してください。」
和久はイメージをする。二時間ほど前までは自由に動いた右腕を。それが強く握るナイフを。そしてそれで殺そうとした女の姿を。
気がつけば和久はナイフを握っていた。遥を見る。
苦痛に歪む顔。揺れる瞳。
「いきます。」
振動が起きる。カタカタと音を立てながら換気扇が止まる。直下型地震のような振動が二人を襲う。
「どうですか?動かしてみてください。」
遥の声で、意識が舞い戻る。
和久は自身の右肩を見る。そこにあった傷はなく、痛みもない。ためしにゆっくり大きく肩を回す。痛みはない。違和感もなく、今すぐにでも殺人の依頼を受けられるほどに、以前の右肩に戻っていた。
「お前」
何をしたと言いかけて、彼女を見て言葉が終わる。
「遥です。」
「っ。そんなことはいい。どうした?具合が悪いのか?」
彼女は右肩を押さえ、冷や汗を流す。
「和久のせいです。」
唇を微かに動かし、掠れた声を出す遥。 少し休みますと言って布団に包まる。規則正しく上下する胸をみて心配するほどでもないと判断した和久は、ソファーにもたれる。自由に動くようになった右腕で、煙草を一本取り出す。換気扇が動かなくなった部屋に、紫煙が漂う。
思えば、誰かと共に過ごす夜は一年ぶりだった。
思えば、誰かの名前を口にするのは初めてだった。
思えば、誰かに傷を治してもらうのは初めてだった。
思えば…
疲れから睡魔が襲う。寝づらいソファーも今は極上のベッドだ。力を抜き、全てをソファーに預ける。柔らかくもないソファーは、和久を押し返すように拒んでいた。
繁華街に朝が迎える。人通りは皆無で、カラスが大手を振って飛び交う。
地下に、陽は入らず、代わりに昨日から点けっぱなしの蛍光灯が二人を照らし出している。故にここには朝がなく、昼もなく、夜もない。
存在するのは、男と女。人が時間を支配する。
硬いソファーで寝たせいで身体が痛い。床にはフィルターまでが完全に灰になった煙草。どうやら消さずに寝てしまったらしい。和久は、眠たさと気だるさが残る頭を振る。その瞬間に目に入るのは、ベッドで眠る一人の女。遥だ。
朝の一服を済まし顔を洗う。朝食は普段はとらないが、遥が食べるかもしれない。コンビニは繁華街の入り口まで行かないとない。
和久は舌打ちをしながらも、上着に袖を通す。その肩口が濡れていることに気づき、昨日の傷を鮮明に思い出した。痛みがぶり返すかと思ったが、何のこともない。上着を脱ぎ、ワイシャツ一枚で出かけることにした。
もう一度ベッドを見る。遥は寝ているようだ。その瞬間、机の上が視野に入る。和久は机まで歩き、無造作に置かれたままの拳銃を一丁取る。上着はないので、仕方なくズボンに突っ込む。少々無理のある膨らみ方をしているが、誰も拳銃とは思わないだろう。
「どこか出かけるのですか?」
近づいてくる足音で目を覚ましたのだろう。背をベッドに預けたまま、遥は顔だけを和久に向けた。
「朝食だ。コンビニまで行ってくる。」
「そうですか。」
少しの逡巡の後、彼女は言葉をつなぐ。
「私も一緒に行きます。」
和久はため息を吐く。煙草を咥えて、左手で右肩を撫でる。
「五分で準備しろ。」
短く答えた言葉に、遥は大きく頷いた。
歩いて十分ほどの道のり。朝を迎えた街は人影もなく、燦然と輝くネオンもない。この街は朝と共に夜を迎え、日が落ちるのと共に朝を迎える。それは太陽と対を成す、月のように。ただ月が太陽によって輝くのとは違い、ここは人が作り出す闇によって輝く。そして、人がいなくなることで輝きを失う。
「いらっしゃいませ。」
和久は口の動きを読み取り店員がそう言ったのだと判断する。
遥は店に入ると一周辺りを見渡す。そして、店内の時計に目を留める。針は六時を少し回ったところを指していた。
「便利な店があるんですね。まだ六時ですよ。」
和久に近づき、小声で話しかける。
「サンドイッチかおにぎり、どっちだ?」
遥の言葉を無視し、今必要な事だけを聞く。遥は自分の発言を無視されたことに少し顔をしかめた。
「自分で選びます。ちょっと待っててください。」
和久が持つカゴを強引に奪い、店内を一周し始めた。
ふっ。一瞬の笑い声。それを発した和久自身が一番驚く。なぜ自分が笑ったのか。疑問が頭を掠める。
「楽しいからですよ。」
遥は、周りも気にせず、和久に聞こえるように大き目の声でその疑問に答えていた。
楽しい…か。和久は心の中で呟いてから雑誌の前まで足を運ぶ。彼女の買い物がすぐに済むことを願いながら。
週刊誌を読むこと三十分間。気になる記事は全て目を通したときに、彼女は和久の隣に並ぶ。視線が雑誌に向けられると同時に和久は雑誌を閉じる。
和久の目に入るのは、カゴいっぱいの商品。
「何を買うんだ?」
あきれながら尋ねる和久を横目に、遙はこれから必要なものですと答えレジに向かう。和久は手にしていた雑誌を持って遙にならった。
「なぜコンビニで一万円も払わなければいけないんだ?」
和久は両手に持った袋を少し持ち上げて尋ねる。
「必要なものがそれだけあるからです。」
遙は、和久の皮肉に取り合わない。
「家に着いたらさっそく広げてみましょう。楽しみにしていてください。」
「俺は朝食を買いに来ただけだった。どんな朝食がテーブルに並ぶか楽しみにしている。」
「それは間違いです。あなたは自分で雑誌を買いました。朝食が目的だというのは嘘です。」
遙は和久を睨み、口を噤む。和久もそれ以上は何も言わない。腕からぶら下がったビニール袋がパンツと擦れ、カシャカシャと音を立てていた。
重い鉄の扉を開ける。中にあるものはそのまま、和久たちを受け入れる。手に持っていた荷物を、ソファーに降ろし、空いた両手でタバコを取り出す。
このまま構えて待つか、どこかで身を隠すか和久は悩んでいた。
「静か過ぎる。」
和久のつぶやきに荷物を一つひとつ丁寧に取り出していた遥が反応する。
「オーディオはないんですか?」
「残念ながらそんな時間も、心の余裕もない。それは遥、お前もだ。下手をすれば殺される。どのように動くか。今の命題はさしあたってはそれだけだ。」
「とりあえず…」
遥は真剣な表情を浮かべながら、朝ごはんにしましょうと答えていた。