航路
I 喪失
いつのまにか身体を失って私は淀んだ薄明の中を漂っていた。意識の内に立ち現れてくるのは、決して五感では捕らえ得ない数限りない茫洋とした現象。得体の知れない感情がもつれあった構造体や、言語では表しようのない様々な概念の軌跡。そんな物たちが私の虚ろな魂を満たしていた。周りに果てしなく広がる暗黒と静寂のみの空間は私自身の内部。いうなれば、私は私自身の中に居た。
II 位相化
光が散った。それを境に概念は視覚的な形状と色相を帯びた。
紅い翅を持った蝶が青白い無数の葉を繁らせる木にとまり、ゆっくりと身じろぎしている。振動し、低い唸りをあげる実体のない風船が木々の間を漂っていく。私はその風船の一つになっていて、たまに共振する皮膜のような身体の感覚を楽しんでいた。しかし、私の視覚は木の上に巣を作った白い鴉の見た光景を捉えており、震える風船の姿を首をかしげながら眺めていた。どこからか私が震動する音が聞こえる。
風が私を運ぶ。森はまるで海のように波打ち、私は水脈をひく。風船である私にはしっぽがあって、それはプロペラのように回転して、虹色の雫をはじきながら、私を運命の彼方へと押しやる。白い鴉が飛び立ち、遙かな虚空から私が進み行く様を眺めている。蝶は深い水底へ沈み、ひろげた翅で私の震える音を聞く。
III 遭遇
私は暗礁に乗り上げる。それは雲のように白く柔らかく、頼りない。私はそれに身体を預け、ただ震える。鴉は波に飛び込み、蝶を啄む。水中でバラバラになった蝶の翅は溶けて一筋の煙になる。鴉は深い水底へと沈んでいき、何も見えなくなる。私は破裂して一枚の皮膜になり、乗り上げた岩礁の上に拡げられる。やがて夜が来て、暗い星々に照らされながら、私はそれと出会う。
IV 交流
これは痛みか? あなたの痛みか?
電流が行き交い、地場が空間ごと歪む。私の内と外とが、手袋を返すように裏返される。発音できない言葉で私たちは交流する。描けない記号を交換し、聞こえない歌を歌い合う。
V 融合と離散
私の中から、あるいは私の外から、ひょっとするとその両方から共に、それがやってきて私と溶け合いはじめる。神経索が互いを求め合い、絡みあう。熱く燃えさかりながら溶けた岩が冷たい水と混じり合う。すると銀色に輝くインクが生まれる。それを用いて、私はここに私の名を記す。
ここには何があるのだ?
ここには何もない。ただ記号があるだけだ。それは何かを意味しているのだろうか。
私という言葉には不定形に流動しつづける自己を捕らえておくだけの力はもうないのだ。
ハードディスク内から発掘されたので投稿。