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第二章 突き刺す雨、嘲笑う魔術師③

湿った風が冬夜の背中に当たる。


 目の前で殴り飛ばした魔術師は、後方に吹き飛び、曇り切った空を眺めるように仰向けで意識を失っていた。


 張り詰めた緊張の糸が解けると、一気に身体中の血流が熱を発し、さっきまでなんとも無かったはずの体が疲労し始めていることに実感した。


「………」


 肺が酸素を求め、大きく、そして小刻みに呼吸する。

 そうして、自身の右手を一瞥する。一体何が起こっていたのか、その時は無我夢中だったということもあり本能の赴くままにしていたが、我に返るとこの右手の異質さに戸惑い始めていた。


「……俺が、やったんだよな」


 確かに、魔術師の繰り出す摩訶不思議な力に対して翳した右手が、その力を打ち消し、そして何かエネルギーのようなものを吸収していた。

 まだ、右手にはその熱が残っている。


 自分自身、身に覚えのない力に困惑する。ただの平凡で普遍的で、ノーマルな人生を送った彼にとってはその右手がまるで自分の体ではないような気がしてならなかった。

 でも、確かに己の力を持って魔術師に対峙し、勝利した。


 決着がついてから、数分ばかし経った頃か、公園の奥の方から人の声、道路からは車の音が聞こえてくる。

 先程まで彼ら二人しかいなかった空間で、魔術師が確かに『人払い』と呼んでいた力が効力を失っているのだと気付かされる。


 また非日常から、日常が帰ってくる。


 そして、冬夜は思い出したかのように自宅の方へと駆け出した。

 千香。彼女のことだ。


 この公園の通りを抜けた際の住宅街の一角に奧村家がある。疲労と溜まった乳酸がすっかりその足取りを重くする。


 少しでも早く。そうすれば、まだ間に合うかもしれない。


 齢十六の男子である彼は、何故かそんな淡い期待を抱いていた。

 というよりも、そう抱かざるをえないほど、彼の心は不安定だったのだ。自宅は薄暗く、魔術師の出現により混乱していたのだ。だから早く、彼女の傷を処置して救急車を呼べば助かるかもしれない。


 無我夢中で走った。

 周囲の音もかき消えるくらい、夢中に。


 そうして住宅街の区画に入る。

 静寂なムードのある落ち着いた住宅地。その数軒過ぎたところの角を全力で曲がり切った時だった。


 一気に冬夜の聴覚に音が入り込んだ。

 それはまさしくサイレン以外には言い難く、間違いのない音だった。


 そして赤いランプを煌々と灯し、そこら一体を赤く染め上げるそれは救急車と呼ばずしてなんと呼ぶか。


 一気に肩に強い重力がかかる。全力で走ったからか、それともこの光景を見ているからか分からない。しかし、非常に息苦しかったのを覚えている。


 認めたくないが、その車両は奧村家の門の前に居座っていた。

 周囲にはその様子を眺めにきた近所の住む人々で溢れかえっていた。


「……お、い…」一歩、一歩と進むが前に進んでいる気がしない。


 冬夜の背後からは白と黒のボディ、また同様に赤く点滅するランプの車両が横切る。

 人々が騒めき出し、冬夜の思考は白一色に染まる。

 いつしか、人混みが集うその場所から少し離れた場所で、自宅を傍目に立ちすくんでしまっていた。


 すると、自宅のドアがガチャリと空いた。救急隊員が2名、その手には担架が担がれており、その上には青色のカバーが上からかけられていた。


 それが何を意味しているのか、冬夜は気づきたく無かった。


 呆然と、ただただその光景を眺めるほか無かった。


 玄関前の段差、そして門の辺りだったか救急隊員の片方が肩を門にぶつけ、担架に衝撃が走った。


 するとカバーの中からするりと、真白くなった腕が姿を見せる。


「おい、気をつけろ」と喝を入れる隊員、そしてもう一人の隊員がそれに謝罪した後、担架からこぼれ落ちる白い手を隠すように乗せ直す。


 その瞬間、壮絶な吐き気に襲われ、軽く目眩がした。


 何が起こったか改めて知らせてくる光景に冬夜は駆け寄ることも、泣き出すことすらもできなかった。


 目眩を抑えるために、力の限り目を瞑った。

 息を整えようとしても、先ほどの光景がフラッシュバックする。瞬き、そして赤いランプ、人々の声が頭の中で混在する。


 急だった。突然、冷たい何かが冬夜の鼻に落ちる。

 少し見上げると、曇り切った空から雨粒が降り注いでいた。

 ぽつり、ぽつりと冬夜を濡らしていく。


 そして。


「……冬夜?」


 聞き馴染みのある声が遠くからぼそりと聞こえた。は、と前を向くと恐ろしく血の気を引いた表情の梓が人混みの中で立っていた。


 彼女と目が合う。


 夕方の別れ際では明るい笑顔を見せていた幼馴染も、もうその笑顔の痕跡すら残してはいなかった。


 そして、梓は冬夜に駆け寄ろうと踏み切った。

 しかし、冬夜は目の前の光景全てを拒絶してしまう。

 再び強い吐き気に襲われ、立っているのもやっとな状態だった。


 近づいてくる梓の様子に気づいたのか、一人の警官がこちらを疑うように見つめていたのも同時に分かった。

 無線でひとしきり何かを伝えた後、梓の背後1、2mの距離からこちらに歩み寄ってきた。


「俺は…、」カラカラに乾き切っているが、空の唾を呑み込む。


 梓の表情、着実に距離を縮める警官の姿。

 徐々にその雨足を早める天候が無情にも冬夜の体を突き刺していく。

 冬夜は止まらない動悸を隠すように、服の上から心臓に手を当てる。


「もう、やめてくれ…」口から出たのはたった一言、その言葉だった。


 そして、心配した彼女を横目に冬夜は自宅とは逆方向に足を動かし、その場から走り去った。


「冬夜……‼︎」背中の方から焦燥した梓の声が響いてくるが、冬夜はそれを振り向こうともしなかった。


 ただ、雨が降り頻りアスファルトに反射していく。

 警官も異変に気づき、ゆっくりとした足取りから一変、梓をも追い抜き冬夜の背中を見据えて走り出す。

 走りには自信がある冬夜も際ほどの戦いの後だと、本領の力も発揮できない。

 踏み出したアクセルもその持続性を失って、すぐに失速する。


 住宅地の角を曲がり、大通りに出かけようとしたところだった、ガッと、冬夜の左腕を強く握ったのは狩人のような目を光らせる男性警官だった。


「逃げるな!止まれ!」力強く冬夜の腕を握るその力は、振り解くのも難しく、冬夜は振り払おうにも体力が残っていなかった。


 左腕をそのまま背中の方へと強く引っ張られ、冬夜はその勢いで前方に倒れ込む。


 なぜこんな目に遭わないといけないのか。なぜ運命が冬夜に牙を剥くのか。

 ただ彼を慰めることも、悲観することもなく、雨はひたすらに冬夜の体を冷やしていく。

 悔しさのあまり、唇を強く噛み締める。


 その様子を一部始終見ていた梓は、足を早め警官の元に歩み寄ろうとした時だった。

 黒い影が視界を横切ったのだ。




「えっ、…?」


「があぁ!!!」その声を挙げたのは男性警官の方だった。


 瞬きした途端、黒髪を後ろで結んだ女性が冬夜を掴む警官の腕を、片手で押さえていた。


 その力は警官の腕を握り潰すような力で、女は牽制する。


 押さえつけられていた力から解放された冬夜は前のめりで、その警官から距離を取る。

 そして突如現れた女と視線が合う。


「逃げるぞ」その声はどこかで聞いたことのある声だった。


 しかし、思考する猶予はなく、女は冬夜の肩に手を乗せ、何かを唱えた。

 すると冬夜の体はふと軽くなり、一瞬にしてその場から姿を消していった。



 ◇◆◇



 視界がぐらりと歪む。

 重力を失っていたのは、ほんの一瞬だけであった。

 足裏に伝わったのは、湿った土の感触。耳に届いたのは静かな雨音と、遠くから聞こえる街の騒めき。


 ふと目を開けるとそこは、先ほどまでいた住宅地とは異なり、林が広がる緑が生えるの小高い丘の上にある大きな広場。


 市街地から少し離れた、夜の街が一望できる場所だ。夜の街を照らすネオンが雨で霞み、ぼんやりと滲んでいた。

 ベンチとテーブルを覆う赤い屋根、そこで冬夜と女は雨宿りをするかのように並んでいた。


 女は冬夜の肩から手を離す。

 その瞬間、魔術師との戦いの光景が脳裏に浮き出し、冬夜は後退りをした。


「ッ⁉︎…」


 こんな不思議な力、一般人ではないとはすぐに分かっていた。影の魔術師の仲間なのか、不鮮明な中、冬夜はおもむろに右手を構えていた。


 黒い髪を後ろで一つにまとめた女、見る感じ、冬夜よりも歳はいくつか上に見えた。

 冷たい眼差しが冬夜を見据える。

 暫しして、彼女は小さく息を吐いた。


「……私は敵ではない。まぁ、警戒するのも無理はないか」


 この声に冬夜は聞き覚えがあった。


(交差点で聞いたあの声だ…)


「なんで、俺はここに」


 雨音にかき消されるほどの小さく、震える声色で冬夜は少女に問いかける。


「私がここまで転移させた」淡々と放つ言葉に未だ理解はできなかった。


 何故、自分がこんな目に遭ってしまっているのか、この街に一体何が起こっているのか、疑問という雲は晴れることはない。


「アンタ一体、何者なんだよ。こんな目に遭っちまったんだ…説明の義務はあるだろ」


 その声を聞き、肩の力を抜くとその様子を一瞥した後に女が続ける。


「──私の名は御門氷夏みかどひょうか欧州魔術清教徒おうしゅうまじゅつせいきょうとに属する魔術結社『救いの協定(アストラル) 』の魔術師だ。…君のいる世界の裏にある存在とでも言うべきか」


 その名を告げる口調には、誇示でも自己陶酔でもなかった。ただただ事実を述べているだけ、という響きだった。淡々とした説明に冬夜は唖然とした。


「そのヨーロッパの魔術師様が、どうしてこんなところに…」それが本物であると確信した冬夜は震える声で放った。


 冬夜の言葉には、皮肉と警戒の二つが混在している。滴る雨か、汗か分からない雫が冬夜のこめかみから顎にかけてこぼれ落ちる。


 沈黙の空間が再度訪れる。下げた右手はまだ半ば無意識に力が入っているままだった。

 その仕草を見落とすことはなく、ほんの一瞬だけ氷夏は目を伏せた。


 氷夏と名乗る女は黒いブルゾンのポケットに両手を突っ込み、すぐそこにあるベンチに腰を落とした。

 その目線の先は雨に濡れる新都ニュータウン。


「まずは座れ」


 雨音に紛れてしまうほど、それは小さな声だった。

 黒いブルゾンが世闇に混ざるようにも見える。異質な存在がいる状況に戸惑いを隠せていない。


 視界には冬夜がいないはずなのに、彼女はただ冬夜の息遣いを屋根の下で感じていた。

 冬夜は沈黙に負け、その右手の力を抜き、氷夏の座るベンチに隣接するベンチに腰をかける。


「…少しは落ち着いたか?」


 その呟きは冬夜を責める訳でも、咎めることもなく、ただ優しい声色だった。


「あぁ」冬夜は彼女に応えるように視線を向ける。


 その視線を感じてか、氷夏は一息入れて先ほどの問いに応える。


「今回の目的は護衛だ」


 冬夜の眉間がぴくりと動いた。冬夜は薄々その先の言葉は分かっていた。


「…水色の髪の子のことか」

「そうだ」平然とした言葉が氷夏の口から返された。


 その後、そよぐ雨風が二人の沈黙の生まれる空間に音を添える。


「目的地はこの街、なのか?」

「そうでもない。そもそも今回の任務に最終的な目的地は決められていない」

「?……」

「新都ニュータウン、ここに来たいと言ったのは彼女だ。だからイギリスから連れてきた」


 その言葉が意思の重さを伝える。


「なんでわざわざ…イギリスから日本までって…」


 氷夏に視線を向けることはなく、ただタイルに染みる雨の形跡だけが視界に入る。


「彼女がそうしたいと願った。そして清教徒上層部は、彼女の意向に従えと我々を派遣させた」


「あの子にそんな権限があったのか」優しい目をした表情を思い浮かべるが、その言葉に耳をぴくりと振るわせた氷夏は怪訝な顔をしたまま冬夜に吐き捨てる。




「違う…死場所だ」


 息を止める。

 重たい空気が一気に冬夜たちを襲う。


「今、なんて……?」


 緊張で喉が絞られる感覚、声は掠れる音しか出ていなかった。


「彼女は“兵器”だ。人間の形をした魔術の塊、生きた魔術霊装。そう呼んでも可笑しくない」

「兵器…?魔術、れいそう?」復唱してもその言葉の意味を知ることはない。


「欧州で暗躍する悪性の魔術結社『悲観目録ユースティティア』──奴らは世界の粛清と浄化のためにその力を余すことなく振りかざす」


 冬夜は漂う湿った空気を呑み込む。


「彼女はそこで生み出された」


 苦虫を噛むような表情が溢れる。氷夏は強く組んでいる手に力を込めていた。


「組織の命令一つで、都市一つは最も容易く壊滅させる力を持っている」その言葉が孕む残虐性が、余計に冬夜の喉を締めつけた。

 氷夏は俯く冬夜に視線を移動させる。視線に気づいた冬夜はその眼光に肩を軽く振るわせる。


 しかし、氷夏は視線を逸さなかった。


「事実として、彼女は多くの命を奪ってきた。意思の有無には関係なく、な」

「……そんな風には見えなかった」

 今にもすり潰れそうな低い声が溢れた。


 震える冬夜の手を眺め、「同感だ」と彼女は吐露する。


 即答だった。


「我々も初めて見た時は驚愕したよ。世界を滅ぼせる可能性のある生物兵器が、赤子のように泣きじゃくっていた。まるで迷子の子供のように、右も左も分かっていない、そんな感じだった」


 昔を思い出し、その光景が瞼の裏に刻まれているが、冬夜にはその光景は届くことはない。


「俺もあの子がそんなことをしたとは思えない…」

「……それは主観だ。事実と主観は時より乖離する。確かにあの子が破壊を楽しむ性格だとは、誰も思わないだろうな」


 水色の髪の少女の性格は冬夜よりも知っている。その性格を否定することは決してなかった。


「だったらなんで──」

「危険だからだ」


 遮るように、氷夏は口を開く。


「先も言ったが、意思の有無には関係ない。彼女の精神をコントロールする鍵を奴らは持っている。また組織に狙われてもしてみろ、もう取り返しはつかないぞ」


 視線の鋭さが変わった。


 世界最悪の犯罪者。五年前の品川で起きた災害の犯人だと、敵の魔術師も話していたことをふと思い返す。正直、今でも信じることはできていない。


 冬夜自身、彼女が二度も魔術師を追い払ってくれた事実は知っている。

 確かにそこには圧倒的な力があるように感じた。だからこそ、氷夏の冷たい声音が妙に腑に落ちる。


「国家間にとって、彼女は危険因子なんだ」

「…じゃあ、あの子はどうしたら」


 雨音が、言葉の隙間を埋めてくれる。


「上層部が出した選択肢は二つだ」


 冬夜の視線の前に氷夏の白くて長い指が二本立っていた。


永久封印ねむるか、殺処分しぬかだ」

 冬夜の喉が鳴る音は、雨音の中でも氷夏には届いていた。


「なんで…なんで、それだけしか方法が無いんだよ」


 悔しい気持ちが何故か心を満たしていた。

 しかし、氷夏は冬夜の落ち着かない様相を一瞥して、そのまま続ける。


「欧州魔術清教徒はヨーロッパ全土の国からの支援で成り立っている。各国に牙を向く可能性を残せば、解体を余儀なくされる。」


 淡々と呟く彼女に、正直精神を疑った。

 氷夏は立ち上がり、冬夜の方に体を向けていた。


「この世界には清教徒の力は必要だ。…やむなしだ」


「…あの子は、どっちを選んだんだ」


「死を選んだ」


 放たれたその一言に一切の感情は乗っていなかった。


「最後にこの街を見たいと願った。だから私たちはここにいる」

 冬夜の前に彼女は佇んでいた。

 目を合わせることはできなかった。


「死ぬことを覚悟してまでも、この街に来る意味なんてあるのかよ」

「彼女の価値観だ」


 感情のない返し、氷夏との言葉のキャッチボールはコミュニケーションというよりも業務連絡だ。それ以上でも以下でもない。


「来たい理由は、何か言ってなかったのかよ」

 答える前に一度だけ息を吐いた。


「聞いた」

 意外な回答だった。

 しかし、数秒して。


「だが君に話す義理はない」


 意味のある言葉を残すが、きっとそれ以上は踏み込んで来るなという意思表示だった。

 唇を少し噛み締める。


「あの子は、死を選んで後悔してないのか」震える声で冬夜は問いかける。


 一拍置いて返ってきたのは「後悔しないために来ている」と遇らう態度だけだった。

 冬夜の返す言葉を待たず、氷夏はひたすらに情報を開示する。


「彼女の首には既に術式が組み込まれている。設定期限を過ぎれば、自動的に爆発する」

「本人が望んでいるなら、そんなもの付けなくたっていいんじゃねーのか」

「上層部は確実性を重んじる」


 氷夏は言い切る。


「感情はいらないんだよ。組織のやり方はそうだ」

 ただ、ただ冬夜は歯を食いしばることしかできない。

 魔術組織という存在は冬夜が想像しうる以上に冷徹で、決められた型でしか手段を選べないものなのかもしれない。

 良心の呵責があっても、許しは得れないのかもしれない。


「… 理不尽だろ」

「いや、合意の上だ」

 その一言で言葉は途切れた。


 聞き飽きた雨音が沈黙の間を繋いでくれている。

 何か思い出すように氷夏は、冬夜の右手を確認する。

 術式は起動している素振りはなかったが、念のため、冬夜の右手をそっと掴む。


「それと、君のこの手」


 冬夜は無意識的に肩を強張らせるも、彼女の腕の力に身を任せてしまう。


「どこで手に入れた?」

「分からない」


 その言葉は間違いではない。


「頭の中が真っ白になって、目の前にいるやつを許せないって考えたら、急に」


 思い返せば自分自身、魔術には興味も関心もなかったはずなのに、何故自分の右手が突然あの力を発現したかは分からない。

 だが、体が勝手に動いていて、この力の使い道を最初から分かっていたかのようだった。


「先の戦い見ていたが、用途は魔力の分解と吸収、と言ったところか」


 分析するように指で顎を摩りながら冬夜の右手を眺めていた。

 むず痒くする冬夜だったが、「ちょっと待て、戦いを見てたって…」そう語りかけるが「初歩的な人払いだった、あれくらいは誰でも入れる」と氷夏が述べる。

「いや、そうじゃなくて見てたんなら…」


「──助けるまでもなかったよ。あの時の君は異質だった」


 まるで怪物でも見たかのような言い振りに怪訝な顔をするが、氷夏の手から優しく冬夜の手が離れる。


「その右手は偶然の産物なんかじゃないぞ。魔術回路まじゅつかいろ術式核じゅつしきかくを内包しているということは、意図してではないとそこに存在しないはずだ」


 彼女の疑問に対しても冬夜自身が答えを知り得ない以上、何も返す言葉は見つからなかった。

 しかし、全く身に覚えのない能力が使えるのもおかしい。彼女の言う通り、明確な意図なくして成立するはずがなかった。

 氷夏が並べる言葉もすぐに地面に落ちていく。


「……本当に知らないんだよ。この力については」


 見当もない状況に困惑していた。

 何故これが右手に宿っているのか、何故自分はこれをすんなり理解して使えていたのか。考えれば考えるほど、思考は霧散していくばかりだ。


 強い視線で見つめる氷夏に返す言葉は結局見つからなかった。


「君は我々が干渉する前から、もう魔術こちら側に片足を突っ込んでいたのかもな」


 氷夏はそう告げる。

 責める口調ではなく、単なる現実確認だ。


「その右手の術式は非常に珍しい。術式が公になれば必ず術師で動き出す者はいるだろう。清教徒だけではない、術師、結社、ありとあらゆる魔術的因子を持つ者からは目をつけられやすい」


 夜景を背にした彼女の横顔は、やけに遠くにいるように感じた。


「嫌でもその力を行使しなくてはいけないタイミングが訪れてしまう」


 じっと、自身の右手を一瞥し、静かに脈打つ拳に危惧する。


「もう、用途がないのであれば術式を起動するような真似はするな。それ以上、こちらの『世界』に干渉する必要はない」


 釘を刺す、と言いう言葉が一番近かったかもしれない。

 それが何度目に忠告になっていたかは、冬夜はとうに数えていない。

 だが、すでにその一線を越えてしまっている今だからこそ、その言葉の重要性が理解できる。


 次にどんな言葉を出せばいいのか、冬夜はすでに知っている。


「……あぁ、分かった」冬夜は静かに頷くしかなかった。


 意外と冷静だった冬夜の反応は、氷夏にとっても安心できた。


「あの影を使う魔術師をこの右手でぶっ飛ばしたんだ、もう使わないよ」


 自嘲気味に冬夜は呟く。その言葉がどこまでが本心だったかは自分でも判断はついていない。


「そうか……」


 冬夜から一歩離れ、彼の瞳を覗くと、交差点で見かけた時の何かお節介をしそうな目では決してなかった。

 すでに心の火が今にも消えそうな、そんな感じだったことは氷夏も分かっていた。


 そして、ふと頭の片隅から冬夜に伝える最後の伝令を引っ張り出す。

 ブルゾンの胸ポケットに手を入れ、おもむろに取り出したのは、小さな板版の物体だった。

 薄暗く、何が出てきたかはピンと来なかったものの、かすかに差し込む光がそれを何か分からせた。


「…あ」


 目の前に出された時、気がついた。まさしく奧村冬夜のスマートフォンだった。


「あの公園で落ちていた。これは返そう」


 差し出されたそれは、どこかでポケットから脱出したのか画面の端部がひび割れていた。

 画面をタップしても反応は鈍く、画面は暗いままであった。電源ボタンを長押ししていると、しっかりと赤色の給電のアイコンが出ていた。


(充電切れ、か……)


 氷夏はそのひびの入ったスマホを眺めながら、短く息を吐いた。


「…今は、連絡がつかない方がいいこともある」その言葉に、あぁと相槌を返す。


「もう授業は終わりだ」

 その一言で冬夜は前を向く。氷夏は雨宿りをしている屋根の下から体を外に出した。

 雨足は少し落ち着いてきた様子だった。ブルゾンが雨粒を弾き、その長い髪が雨を吸っていた。


「これ以上、こちらに関るな」


 氷夏は冬夜に目を向けることなく、吐き捨てるように言う。


「君は何も知らない世界で幸せになっていい存在だ」


 冬夜の幸せの願うようなそんな柔らかな口調でどこか寂しげに伝えられた言葉を受け、俯くように地面を眺める。

 影の魔術師との交戦から何かに気づいていた。

 関われば、確実に不幸が冬夜に舞い込む。罪のない人に矛先が行き、その冷たい現実を留めるための受け皿になるしかない。


 いや、自分自身にも牙を向くかもしれない。

 どちらのせよ、関わるメリットなんてどこにもない。初めからそう言ってくれればよかったのに、なんて言葉が今にも口から溢れてしまいそうになっていた。

 暫しの沈黙を経て、氷夏は冬夜に問う。


「それで、君はどちらを選ぶ」


 突き立てる問いが、冬夜の背筋を凍らす。

 不透明で重苦しい何かを飲み込むように、ごくりと喉を鳴らす。

 そして、震えながらも真っ直ぐな眼差しを目の前にいる魔術師に向ける。


「俺は……、平和を望んでる」


 その言葉を聞いて、安堵するように氷夏は背中を向ける。


「そうか」


 ただ、その相槌だけを残してその場を後にする。

 黒い服と髪が夜の闇の中へと溶けていった。呼び止める言葉はすぐには思いつかなかった、いや、そもそも思考すら放棄していたかもしれない。

 仮に浮かんできたとしても、口にすれば彼女の言葉を無碍にする気がしていた。


 丘の上から街を一望するが、屋根の下には冬夜だけが取り残された。

 割れたスマートフォンの画面に、歪んだ自分の顔が映っていた。ひび割れたガラス越しに見るそれは、どこか他人のようで、現実味がない。


 それでも冬夜はようやく理解し始めていた。

 ここから先へ進めば、今度こそもう戻ることはできないのだと。一歩でもその線引きを越えてしまえば、また何か失ってしまうのだ。


「…戻れないか」


 少なくとも、何も知らなかった“あの日”までは。



 ◇◆◇



 丘の上の公園から自宅までは徒歩で二、三○分といった具合に時間がかかった。

 見覚えのある住宅街の角を曲がり、家の方へと足を動かしていると、先ほどまで嫌気がさすほどの人だかりはすっかり消えてしまっていた。

 パトカーの赤色灯も、規制線もそこにはなかった。

 そこに残っていたのは、ただ一つだけの現実だった。


 奧村家の門の前に、しゃがみ込む梓の姿。膝を抱え、俯いたまま動こうとはしなかった。

 そのすぐ前に、警察官が二名。冬夜の後を追ってきた警官とは風貌は違っていたのが唯一の救いだ。

 警官らは淡々とした表情で、うずくまる梓を気遣うでもなく、佇んでいた。


 冬夜は一瞬、足を止めた。

 逃げたくなる衝動を噛み締めて、押し殺す。


(──行かなきゃ)


 また体の中で脈が熱く、早く打っているのが分かった。冬夜は自分に言い聞かせ、一歩を踏み出した。

 こちらに歩み寄ってくる制服の男子を見つけては、警察は胸にある無線で何か呟いた後、小走りで冬夜の方に駆け寄る。


 一○分程度だった。


 簡単な事情聴取を終えた後、警官たちは距離をとり、パトカーに乗り込む。

 サイレンを鳴らすこともなく、エンジン音と駆動音だけを閑散とする寝静まる住宅地に響かせてこの場を離れていった。


 宵の中で取り残されたのは、冬夜と梓だけだった。


「……ごめん、取り乱してた」


 先行して口を開いたのは冬夜の方だった。爪が手に深く刺さってしまうのではないかというくらい、強く拳を握りしめていた。

 そんな冬夜の謝罪にもぴくりとも反応せず、梓は顔を上げることはなかった。

 しばらくして、微かに唇が震えた。


「……当たり前だよ」


 掠れた声だった。


「こんなの……酷すぎるよ……」


 その言葉を言い終える頃、堪えきれずに、梓は大粒の涙をその瞳から流していた。

 肩を小刻みに揺らしながら、嗚咽を噛み殺そうとしているのが分かった。


 千香のことを知っているのは彼女だけだった。

 奧村家にて家事を手伝ってくれていること、冬夜の親代わりの保護者を担ってくれていることも。時折冬夜の家に来ては、千香と何気ない話をして、笑い合っていた。

 以前はお菓子作りなんかもやっていたか、朧げだがしっかり覚えている。

 暖かくて、居心地のいい、冬夜の居るべき場所だ。


 それが、今日で終わった。


「私が言っていい言葉じゃないかもだけど、」


 梓は涙に濡れてまま、ぽつりと呟く。


「なんて最低な日なんだろうね」


 その服の裾を涙でしっかりと濡れていたのを見つめる。そして冬夜は何も返事をすることなく、そっと梓の頭に手を置いた。

 幼い頃にやっていたように、ただ彼女の頭を撫でた。


「正直、まだ信じたくもない」


 低い声だった。

 冬夜自身も彼女に心配かけまいと振る舞うつもりだったが、声が震えているのが自分で分かる。


「でも、もうどうしようもない」


 その言葉がまるで自分を責めているように聞こえて、梓は胸の奥が締め付けられるのを感じた。


(私が冬夜を支えなきゃいけないのに)


 しかし、ただ目から涙が出るのが止まらなかった。


 学校での気絶、そして自宅で保護者の死。

 ただの高校生が担っていい不幸のキャパシティを越えている。本当に理不尽だと、梓は神を恨む。


 彼の声音で分かる。また心配させまいとして、強気で振る舞っているのだと。

 腫れつつある目を袖で擦りながら、冬夜の方に顔を向ける。


「……今日は、うちに来なよ」


 優しくも怯える声で梓は冬夜の裾をきゅっと掴む。それが冬夜に対する慰めなのか、自分自身へのものなのか分かりえなかった。

 しかし、冬夜は梓の目をしっかりと見た後に首を横に振った。


「さっきの警察に言われたんだ。数日は提携しているホテルに行けって」


 現場検証と事情整理の二つのせいだろう。

 この家は冬夜の家であるが、もう帰れる場所ではなかった。


「……ごめんな」


 何度目か分からない謝罪だった。


 裾を掴む華奢な指がはらりと落ちる。梓は何も言えず、ただ唇を強く噛み締めた。

 喉で押し止めていた嗚咽が、空気の通り道を逆走して外界に漏れ出す。

 彼女が泣き止むまで、冬夜はひたすらに彼女を見守っていた。


 沈黙が住宅街を支配する。

 時刻はすでに二三時を回っていた。街も寝静まり、今までの騒動が嘘だったかのように穏やかさを取り戻していた。


 指定されたホテルは梓のマンションの近くだったことを伝えると、梓は重い腰を上げた。

 冬夜が前を歩き、その後ろで冬夜の制服を軽く掴みながら後を追ってくる。

 場所を移動する際も、彼女は目を赤く腫らせ、沈黙を貫いていた。


 人一倍怖がりで、それでいてよく人のことを見ている。だから今の状況は、彼女の精神的には非常に重たいダメージであるに違いない。


 だからこそ、弱いところは見せたくなかった。


 考えに耽っていると、梓の住むマンションの前に着いていた。


「…むりは、しないでね」


 不自然に区切れる言葉を聞き、「あぁ、おやすみ」と返す。

 その後、冬夜は彼女の背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

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